真田昌幸(さなだまさゆき)、戦国武将です。天才と呼ばれた武将です。
真田信之(のぶゆき)、幸村(ゆきむら)兄弟の父親です。
どんな生涯を送り、どんな最期を迎えたのでしょう。
2023年大河ドラマ「どうする家康」に登場します。また人気が出るでしょうか?
ここでは真田昌幸の魅力をじっくりと取り上げてみたいと思います。
真田昌幸の魅力とは
真田昌幸の魅力・・・荒削りな戦国武将、というイメージがあるのではないでしょうか。
自分自身を飾らず、勝利のためにならどんなことでもやってみせる、そのためなら二枚舌を使っても構わない、とする心意気です。
2016年、NHK大河ドラマ「真田丸」で真田昌幸を演じた、草刈正雄さんはこう言っています。
「豪快でありながら、喜怒哀楽が激しい。ときには息子に泣きついてみたりと、人間味のあるところでしょうね。洗練されてない、田舎のイケイケ親父。そういうところが僕の中にもあって、気に入っています。こんな魅力的な役をやれるのは、役者冥利につきますね」
「昌幸は昨日、言っていたことを、今日は違うという、一本“線”が通ってない人物。日本のドラマではあまり描かれない役じゃないかな。とにかく何考えているのかわからない人なので、ガチッと自分の中でイメージを決めず、現場で感じるままに演じています。北条(氏政)や上杉(景勝)などに『食えぬヤツじゃ』ってよく言われるんですが、そのセリフもヒントになっています。食えないヤツってどんなヤツだろうって」
まさにこういう人物です。
主張をコロコロ変える・・・現代ならどうかと思いますが、戦国時代なら自国が有利になるならなんでもござれの時代でしたので、非常に時代にぴったりあった人物でした。
しかし、『一本線が通ってない・・』というより、真田家の存続をかけて戦っている、という点だけは、「ぶれない人」という表現をしていいと思います。
真田昌幸、表裏比興となぜ呼ばれた?
真田昌幸の人物像を語ると「表裏比興」(ひょうりひきょう)という言葉が出てきます。
「表裏比興」も、真田昌幸の魅力の一つですが。
表裏比興の意味
真田昌幸が食わせ物、自分を上手に使い分ける、というところから呼ばれました。
「表裏比興」の人とは、「裏面がある卑しいヤツ」という意味です。
「比興」は「卑怯」ですが、「比興」のほうが先にあった言葉です。
それに「比興」の方が褒め言葉の意味が強いです。
戦略のためなら、寝返りもする、ことですが、戦国時代を考えれば、少しでも自分に有利になるように動くのは必須でした。
真田昌幸に対し、敬意を込めてついたあだ名でした。
「表裏比興」があればこそ、真田昌幸は戦国時代を生き延び、真田家はずっと続いて行きました。
真田昌幸、表裏比興になったきっかけ
真田昌幸の、領土をみると納得できます。
自分を守るため、自分を変えていきました。
真田昌幸は、上野吾妻郡(現在の群馬兼)を武田氏から任されていました。
その地方の支配勢力が複雑で、上杉、北条(『鎌倉殿・・』の北条とは違います)の領土に挟まれていました。
2大勢力は、武田の態度一つで変化するかもしれません、
上杉謙信亡き後、上杉家は景虎、景勝、二つの勢力で争いました。
武田がどちらに味方するか・・・・結局、中立の立場をとりました。
なお、上杉景虎は北条氏政の弟でした。
景虎は自害し、当然北条は怒ります。
それでも武田、上杉、北条は、同盟を結びますが、どれもいつ破られるかヒヤヒヤものの同盟です。
真田昌幸は悟りました。
周りを敵に囲まれた今の状況なら、自分もいつか潰されてしまうと。
自分の土地を守ためには、周囲を上手に騙し続けなければならない。
真田生き残りの苦肉の策です。
真田昌幸の生い立ち
真田昌幸は1547年の生まれです。
真田幸隆(さなだゆきたか)の三男で生まれました。
兄が二人もいるから、真田家を継ぐことはない、と思われていました。
真田家、当主となって
しかし、1757年、長篠(ながしの)の戦いで二人の兄が戦死します。
ここで、真田昌幸は真田家の当主となります。この時29歳。
武田信玄が1573年に亡くなりますが、引き続き信玄の息子、武田勝頼(たけだかつより)の下で働いています。
真田昌幸、真田家の当主になった後は、武田勝頼の命令のもと、北条氏の領土だった上野国(こうずけのくに、現在の群馬県)を攻撃します。
そして、上野国東部の城、名胡桃城(なぐるみじょう)、沼田城(ぬまたじょう)を手に入れます。
武田勝頼、死後 転機が
1582年、武田氏は武田勝頼の死で、真田昌幸は主君を失いました。
実力をつけてきた真田を、織田家が放っておきませんでした。織田の重臣 滝川一益(たきがわかずます)の家臣になります。
しかし、せっかく手にした次の勤め口も、その3ヶ月後の本能寺の変で、失いました。
織田の残された家臣たちは、何はともあれ自分たちの身を守るだけに専念します。
ここで完全にフリーランス状態になった、真田昌幸。
真田昌幸は元の主君、自分の土地、城を守りぬこうと決意するのです。
「変わり身の早い真田」と言われるようになったのは、ここからです。
なんとしても自分たちを守りたかったところからきた行動でした。
主君を変えていく 真田昌幸
織田信長が本能寺で暗殺された後から、真田昌幸いよいよ本領発揮です。
新たな自分を確立しました。
仕える領主を次々と変えていきます。
ある時は上杉につき、かと思うと北条家に・・・
上田の沼田城に移ると、徳川家に。
そして結局はまた上杉家に・・・という具合にです。
あちらこちらから「裏切り者!」と言われそうなのですが、真田昌幸は上手に身を交わして乗り切っていきます。
信長亡き後の混乱した状況を、うまく利用しました。
真田昌幸の強みは、まだあります。戦争も強かったのです。
つまり戦略家でした。
豊臣の世になって
いよいよ豊臣秀吉が天下人となります。
うまく秀吉に直に会うことが叶います。
中継ぎの人物を頼りましたが、そこまで漕ぎ着けたところに真田昌幸の処世術のうまさが現れています。
豊臣秀吉にうまく取り入ることができました。
真田昌幸は、長年土地の所有権をかけて争ってきた北条氏との間に取り決めを、秀吉にしてもらいます。
しかし秀吉の采配に不満を持った北条氏が真田の城に攻撃をかけます。
ここから戦火が広がり、北条家は弱体化します。
功績を上げることができた真田昌幸は、あらたな領土を得ることができ、勢力を広げていきます。
真田昌幸、武田信玄への忠誠
真田昌幸は、武田にずっと恩義を感じ、忠誠心を持って仕えていました。
武田信玄の人質に
真田昌幸は7歳の時、武田信玄の元に人質に出されました。
武田信玄は力のある武将で、多くの武将たちの師弟を人質にとっていました。
これは大河ドラマ「どうする家康」での家康の義理の弟が武田信玄の元に人質に出されていました。
でも、あのドラマのような「しごき部屋」(?)はなく、見込みのあるものを自分の近くで使うことが目的のようでした。
人質というよりは、奉公といったほうがいいでしょう。
武田信玄からの信頼
真田昌幸は、武田信玄に気に入られて、信玄の側近、奥近習六人衆の一人に選ばれました。
やがて足軽大将に任命されます。
1569年、三増峠(みませとうげ)の戦いで、一番槍を取るほどの実力者となりました。
「三方ヶ原の戦い」(みかたがはらのたたかい)にも出陣して活躍しました。
三方ヶ原の戦い、とは家康が劣勢の中、なんとか逃げおおせた戦いでした。
やがては、北条氏政(ほうじょううじまさ)との戦いに備えて偵察を命じられた時も、武田信玄を満足させる働きをしました。
真田昌幸の偵察ぶりは、信玄から「武田信玄の目」と呼ばれるほど信頼されました。
こうして、真田昌幸は武田信玄から、戦術などをどんどん吸収し、武将として成長していきました。
真田昌幸、石田三成になぜ味方した?
「表裏比興」と言われ、真田家の存続を考えて動く、真田昌幸が、なぜ石田三成の味方をしたか?
真田昌幸ほどの知力があれば、東軍につく、と思えるのですが、西軍につきました。
長男の信之を徳川側につかせた、実はこちらが昌幸の本当の考えだったのかもしれません。
真田昌幸が石田三成に味方した理由は、婚姻から来る親戚関係にあったからです。
真田昌幸の娘(五女)が、三成の妻の実家、宇多(うだ)家に嫁いでいました。
別の説だと、石田三成の妻と、真田昌幸の妻、山手殿(やまてどの)が姉妹同士、という話がありますが、こちらは正式な文書がありませんので、よくわかっていません。
真田の娘が宇多家子息と結婚した年は不明ですが、関ヶ原の戦いより前です。
婚姻の義理から、石田三成は真田昌幸を秀吉に紹介してもらうのなど、世話をしてもらいました。
真田昌幸のことを「表裏比興」と言ったのは他ならぬ、石田三成なのですけれどね。
石田三成は、真田昌幸を頼りにしていました。
二人の間柄は、書簡を見るところ、かなり親しさを感じさせる文章でした。
ということは「表裏比興」と呼んだのは、敬意を込めてだと思います。
真田昌幸、関ヶ原の戦いへの覚悟
1598年、豊臣秀吉が亡くなります。
するといよいよとばかり、徳川家康がのし上がってきました。
それに反発したのが石田三成。
石田三成は徳川への反対を訴え、各大名たちに自分への賛同を呼びかけます。
石田三成が西軍。徳川家康が東軍。
真田昌幸は、石田三成側(西軍)につく、と決意しました。
しかし、長男、信幸は、その妻が徳川の重臣、本多忠勝(ほんだただかつ)の娘、小松姫と結婚していました。
長男が徳川方にいたために、真田家を二つに分けることにしました。
信幸は徳川側(東軍)に、昌幸と次男、信繁(のちに幸村と名前を変える)は、石田側(西軍)にそれぞれ着きました。
真田家を二つに分けたのは、どちらかが生き残れば、真田家は存続できる、という計算の元でした。
真田昌幸の子供たち
真田昌幸の子供というと、長男 信之、次男 信繁(幸村)しか思いつきませんが、実はもっと子供がいます。
男子4名、女子7名いました。
全員が、正室 山手殿の子供ではなく、側室の子もいます。
真田昌幸は非常に子供たちを愛する父親でした。
最後を迎えた場所、九度山で自分の最後を知ると、別れていた長男、信之にとても会いたがっていました。
真田家の団結が固いのも父親の愛情のおかげだったのではないでしょうか。
真田家の、一族の争いはあまり聞かれません。
父親の愛情があり、統率力があるからこそ、兄弟には争いが起こりませんでした。
長男 信之は源三郎、次男 信繁は源二郎で、長男の方が三郎で順序が逆?と思われます。
しかし、昔は子供の死亡率が高かった時代でした。
真田家では長男が死亡する確率が高かったから、多分、〜太郎と長男らしい名前をつけるから早死にする?と心配し、縁起をかつぐ意味で、あえて〜太郎の名前を避けたようです。
真田昌幸と徳川家康
真田昌幸について言われるのが、「徳川家康が最も恐れた男」ということです。
では徳川家康は真田昌幸をどうして恐れていたのでしょう?
上田合戦
真田昌幸の城、上田城への攻撃が失敗してしまった、それも2回、がその理由です。
第一次上田合戦の原因
まず、1585年、第一次上田合戦で、家康は酷い敗北を真田昌幸によって味わせれたからでした。
上田城の合戦の2年前、真田昌幸は家康の臣下となっていました。
そこで徳川の支援のもと、上田城を築きます。
ところが家康が北条と同盟を結び、真田昌幸に持っていた沼田(ぬまた)城と岩櫃(いわびつ)城を北条に渡すよう命令しました。
しかし真田昌幸は拒否。ここで戦争が起こりました。
第一次上田合戦の結果
真田昌幸の策は籠城戦です。つまり城に籠ること。
真田軍約2000、徳川約8000。
徳川は、上田城を攻めたのですが、真田軍は側面から攻撃を仕掛けられ退却するのみでした。
そこを、上田城の外城の砥石(といし)城から真田信幸が出撃して、徳川軍に襲いかかります。
徳川軍が慌てるところ、今度は近くの神川の堰が切られ、徳川軍の上に襲いかかります。
徳川軍の多くは溺死しました。害する真田軍の犠牲は約40。
第一次上田合戦、真田の勝利で終わりました。
第二次上田合戦
時は、関ヶ原の合戦直前。
徳川勢は懲りずに再び上田城を攻めようとしました。
これは家康の策ではなく、息子、秀忠の計画でした。
徳川秀忠の寄り道?
徳川秀忠(ひでただ、後の2代目将軍)は、関ヶ原の戦いに後発隊として出発します。
途中、上田に寄り道をして、上田城を落として、父、家康への手土産にしようとしました。
秀忠の軍、38,000。上田城の真田には2500の兵。
徳川秀忠は、第一次上田合戦の話を聞いており、今度は同じようにはならないぞ、決めて、まず砥石城を攻撃し、落とすのに成功しました。
今回、砥石城を守るのは、真田信繁(さなだのぶしげ、のちの幸村)。
砥石城を攻める役目を、徳川秀忠から受けたのは、真田信之。そう真田昌幸の長男。信繁の兄です。
真田家の反撃
砥石城が落とされる。実はこれが真田昌幸の作戦でした。
砥石城を落として、意気揚々とする徳川軍を、真田の敷地内それも上田城本丸近くまでおびき寄せました。
至近距離に入った徳川軍に、真田昌幸は、鉄砲、矢、でどんどん攻撃します。
加えて、後ろから、息子の真田信繁が攻撃をかけます。
徳川軍は、大混乱に陥り、右往左往したところ、また、神川の堰が破られ、徳川軍はまた、水に飲まれて多くの兵が亡くなりました。
同じ手を食いました。
徳川家康の怒り
徳川秀忠の敗北により、兵を失い、それどころか、関ヶ原入りに遅れてしまいました。
秀忠が関ヶ原に着いたのは、戦いの決着がついたよりもさらに2日遅れでした。
大事な関ヶ原の決戦に、跡取りの秀忠が遅刻・・・?家康にしてみればこれほど恥ずかしいことはないでしょう。
しかも秀忠は、以前と同じ武将に同じ作戦で、負けた・・・これも家康にとっては大恥です。
煮湯を飲まされた気分だったと思います。
2回の上田合戦で、真田の力は有名になりました。
反対に徳川にとっては憎んでも、憎みきれない相手でした。
上田合戦から、真田氏は「徳川が最も恐れた男」と言われることとなりました。
宿敵のライバル、みたいなものでしょうか。
真田昌幸、関ヶ原の戦い後
1600年、関ヶ原の戦いで、豊臣側の西軍は負けました。
西軍に味方した、真田昌幸、幸村親子は当然、処罰されます。
徳川家康は深く恨んでいるので、徳川家康は死罪つまり、切腹と考えていました。
しかし、徳川に味方した、真田信之(真田昌幸の長男)は、家康の命の嘆願を申し出ます。
妻、小松姫の父、本多忠勝も一緒に、嘆願をしてくれました。
真田信之も、ずっと続いていく真田家のことを考えると、処刑された罪人が身内にいては今後の差し障りになると考えたのかもしれません。
本多忠勝は、「真田を切腹させるなら、自分と信之は、上田城に籠り家康と戦う」とまでいった説得が効いたのでしょう。
助命嘆願は、家康に聞き入れられて、高野山で隠遁生活を送る、となりました。
高野山では真田家ゆかりの寺、高野山蓮華定院に隠居しました。関ヶ原の戦いの同年1600年です。
しばらくすると、高野山で、真田昌幸・幸村親子は、妻子も呼んで一緒に暮らすことができました。
真田昌幸、九度山へ
九度山では
真田昌幸・幸村親子は、すぐに九度山(九度山)に身柄を移されます。
九度山も、高野山と同じ、和歌山県にあります。高野山へ行く通り道になる山です。
お目付役は、浅野行長。
処罰の幽閉生活ではありましが、囚人のように監視される生活ではなくかなり自由な生活でした。
狩猟や釣りをしたり、囲碁や読書を楽しむこともできました。
また、妻子も共にいるため、気持ちも安らぎました。
真田昌幸は、側室も一緒だったので、子供が新たにできたほどでした。
生活費はどのように?
とにかく生活しなければなりませんでしたので、その費用はどうしたのでしょうか?
費用のほとんどは、真田信之からの仕送りでした。
真田昌幸は、家族愛の強い人物でした。
信之のことも間違いなく愛しており、生き延びてもらいたく徳川の方につかせました。
その父親の心情を知って、父親たちの助命嘆願をし、さらに生活費も送っていて、という真田信之は孝行息子ですね。
また、真田家のお目付け役だった、浅野長政、かつての幽閉所だった高野山蓮華定院、菩提寺の信綱寺からも援助がありました。
九度山の屋敷が、火事で焼け落ちた時はさすがに、これ以上の寄付を求めることはできなかったので、借金をしました。
それでも生活費は足りず、幸村の妻は、真田紐と呼ばれる丈夫な紐を織り、それを売ってお金を得ていました。
やはり金銭的に裕福でなかったことが、昌幸が不自由に思う理由でした。
真田昌幸の最期
真田昌幸の放免嘆願書
幽閉されている真田昌幸は、自分の放免嘆願書を家康に出します。
真田昌幸は、
関ヶ原後、自分を死罪にせず、幽閉しているということはいずれ放免する気があるからだ、多分自分は使い道があると思われているからだ・・・・
と思い、せっせと放免嘆願を送り続けます。
しかし何度、嘆願状が送られても、家康には許すつもりが全くありません。
真田昌幸の書状を無視し、悔しい思いをさせる。それが徳川家康の真田昌幸に対する復讐だったのではないでしょうか?
真田昌幸、無念の最期
聞き入れてもらえない、放免嘆願・・・・
何年も経つうちに、真田昌幸は自分はもう2度と放免されないだろう、と悟ってきました。
しかし、その頃にはもう気力、体力が衰えてきた頃でした。
九度山にいる間に信之と会う機会があったという記録があります。ただし、年代は書かれていません。
書状には5月16日、信之と対面、とあるだけです。
話の内容も、わかりません。
しかしこれが、真田昌幸・信之親子の最後の会見となりました。
1611年6月4日、真田昌幸は息を引き取りました。享年54歳です。
気力と体力が一気に落ちたのが原因でしょう。
法名は、龍花院殿一翁千雪大居士。
真田昌幸、死に際して
真田昌幸は、死の間際に次男、幸村を呼んで、近い未来、徳川家と豊臣家の間にまた戦が起きる、と言います。
もし戦になったら、今度は籠城はダメだ、打って出るように、言いつけてました。
真田昌幸に予言は的中し、大阪の陣が始まります。
真田幸村は戦のための、真田丸を大阪城に築いたことは有名です。
そして最後まで、徳川を悩ませました。
真田昌幸は死んでも、憎い奴、というのが家康の思いだったのではないでしょうか。
真田昌幸の六文銭
戦場にたなびく、六文銭を描いた旗、といえば、真田氏がいる!
側に描かれった図柄を「旗印」と言います。
特に息子の信繁(幸村)がつけていました。
六文銭は、真田家に代々伝わる旗印ではありません。元は雁金(かりがね)という鳥の紋でした。
六文銭の理由は二つ伝えられています。
第一の説
1582年、武田氏が滅亡した年、真田昌幸、信繁親子は、上杉軍を撃退しました。
そのまますぐに、北条氏政と対戦しました。
がこちらは大軍だったので、真田は上田城まで退却しました。
すると、まだ14歳だった信繁が、この戦いは戦って勝つべきであると言ったのです。
その時、真田信繁は北条側の重臣松田家の紋、永楽通宝を白い旗に書き込み、自ら指揮をして夜討ちをかけました。
北条がわは、重臣の松田がせめてきたと思い、戦意を失ってバラバラになってしまった。
真田は勝利を挙げました。
真田昌幸は非常に喜び、信繁に、六文銭の旗印を使うと良い、と勧めました。
しかしこの説は、信繁が夜襲の作戦が資料で確認できません。
第二の説
六文銭といえば、弔いの時に、棺に死者と共に葬るもの。
その六文銭の意味を、自分の身につけて、戦に出るためです。
仏教からきた慣わしで、死者があの世にいく時、渡ると言われる、三途の川の渡守に渡す駄賃です。
なんでそんな縁起の悪いものを・・・と思いますね。
それは真田が、常に戦争には死を覚悟して出陣するからでした。
戦場でいつ死んでも、すぐに三途の川で、六文銭が取り出せるようにという心意気です。
真田の兵はいつでも、死に物狂い、だから戦場ではいつも恐れられるのです。
相手を恐れさせる効果を狙ってたのですね。
こちらの説の方が信じやすいかもしれません。
真田昌幸を、佐藤浩市が
2023年大河ドラマ、「どうする家康」真田昌幸、登場です。
今回は、佐藤浩市さんがその役を演じます。
大河ドラマファンは2016年の「真田丸」での草刈正雄さんのイメージが強く残っているかと思います。
しかし、佐藤浩市さんもなかなか、曲者 真田昌幸になる予感がします。
佐藤浩市さんの、お話では、従来とは一味違った、真田昌幸像を作り上げたいと思っておられるようです。
そして視聴者の皆さんに、老獪な(古ダヌキ、ということなのですね)を感じてもらいたい、ことを述べていました。
いい意味で、従来の予想を裏切ってくれる「どうする家康」また楽しみが増えました。
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