徳川秀忠、何をした人 武家諸法度と貿易の令 性格は?家康はどう見た?豊臣秀頼との違い?死因 結婚は 名前の由来

徳川家2代目将軍 徳川秀忠(とくがわひでただ)、その存在は地味です。

家康に比べ華々しさが見られません。

ですが、徳川幕府はこの秀忠がいたからこそ260年も続いた、と言ってもいいでしょう。

真面目な人物像ですが、その真面目さが好き、という歴史作家もいるほどです。

では、どんな人物だったのか、どういうところが実直で、どうして将軍として成功したのかその秘密を探っていきましょう。

徳川秀忠、何をした人

徳川家康は、江戸幕府を開いた人、徳川家光は徳川幕府の職務や、職権を確定した人。

という具合に、初代と3代目が有名で、行動も華々しく、2代目将軍 徳川秀忠は霞んでいます。

1600年の関ヶ原の戦いには間に合わない、大坂の陣では活躍できないし・・・といいとこなしの、2代目将軍に見えますが・・・

征夷大将軍には、1605年に就任しますが、しばらくは父、家康と共に幕府の政治にあたります。

1616年、家康が死んでのちは一人で政権をとりますが、ここからリーダーシップを発揮します。

家康の時代から考えられてきた、政策を形作り、秩序付けしていきました。

秀忠も、1623年に息子、家光に将軍職を譲り、家康の時と同じように「大御所」と名乗り、家光を補佐して、幕府が盤石なものになるよう力を尽くしました。

1603年に始まった徳川幕府が、1867年まで、260余年、続いたのは秀忠の奮闘努力があったからこそなのです。

下記に、どのような制度を整えていったのか説明しましょう。

徳川秀忠、武家諸法度を整える

武家諸法度(ぶけしょはっと)の構想は家康の時からありました。

大まかな構成を作ったのは徳川家康なのですが、公的に発布したのは徳川秀忠でした。

この法令は、大坂の陣の終わった翌年、1616年に公表されました。

定めた内容は、武士が守べき、身分、身分による行動、それも幕府と大名の違い、治安のための規定、儀式の手順や儀礼、ドレスコードを定めたものでした。

また一人の大名は一つの国しか持ってはいけない、ともありました。

武家諸法度に違反したものには処罰が与えられます。

福島正則(ふくしままさのり)は、1619年、台風で壊れた自国の城の石垣を、徳川幕府に正式に届けないで修理をしたために、石高を没収され、国替えまでさせられてしまいました。

福島正則は、特に豊臣家の家臣から徳川家に乗り換えた人物でしたので、『自分が徳川に来たから、徳川は勝利できた』という驕りがあったのかもしれません。

それと同時に、徳川の方からも、豊臣家を捨てて来た武将として、信頼度が今ひとつで、マークされていました。

同時に、天皇や公家の権限を決めた「禁中ならびに公家諸法度」という規則も定めました。

こうして江戸幕府は大名だけでなく、天皇や公家、寺社に対してもにらみをきかせる力を持ったことになります。

徳川秀忠、貿易を制限

徳川秀忠は、キリシタンを徹底的に禁止しました。

キリシタンの入国を固く禁じる政策、それが1613年の禁教令、ついで1614年キリシタン国外追放令を出しました。

キリシタン入国禁止となると、海外からの船が日本に入ることも規制されます。

戦国時代までは、各大名が外国と取引をすることも多く、それで大名たちは財力を蓄えることができたからです。

徳川幕府の狙いの一つは、各大名の力を削ぎ、幕府への忠誠を誓わせることでした。

この頃から海外貿易は、オランダと中国だけとなり、扱う港も長崎となりました。

鎖国となるのは、1639年 三代将軍 家光の時代です。

日本が恐れたのは、日本がキリスト教国の属国となることでした。

1500年後半〜1600年代にかけて、ヨーロッパ列強のキリスト教国は、世界中に布教し領土を広げようと必死でした。

ヨーロッパでカトリックと対立するプロテスタントが出現し、カトリックの属国を増やしていかなければならない事情があったのでした。

その結果、インカ文明は滅び、東南アジアの侵略など、のちに紛争を起こす原因となりました。

日本はその実態を知らなかったかもしれませんが、戦国のキリシタン大名などを目にして、キリスト教に恐怖を感じつつあったのだと思います。

徳川秀忠の性格

かなり真面目な性格ということです。

側室を持つのも、正室にこっそりと・・なんて気が小さい?というか正室の気が強すぎるのです。

当時の秀忠の性格を描いた資料によると、家康のいうことをなんでも、「はい はい」と聞いていた様子です。

そこから推測する我々は秀忠を無能な人間呼ばわりするのですが、実際はどうだったのでしょう?

実直であるため徳川家康の、柔軟に考える「タヌキ親父」的な要素が見られません。

秀忠は真面目すぎたために、妥協を許しません。

悪く言えば杓子定規ですが、代わりに情に流されないという長所があります。

そのために、徳川家の支配体制が整った、と言っていいでしょう。

なにしろ、秀忠が一人で政権を取るようになって、40家ほどの大名家がお取り潰しとなったのです。

武家諸法度に基づいて、一刀両断に切り捨てた感じです。

よく武家の反乱が起こらなかったもの、と思いますが、そこをおさめたのが秀忠の手腕でした。

もう、徳川家に逆らうことは、お家取り潰しになる、と諸大名も悟ったのでしょう。

徳川秀忠と豊臣秀頼

徳川秀忠も豊臣秀頼も、天下をとった大物人物の息子です。

この際、秀頼の父親は・・・などどいうのはまずやめにして・・・

豊臣秀頼は戦いに負け自害、という運命をたどりました。

一方徳川秀忠は、家康の跡を継ぎ、2代目将軍として成長しました。

ですが豊臣秀頼の方が、「賢い人物」としての評価が高かったです。

例えば、1611年、京都の二条城での徳川家康との会見の時・・・

秀頼が、家康の方を上座を譲ったこと、など、聡明が若君として「徳川実紀」に書かれています。

同じく「徳川実紀」には、徳川秀忠には武将としての才はない、などと書かれており、豊臣秀頼の方が立派な人物と見られるところがあります。

しかし、二人の何よりも大きな違いは、秀忠の父、徳川家康は長生きしたことです。

秀頼には自分を成長させてくれる父、あるいは養育者がいなかったのです。

仮に、石田三成が生きていれば、良い指導者になったと思われますが、秀忠がほんの幼い頃、関ヶ原の戦いで攻めを負い処刑されました。

あとは、淀殿という女親・・・女性は確かに養育するには大切な存在ですが、立派な武将あるいは大将に育て上げるには、何かが足りない。

徳川家康なども良い育て親になるかもしれませんが、家康にとっては徳川家の方がはるかに大事。

後に残ったのは、秀頼様を大事にするものばかり。

その中で、秀頼はよく甘ったれにもならず、風格ある態度を見せられる人物に成長したものだ、と感心させられます。

それに秀吉の息子、ということで豊臣を大事に思う家臣たちからはやはりカリスマ的に見られていたところもあります。

最終的には、世の中の流れは強さをどんどん増し、人の心をつかむことに長けてきた徳川家に人々の心は移りつつあったということ。

家康が、後継者に一生懸命に仕込んだ秀忠・・・徳川方に勝利の女神が微笑んだのです。

徳川秀忠の死因

徳川秀忠が亡くなったのは、1632年3月14日、享年52歳(満)でした。

死因は、胃がんか、寄生虫による病気かのどちらかと言われています。

なくなる前年から、秀忠は胸の痛みを訴えるようになりました。

医師の診察も受け、投薬も受けていたのですが、治らずそのまま帰らぬ人となりました。

しかし、後世、狭心症だったのではという疑いが出てきています。

確かに、胸が痛い・・・というと考えられる病気は、心臓系の病気ですね。

当時の医者の見立てでは、寄生虫が体のあちこちを蝕んでいるための痛み、ということでした。

それに17世紀では、心臓だと分かっていても、どのような治療をしたらいいか、発見されていなかったでしょう。

その痛みが、寄生虫にすり替えられていたのでしょうか?

それに秀忠は寄生虫を持っていたこともありました。

薬を飲むことから、寄生虫が体外に排出された、という記録もあります。

そこでますます、寄生虫説が、死因として挙げられたのでしょうか?

徳川秀忠の遺体

葬儀は芝の増上寺で行われ、その儀式も質素なものでした。

これは秀忠本人の遺言で、「倹約すること」とあったからです。

墓も増上寺にあったのですが、1945年の東京大空襲で、焼け落ちてしまいました。

が、墓のあった場所はそのままだったので、1950年代後半に、改葬に合わせて遺体の調査が行われました。

棺は座棺のようで東向きに座るように葬られていたらしいです。

棺の蓋は朽ちていて遺体の保存状態は悪く、変色した衣服と骨しか確認できませんでした。

徳川秀忠、家康はどう見ていた?

関ヶ原の戦いに遅刻した、秀忠は、後世まで言われ続けることになるのですが・・・

家康は秀忠を本当に不甲斐ない・・・と見ていたのでしょうか?

家康は、実は、関ヶ原に向かう秀忠の部下の一人として、秀忠の兄、結城秀康をつけたのです。

これは大事なことです。

意味することは、家康は、秀忠を自分の後継者にすることを決めていたということです。

では家康は、息子秀忠をどう見ていたかというと、「律儀すぎる」ということです。

実際に、本田正信にそのように伝えていました。

秀忠にはあまりハッタリをいうようなことはなく、だからこそ「実直」と言われたのでしょう。

しかし、家康は息子 秀忠を頼りないと思う反面、自分にはない一面も見ていました。

最も父親が自分の息子を頼りない、と思うのは世の常ですが。

それは「実直」であるがゆえに、物事を真面目に情に流されないで処理していく能力があったのです。

父 家康は気がついていた、いや自分にないものを見たに違いありません。

だからこそ、自分は征夷大将軍を2年だけ務め、息子にその地位を譲り、徳川政権を揺るぎないものにしようと、息子を育て上げたのです。

徳川秀忠の結婚

秀忠、最初の婚約

徳川秀忠の結婚、というと、浅井三姉妹の末娘、江姫(ごうひめ)との結婚が頭に浮ぶと思います。

しかし、その前に一度、婚約していました。

相手は織田信長の孫、小姫。

姫の父は、織田信雄(のぶかつ)、小姫は豊臣秀吉の養女になっていました。

秀吉はたくさん、養子を迎え自分の勢力を広げていました。

なお、小姫としか言われていないのですが、本当に「小」という名前だったのか、あるいは「妹」を表す「小」だったのか、その辺り伝えられていません。

秀忠も、豊臣家に養子待遇で迎えられており、元服を秀吉の元で済ませていました。

そこで、小姫との婚姻の約束をしました。

祝言まであげた、という説もあります。

しかし、その後、織田信雄と秀吉の仲が悪くなり、さらに 小姫が病死してしまったため、この結婚はダメになりました。

秀忠は、秀吉から2回目の婚姻の話を持ちかけられまた。

それこそが、江姫です。

江姫は秀忠より6歳年上でした、と言っても秀忠17歳、江姫23歳、どちらも適齢期はあります。

秀忠は、過去に婚約経験あり、江姫は3度目の結婚・・・・戦国時代ならではの婚姻事情ですね。

6歳年上の分、江姫の方が先に亡くなりましたが、それでも大体は仲が良かったようです。

徳川秀忠と静

静(しず)とは、徳川秀忠の側室です。お静の方と呼ばれます。

側室と言っても正式に、迎えられる側室というわけではなく、秀忠の愛人扱い、というところです。

側室は正室(この場合、江姫)の許可がないと持つことはできず、秀忠はお静のことを妻に言い出せないでいました。

なにしろ、妻は織田信長の姪、妻の姉は大坂の淀殿。

江姫も、伯父(信長)譲りか、気が強い?

とある女性を、側室にしたい、と言ったら、・・・・どんな状態になるか・・・想像するに恐ろしい・・・が秀忠の心境だったのではないでしょうか?

お静の方は身分が低いようです。

かつての北条氏の家臣の娘だった、とも言われていますが、秀忠の乳母 大姥局の侍女です。

秀忠が乳母の元を訪れた際に出会い、惹かれたようです。

出会った時期は、秀吉の亡くなったあたりのようで、豊臣家滅亡の頃まで、仲が続いたと言います。

その間、江姫に子供も生まれ、秀忠は人生のうち大変ない時期を、お静の方と過ごしたわけです。

ひょっとしたらお静の方は癒し系だったのかもしれません。

お静の方との間に子供も生まれました。

お静の存在を知った、江姫は怒り狂い、お静の方、許すまじー、とばかりに追い回しました。

江姫の嫉妬を聞きつけた、家康と大姥局は、お静の子供を見性院(けんしょういん)に預けます。

見性院は、武田信玄の娘で穴山梅雪の妻、です。

それで、争いは治った、と言いますが、見性院は、江戸城の北の丸に住んでいた、というのですから、よく江姫にばれませんでしたね。

その息子が、保科正之(ほしなまさゆき)と言い、徳川家を支える人材となりました。

保科正之も、母 お静の方と同様、物静かな人物だったと言われています。

徳川秀忠の名前の由来

跡取りの名前、竹千代を与えられなかった

徳川秀忠は、徳川幕府2代目将軍です。

幼名は長丸(ちょうまる)といい、徳川家そしてその出身元の松平家の跡取りの名前、竹千代ではありません。

ただし、後継ぎと見られるようになってからは竹千代、と呼ばれましたが。

秀忠は三男だったのです。

家康の一番上の男子は、信康。彼は織田信長に武田との内通を疑われ、自害に追い込まれました。

次の男子は、結城秀康。家康の側室 お万の方が生んだ子ですが、家康が長い間、自分の子供と認知しませんでした。

お万の方を、家康の正室、築山殿が側室と認めなかったので、家康は遠慮していたからです。

秀忠も、お愛の方 別名 西郷の局という側室の子供だったのです。

しかし、その時には、家康と築山殿の間が疎遠になりつつあった時期で、それほど築山殿からの妨害を受けなかったので、家康の正式な子供であり後継ぎと認められていました。

そのような経過があったので、三男でありながら、後継となったのです。

名前の由来

国松は、元服し、秀忠と名乗りました。

名前の由来は、「秀」の字は秀吉から、そして「忠」の字は、徳川の前身「松平家」に代々の名前から来ました。

松平家の歴史を見てみると、家康の父の名前が、「広忠」(ひろただ)、広忠の祖父の名前が「信忠」(のぶただ)と、一代おきに「忠」の文字が使われています。

その慣習に習ったのでしょう。

ちなみに家康の「康」の文字も家康の祖父、「清康」からとっています。

しかし、名前の文字の引き継ぎも、ここで終わっています。

秀忠の次の将軍は「家光」ですから。

これ以来、徳川将軍の名前は、皆「家〜」となります。

名前を変えなかった将軍

秀忠は、元服してから、死ぬまでずっと「秀忠」のままでした。

例えば、父 徳川家康は若い頃、「元康」という名前でした。

これは、当時 今川義元(いまがわよしもと)のもとで保護され、しかも今川氏が親族にあたるための、命名です。

その後、今川氏は桶狭間の戦いに敗れ力を失い、家康も今川氏の保護を離れたため、「家康」と変えています。

自分の名前を出世魚のように変えていった家康の場合から見ると、秀忠は、決められたままいった人、という自主性のなさそうな人物に見えています。

が、しかし、そうではなく、世の中が変わり、秀吉からもらっと「字」をわざわざ変える必要ななくなった、ということです。

ちなみに、徳川の世に入ってからも秀吉から取った文字を変えていない武将は他にもいます。

秀忠の兄、結城秀康も秀吉からもらった名前「秀」を、毛利秀就(ひでなり、毛利輝元の息子)たちは徳川時代に入っても、改名せずに使っています。

徳川秀忠、関ヶ原の戦いに

1600年、関ヶ原の戦いに、秀忠が遅刻したのは有名な話です。

関ヶ原に行くために、家康は徳川軍を二手に分けました。

家康たちは、東海道を、そして秀忠の軍は中山道を行きました。

これは、災害などの事故で徳川軍が全滅するのを避けるためです。

中山道を行く秀忠の途中に、真田(さなだ)の居城上田城をかすめます。

これまで戦争の功績を上げていない秀忠は、ここで・・・と欲を出します。

しかし秀忠は真田の敵ではなかったのです。

百戦錬磨の、真田昌幸に叶うわけがなかったのです。

まんまと真田の罠にハマって、徳川は痛手を食らってしまいました。

上田城で日数を費やしてしまったので、家康からの書状を見ることに間に合わなったのです。

家康は、石田三成の動きが早いと見て、8月29日に、秀忠に出兵を急ぐように手紙を出しました。

その手紙は9月1日に軽井沢に到着していました。

本当だったら、秀忠も軽井沢に入っている頃です。

手紙には9月9日までには、美濃に入っているように、という内容でした。

しかし、9月9日には秀忠はまだ、信州小諸にいました。

慌てて、出発したのですが、関ヶ原に到着したのは9月20日・・・

関ヶ原の戦いは9月15日に決着がついていました。

秀忠の遅刻で、後世まで秀忠無能・・・と言われ続けることになりました。

 

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