穴山梅雪という人物が大河ドラマ「どうする家康」に出ています。どんな人でしょう?
頭巾をいつも被っていますが、その意味は?
「アナ雪」というあだ名が、知られています。どこからそんな愛称がついたのでしょう?
今では、穴山梅雪は評価されています。どういうところが評価されたのでしょう?
穴山梅雪は一体どんな最後を迎えたのでしょう?
穴山梅雪とは
穴山梅雪は武田家の家臣です。
穴山梅雪の名前で知られていますが、本名は穴山信君(あなやまのぶただ)です。
途中から僧職に入り、その僧名が、梅雪です。
元は甲斐国の南部の領主でしたが、南北朝(ほぼ14世紀)に武田氏から養子を迎え、それ以降、武田の一族となりました。武田の分家となったわけです。
その後も、武田一門の中でも、「武田」の姓を名乗ることを本家から許された、名門です。
穴山信君は、母は武田信玄の実の姉、妻は武田信玄の正室の娘と、武田家分家のサラブレッドみたいな人物です。
穴山氏は、元々今川氏と継がなりのある家であったため、今川家に関する情報種集を行い、武田家のために働いていました。
また、武田家と他国の外交・交渉を担う、重鎮でありました。
武田信玄からの信頼が厚い武将でしたが、信玄の死後は後継者となった、勝頼との間に亀裂が入り始めます。
そして最後は武田を離れていく武将です。
穴山大雪、頭巾の謎
穴山梅雪は、何度も大河ドラマに登場していますが、どの場合も頭に頭巾、というか帽子のようなものをかぶっています。
穴山梅雪は、1580年、出家し髪を剃っています。その時から名前は「梅雪斎不白」(ばいせつさいふはく)という僧侶としての名前になります。
その名も「穴山梅雪」。
しかし1580年以前は、まだ僧の形になっていなかったので、「梅雪」とは呼ばれなかったはずですが、ドラマ「どうする家康」の中では早くから頭巾姿でした。
僧となった戦国武将は、大体あのような頭巾をかぶっています。大黒頭巾といいます。
他にも僧侶でありながら武将を勤めた人に、「安国寺恵瓊」(あんこくじえけい)。太原雪斎(たいげんせっさい)などがいます。
僧になった、武将というと軍師になる人が多いです。ですから、時代劇に大黒頭巾をかぶった人物が登場すると、その武将は頭が良さそうです。
それにしても、出家して僧になって、戦い続けるのっていかがなものでしょうか?
もっとも武田信玄は、出家して「信玄入道」と言われても、頭巾は被らず、ツルツルの頭を晒したままでした。
仏教で嫌う殺生をしていますが・・・仏教の教えに背くものではなかったのでしょうか?
穴山大雪、アナ雪と呼ばれるわけ
戦国時代のファンたちからは穴山梅雪のことを、「アナ雪」というあだ名で呼びます。
その理由は・・・・?
2016年大河ドラマ「真田丸」に穴山梅雪役だった榎木孝明さんが、自分の役名を「アナ雪です」と自己紹介した時が初めです。
2016年の、NHK番組「スタジオパークからこんにちは」でのゲスト出演でのことでした。
「穴山」の「アナ」、「梅雪」の雪・・・・確かに「アナ雪」ですね。
名前だけでなく、その生き様にも、本家の「アナ雪」と同様「ありのままに〜」でした。
武田家の重鎮と言われる「アナ雪」ですが、武田に未来はない、と思うと、あっさりと敵方に寝返る始末ですから。
戦国時代では、敵に寝返るなんてことは日常茶飯事でしたが、それにしても穴山梅雪の場合は、潔いほど、「ありのままに」主人を変えました。
「女城主直虎」では田中要次が、穴山梅雪を演じましたが、その時も歴史ファンから「アナ雪」と呼ばれていました。
穴山大雪と武田勝頼(たけだかつより)の関係
穴山梅雪と武田勝頼は親戚になります。
一方武田勝頼は、武田信玄の息子ですが、正室ではなく側室の息子です。
穴山梅雪は、自分の子供の方が、武田の正しい血を引く者、という思いがありました。
穴山梅雪は、武田信玄に仕えた家臣ですが、信玄に使えたのであって、勝頼に使えたわけではない・・・という気持ちだったのでしょうか?
武田勝頼と穴山梅雪、意見が合わずに徐々に不仲になっていきます。
この不仲が原因で、穴山梅雪は武田を去ります。
その結果、武田氏は弱体化し、ついに滅びてしまいました。
穴山梅雪は、なぜ・・・
穴山梅雪は、武田から「裏切り者」の烙印を押される武将です。
ではなぜ、武田を裏切る行為に出たのでしょう?
穴山梅雪の息子事件
そこにはきっかけとなる事件があります。
経緯は・・・
穴山梅雪の息子と、勝頼の娘は武田信玄の遺言により結婚が決まっていました。
ところが、武田勝頼は遺言を反故にして、娘を自分の従兄弟と結婚させてしまったです。
「自分は軽く見られていたのだ・・・」と穴山梅雪は、怒りました。
「この・・・・側室の子のくせに・・・・」という気持ちがムクムクと湧き上がりました。
これが、穴山梅雪が武田を捨てた理由の一つです。
穴山梅雪・・・なぜ・・・もう一つの理由
穴山梅雪がなぜ武田勝頼と不仲になっていったか?
正当な血統の穴山梅雪、かたや側室の血統・・・結婚の反故これだけではありませんでした。
武田氏には、信玄に使えていた、実力ある武将が数多くいました。
武田勝頼には、母の実家、諏訪を継いでいた時代があり、武田の当主となった時に、諏訪の家臣を多く連れてきました。
新しい、お館さま(勝頼)は諏訪の家臣を重んじました。
当然、家臣同士が反発し合います。
穴山梅雪にとっては、勝頼はあまり戦略上手な人物には見えませんでした。
長篠の戦いで勝頼の至らなさが目について、穴山梅雪が戦場を離脱。そして武田の敗走です。
原因の梅雪の扱いをどうするか・・・切腹させるか、許すか・・・・の議論が起きました。
結局は、武田の未来を案じ、穴山梅雪は、勝頼の元を去り、織田信長・徳川家康、連合軍のもと脱出していきます。
穴山梅雪と長篠の戦い
1575年の、長篠の戦い(ながしののたたかい)は、武田勝頼が織田信長・徳川家康の連合軍に負けた戦争です。
武田勝頼は、三方ヶ原の戦場で家康を敗走させ、そのまま一気に武田に有利になるようケリをつけたかったのです。
しかし武田に不運が起こりました。
信玄の死です。
そして、織田信長が体制をたて直し、家康と共に最新鋭の武器を備えて立ち向かってきました。
鉄砲です。
武田は騎馬隊で有名でしたが、織田軍の鉄砲の前には無力でした。
穴山梅雪は、武田軍の一番後方に位置していました。
後ろの位置からは戦争状況がよく見えたのでしょう。
勝ち目なし、そう判断しました。
そこで、戦場より撤退したのです。
数多くの武将、兵が穴山梅雪に従いました。
バラバラと去る兵に、武田軍は士気を失い敗戦に繋がります。
穴山梅雪、「どうする家康」では
「どうする家康」の穴山梅雪は、滅敬(めっけい)と名をかえ、築山殿(徳川家康の正室)の前に、姿を表します。
武田側のスパイに一人となって。
滅敬という名前は、武田から来たスパイで築山殿の不倫相手の名前、とこれまで、歴史物語では伝えられてきました。この時の名前の読み方は、「げんきょう」でした。
その人物は武田が送った人物でしたが、中国人医師として現れました。
ですが、「穴山梅雪」イコール「滅敬」ではありません。
今回の「どうする家康」の演出です。
「三河後風土記」には築山殿と、中国系医師の不倫が書かれていますが、この内容は偽情報、との説が近年出てきています。
穴山梅雪も、武田を見限ろうとしてから家康の元に走るまで少し時間があります。
その隙をついた演出でしょう。
「どうする家康」では、知られている説をうまく組み合わせ、さらにはっきりと確信が取れていない場面を活かして、ストーリーを作り出しています。
穴山梅雪の評価
武田氏から、穴山梅雪は「裏切り者」の烙印を押されました。
その裏切り者、と呼ばれた最初の原因が、「長篠の戦い」での撤退です。
しかし、戦争においては臆病者に見えますが、武田軍が負けそうだ・・・と見た場合の行動であればどうでしょう?
被害を最小限に抑える。ある意味、勇気ある撤退、と言っていいでしょう。
最大の裏切り事件が、織田・徳川方への逃亡です。
確かに、長年支えた武田氏を見捨てて、敵側につく、これは大きな裏切りです。
しかし、武田に、もはや賛同できなくなった、武田には滅亡の未来しか見えない、となると自分が生き残る道を取るのは、当然と思われます。
徳川の時代になると、穴山梅雪の子孫が、武田の名前を継ぐことができるようになりました。
これこそが武田の名前を後世に残すための戦略だった、と言っていいと思います。
穴山梅雪の最期
穴山梅雪の最期は、織田信長が暗殺された本能寺の変により早くやってきます。
本能寺の変があったのは、穴山梅雪が武田から逃れてきたその年にです。
本能寺での織田信長暗殺の知らせを受けた、穴山梅雪は、徳川家康ともに逃げます。
犯人の明智光秀が、織田信長の同盟者を狙う恐れがあります。
逃げている途中で命を落とすのですが、その死に方に説がいつくかあります。
伊賀越
穴山梅雪は家康より遅れて、「伊賀越」で逃れようとします。
なぜ家康に遅れたかというと、穴山梅雪は自分の持病が出たからということです。
この病状を書いた穴山梅雪の書状があリマス。「薬を送ってほしい」と。病気とは「痔」でした。馬に乗る人にはよくある病気らしい・・・
伊賀は、伊賀国(現在の三重県)、伊賀街道のことです。
ところが伊賀に差し掛かる前、飯岡(いのおか)の渡し、現在の京都府田辺で、一揆に襲われました。
さっさと、舟に乗って「渡し」を渡ってしまいたかったのですが、舟を待つ間に討ち取られてしまったのです。
この末路は、明智光秀の末路にも似ています。
穴山梅雪の最期、もう一つの説
穴山梅雪は切腹した、という説もあります。
切腹説は、家康によって切腹させられた、ということです。
これは「家忠日記」の記述にあります「。
家忠は「松平家忠」と言い家康の家臣で松平家の当主です。
当時の武士の生活などを記したのが「家忠日記」でした。
この日記には、穴山梅雪は「切腹させられた」と非常に簡潔に書かれていただけです。
穴山梅雪の最期・・・その他の説
まだあるのです。
「家康に間違われた」
「落武者狩りにあった」
もう一つ「雍州府志」(ようしゅうふし)にこんな説が載っています。雍州府志は1680年頃に書かれた、山城国(京都)地方の土地のことを書き留めた地誌です。
これによると、穴山梅雪の家来が土地の案内人を殺し、案内人が持つ刀から銀の鍔を奪ったために、その土地の人が怒って、穴山梅雪とその一行に、反撃して殺した・・・。
当時の地元民は、みな腕に覚えあるようで、自分達に加えられた暴力は暴力で返す、これが日常でした。
そうでもしないと、農民、庶民は自分達の身を守れませんからね。
穴山梅雪の墓
飯岡に共同墓地があり、そこにあるお五輪仏塔が穴山梅雪の墓です。
飯岡というと、穴山梅雪、最後の地でもあります。
穴山梅雪が死に、そこに居合わせた人々が手厚く葬った、と言われています。
ここにはお寺はありません、墓地があるのみです。
そんなに大きくない墓地なので、探すのは簡単です。
墓碑も建っています。
しかし、桜井市の光専寺にも「穴山梅雪」の墓、というものが作られています。
ここは、飯岡(田辺市)から90キロほど、離れていています。
なぜ、ここにも墓があるのか、もしかしたら、ここまで穴山大雪が逃げてきたのか、謎のままです。
コメント