北条氏政、といえば小田原評定。「鎌倉殿の13人」と関係あり?汁かけご飯にみる性格?有能かも?

戦国武将に、北条氏政という人物がいます。

これまで無能な武将と言われていました。が本当にそうだったのでしょうか?

無能と言われるエピソードがありますが、そこから無能ではなかった可能性も見えてきます。

北条氏政といえば、「小田原評定」が有名ですが、実はそこには意味がありました。

その実態はどんな武将だったのか?のぞいてみることにしましょう。

北条氏政、「鎌倉殿の13人」と関係あるの?

北条と聞いて、2022年大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の北条氏と関係あるのかしら?と思った方は多いでしょう。

結論から申しますと、ほとんど関係はありません。

もし関係と言ってみるなら、先祖が同じ、というだけです。

先祖は平貞盛、同族の平将門を倒して、平家の祖となった人物です。

貞盛の子供たちから、あるものは鎌倉の北条氏となり、ある子供は伊勢平氏となりました。

伊勢平氏の子孫が、北条早雲(ほうじょうそううん)です。最初は、伊勢新九郎(いせしんくろう)という名でした。

しかし、早雲が北条を名乗ったわけではありません。

早雲の息子、氏綱(うじつな)の時から北条姓となりました。

氏綱の領地が、伊豆の韮山にあり、韮山に「北条」という地名があったからでした。

「北条」の方が聞こえがいいと、単純な理由だったようです。

また、この地は、鎌倉時代の執権、北条氏出身の土地でした。

「鎌倉殿の13人」時代の北条氏と区別するために、早雲から始まる北条家を「後北条家」(ごほうじょうけ)と呼びます。

北条氏政、家紋の話

北条氏政たち、「三つ鱗」の家紋を使っていますね。

かつての執権、北条氏と同じものです。

執権北条氏と関係ないのに、なんでこの紋使ってるの?となります。

名前を考えてみると、後北条家の元の苗字は「伊勢」。これは西国の地名です。

ところが早雲から始まる北条氏たちの勢力は関東。

関東にいるのならば、西国風を消さなければならない。

そのためには「北条」の名前は実に都合よかったのです。

関東に浸透している名前。

名前だけではありません。

進軍するには旗が必要です。側には紋をつけなければなりません。

では、名前と一緒に、執権の家紋「三つ鱗」も利用しよう、という意図から使い始めました。

苗字と紋を使い始めたのは、2代目氏綱の時でした。

北条氏政、何した人?

戦国時代の、相模国(現在の神奈川県)の戦国大名です。

1538年生まれです。

3代目の北条氏康(ほうじょううじやす)の次男として生まれました。

後北条氏として4代目です。

息子、氏直がおり、氏直が5代目です。

後北条家は5代で滅びます。

では5代目が悪いのかというと、そうではなく、4代目、北条氏政のとった道が、北条家を滅亡へと導きます。

北条氏政は「小田原評定」(おだわらひょうじょう)の名を広めた人物です。

それは決して、良い意味の評定ではありません

なかなか結論が出ない会議の代名詞になりました。不名誉なことですね。

小田原評定だけでなく、北条氏政には、不名誉なイメージに結びつくエピソードがあります。

ですが、今日の研究では、それが必ずしも悪いことではない、ということが徐々に明かされつつあります。

それでもずっと「無能」のレッテルを貼られ続ける、残念な戦国武将です。

汁かけご飯のエピソード

北条氏政は、無能な武将と歴史では言われています。

無能と言われるエピソードに次のような話があります。

ある朝の北条氏政の朝食どきの話です。

北条氏政は自分のご飯に、汁をかけました。味噌汁ですね。

麦飯に汁物ををかけて食べるのは、当時の食事として珍しいことではありません。

その時、北条氏政は、汁を一回かけてからもう一回かけました。

それををみた父の氏康は「毎朝、やっていることなのに、ご飯にかける汁の適量を測れないのか。こんな者が支配するなら、国はお終いだな」と嘆きました。

支配者として、ちょうどいい塩梅が測れない、と息子の無能さを嘆いた、ということでした。

エピソードとは言いますが、この話は実話ではありません。

後世に人が、北条氏政、無能を印象付けるために作った話と言われています。

北条氏政、「麦」のエピソード

「麦」の話も北条氏政を、無能とみなす話です。

武田の「甲陽軍鑑」に書かれています。

北条氏政は、農民が麦を収穫するところを見学していました。

昼時になったので、北条氏政は「それでは今取れたての麦で昼食にしよう」と言いました。

麦は収穫されて後、いくつかの過程を経てやっと食べられるものになる、ということを知らない北条氏政を馬鹿にした話です。

しかしそうは言っても、坊ちゃん育ちの若様に、「麦が食べられるようになるまで〜」なんて手順、わからなくても仕方がないのでは?と思うのですが。

よほど武田氏は、北条氏政を馬鹿にしたかったのか・・その悪意を感じます。

北条氏政、有能だった?

「汁かけご飯」は北条氏政の無能さを表したエピソードですが、違う見方もあります。

何度も汁をかけてご飯を食べるのは、「徐々に味わいながら国を取っていく」のに似ている、というのです。

この解釈は、2016年大河ドラマ「真田丸」で取り上げられた新解釈です。

北条氏政が無能と言われているのは、武田氏を描いた軍記「甲陽軍鑑」(こうようぐんかん)に書かれているところから始まります。

「甲陽軍鑑」は武田氏の物語ですので、武田氏以外の武将を劣ったものとして描いています。

北条氏政はまさに、武田信玄の引き立て役にちょうど良かったのです。

実は北条氏政は、領民思いの領主でした。

領主、北条氏政は時折、畑に出て農民と百姓仕事をすることがありました。

豊臣秀吉の小田原征伐の時も、戦闘を避けていたのは、領民の生活を守ためでした。

後北条家が滅びると悟った時は、北条がいなくなっても領民の暮らしを守ろうとして、徳川家康に後を託す手紙を出しています。

徳川家は、息子 氏直の正室の実家です。

手紙には、北条氏が治めた国内の情報、例えば、産業(農業)のこと、水路に関することなどを書いた文書が添えてありました。

戦争が下手、というだけで無脳な領主とはいえませんね。

もし戦国時代ではなく平和な時代だったら、良い領主と言われてかもしれません。

北条氏政、イケメンだった?

北条氏政はイケメンだったと言われています。

それは、肖像画がとてもカッコいいからです。

小田原城天守閣に肖像画の模写があります。

本物は早雲寺にあります。早雲寺は北条家の菩提寺で、北条家の5代の当主全ての肖像画があります。

そういう肖像画は大体、美化して書かれていることが多いので、必ずしも本人の正確な姿を写しているとはいえないかもしれません。

しかし、肖像画から見える人物は、キリッとした顔立ちで、どこか育ちの良さを感じさせます。

汁かけごはんの話も、麦飯の話も、のほほんとした坊ちゃん育ちをどことなく感じさせて、憎めないところがあります。

北条氏政、小田原城を守りきるか?

小田原城

小田原城は、北条氏政たちの後北条家の居城です。

北条氏政の父、北条氏康(ほうじょううじやす)の時代に城壁が完成した丈夫な城となりました。

上杉謙信、武田信玄の攻撃にも見事に耐えたほどです。

小田原城で特に特徴づけたのは土塁と空堀で、それは小田原の街全体を取り囲むものでした。

特に外壁は豊臣軍に十分に対抗できるものでした。

豊臣秀吉が小田原を攻めるまで

北条氏は、関東制覇を目指していました。

しかし豊臣秀吉からの攻撃を受けるのです。

ではなぜ、攻撃を受けたのでしょうか?

秀吉は1587年に九州の島津(しまづ)の討伐を終え、西日本を従わせることに成功しました。

日本統一にはあと関東、と東北のみ。

まず、関東で大きな力を持っていた、北条氏を自分の配下につけようとしました。

他の関東の大名たちはすでに豊臣に従う、と言っています。

例えば、常陸、里見(千葉県)、宇都宮などです。

それどころか、関東で力を持ちつつあった、徳川氏もすでに豊臣に服従していました。秀吉に従うことで、徳川家を守るためでした。

この場において、小田原の北条氏には味方がいなくなっていました。

小田原攻め。大義名分・・・

北条氏は真田氏と領地争いをしていました。

沼田城と名胡桃城(なぐるみじょう)の二つの城をめぐる争いでした。どちらの城も群馬県にありました。

真田氏は、沼田城を北条氏に明け渡して、名胡桃城を手に入れます。

しかし、沼田城の城代を務めた北条氏の家臣が名胡桃城まで、奪い取ってしまったのです。

そこで怒ったのが、真田昌幸(さなだまさゆき)。

城の所有については、決まっていたことですので、明らかに北条氏側に非があります。

この事件を秀吉が知ることとなり、詳細を知るために、北条氏政に京都まで来るよう、要請します。

しかし北条氏政、そして息子の氏直はのらりくらりと交わして、一向に京都に来ようとはしません。

秀吉は、北条氏政側が、秀吉の権威に背いた、とみなしました。

そして不服従として豊臣秀吉は、北条氏討伐を決めまたのです。

小田原戦に備えて・・・

名胡桃城の事件は、北条氏の態度は不誠実、とみなされ、北条氏に同情するものはいなくなってしまいました。

元々北条氏政は、いざとなれば姻戚関係などから自分に見方するものは大勢いる、とたかをくくっていました。

見通しが甘いのですね。

ここでも世間知らずのぼんぼんという人柄が出ています。

また頑丈な小田原城の作りも、北条氏政に油断をさせました。

北条氏の兵力は80,000、それに対し、秀吉は220,000の出兵でした。

軍事物資も、食糧も豊富に準備できました。

秀吉は陸からだけでなく、海からも攻撃できるよう軍備を整えてます。

秀吉が京都から攻めてると、小田原側の最初の防衛地は箱根の山中城(静岡県三島市)でした。

小さな城なので、秀吉軍が大勢で攻められ、1日で落ちてしまいました。

北条氏政は、山中城で食い止める予定でしたが・・・ここでも見通しの甘さが出てしまいました。

小田原城包囲戦

小田原城包囲戦は、1590年4月3日に始まります。

確かに小田原城は、堅固で、秀吉軍は簡単には落とせませんでした。

ついに4月7日、秀吉の命令で一斉攻撃開始です。

陸・海両方から攻撃を受ける小田原城。

しかし小田原城は三重の外壁が作られて、なかなか落ちません。

それなら、外側からの崩しに取り掛かります。北条が関東地方に持っている城を攻略することです。

小田原城では持久戦になりました。

小田原城無力化

秀吉は心理戦を利用しました。

戦死した北条方の兵の首を、小田原城外にさらしたのです。

北条はすでに、孤立し、籠城している状態。そこでは外部からの情報は入ってきません。

味方の首を見せられた、北条の意気はどんどん下がっていきます。

また、気分が下がってくる北条兵にわざと聞こえるように、場外で宴会を始めます。

そこに一夜城の登場です。

それは石垣山城。小田原城を見下ろす位置にあります。

秀吉は小田原城攻撃と同時に着手し、わずか3ヶ月弱で完成させました。

出来上がるまで、城周囲を木立で隠し、完成と同時に周囲を取り払い、その姿をみせました。

そのため、小田原城からは一晩にして城ができたように見えました。

秀吉の心理面に訴える作戦は、今までの戦争と全く違い、北条氏政は戸惑いました。

それが敗因につながりました。

北条氏政は、抗戦するつもりでいましたが、息子の北条氏直(ほうじょううじなお)は、1590年7月、降伏を申し出ました。

ここに北条五代の支配はついに終わりを告げたのでした。

北条氏康、小田原評定(おだわらひょうじょう)を開く

結果が出ない会議のことを「小田原評定」などと言われています。

北条家が小田原城を攻められた時、北条家の重臣たちが今後の方針を決める会議だったのですが、長引く割に結論が出てこない、そんな会議になってしまいました。

そのため、ダラダラした終わりのない会議の代名詞のように「小田原評定」という言葉が使われています。

しかし「小田原評定」とは、後北条氏では、月に2回行われる重臣たちの定例会議でした。

評定の制度は後北条家 5代にわたって続けられました。

それだけ、後北条家の家臣、親族に裏切り者がほとんどいなかったから続いた制度なのです。

評定を「ひょうじょう」と読むのは、「評価、査定」という意味ではなく、「相談」の意味があるからです。

小田原評定と知られるものは二つあります。

確認できる内容は1840年代の「改正三河後風土記」に書かれています。

  • 1590年1月、籠城か、出撃かの論争
  • 1590年6月、降伏か、決戦かの論争

1回めの評定は、いつまでも結論が出ないため、攻撃のきっかけがつかめず、籠城となりました。

2回目は、意見が割れて、北条氏政は決戦。息子の氏直は降伏と意見が合わないまま、氏直がさっさと降伏をしてしまいました。

どちらも意見がまとまらないまま動いてしまったので、北条家として統制が取れず結局敗北に終わったのです。

北条氏政の最期

北条氏政、切腹の日

1580年、小田原城明け渡しの後、7月11日、小田原城で切腹を命じられました。

弟、北条氏照(ほうじょううじてる)と共に自害しました。

実は、切腹を願い出たのは、息子の北条氏直でした。氏直は後北条家5代目当主。最後の当主です。

氏直は、自分が切腹する代わりに臣下たちの命を助けてくれ、と願い出ますが、聞き入れられずに、北条氏政の切腹が命じられました。

北条家降伏の、仲立ちをしたのは徳川家康でした。

家康の娘は北条氏直と結婚しており、北条・徳川家は婚姻による縁戚となっていました。

北条家が、豊臣秀吉に楯突いたのだから、その責めを負わなければならない。

しかし、氏直に切腹を止めたのは、秀吉は、氏直の舅 徳川家康に忖度したからでした。

代わりに父親の北条氏政に切腹となったのです。

北条氏政、氏照兄弟の切腹の介錯をしたのは、もう一人の弟、氏規(うじのり)でした。

北条氏政、切腹の理由

北条氏政は切腹させられる必要があったのでしょうか?

蟄居と言って、どこかに幽閉だってよかったはずです。

実際、5代目当主、北条氏直は1580年7月12日(北条氏政、切腹の翌日)、高野山での謹慎生活が命じられました。

父親だって、幽閉となってもいいはず・・・

しかし、小田原城征伐の時期は、まだ豊臣へ服従する大名たちの行動が不明だったからです。

表向きは秀吉に味方する、とは言ってもその心の裏まで計り知れませんでした。

ですから、真剣に秀吉に服従していない大名たちに対する、見せしめの意味がありました。

そんな秀吉の思惑の犠牲になった、と思える人物が、北条氏政でした。

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