鳥居強右衛門、とりいすねえもん、と読みます。
家康の家臣、奥平家の危機を家康に伝えた人です。それも走って・・・
それなのに処刑されてしまいました。
鳥居強右衛門の行動が、徳川時代を作ったと言っても他言ではありません。
名前は特徴を表す、という通り、強い精神の持ち主でした。
鳥居強右衛門は戦国時代の走れメロスか?
鳥居強右衛門は、その時の長篠城主、奥平信昌(おくだいらのぶまさ)でした。
鳥居強右衛門は足軽の身分で、長篠の戦い以外のエピソードは知られていません。
「三河物語」をはじめ、「総見伝記」、「長篠日記」などに鳥居強右衛門の話が載っています。
鳥居強右衛門、使命を受けて!
1575年5月のこと。この時、鳥居強右衛門は36歳。
長篠城は20000人の武田勝頼(たけだかつより)の軍勢に取り囲まれます。
奥平の兵は約300人。
絶体絶命、到底、勝ち目がありません。
そこで、岡崎城の徳川家康に援軍を求めることとなりました。
しかし・・・周囲は武田に囲まれている。どうやって城から出るか・・・・
誰が行くか・・・・?
そこで、志願したのが鳥居強右衛門でした。
足軽なら、身のこなしもすばしこい、こっそり抜け出ることも可能、ということも抜擢の理由です。
それに、城主の奥平信昌も、密偵などを送るのではなく、正式な使者としたい、と希望したので、足軽に任務が振られました。
おそらく、城を抜け出した後、泳いで脱出したものと思われます。
川を行く、鳥居強右衛門の姿が、画家の月岡芳年(つきおかほうねん)が描いています。
これもまた、足軽であるがゆえに、川で戦の先陣を取るために川での作業をすることもあるため、川の流れを読む、ことが得意だったのかもしれません。
鳥居強右衛門、家康に援軍を頼む
長篠城から岡崎城までの距離は約37キロ。マラソンコースより少し短いですね(マラソンは42.195㌔)
ですが戦国の時代のこと、平坦な道ではありません。見つからないように行くため、山道を行くのですから、耐久レースです。
現代では、鳥居強右衛門に因んだ、マラソン大会が企画されています。
鳥居強右衛門は岡崎城に、ボロボロの姿で辿り着きました。
長篠城を出たのが、5月14日の深夜、岡崎到着が午後6時あたり。なんと18時間もかかりました。
最初は川を泳いでのスタートでしたから、トライアスロンに近いかも?
無事、奥平からの書状(手紙)を徳川方に渡すことができました。
岡崎城では信長がすでに到着しており、家康と共に長篠に向かう準備をすぐに整えました。
援軍が来ると知った、鳥居強右衛門はすぐに引き返して、自分の殿(奥平)報告すると言って、戻っていきました。
家康たちは、危ないからと止めたのですが・・・・
鳥居強右衛門、武田に捕まる
鳥居強右衛門は用心して帰ったのですが、5月16日、長篠城の近くまで来てホッとしたのも束の間、武田の兵たちに捕まり武田のお館様(武田勝頼)のもとに連れて行かれました。
武田勝頼は、鳥居強右衛門に「徳川からの援軍は来ないと奥平に伝えよ。籠城をやめて武田に降参しろ、といえ!そうすればお前の命を助けてやる」「武田に家臣として取り立ててやる」と言いました。
この時、鳥居強右衛門は何を考えていたのでしょうか?
鳥居強右衛門、「走れメロス」どうする・・・?
エピソードでは、強右衛門の頭に『武田の言うとおりにして、自分を解放してもらって妻や子の元に帰ろうか・・・』と一瞬思った、とありますが、その記録は残っていません。
ただ、武田方に、長篠城のすぐ近くまで連れて行かれました。
多分武田の言ったように大声で、「援軍は来ない!」と告げさせるためでした。
鳥居強右衛門が叫んだのは・・・「援軍は来る!」と。
この声を上げた途端、鳥居強右衛門は武田の兵たちから殴りかかられました。
この状況を見ると、
- 鳥居強右衛門は、本当に心の葛藤があったのか?
- 本当のことを奥平に告げるために、武田の言うことを聞くふりをしたのか?
どちらかは分かりません。
もし、自分が助かりたい、と考えたことで自分の心が苦しんだのなら、それこそまさに戦国版「走れメロス」です。
鳥居強右衛門の最期
捕まった、鳥居強右衛門は磔の刑にされました。
それも長篠城からよく見えるように・・・
いくら武田を騙して、不利に陥ることを行ったとしても、一人の足軽を大々的に磔に晒す、なんて・・・!
武田勝頼自身は、鳥居強右衛門の心意気に感じ入って、命だけは助けたい、と思っていました。
しかし、強右衛門を直接説き伏せた、武田の家臣が、自分がバカにされたと感じ、磔を強く主張したました。
鳥居強右衛門の壮絶な最後を見た、長篠城の人々はというと、
強右衛門に対し「すまない、強右衛門」と声を上げる者、手を合わせて拝む者、合掌して頭を下げていました。
鳥居強右衛門、長篠の戦いに貢献!
武田軍は、鳥居強右衛門を長篠城の奥平一党に打撃と失意を与えるつもりで処刑したのでしょうが、奥平方の受け取り方は違いました。
「鳥居強右衛門の死を無駄にするでないぞ!援軍は絶対にくる!それまで何としても持ち堪えよ!」と城内の全員を激励しました。
鳥居強右衛門の最後を見とった、長篠城内は、「援軍が来る」の言葉を、殿様の言葉が相乗効果のようになって、戦意がメラメラと燃え上がってきました。
食べ物が何もない中で、精神力だけが、彼らの支えとなり、見事に援軍が来るまでを頑張り抜きました。
頑張りのパワーはなんと言っても、鳥居強右衛門です。
磔の刑が、長篠城にかえって勇気を与える結果になりました。
長篠城の乗り切りがあったからこそ、長篠の戦いで、信長・家康が協力した軍は武田軍を打ち破ることができたのです。
長篠の戦に、徳川が負けていたとしたら、徳川の時代(江戸時代)の到来はどうなっていたか分かりません。
長篠を語るのに、鳥居強右衛門を外しては考えられない!
鳥居強右衛門、『かっこいい』と言われる理由
何よりも「かっこいい」には鳥居強右衛門の、心と行動です。
自分で足軽で全然重要じゃない、使い捨てにされても文句は言えない、と知っています。
ですから武田側に捕らわれて、「武田の言うとおりにすれば・・・」と餌を目の前に吊るされた時に、簡単に裏切ってしまってもおかしくない立場にあった人間です。
もっと位の高い武士だって、相手の甘い誘いに乗ることがあるのですから。
鳥居強右衛門は敵の誘いには乗らず、自分の使命を最後まで務め上げたところが、気高いのです。
その結果、殺されることになっても、自分のすべきことをしました。
声高らかに、味方を元気づけたところが、後世の人々の心を打つのです。
だからこそ「かっこいい」のです。
「かっこいい」と言うのは決して、見た目だけのことではありません。
鳥居強右衛門の行動は、海外の反応からも、「かっこいい」「まさに日本のサムライ」と感動を呼んでいます。
鳥居強右衛門の墓
鳥居強右衛門の墓は、2ヶ所にあります。
最初は愛知県新城市有明の新昌寺(しんしょうじ)。磔になった場所の近くです。
この墓には鳥居強右衛門の辞世の句(武士が死ぬ時に詠む和歌。実際には死の時より前に作っておく)が彫られています。
しかしこの辞世の句は、句の話が出てくる本は、強右衛門の死後50年ほど後の江戸時代に書かれているので、本当の辞世の句かどうかは、分かりません。
下級武士も、辞世の句を詠んだ、とは疑問ですが。
次の墓は、新城氏作手鴨ヶ谷の甘泉寺(かんせんじ)に移されました。
主君の奥平氏が移したとも、織田信長が作った、とも言われています。
鳥居強右衛門の亡骸はこちら、甘泉寺にあるとのことです。
それにしても戦国時代の人は、墓がよく変わりますね。2ヶ所に墓があるかたも珍しくないです。
鳥居強右衛門を旗にした落合左平次
鳥居強右衛門の磔姿を描いた、背旗があります。持ち主は落合左平次と言う武士です。
「背旗」(せばた)とは、武士が自分の鎧の背中部分に指物(さしもの、はたの竿に当たるもの)を差し込み、上に張った旗のことです。背旗で自分の存在を示しました。
甲冑の上にさらに、旗を立てて動き回っているとは、戦国武将の体力には尊敬します。
落合左平次は長篠の戦いに参戦していました。そこで磔にかけられ晒されていた、鳥居強右衛門を見て感動したから、作らせました。
落合左平次と、鳥居強右衛門が生前出会った、記録はありません。
落合左平次がどう言う人物だったかわかっていません。
最初は武田の臣下で後に徳川の臣下になった、と言われていますが、実は最初から徳川側にいた・・・と、話は定まりません。
しかし、後に家康の息子、頼宣(よりのぶ、紀州藩主となる)に仕えるようになったのは確かです。
落合の子孫は残っており、受け継いでいたものは、鳥居強右衛門の図柄でした。
子孫が大々、図柄を元にした絵を描き、掛け軸にしていました。
それと同時に、落合氏の家史を書いた「由緒元帳」と言う文書もあり、現在研究が進んでいます。
落合左平次に関しては、子孫も残り使用もあるのに、左平次本人のことはあまりわかっていないとは不思議ですね。
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