早川殿、名前の由来?可愛いってホント?今川氏真とは?子供達の行く末。

早川殿(はやかわどの)は、今川氏真(いまがわうじざね)の正室です。

今川家が没落していく時代に、今川家にお嫁に来ました。

なぜ早川殿と呼ばれているのでしょう?他に名前はあったのでしょうか・

かわいいと言われていますが実際は?

今川氏真との仲は良かったのでしょうか。子供がいたそうです。どのような運命をたどるでしょう?

早川殿、名前の由来

早川殿の実家は小田原の北条氏です。父は北条氏康(ほうじょううじやす)。北条と言っても「鎌倉殿の13人」の北条氏とは別物です。

時代は戦国時代、早川殿が嫁になった年は1554年。桶狭間(おけはざま)の戦いは1560年ですから、嫁に来て、6年ほどで今川家の勢いが衰え始めます。早川殿にとっては気の毒な展開でした。

今川家は駿府城(すんぷじょう)にいたのですが、武田に攻め込まれ、掛川城(かけがわじょう)へ追いやられることになりました。

次は家康が、掛川城を攻撃し、今川氏真、敗北です。

今川氏真は、妻の実家、北条氏の保護におかれます。そして「早川」の地に屋敷を与られました。地名から、今川氏真の正室の呼び名が「早川殿」となりました。

早川は小田原市にあります。川が流れていて、この川は箱根の芦ノ湖に流れています。

「早川殿」の本名はわかっていません。江戸時代より前は、家の系図には女性の名前は「娘」、「女」とした書かれていません。

しかし、亡くなった後につけられる法名(戒名とも言います)は、記録に残されています。蔵春院(ぞうしゅんいん)と。

法名しか残されていない、とは悲しいです。ですが仏教では死んだ時につけられる名前が、真の名前ということだそうです。

生年月日もはっきりしません。夫の年齢、子供の年齢、その北条の兄弟の年齢から推測すると、大体、1546〜1548年あたりとみられています。

早川殿が結婚した年も実は知られていません。一方、今川氏真は17歳と言われています。もしかしたら早川殿の方が年が上だった可能性もある、と北条の小田原にある資料「小田原編年録」に仄めかされています。

戦国時代から関ヶ原にかけた時代を描いた、大河ドラマでは早川殿は、それぞれ違った名前で呼ばれていました。

「どうする家康」では「糸」(いと)、「おんな城主直虎」では「春」(はる)、「武田信玄」では「阿弥」(あや)と類似点がありません。名前が判明していないからこそ、自由につけることができますね。ネーミングから、わたしたち視聴者はその女性の性格を推測し、その女性の、ドラマでの位置付けを考えることができるのです。

「どうする家康」の「糸」は糸のように細く、目立たないかもしれないけれど、糸がなければ着物は作れない、細いながらも、芯が強く欠かすことができない人物として描かれていると思われます。

早川殿、かわいい?と言われるわけ

ゲームでは早川殿を可愛らしく描かれています。ファンも多いようです。

では実際の早川殿はどうだったのか?

残念ながら、その容姿がわかる資料はありません。肖像画が残ってはいるのですが、ここからどんな顔をしていたかを探るのは、難しいです。

肖像画は、年をとってからの姿でした。頭には被り物をして美人かどうかよくわかりません。

当時の噂を表した文書には表れていません。「三国一の美女」の噂と書かれている人物といえば、大抵はお市の方のことで、早川殿のことは全く書かれていません。

だからと言って、ブサイクだという記述もありません。

大河ドラマ「どうする家康」では早川殿は足が悪い設定になっていました。ですが、足が悪い、という記録は残っていません。

これは「どうする家康」の創作と思われます。

今川が駿河を追われて、掛川城に逃れる際、徒歩でした。戦国時代までは高貴な女性が外出あるいは逃亡の際でも、輿という乗り物が用意されることになっていました。たとえ、敵の女性に対しても輿を用意しなければなりませんでした。

ところが、早川殿には武田は輿を出しませんでした。遠歩きに慣れていない姫の身には、かなり辛い道中だったことが想像されます。

辛さを強調するために、早川殿の足を悪くして、辛さを一層印象づけようとした演出だったかと思います。

今川氏真とは、子供も複数生みましたので、特に悪いというわけではなかったのでしょう。

生涯かけて、夫、今川氏真を支えたと言います。そこに健気さが感じられすところから、かわいいと言っていいと思います。

早川殿と今川氏真

早川殿と夫、今川氏真との仲はどうだったのでしょう?

大河ドラマ「どうする家康」では最初の頃はそれほど仲が良くは見えませんでした。というより、今川氏真の方が、政略結婚をした妻を疎ましく思っていたような感じでした。

では実際は・・・・

歴史上では「仲睦まじい夫婦」と思われていました。

どのくらい仲が良かったか、という資料は見つかりません。

しかし、早川殿と今川氏真との婚姻は、三国同盟の政策の一部でした。どういう婚姻政策かというと、甲斐(今の山梨県、武田家の支配)、相模(神奈川県、北条家の支配)、駿河(静岡県、今川家の支配)3国の和平同盟でした。

同盟の印が婚姻です。以下の3組の婚姻が成立しました。

  • 今川義元の娘と武田信玄の息子
  • 武田信玄の娘と北条氏康の息子
  • 北条氏康の娘(早川殿)と今川義元の息子(氏真)

3組の結婚のうち離縁しなかったのは、今川氏真・早川殿のカップルだけでした。ただし離縁が必ずしも仲が悪いというわけでもないので、この事実からの判断は正しいくないかもしれません。

徳川家の歴史を記したと言われる、「松平記」という書物があります。そしてそれをもう少し読みやすくした「校訂松平記」というものが明治時代に作られました。

「校訂松平記」によると、早川殿は今川氏真の命を救った、とあります。どういう状況かと言いますと、氏真が家康に掛川城で負け、小田原の北条の土地に逃げてきた時の出来事でした。

ここで、氏真は武田から命を狙われることになります。とういうことは同盟はもはや破られていたのでしょう。多分、北条はすでに武田に敵わなくなっていた、と思われます。

武田が夫を暗殺しにやってくることを、知った早川殿は、今川氏真に知らせ、そして部下に知らせ、船で小田原を逃れたのです。

早川殿が武田の襲撃をどうやって知ったかは、書かれていません。もしかしたら敵が潜んでいるところを見た、あるいは密書を手に入れた?そのようなことがあったのかもしれません。

この後、今川氏真・早川殿は浜松まで逃れて徳川家康の保護に入りました。

今川氏真を救う、という行動をとった早川殿という女性は、夫に一途な女性だったのでしょうね。

今川氏真は、武将としての才能より、文化面で目立つ人物でした。蹴鞠が得意、和歌を詠むなどを好んでいました。

そんな夫に理解を示し、戦場で戦果をあげられなくても責めず、寄り添っていたのが早川殿でした。

優しい人物像が想像できます。

早川殿の子供

早川殿は夫、今川氏真との間に、1女4男、合計5人を生みます。

一番上が女でした。下の3人は徳川家の保護下になってから生まれた可能性が高いです。

  • 長女は、氏真・早川殿が駿府にいるときに生まれた子供です。やはり母親と同じように、名前は知られていません。この娘は徳川家の家臣のもとにお嫁に行きました。家康の従兄弟にあたる人物です。その名は、吉良義定(きらよしさだ)です。子孫は忠臣蔵の敵役、吉良上野介です。吉良家、って名家だったのですね。
  • 長男は、今川範以(いまがわのりもち)。今川氏真の小田原時代に生まれた子供です。性格が父親に似たのでしょうか?徳川幕府に仕えることにはなりましたが、生活は主に京で、公家に混じり和歌を詠む生活を送っていました。妻は義理の兄の一族、吉良氏の女性です。身体があまり丈夫ではなかったのでしょうか?両親より先に亡くなります。範以の息子は江戸幕府高家旗本の地位を授かりました。高家旗本とは江戸幕府で、儀式などを執り行う役職でした。格式ある身分です。
  • 次男、高久(たかひさ)と言います。徳川幕府2代目将軍、秀忠(ひでただ)に仕えました。苗字は今川を名乗りませんでした。今川家には家を継ぐもの以外、今川と名乗らぬ、という家風があったからです。そこで次男は自分の屋敷があった場所の「品川」を名乗ることとしました。氏真と早川殿も品川に屋敷を与えられていました。
  • 3男は安信(やすのぶ)。この名前よりも、真ん中の名前、伝十郎、で通っていたようです。安信も嫡男ではないため今川を名乗りませんでした。そして「西尾」姓をつけました。こちらの言われはわかりません。
  • 4男、澄存(ちょうぞん)。公家に引き取られた後、出家して高僧となりました。

若くして亡くなった以外の、子供達は皆、身を立ててその名を残しています。

今川家としては明治時代まで直系は続いていました。それ以降は絶えましたが、女性の血を通して、その子孫は今でもいることと思われます。

早川殿の死と墓は?

1613年旧暦の4月(慶長18年2月5日)だったということです。生まれる時と違って、死亡は寺や墓跡に記録が残ります。

生まれた時期から見て70歳ころでしょうか。長生きに当たります。老衰だったのでしょう。

今川氏真より先に亡くなりました。氏真は1615年に亡くなりました。

早川殿の葬儀は、4男の澄存が高野山で行いました。墓は今川家の領地、東京都杉並区今川の観泉寺(かんせんじ)にあります。当時は武蔵国多摩郡井草でした。夫の今川氏真の墓も、観泉寺にあります。

コメント

タイトルとURLをコピーしました