茶屋四郎次郎、面白い名前ですね。
2023年大河ドラマ「どうする家康」の新しい登場人物です。
中村勘九郎さんが演じるので、なんだか大物の予感が・・・
徳川家康を支える、京都の豪商です。そしてその血筋は幕末まで続きます。
一体、どんな働きをしたのでしょう。
茶屋四郎次郎、何をした人?
徳川家に三河時代からずっと出入りしている商人です。徳川家の御用商人。
店の看板は、呉服商です。
しかし、扱っているものは呉服から、鉄砲まで。
単なる商人ではなく、有力な豪商でした。
というより、徳川家にとっては、「よろずなんでもや」な商人でした。
商人というだけでなく、武士としての働きもあり、家康の臣下でもありました。
父、明延は武士を辞めましたが、息子の清延(四郎次郎のこと)は若い頃は家康の、家来でした。
徳川家康とは同年代。ですから、よく知った仲であったわけです。
その後、父の後を継いで商人、茶谷四郎次郎となりました。
斎藤道三(さいとうどうさん)は商人から武将になりました。
茶屋四郎次郎はその逆です。戦国時代は、このような身分を変えることがよくありました。
この商人は家康のピンチをなん度も救いました。
ですから、家康に忠義を尽くした人でもありました。
武将で臣下であると言っても、裏切って自分にとって都合のよい方に主人を変える人が多かったのに、茶屋四郎次郎はずっと家康一筋に仕えた人物です。
茶谷四郎次郎、名前の由来
「中村」が元の姓
茶屋四郎次郎の苗字は、中村と言いました。
元の名は、中島清延(なかじま、なかしまきよのぶ)。
それがなぜ、「茶屋」となったか?
武士を辞めたのは、中島清延の父、明延(あきのぶ)です。
やめて、京都に言って呉服商になったのが始まりです。それが大体、1520年代です。
原因は明延のけがでした。武士としての将来が見えなくなってきたのでしょうね。
でも、商才もあったのでしょう。そうでないと、急に商人になったからといってすぐにうまくいくとは思えません。
武士であったために、当時の有名人と顔馴染みでありました。
その時代の将軍、足利義輝(あしかがよしてる、1547〜1565在職)もその中の一人です。
足利義輝は、中島清延の自宅によく茶を飲みに行っていたということです。
当時の商人は、堺の今井宗久もそうですが、有名が武将と友人関係にあることが珍しくありませんでした。
ですから、元は武士であった、茶屋四郎次郎も、茶を楽しめる人物でした。
足利義輝は中村家でのもてなしが気に入ったのでしょう。
身分を商人に変えた中村に「茶屋」の屋号を与えました。
住居場所は京都、「新町通蛸薬師」というところにありました。今でいう中京区です。
「茶屋四郎次郎」、代々受け継がれる名に
「四郎次郎」も面白いネーミングですが、これは「明延」が兄弟のうちの四男だったためです。
これで「四郎」。
では、その息子、「清延」が明延の次男だったから、四郎の息子、次郎という意味で「四郎次郎」。
こうした名前は、戦国時代後期から江戸時代中期の商人によくある名前の付け方でした。
長男が次いで、その次に来る子が次男なら「太郎次郎」。
しかし、長男の子がまた長男だったら・・・・「太郎太郎」ではちょっとおかしいので「太郎孫太郎」とか「太郎彦太郎」なんてする場合もありました。
初代となったのが、明延の息子、清延です。
その時に店の主人の名は「茶屋四郎次郎」と決めました。
それ以降は、長男であろうが、次男であろうが、三男であろうが、店の主人になる者は「茶谷四郎次郎」と名乗ること、となりました。
茶屋四郎次郎、本能寺の変を知らせる
茶屋四郎次郎の目覚ましい働きぶりというと、本能寺の変のあった直後です。
本能寺の変とは、1582年6月、明智光秀が主君の織田信長に反乱を起こして暗殺した事件です。
明智光秀は自分が、織田信長に取って代わろうとしたので、織田側にいる武将たちを一挙に打ち破ってしまうつもりでした。
徳川家康は接待事件があったから、明智光秀に恨まれそうな予感がありました。
そこで、明智光秀から一気に逃げることが必須です。
織田信長暗殺、武将たちのもとに一気にせめてくる・・・この情報を一刻も早く家康に知らせないと、徳川家の破滅です。
織田信長、暗殺のニュースを素早く伝えたのが、茶屋四郎次郎清延でした。
情報収集の必要さを感じていた、徳川家康は情報網を作っていました。
多少、武士であった気分も抜けきれていなかったかもしれませんが、商人としての、顔を広めつつありました。
ですから、商人の顔を大いに利用して、情報を集めていました。
茶谷四郎次郎、伊賀越えで名をあげる
本能寺の変の脱出ルートです。
素早く逃げらるよう手配したのが茶屋四郎次郎だったのです。
徳川家康は、本能寺の変の時、堺にいました。
織田信長に呼ばれて安土城に行き、接待を受けた帰りでした。
伊賀越え、なぜこのルートを?
この時の徳川家康の状況は厳しいものでした。
安土城に接待に招待されたので、連れてきた家来も少ない。
接待役が明智光秀で、光秀は接待のやり方がまずい、と信長から怒られてひどく恥をかかされた。
つまり徳川に対して恨みを持っているからです。
明智光秀は、13000名の軍を揃えているので、まともに当たったら、徳川は勝ち目がありません。
家康は、ここで死んだ方がいいかもしれない、とまで考えたほどでした。
そこで名乗り出たのが、茶屋四郎次郎。
なとしても徳川家康を、無事に逃がさなきゃ。
自分が幼い頃から知っている家康をなんと言っても助けたかったのです。
茶屋四郎次郎にとっても、自分の腕の見せ所であり、自分の将来に有益に働くようになるかもしれない、という打算的な面を考えたかもしれません。
それにしての命懸けのルートでした。
伊賀越えルートとは
伊賀越えルートは、資料により記述が違うのです。
通った道も、かかった日数もいろいろで、本当にどのルートをとったのか謎のままです。
一番、アテになりそうな資料は「石川忠総留書」(いしかわただふさとどめがき)と言われる、文書です。
石川忠総は当時同行したと思われる、徳川家家臣、大久保忠隣(おおくぼただちか)の息子です。
そこを記した、文章を参考にします。
6月2日 堺―南山城路―山城国宇治田原山口館(泊)13里
6月3日 山口館―南近江路―近江国甲賀郡信楽小川館(泊)6里
6月4日 小川館―北伊賀路―伊勢国長太―舟(泊)17里
6月5日 舟―三河国大浜―三河岡崎城
藤田達生著『検証 本能寺の変 資料で読む戦国史』より一部抜粋
伊賀の土地は、一揆が起こったことがある土地で、しかも伊賀者と呼ばれる忍びの者が住んでると言われる、危険地帯でした。
危険だからこそ、明智軍も近づきにくいし、敵もまさか徳川が伊賀のルートを取ると考えていないと予測しました。
だからこそ通る価値があったのです。
ここで茶屋四郎次郎は、金銭をふんだんに使い、出現しそうな落武者狩りを買収したり、地元の案内を頼んで活躍しました。
「徳川実紀」、「戸田本三河記」という書物には、伊賀越でも、これとは違うルートが書かれていますが、はっきりした証拠はありません。
茶屋四郎次郎は伊賀越の後、徳川との取引を一手に引き受けるようになったから、危険をおかす価値があった賭けでした。
茶谷四郎次郎、呉服屋
茶谷四郎次郎は、家康の元で、江州(琵琶湖の一地方)で代官を務めます。
また家康が関東に派遣されるときは、江戸の街づくりにも関わりました。
また豊臣秀吉が天下を取っている時代は、情報収集に努めました。家康のためにスパイ活動ですね。
秀吉に怪しまれなかったのか、と不思議に思いますが、そこは商人としての才覚でうまく金銭をばら撒くなどして乗り切ったのでしょう。
この時点で商人と、隠密の両方の仕事をしていたのですね。
家康からの信頼はどんどん厚くなってきます。
そこから家康と秀吉の間を取り持つなと、大使の役割も果たします。
江州の代官をやめた後は、商人一本に仕事を絞り、徳川家の呉服御用達の店に徹しました。
茶谷四郎次郎、金平糖を集める!
大河ドラマ「どうする家康」では、家康が京都に登る時に、土産を金平糖にしようと思って、金平糖を探す、という設定でした。
金平糖の入手を頼んだ相手が、茶屋四郎次郎。
金平糖は、1500年頃には「コンフェイト」と呼ばれ日本ではまだ生産されていないお菓子で、輸入でしか手に入りませんでした。
珍しいし、値段も高額!
そこで活躍したのが茶屋四郎次郎。
商人としての腕の見せ所でもありましたでしょう。
さすが!手に入れました。
茶屋四郎次郎の金平糖をゲットする話は、特に資料には出てきていません。
茶屋四郎次郎の将来の商人になる部分を表現するために入れた話ですが、実際にあってもおかしくないですね。
当時の金平糖は今の金平糖と少し違っていました。
砂糖菓子であることは間違いありませんが、色は白のみ。形もあんなに星のようにトゲトゲしていません。
丸い形をしたものの上にわずかながら突起がぶつぶつとできていました。
ぶつぶつが後世、トゲトゲに進化したのでしょう。
可愛い金平糖は今でも大人気のお菓子です。
茶屋四郎次郎が天ぷらを?
茶屋四郎次郎が天ぷらを、徳川家康に勧めた、という話があります。
ですがこちらの茶屋四郎次郎は、3代目ですが、初代、茶屋次郎清延の息子です。
つまり2代目の弟でした。
その3代目、1616年、駿河での家康の鷹狩りで家康の元を訪ねました。
京都での流行の品物を聞かれて、3代目茶屋四郎次郎は、「鯛の天ぷら」と答えました。
天ぷらは、キリスト教宣教師が持ち込んだ料理。
古来より舶来品大好きな日本人にはそのときのトレンディ料理として文化人に人気がありました。
語源はポルトガル語の「テンポーラ」。
さっそく家康の希望によって天ぷらが出されました。
天ぷらにはすりおろした生ニンニクを添えたとか。
家康はそれで体調を崩してしまいました。
そのまま、治らず、体力を消耗し夏前に、亡くなりました。
家康は鯛の天ぷらに当たって死んだ、と言われていますが原因は揚げ油にあります。
油が古くなっていたのでしょう。
日本では油を使う料理が多く無いので、揚げ油の状態があまりよく知られていませんでした。
または家康が、たくさん食べ過ぎたんかもしれませんね。
この頃、家康は70歳を超える老齢。
酸化した油は、身体に悪い影響を与えます。
別に茶屋四郎次郎が悪いわけではないのですが、どうもバツの悪い話、と茶屋次郎四郎は思ったでしょうか。
茶屋四郎次郎の死因
亡くなった年は、1596年。52歳(55歳という説も)のことでした。
亡くなった日にちはわかっていません。
最後の様子は伝わっていません。
亡くなった1596年にはまだ、関ヶ原の戦いは始まっていませんでした。
豊臣秀吉がまだ健在でいたため、茶谷四郎次郎は、この時期、特に戦に関わっていなかったと推測ができます。
死因は、おそらく病死でしょう。
茶屋四郎次郎の子孫は?
初代、茶屋四郎次郎が亡くなった後も、子孫は屋号を継がれていきます。
徳川御用商人、幕末は
江戸幕府が誕生した時は、茶屋の家は徳川の御用商人となり、呉服の商いを一手に引き受けました。
徳川が御三家となって紀州、尾張に分かれるとともに、茶屋もまた、紀州、尾張にそれぞれ分家を建てました。
しかし江戸も中期〜後期になると、武士の地位がだんだんと衰退してきました。
御用商人たちは、大名、武士にお金を貸して、それを返してもらうことでお金を回すのが仕事でした。
しかし大名たちの力が弱まると、貸し出したお金が回収できなくなり、商人もだんだんと商売が厳しくなってきました。
そこに徳川幕府が倒れ、明治政府が立ち上がると、徳川の御用商人たちの商売は潰れていきます。
徳川と・・・・ということで明治政府からは冷たくあしらわれます。
本家も、家を出て、公営住宅に住まいを移しますが、やがて、茶屋の家は途絶えました。
それぞれの分家も、同じように没落していきます。
尾張の茶屋だけがかろうじて、子孫が残っています。
最後の忠臣蔵、実話か?
池宮彰一郎の小説「四十七人目の浪士」を映画化した「最後の忠臣蔵」に茶屋四郎次郎が出てきます。
その小説の中では、主君の敵討をする、家老、大石内蔵助(おおいしくらのすけ)の隠し子とする女性が出てきます。名を、可音(かの)と言います。
その娘が、赤穂藩主の仇討ちに参加しなかった侍に育てられ、成長して茶屋四郎次郎の息子、茶屋修一郎と結婚する、という話なのです。
ここでも茶谷四郎次郎は「天下の豪商」として登場します。
感動的な話で、事実かと信じたくなりますが、池宮彰一郎のフィクションです。
滅びゆく者の使命と、美しく育った娘の華々しい姿を対比させて描いた話でした。
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