大谷吉継(おおたによしつぐ)は豊臣秀吉の家臣で、戦国武将です。
関ヶ原の戦いで負けた武将ですが、今でも人気があり、ゲームに登場します。
ハンセン病という不治の病にかかりながらも、懸命に生きた姿が人気を呼ぶのでしょうか?
石田三成との友情は、感動ものです。
そんな大谷吉継は、歴女たちの胸アツの歴史上人物です。
どんな性格の人物だったのでしょう?
しかし辻斬りの噂があり、その事件の真相はどうだったのでしょうか?
ここでは大谷吉継のかっこよさについて、探ってみようと思います。
大谷吉継、かっこいい
大谷吉継は、今日でも非常に人気がある戦国武将です。
ゲームの世界でも、大活躍の武将です。
その強さ、かっこよさが人気の秘密ですが、ではなぜかっこいいのでしょう?
それは大谷吉継の生き様が、人々の心を打つからです。
しかしついに決意したのです。
何があっても、友と一緒に歩もうと。
石田三成が、嫌われ者であっても、自分は三成を友と決めた。
家康が勝つ、確率が高くても、家康の方が天下取りに向いているとしても、自分だけは石田三成に味方する!
自分のためには、簡単に敵に寝返る戦国時代だからこそ、負けと知って、友を選んだ大谷吉継の姿が今でも人々の心を打ち、かっこいいのです。
大谷吉継の強さ
大谷吉継の強さを、見せつけることになったのは賤が岳の戦いで、敵方の武将を味方に引き入れていたからです。
豊臣秀吉の言葉によると「100万の軍勢を自由に指揮させてみたい」とあります。
この言葉は、大谷吉継が非常に有能な武将だと示しています。
親友の石田三成と同じ文官派でしたが、大谷吉継の場合は、武の方も優れていました。
言ってみれば文武両刀です。
関ヶ原の戦いでは、裏切った1500名の小早川軍が攻めてきた時、自分の兵600名だけで迎撃して、押し返します。
前述の、「賤が岳の戦い」の準備も性格でした。
1586年〜87年、九州平定では石田三成と共に、兵糧奉行に任ぜられました。
その時は兵糧米、軍馬やその飼料の調達を手掛けていましたが、運送などの手配もこなし、ノーミスで処理しています。
この処理能力はスゴイ!
大谷吉継、病気におかされた武将
大谷吉継(おおたによしつぐ)は、豊臣秀吉の信頼も厚く、功績を上げた武将でしたが、それよりもむしろ病気の方で、後世では有名になってしまいました。
ハンセン病か?
以下の症状から
- 四肢の動きが不自由になる。歩くにも不自由を感じる
- 目が悪くなる
- 皮膚に炎症が起きる。
- 皮膚の炎症から、肌が崩れてくる。隠すために頭巾をかぶる
ハンセン病の可能性が高い、とみられています。
ハンセン病のことを、当時は癩病(らい病)と呼んでしまいた。
らい病という名称は、鎌倉時代から用いられていた言葉でしたが、どこの文書にも「癩病」という文字が見当たりません
似たような症状が出る、他の病気も考えられます。
鼻が崩れる、などの症状は梅毒の可能性もあります。
が、病気を特定する、手がかりは今日残されていません。
ハンセン病だったとしたら、当時の差別はひどいものであったでしょう。
今でこそ、ハンセン病は感染力が非常に弱い病気で、投薬で治すことが可能です。
しかし、当時では、見た目から忌み嫌われ、業病などと呼ばれる始末でした。
「業病」というのは、前世に悪業を犯したから、その罰として生まれ変わっても罪の印であるような病気に悩まされることになる、という病気です。
名のある武将だったから、他の武将たちは表向きは、取り繕って付き合っていたのでしょうか?
いつから、病魔に侵された?
おそらく1586年よりは前、と思われます。
1586年に、大谷吉継が犯人と疑われる事件があったからです。(「大谷吉継が辻斬りとは?」)
その事件は病気に関係あり、と思われていました。
大谷吉継の生年は1559年〜1565年の間、とされていますので、早ければ10代後半、数なくても20代になるまでに発病していたのではないでしょうか?
となると、大河ドラマ「真田丸」で、大谷吉継が顔を隠さないまま、出ていたのは時系列的に合わないと思いますが・・・
「真田丸」では、大谷吉継役が、片岡愛之助だったから、あえて頭巾を被せなかったのかもしれませんね。
それなら、自害した関ヶ原の戦い(1600年)の時点では、40歳前後。
人生の約半分を、病気で過ごしたことになります。
一生の間、自分の肉体が崩れる様子を見ながら生きていかなければならないのは、想像を絶する苦しみだったでしょう。
大谷吉継が辻斬りとは?
大谷吉継に、辻斬りの疑いがかかりました。
事件は、1586年(天正14年)2月、大坂でのことです。
千人斬りという辻斬り騒動が起こりました。
毎晩、人夫が殺されていたのです。
なぜ、大谷吉継の名前が上がったかというと、皮膚がひどいあばたになる病気には、人の血千人分を舐めれば治る、という言い伝えがあったからでした。
ちょうど、大谷義継に病気が人に知られるようになった頃・・・
その犯人は、大谷吉継か・・・という噂が流れたのでした。
その辻斬り・・・・犯人は見つかっていません。
大谷吉継説は、いつの間にか消えてなくなりました。
それでも、病気一つで、こんな風評が立ってしまうのは恐ろしいです。
秀吉はその噂を信じないで、これまでと同じように、大谷吉継に接しつづけました。
大谷吉継の生い立ち
生い立ち、大谷吉継の生まれですが。
母については、わかっています。
母は東殿という人で、豊臣秀吉の正室 ねね の侍女でした。
「校合雑記」や「兼見卿記」に、記されていました。
父と言われている人は、大谷吉房(おおたによしふさ)と言われています。
また大友家の家臣、大谷盛治ではないか、と言われていましたが、大友氏には大谷という家臣はいない、ということでした。
そこで、六角氏の家臣、大谷吉房が父なのではないかという説が有力です。
しかし本当の父親は秀吉ではないとも言われています。
大谷吉継が秀吉の元で大出世をしたことか他でた話です。
また、他人に嫌われる病気にかかっても気にかけたりしていたから、ますます父親の噂がでます。
そのほかの説では、浄土真宗の座主、大谷家の家系がそうだ、と言っています。
昔は出生届がなかったので、名家の子息でもない者が突然、能力が高い武士として登場すると、さまざまな憶測が出てきます。
それもたいていは、名のあるところの出身にさせられてしまっています。
大谷吉継と石田三成の関係
小姓から秀吉家臣に・・・三成の口利き?
小姓になったのは、石田三成の口利きがあった、という話も残ってはいますが・・・大谷吉継の方が石田三成より一歳年上だった、ということですので、そのきっかけが謎です。
その時、石田三成は15歳であった、ということです。
そして、秀吉に紹介しました。
三成は、大谷吉継の中に、有能さを見出していた、ということです。
どちらの人物もスゴイ!
最初に、大谷吉継を見出しのた、石田三成。
石田三成なくして、大谷吉継の今日はありません。
嫌われ者、石田三成への加勢
自分の病気を知りつつも、茶会で機転を聞かせて救ってくれたのも、石田三成。
ただし、秀吉亡き後の世の中を平定できる人物を考えると・・・豊臣秀頼ではとても務まらない。
ここで、大谷吉継は、心の葛藤に苛まされます。
自分の信じる道をいくか、友を見捨てないか・・・
しかしついに決意したのです。
何があっても、友と一緒に歩もうと。
石田三成が、嫌われ者であっても、自分は三成を友と決めた。
家康が勝つ、確率が高くても、家康の方が天下取りに向いているとしても、自分だけは石田三成に味方する!
自分のためには、簡単に敵に寝返る戦国時代だからこそ、負けと知って、友を選んだ大谷吉継の姿が今でも人々の心を打つのです。
大谷義継、茶会の話とは
豊臣秀吉は、1587年大坂城で茶会を開きます。
この茶会には、豊臣の武将が大勢、招待され、大谷吉継も招かれていました。
この茶会のやり方は、秀吉が茶碗にたてた茶を回し飲みするものでした。
すでに発病していた大谷吉継が口をつけた茶碗を、参加者は感染を恐れて嫌がりました。
それに、緊張した大谷吉継は、茶碗の中に、膿を、いや、鼻汁か・・・を落としてしましました。
言ってみれば病人の体液?
次に続く人たちは、飲んだふりだけしました。
吉継の何人か後に、石田三成がいました。
三成は自分の番が来ると、お茶を一気にゴクゴクを飲み干したのです。
「あまりにも待ったので喉が乾いてしまった。それに太閤天下が入れてくださったお茶が、あまりにも美味しくて・・・」と言って。
自分の病気を知っても、全く気にしない石田三成に、大谷吉継は感動し、この人物となら信頼できる、と思ったのでした。
お茶会の事件が、関ヶ原の戦いの時に、石田三成に味方するきっかけになったのです。
なお、別の説では、諸武将が大谷吉継の後に、お茶を飲みたがらないのを見て、秀吉が茶碗を取って飲んだ、とあります。
大谷吉継という人物
大谷吉継は、豊臣秀吉に小姓として仕えるところからキャリアをスタートさせました。
これは、石田三成と一緒ですが、大谷吉継の場合は、いつからかははっきりしていません。
大谷吉継の生まれからして、記録が残っていないからです。
成長するにつれ、武士としての戦績をあげ、秀吉の信頼を勝ち取ります。
何より、大谷吉継を有名にしたのは、1583年「賤が岳の戦い」で、石田三成と共に、本体に先駆けて攻撃をかけました。
賤が岳の戦いでは、豊臣軍5万の兵糧を用意する必要がありました。
兵糧は、兵士がどのくらいの時間をかけて、相手を攻め落とすか、も計算に入れなければなりません。
戦争の行方は、なかなか予想がつかないもの。
それを大谷吉継は、ほぼ、1ヶ月半と予想を出しました。
その分の兵糧を用意したところ、本当に1ヶ月半以下でケリがつきました。
ここからわかることは、大谷吉継は、先を見通すのが得意、ということです。
越前敦賀(えちぜんつるが)の大名になりました。
賤が岳の戦いでの働きぶりが認められ、大谷吉継は、刑部少将(ぎょうぶしょうしょう)の位をもらいました。
時折記録に現れる、大谷刑部という呼び名は、ここからきています。
先を見通して動く、これは石田三成の才能の一つでもありましたが、大谷吉継の先見の名は石田三成も、一目置くほどでした。
秀吉の臣下の中では、文官派です。
大谷義継の性格
大谷吉継が登場する書物によると、義理に厚く、知力に優れ、武功もあげた有能な人物でした。
どちらかというと、力で解決する武闘派ではなく、自分の好みは文官であることの方でした。
軍師としての役割を果たすとしたら、有能な軍師になっていたかもしれません。
そんな意味で、石田三成とは気が合っていたのです。
ずっと石田三成についていたので、忠義心のあつい人物であることが、何よりも先に上がります。
それに自分の病気をわきまえながら活躍を続けたので、非常に我慢強い性格だったと思います。
大谷吉継、小早川秀秋を恨んだ?
大谷吉継は、小早川秀秋を恨んでいる、と言われています。
というのも、小早川秀秋は、秀吉の正室「ねね」の甥で豊臣秀吉の養子になった人物です。
でうから、大谷吉継も石田三成も、当然関ヶ原の戦いで、豊臣がわ(石田三成)の味方になると思っていたのでしょう。
しかし関ヶ原の戦いが始まると同時に、徳川方に寝返ったのです。
寝返りがあって、西軍は追い詰められていきます。
小早川氏の裏切りで、西軍が窮地に陥ったと知った、大谷吉継は、「もはやこれまで」と思い自害をする時に「3年後に死ぬように呪ってやる」という言葉を残した、と物語は伝えています。
小早川秀秋は、実際に関ヶ原の2年後に急死しましたが、夢枕に立つ大谷吉継の亡霊に怯えなたら死んでいったという話が有名です。
しかし、実際は、関ヶ原後、飲酒に逃げ体調を崩すなど、アルコール依存症と思われる症状が出ていたことが書かれています。
ということは、小早川秀秋自身が西軍を裏切ったことで、罪悪感を感じ、酒を飲んで忘れなければならにほど苦しい胸の内だったのでしょう。
江戸時代後期から明治時代にかけて活躍した浮世絵師、月岡芳年(つきおかほうねん)は大谷吉継の亡霊に怯える小早川秀秋の浮世絵を描いています。
その絵大変不気味で、呪いは本当にあったのではないか、と思わせるほどです。
大谷吉継の愛刀
大谷吉継は、自分の愛刀と言われる刀が、複数あったと言われています。
包丁藤四郎
現存している刀は、「包丁藤四郎」(ほうちょうとうしろう)。
包丁とは面白い・・・と思うのですが、その名の通り、刀身が幅広く包丁に似ているため、「包丁」の名称がついています。
大谷吉継本人が、関ヶ原の戦いで自害に使った小刀と言います。
その刀を、東軍の兵士が奪い取り徳川家康に渡しました。
徳川家康は、大谷吉継という人物を惜しんだのでしょう。
その刀は、のちに尾張徳川家に、家康の形見として譲り渡されました。
徳川家が、大谷吉継を敵ながらアッパレ、と思っていたのですね。
だからこそ、「包丁藤四郎」が残されたわけです。
「包丁藤四郎」は「粟田口吉光」(あわたぐちよしみつ)という刀工の手による作品です。
主に短刀を作る刀鍛冶で、秀吉から名刀作りと言われていました。
鎌倉時代中期の刀工で、京都の粟田口に住んでいたので、「粟田口」と呼ばれました。
藤四郎というのは、通称です。
元は足利氏のものでしたが、大谷吉継の手に渡ったというわけです。
今では、名古屋の徳川美術館に展示されています。
敦賀正宗(つるがまさむね)
もう一つ名前が残っている刀があります。
それが「敦賀正宗」です。
しかし今では実存がわかりません。
敦賀正宗は、越前、敦賀城主出会ったことからつけられた名前です。
敦賀は後に、家康の息子、結城秀康(ゆうきひでやす)の監督下に置かれ、「敦賀正宗」は結城秀康のものとなりました。
その後は、敦賀藩は、徳川家によって潰されてしまい、その時から刀は島津藩のものとなりました。
しかし、昭和3年にオークションに「敦賀正宗」はかけられ、それ以降、行方不明です。
大谷吉継の家臣、五助とは
五助(ごすけ)とは、湯浅五助と言い大谷吉継の家臣、正式名は湯浅隆禎(ゆあさたかさだ)です。
大谷吉継の願いを受けた五助
大谷吉継の側近として、関ヶ原の戦いに参加しました。
戦況は小早川秀秋の裏切りもあり、西軍の敗北確実です。
大谷吉継も、もう勝ち目なし、と思い自害を決めました。
関ヶ原の戦いで自害した、武将は大谷吉継ただ一人。
そこで、側近の五助に、自分は自害するから、首は人目につかないところに埋めてくれ、と頼みました。
病で、崩れた顔を晒したくなかったのです。
いえ、醜さのためだけではありません。
当時、ハンセン病は「前世の報い」と言われ、自分自身の生まれにも関わってくる不名誉なこととして捉えられていたので、病気に罹患したことを恥じていた、からです。
これは大谷義継最後の願い、絶対に叶えてもらいたい願いだったのです。
五助、太田伊吉継の首を打つ!
五助は、その通りにしましたが、埋めた時に、東軍の武将 藤堂高刑(とうどうたかのり)に見つかってしまいました。
藤堂高刑の目に、湯浅五助の動きは怪しく映ります。
湯浅五助は、すでに大谷吉継の側近として知られていたのでしょう。
そうでないと、こんなところで尋問したりしません。
湯浅五助自身がきっと、なの知れた武将だったのでしょう。
どんない激しく、尋問しても五助は、自分の主君の首を埋めたことを言いません。
それでも問い詰められた、湯浅五助は、「私の首をどうぞお取りください、その代わりにこの場所のことは絶対に秘密にしてほしい」と、藤堂高刑に頼みました。
藤堂高刑はその通りにしたのです。
五助の首に価値があるということで、やはり五助は雑兵なんかではありませんでした。
家康の行動
藤堂高刑は、藤堂高虎の甥でした。
藤堂高虎は元は豊臣にいたのですが、家康側につきました。
家康は、藤堂高刑は、絶対に大谷吉継の首を埋めた場所を知っている、とみました。
そして、藤堂高刑に、「どこだ」と何度も聞いたのですが、絶対に言いませんでした。
それどころか、「五助と他言しないことを約束しました。それが首を取る条件です。ですから、これ以上聞かれるというのならば、どうぞ私めを処分ください」として言いません。
約束を守る男、武士の情けを知る者、として家康は深く感動して、藤堂高刑に。槍を刀を褒美として与えた、ということが伝えられています。
大谷吉継は徳川家康を嫌いではなかった!
大谷吉継は家康をどう見ていた?
大谷吉継は、家康はと親交を築いていました。
秀吉の死後、大谷吉継は、徳川家康の人物に天下人の才能を見出していたのです。
大谷吉継の見立てでは、豊臣秀頼では、日本国を治めるのは無理、家康のような人物でないと・・・・と考えていました。
徳川家康と前田利家(まえだとしいえ)との仲が悪くなると、家康を警護する役割も果たしています。
大谷吉継は徳川家康の能力を正当に認めていました。
自分の政治見解に従えば、徳川家康に味方するのがいいのだろうけれど、心理面では、親友である石田三成に心が傾く、という状態でした。
徳川家康は大谷吉継をどう見ていたか?
大谷吉継は、対局を見極める目、つまり先を見通す目を持っていました。
関ヶ原の合戦の前に起こった、西軍方の宇喜田(うきた)家の内紛ですが、なかなか決着がつかなくて、家康が調停に入ったところで、反乱を起こした側が静かになったのです。
これは、最初から家康が仕組んだこと、と大谷吉継はわかってしまいました。
見抜かれた家康は、気持ち良いものではありません。
「吉継・・・食えないやつ・・・」と家康は思っていたのでしょう。
家康は大谷吉継を敵に回したくない、と思っていました。
他に徳川に寝返ったた武将たち、加藤清正や福島正則のように、石田三成からの扱い方に不満を持って寝返っただけの人物では、なさそうだったからです。
ですから、いよいよ関ヶ原となって、大谷吉継が石田三成に味方する、と知った時家康は、愕然となったそうです。
大谷吉継の首塚
大谷吉継の首塚は京都府米原市にあるということです。
大谷吉継、は関ヶ原で切腹し、臣下の湯浅五助に自分の首を地中深く埋めさせました。
五助は、その場所を絶対に言いませんでしたし、五助を討った藤堂高刑も、その場所を言いませんでした。
ですから、首塚は本来わからないはずなのですが、別な言い伝えもあるのです。
五助は部下の三浦三太夫に渡し、それを吉継の甥で僧になっている祐玄に大谷吉継の首を持たせて脱出させたという話です。
祐玄は米原に首塚を作りました。
今でも、田んぼの真ん中に立っていて、参拝が可能です。
大谷吉継の墓は、藤堂高虎が建てた、ということです。
というのも藤堂高虎の甥、藤堂高刑が湯浅五助の首をとったという縁、そして敵ながらアッパレ、と思ったからなのでしょう。
場所は、岐阜県関ヶ原町にあります。
湯浅五助の墓も隣に建てられています。
大谷吉継の子孫
現存しています。愛知県にいるそうです。
大谷吉継から数えて16代目となっています。
でも直系ではないようです。
大谷吉継には、義治(よしはる)という息子がいて、関ヶ原の戦いの後では浪人になるも、その後は大坂夏の陣で戦死しました。
義治の子供たちは、武士のみを離れたものの(農民になったいいます)、その子供たちは死亡し、養子をもらいました。
その家から出た子孫でしょうか?または他の系統からでた子孫でしょうか?会津藩に入り、幕末の戦争、会津戦争で、白虎隊に入り自刀した、という人物もいます。
白虎隊で死んだ者の家には、吉継の甲冑が伝来していると言われています。
大谷吉継の娘は、真田信之(のちの幸村)のもとに嫁に行った、と言われていますが。こちらには裏付ける資料がありません。
直系でないにしても、わずかでも血を引いた子孫が残っているということは、それだけで長い歴史を感じることができ、昔の時代に触れた気になって、嬉しくなります。
コメント