戦国武将に、北条氏政(ほうじょううじまさ)という人物がいます。
これまで無能な武将と言われていました。が、現代の評価では少し違っています。
無能と言われるエピソードがありますが、今日ではその解釈が違ってきています。
ここでは、北条氏政の有能説に目を向けました。従来とは違った北条氏政観、ぜひ感じてください。
北条氏政、有能だった?
かつて北条氏政は、相模国を失った無能者と言われていました、その理由と、実はそれは違った、という説の理由をご紹介します。
北条氏政、無能と言われたわけは?
「汁かけご飯」は北条氏政の無能さを表したエピソードですが、違う見方もあります。
何度も汁をかけてご飯を食べるのは、「徐々に味わいながら国を取っていく」のに似ている、というのです。
この解釈は、2016年大河ドラマ「真田丸」で取り上げられた新解釈です。
このエピソードについては、下記に説明してあります。
北条氏政が無能と言われているのは、武田氏を描いた軍記「甲陽軍鑑」(こうようぐんかん)に書かれているところから始まります。
「甲陽軍鑑」は武田氏の物語ですので、武田氏以外の武将を劣ったものとして描いているので北条氏政は、武田信玄の引き立て役にちょうど良かったのです。
他にも以下の理由があげられます。
- 豊臣秀吉の勢いをみくびっていた、つまり「時代の流れを読めなかった」
- 小田原評定では、優柔不断で、後北条家の取るべき道を決められなかった
北条氏政、有能説、領民思いだった!
領主、北条氏政は時折、畑に出て農民と百姓仕事をすることがありました。
この逸話がでてくるのは「甲陽軍鑑」ですがその意図は、農民と一緒になって、百姓仕事をするのは、世間知らず、農民の仕組みを知らない、と馬鹿にすることでした。
実際の、北条氏政は、飢饉の時には、「徳政」を出して、税の免除を行い、農民の負担を減らす努力をしていました。
また、豊臣秀吉の小田原征伐の時も、戦闘を避けていたのは、領民の生活を守ためでした。
後北条家が滅びると悟った時は、北条がいなくなっても領民の暮らしを守られるなら、ということで、徳川家康に後を託す手紙を出しています。
徳川家は、息子 氏直の正室の実家です。
手紙には、北条氏が治めた国内の情報、例えば、産業(農業)のこと、水路に関することなどを書いた文書が添えてありました。
戦争が下手、というだけで無脳な領主とはいえないと、私は北条氏政を見て思いました。
もし戦国時代ではなく平和な時代だったら、良い領主と言われてかもしれません。
北条氏政、「鎌倉殿の13人」と関係ある?
北条と聞いて、2022年大河ドラマ「鎌倉殿の13人」や「逃げ上手の若君」の北条氏と関係あるのかしら?と思った方は多いでしょう。
結論から申しますと、ほとんど関係はありません。
もし関係と言ってみるなら、先祖が同じ、というだけです。
先祖は平貞盛(たいらのさだもり)、同族の平将門(たいらのまさかど)を倒して、平家の祖となった人物です。
貞盛の子供たちから、あるものは鎌倉の北条氏となり、ある子供は伊勢平氏となりました。
伊勢平氏の子孫が、北条早雲(ほうじょうそううん)です。最初は、伊勢新九郎(いせしんくろう)という名でした。
しかし、早雲が北条を名乗ったわけではありません。
早雲の息子、氏綱(うじつな)の時から北条姓となりました。
氏綱の領地が、伊豆の韮山にあり、韮山に「北条」という地名があったからでした。
「北条」の方が聞こえがいいと、単純な理由だったようです。
また、この地は、鎌倉時代の執権、北条氏出身の土地でした。
「鎌倉殿の13人」時代の北条氏と区別するために、早雲から始まる北条家を「後北条家」(ごほうじょうけ)と呼びます。
北条氏政、家紋の話
北条氏政が使う家紋は、「三つ鱗」といいかつての執権、北条氏と同じものです。
執権北条氏と関係ないのに、なんでこの紋使ってるの?となります。
名前を考えてみると、後北条家の元の苗字は「伊勢」。これは西国の地名です。
ところが早雲から始まる北条氏たちの勢力は関東なので、それなら西国風を消し必要があります。
そのためには関東に浸透している名前「北条」は実に都合よかったのです。
名前だけではありません。
進軍するには旗底につける紋も、鎌倉時代の北条と同じものを利用しようということでした。。
苗字と紋を使い始めたのは、2代目氏綱の時でした。
北条氏政、何した人?
北条氏政は、1538年(戦国時代)に生まれた、相模国(現在の神奈川県)の戦国大名です。
3代目の北条氏康(ほうじょううじやす)の次男として生まれ、後北条氏の4代目です。
息子・氏直が5代目です。
後北条家は5代で滅びます。
しかし5代目が悪いのではなく、4代目、北条氏政のとった道が、北条家を滅亡へと導いた体のです。
北条氏政は「小田原評定」(おだわらひょうじょう)の名を広めた人物です。
それは決して、良い意味の評定ではありません
なかなか結論が出ない会議の代名詞になりました。不名誉なことですね。
小田原評定だけでなく、北条氏政には、不名誉なイメージに結びつくエピソードがあります。
ですが、今日の研究では、それが必ずしも悪いことではない、ということが徐々に明かされつつあります。
それでもずっと「無能」のレッテルを貼られ続ける、残念な戦国武将ですね。
汁かけご飯のエピソード、実はウソ?
北条氏政は、無能が無能と言われるエピソードの一つに次のような話があります。
それが「汁かけご飯」です。
ある朝の北条氏政の朝食で、北条氏政は自分のご飯に、汁をかけました。味噌汁ですね。
麦飯に汁物ををかけて食べるのは、当時の食事として珍しいことではありません。
その時、北条氏政は、汁を一回かけてからもう一回かけました。
それををみた父の氏康は「毎朝、やっていることなのに、ご飯にかける汁の適量を測れないのか。こんな者が支配するなら、国はお終いだな」と嘆きました。
支配者として、ちょうどいい塩梅が測れない、と息子の無能さを嘆いた、ということでした。
エピソードとは言いますが、この話は実話ではありません。
この話は、江戸時代(1656年)に書かれた草子本『武者物語』に出てきます。
これは1国を、滅亡に追い込んだ、領主を「無能」に仕立てる意味がありました。
江戸時代は、領主たるもの何としても国を守ることが美徳だったこと、また、徳川の偉大さを象徴づけるという意味もあったと私は見ています。
北条氏政、「麦」のエピソード
「麦」の話も北条氏政を、無能とみなす話で、武田の「甲陽軍鑑」に書かれています。
北条氏政は、農民が麦を収穫するところを見学していました。
昼時になったので、北条氏政は「それでは今取れたての麦で昼食にしよう」と言いました。
麦は収穫されて後、いくつかの過程を経てやっと食べられるものになる、ということを知らない北条氏政を馬鹿にした話です。
しかしそうは言っても、坊ちゃん育ちの若様に、「麦が食べられるようになるまで〜」なんて手順、わからなくても仕方がないのでは?と思うのですが。
よほど武田氏は、北条氏政を馬鹿にしたかったのか・・その悪意を感じます。
北条氏政、小田原評定(おだわらひょうじょう)を開く
結果が出ない会議のことを「小田原評定」などと言われています。
小田原評定で、北条氏政が無能と思われる理由
北条家が小田原城を攻められた時、北条家の重臣たちが今後の方針を決める会議だったのですが、長引く割に結論が出てこない、そんな会議になってしまいました。
そのため、ダラダラした終わりのない会議の代名詞のように「小田原評定」という言葉が使われています。
しかし「小田原評定」とは、後北条氏では、月に2回行われる重臣たちの定例会議でした。
評定の制度は後北条家 5代にわたって続けられました。
それだけ、後北条家の家臣、親族に裏切り者がほとんどいなかったから続いた制度なのです。
評定を「ひょうじょう」と読むのは、「評価、査定」という意味ではなく、「相談」の意味があるからです。
小田原評定と知られるものは二つあります。
確認できる内容は1840年代の「改正三河後風土記」に書かれています。
- 1590年1月、籠城か、出撃かの論争
- 1590年6月、降伏か、決戦かの論争
1回めの評定は、いつまでも結論が出ないため、攻撃のきっかけがつかめず、籠城となりました。
2回目は、意見が割れて、北条氏政は決戦。息子の氏直は降伏と意見が合わないまま、氏直がさっさと降伏をしてしまいました。
どちらも意見がまとまらないまま動いてしまったので、北条家として統制が取れず結局敗北に終わったのです。
小田原評定、北条氏政に肯定的な理由?
この会議の良い点は、合議制のところです。
国の運営を家臣からの知恵を出し合い、意見を聞きある、これは民主主義の原点が息づいています。
決して領主の独裁制が生まれない、という長所があります。
しかし何よりも力がものをいう戦国時代では、どうしてもこの会議のあり方は時期尚早だったのでは、と私は見ています。
北条氏政、イケメンだった?
北条氏政はイケメンだったと言われています。
肖像画がとてもカッコいいからです。
小田原城天守閣に肖像画の模写がありますが、本物は北条家の菩提寺・早雲寺に、北条家の5代の当主全ての肖像画があります。
そういう肖像画は大体、美化して書かれていることが多いので、必ずしも本人の正確な姿を写しているとはいえないかもしれません。
しかし、肖像画から見える人物は、キリッとした顔立ちで、どこか育ちの良さを感じさせます。
汁かけごはんの話も、麦飯の話も、のほほんとした坊ちゃん育ちをどことなく感じさせて、憎めないところがあると私は感じています。
北条氏政、小田原城を過信しすぎ
北条氏の居城は小田原城ですが、北条氏康の時代に城壁が完成し、上杉謙信や武田信玄の攻撃にも耐えたほど頑丈な城でした。
北条氏政は、この城があればあ、豊臣方に敗れることはない、という謎の自信を持っていました。
豊臣秀吉は九州を平定し、あとは関東と東北を残すのみ。
秀吉は北条氏に服従を求めましたが、氏政と息子の氏直は京都に来ようとしませんでした。
さらに、北条氏と真田氏が領地争いをしていた沼田城・名胡桃城の問題で、北条氏の家臣が名胡桃城を奪い取ってしまいます。
これに激怒した秀吉は、北条氏討伐を決意しました。
北条氏の兵力は8万、対する秀吉軍は22万という大軍でした。
まず箱根の山中城が1日で落とされ、ここで北条方の見通しの甘さが露呈します。
1590年4月、小田原城包囲戦が始まりました。
城は頑丈でなかなか落ちませんでしたが、秀吉は心理戦を仕掛けます。戦死した兵の首をさらしたり、宴会の声をわざと聞かせたりしました。
さらに、小田原城を見下ろす位置にわずか3ヶ月弱で石垣山城、いわゆる「一夜城」を完成させます。これに北条方は動揺しました。
最終的に、1590年7月、息子の氏直が降伏を申し出て、北条五代の支配は終わりを告げました。
北条氏政の最期
小田原城が落ちた後は、城主・北条氏政は、その責任をとって、秀吉から処罰されることとなります。
北条氏政、切腹の日
1580年、小田原城明け渡しの後、7月11日、小田原城で切腹を命じられました。
弟、北条氏照(ほうじょううじてる)と共に自害しました。
実は、切腹を願い出たのは、氏政の息子の北条氏直でした。
氏直は、自分が切腹する代わりに臣下たちの命を助けてくれ、と願い出ますが、聞き入れられずに、北条氏政の切腹が命じられました。
北条家降伏の、仲立ちをしたのは徳川家康でした。
家康の娘は北条氏直と結婚しており、北条・徳川家は婚姻による縁戚となっていました。
北条家が、豊臣秀吉に楯突いたのだから、その責めを負わなければならない。
しかし、氏直に切腹を止めたのは、秀吉は、氏直の舅 徳川家康に忖度したからでした。
代わりに父親の北条氏政に切腹となったのです。
北条氏政、氏照兄弟の切腹の介錯をしたのは、もう一人の弟、氏規(うじのり)でした。
生き残った氏直は、後北条家5代目にして、最後の当主になります。
北条氏政、切腹の理由
北条氏政は切腹させられる必要があったのでしょうか?
蟄居と言って、どこかに幽閉だってよかったはずです。
実際、5代目当主、北条氏直は1580年7月12日(北条氏政、切腹の翌日)、高野山での謹慎生活が命じられました。
父親・北条氏政だって、幽閉となってもいいはず・・・
しかし、小田原城征伐の時期は、まだ豊臣へ服従する大名たちの行動が不明だったからです。
表向きは秀吉に味方する、とは言ってもその心の裏まで計り知れませんでした。
ですから、真剣に秀吉に服従していない大名たちに対する、見せしめの意味がありました。
そんな秀吉の思惑の犠牲になった、と思える人物が、北条氏政でした。
北条氏政はさらし首に!
単に切腹だけでは終わりませんでした。
切腹の後、その首は切り落とされ、京都に送られます。
そして、秀吉の居城・聚楽第(じゅらくだい)の門前の橋・一条戻橋で、首はさらされました。
さらし首になった記録は、当時の「兼見卿記」などに記述が見られます。
一条戻橋は、古来不思議な話がつきまとう場所です。
そんな場所にさらし首をした、というのは縁起が悪そうな話ですが。
秀吉の時代になると、人の往来も多く、しかも聚楽第の目の前なので、むしろ、反逆者を人々に見せ示にすることが何よりも大切になってきていたのでしょうね。
豊臣兄弟、北条氏政のキャストは?
「豊臣兄弟」の北条氏政は、谷原章介です。
これを見ると、北条氏政・イケメン、という史実は本当にありそうな気がしてきますね。
今回の、北条氏政はこれまでのような無能なイメージからはかけ離れています。
NHKの公式では
豊臣兄弟2人の、天下統一に向かう途中の最後の障害、いわゆるラスボスとして登場します。
かなりの切れ物のような感じがします。
谷原章介さん自身も、以下のようにコメントしています。
「従来の暗君像ではなく、戦国時代を生きた一人の武将として演じ切りたい」
まとめ
北条氏政は「無能な領主」と言われてきましたが、実は違う見方もあります。
汁かけご飯や麦のエピソードは武田氏の書物による悪口で、実話ではありません。
氏政は農民思いで、飢饉には税を免除していました。
小田原評定も本来は月2回の話し合いの制度でした。小田原城が落ちた後、氏政は責任を取って切腹し、首はさらされました。
戦は下手でも、無能とは言い切れない武将だったのです。

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