竹鶴リタはニッカウイスキー創業者立者竹鶴政孝の妻です。
北海道余市に醸造所があります。
出身国は?
どんな生涯だったでしょう?
日本でなんとスパイを疑われてしまいました。やはり異国人だったからでしょうか?
戦争中の苦労は並大抵ではありませんでした。
乗り切れた時に、心の支えになったものがありました、いったい何だったのでしょう?
最期は穏やかなものだったでしょうか?
竹鶴リタとは
竹鶴リタはニッカウイスキーの創業者となった、竹鶴政孝の妻です。
日本では、2014年のNHK朝ドラ「マッサン」の主人公の妻、エリーです。そのモデルがリタ。
医者の娘として生まれました。かなり裕福な家庭です。
ウィスキーを日本で作りたい夢を持ってやってきた、竹鶴政孝と恋に落ちたのが運命の始まりです。
結婚し、はるばる日本にやってきました。
夫の家の家業は造り酒屋だったのです。
そんな伝統のある家に嫁に入ったのだからリタはもう大変!
1900年代初めの頃は、西洋人の嫁はなかなか認められず、辛い思いをしました。
慣れない、日本の生活で苦労しながら、夫のウィスキー作りを応援します。
やがては、北海道、余市(よいち)でウィスキー醸造所を作る夢を、夫、竹鶴政孝と共に実現させました。
そこがニッカウィスキーです。
ニッカウィスキーに、竹鶴リタ欠かせない存在となりました。
竹鶴リタの出身国
出身国はスコットランドです。
港湾都市グラスゴーの郊外、イースト・ダンバートンシャーのカーカンテロフで生まれました。
カーカンテロフはスコットランド風発音ではカーカンティロッホとなります。
ロッホとはスコットランドで、「湖」、「入江」など水のあるところを指す言葉です。
有名なのは、歌の「ロッホローモンド」、また恐竜伝説で有名なネス湖は「ロッホネス」です。
リタの故郷も、ロッホとつくだけあって、港湾都市です。
リタの本名はジェシー・ロベルタ・カウンです。通称をリタと言いました。
竹鶴リタの生涯
竹鶴リタは1896年〜1961年、の生涯でした。
竹鶴リタの生涯・・・1
竹鶴政孝は、発酵学を勉強し、本場のウィスキー作りを学びに、スコッチウィスキーのメッカ、スコットランドにやってきました。
たまたま、招かれた家がリタの家。なかなかの大邸宅でした。
当時リタは婚約者を戦争で亡くし(第一次世界大戦)、気持ちが落ち込んでいたのです。
その後、すぐに父も亡くなります。
リタの気持ちは、さらに塞いできますが、その時に心の支えになってっくれたのが竹鶴政孝でした。
父という一家の柱を失ったリタの家は下宿屋を初め、そこに竹鶴政孝も入居することになります。
恋に落ちたのが初めか、下宿が先かは、どちらの説もあり、はっきりとした記録はありません。
出会いから1年後、リタと竹鶴政孝は結婚しました。1920年のことです。
竹鶴リタの生涯・・・2
竹鶴政孝は、リタのためにスコットランドに残ろうとしました。
なにしろ、竹鶴が親にリタのことを手紙で知らせたら、大反対をされたからです。
リタの母親もこの結婚には大反対でした。
この時代の国際結婚は、大変難しいものでした。
しかし、リタは、
「あなたの夢は日本でウィスキーを作ること、私はそれを手伝いたい」
「日本でずっと、夫と暮らしそれを支えるのが私のしごと」
と言って日本についてきました。
この時代、一度祖国を離れてしまったら、2度と故郷の土を踏むことはできないかもしれない、そんな覚悟を持って日本にやってきたのですね。
実際は2回、里帰りしています。
それにしても、竹鶴リタの心意気、日本人でもなかなかそんな持ち主にはお目にかかれません。
竹鶴リタの生涯・・・3
竹鶴政孝は妻、リタを伴って大阪に帰国したものの、ウィスキー作りの資金が思うように調達できませんでした。
そこで、竹鶴政孝は無職になってしまったのです。1922年の頃です。
その間の生活を支えたのが、竹鶴リタ。
近所の人に英語、そして得意のピアノを教え生計を立てていました。
またリタはクリスチャンだったので、教会で知り合った、外国人や友人たちが助けてくれたのが救いです。
紹介してくれた生徒さんたちも両家の子女ということで、その分レッスン料も良かったのでしょう。
他に学校の英語教師の口もかかりました。
帝塚山の桃山中学校、樟蔭学園で教師の仕事をします。
竹鶴リタばかりでなく、夫の竹鶴政孝も桃山中学校で化学の教師の仕事を得ることができました。
持つべきものは、良い友達ですね。
竹鶴リタと戦争
竹鶴リタ、スパイと見られ・・・
竹鶴リタが生きた時代は、第2次世界大戦と重なり、日本に住む外国人には悲劇でした。
竹鶴リタにはスパイの容疑がかけられて、絶えず監視されていました。
おそらく、日本に住む外国人のほとんどがスパイ容疑、かけられたのではないでしょうか?
ウィスキー作りは戦争で、需要が増え、工場は軍からの指定をうけ、経営が上向きになりましたが、竹鶴リタには苦しい日々が続きます。
竹鶴リタは出かけるたびに職質を受け、ラジオを持ってると言えば、家の中まで捜索される始末でした。
確かにストレスが溜まる生活です。
竹鶴リタ、戦争中の苦難
戦争が進むにつれ、工場の従業員たちも兵役に駆り出され、彼らの中から戦死者が出ます。
リタ自身も辛い上、戦死した人の家族からも冷たい目や敵意のある目で見られるようになると、リタは心が折れる思いでした。
だからこそモンペを着て、街の人たちと防災訓練に励みます。
竹鶴リタの夫とその国を愛する心が感じられますね。
それでもやはり、心身ともに相当弱りました。
消化不良、睡眠障害に苦しみましたが、工場の女性従業員に支えられて、戦争時代をなんとか乗り越えることができました。
これも竹鶴リタが、この地の人間になろうとしたことにあるのでしょうね。
夫を大事にした性格も良かったのだと思います。
そしてみんなに愛された証拠です。
竹鶴リタの性格
身体が弱く喘息持ちの子供時代を過ごしました。
だから、活動的ではなく、ピアノといった芸術の学校に行っていました。
しかし、リタは異国人の竹鶴政孝と、周囲の反対を押し切って結婚し、さらに故国を離れて日本に行ってしまう・・・という思い切った行動に出他のです。
芯の強い女性だったのでしょう。
日本は何もかもスコットランドと違っていました。
自国でも親から結婚を反対されたから、日本でも歓迎されるとは思っていなかったでしょう。
その分覚悟そしっかりとしていました。
竹鶴政孝の生家は、日本の中でもしきたりが厳しい、造り酒屋。
その中でも、めげないで夫を支え、自分への助力を探る、底力を持った女性でした。
余市に行ってからも、自ら動き、働き・・・そのバイタリティには驚かされます。
夫に対する献身も、日本女性以上に日本女性らしい?と感じられます。
今でも余市の人に、愛されている人物と思います。
余市での竹鶴リタ
余市で、受けいられるか?
竹鶴リタが、北海道余市にきたのは昭和10年(1935年)10月でした。
余市のホームについたリタは、関西弁で挨拶しました。
竹鶴リタにとって、初めて覚えた日本語というのが関西弁でした。ちょっと緊張感がほぐれますね。
余市は、スコットランドと気候が似ていて、竹鶴リタにとっては、懐かしさを感じながらのびのびと暮らせた土地だったのではないでしょうか。
夫、竹鶴政孝と、乗馬しているところが余市ではよく見られています。
町民は、女性が馬に颯爽と乗っているところは見たことがないのでびっくりしましたが、乗馬服を着たスラリとした西洋人女性に、だんだんと憧れるようになってきたのではないでしょうか?
北海道という場所は、古くからの伝統が生きている本州とは少し違います。
本州で生活ができなくなった、あるいは憧れてやってきた、開拓民たちが切り拓いた土地なので、初めてのことにも結構、順応性がありました。
冬になると、洋服より着物の方が暖かい、リタは言っていました。着付けも自分でしていたそうですよ。
現代女性より、日本的ですね。
余市の工場で
余市でつくた工場名は「第日本果汁」、ニッカウィスキーの前身です。
とりあえずの収入を得る手段として、リンゴジュースを作りました。このリンゴジュースは利益が上がりませんでした。
余市で竹鶴リタは積極的に働きました。
住居の煙突掃除も自ら行っていました。
自宅の家事以外にも、ボトル洗い、従業員の食事作りジュース用のリンゴ洗い、工場の仕事も手伝っていました。
夫、竹鶴政孝を信じていたのですね。
そのうちにウィスキー作りの方が軌道に乗ってきました。
しかし、現代でも、余市は、りんごを使った飲料が人気があります。
レトロなボトルにはいったアップルワイン。これが竹鶴リタの発案だったとも言われていますが、そうではないという説もあり不明です。
現在でも売られており、ちょっと甘いです。しかしアルコール分はきついです。
竹鶴リタの助力なしでは、この醸造所はきっと回っていかなかったと思いますよ。
竹鶴リタの最期は?
晩年は、身体の調子を崩し、冬は逗子市で、夏は余市で過ごしました。気候の関係ですね。
竹鶴夫妻には子供が生まれませんでした。
そこで夫の甥を養子に迎えす。
しかし、ついに竹鶴リタも自分で死期を悟ったのかもしれません。
自分の眠る場所は、余市でありたい、と思ったのでしょう1960年、余市に帰りました。
そしてその土地で、翌年1月、夫に看取られて眠るように亡くなりました。肝硬変でした。
享年64歳。
亡くなった時、夫、竹鶴政孝は非常に悲しみ、リタの墓ができるまでは、骨を香炉に入れて自分の身近に置いていたそうです。
墓は余市にある、美園の丘の墓地にあります。夫と共に「余市醸造所」を見下ろせるところにあります。
竹鶴政孝はリタに遅れること19年後、1979年、85歳で亡くなっています。
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