ウィリアム・ウォレス実在の人物、最後は刑死で!アカデミー賞映画「ブレイブハート」から見る歴史

ウィリアム・ウォレスはスコットランドの英雄。実在の人物です。ではどんな人物だったのでしょう。時代はいつ?どんな英雄だったのでしょう。

映画「ブレイブハート」で一躍有名になった人物です。メル・ギブソンが演じた感動を誘う映画でした。映画の中では堂々たる英雄像が描き出されていました。

最後の刑死は涙を誘います。

アカデミー賞も多部門に渡って受賞した作品です。

映画「ブレイブハート」のあらすじを追いつつ歴史を辿ってみましょう。当時のスコットランドの歴史を見ながら、またイングランドとの関係も一緒に見て見ましょう。

歴史と映画の相違点はどんなところにあるのでしょうか?

ウィリアム・ウォレスは実在の人物、スコットランドの英雄だった

ウィリアム・ウォレスはスコットランドの騎士そして愛国者です。1270年頃の生まれと言われています。ある記録では1270年4月3日、木曜日ともあります。没年は1305年8月23日です。最後は刑死でした。

英語名を見るととSir William Wallaceとありますから、Sirつまり騎士号を授与された人物であることがわかります。

ウィリアム・ウォレスは大柄な人物だったと言われています。身長は190センチを越していたようです。西欧諸国では、英雄と称される人物は大体大柄である、と表現されています。大勢の人を率い、魅了するには人より抜きん出たものがなければならず、身長は大切な要素だったのでしょうね。

そして性格も激しいと言われています。だからこそスコットランドを苦しめるイングランドに猛烈な怒りを覚えて、決起したのではないでしょうか?

自分たちのスコットランドを守ろうとして立ち上がった人物こそ、ウィリアム・ウォレスでありました。抵抗運動なのですが、敵国イングランドからみるとゲリラだったのかもしれません。この頃はまだ正規軍ではなかったのですから。

最初の小競り合いは1297年5月、ここで勝利しました。勝利をきっかけに各地から反乱の声が起上がりました。

小競り合い程度大したことないと思っていなかったイングランド側も、黙っているわけにいかなくなり、ついに平定軍を差し向けます。そしてついにウィリアム・ウォレスに同調したスコットランド国民終結の軍とついに衝突する時を迎えました。

その戦いが、「スターリング・ブリッジの戦い」です。戦力が圧倒的に多いイングランドに勝利しました。歩兵数は両軍まずまずですが、騎馬兵がスコットランド軍200〜300に対し、イングランド側は2000を超えていました。その中での勝利ですから、スコットランドは国としての自信を回復させた意義ある戦いでした。この功績ウィリアム・ウォレスはSirの位を授かりました。

ウィリアム・ウォレスその後の動き

戦果に貢献したことでウィリアム・ウォレスは叙勲され、スコットランド守護官に任ぜられました。国政への参加もしました。

もとよりスコットランドの貴族位でなかったウィリアム・ウォレスは民衆からの人気はあるにしても貴族階級からはむしろ蔑まされていました。そしてウィリアム・ウォレスにあまり協力的ではなかったのです。

ウィリアム・ウォレスはどんどんイングランドに迫って行くのですが、スコットランド貴族たちから嫌われているため協力が得られず思うように進みません。中にはイングランド側に加担するスコットランド貴族もいました。

そんな中でイングランド軍とスコットランド軍はついに1298年7月、グラスゴーの北東の地フォルカークでの戦いを迎えます。

ここでもスコットランド軍は兵士の数で大いにイングランドに劣ってました。ウィリアム・ウォレス側はスターリング・ブリッジの戦いに倣った戦方を取ろうとしましたが、イングランド側についていたウェールズ部隊のロングボウ(大きめのクロスボウ)の一斉攻撃に太刀打ちできず、右往左往するばかりでした。そこをイングランド軍に一気に攻められウィリアム・ウォレスは敗北の結果に終わりました。

ウィリアム・ウォレスはその後、スコットランド守護官を辞任しました。反ウォレス側の貴族から解任されたという話もあります。そのあとは大陸に渡り、スコットランドへの援助をローマ、フランスに求めたことは記録があります。金銭的な援助くらいは得られたようです。

一方イングランドはフォルカークの勝利後からスコットランドへの戦いを仕掛け、1303年にはスコットランドを平定しました。

ウィリアム・ウォレスの逮捕と処刑、その結果は

ウィリアム・ウォレスは大陸へ逃れたものの、結局はスコットランドに帰ってきました。愛国心の為だったのでしょう。

イングランド側にとってもは大逆賊です。言って見れば賞金首?ですから賞金をたっぷりかけることで、結局はスコットランド側からの裏切りで、逮捕されイングランドに引き渡されました。

囚われたウィリアム・ウォレスは市中引き回しのようにロンドンまで連れていかれ、そこで裁判が行われました。裁判と言ってもすでに反逆者としての罪状は決まっているので、もうこれは形式的なものです。それよりはっきりと処刑の方法を決めるのがこの裁判の主旨でした。

処刑は、首を死なないように締めた後、内臓を引き出し、四つ裂き、最後は断首となりました。極めて残虐な刑ですが、重罪人に対して、見せしめのために行われることがありました。首はロンドン塔に、四肢は4つに分けられ、スコットランドとイングランドの4箇所にそれぞれ晒されました。

イングランド側は、反乱を起こした者の末路の見せしめとして、恐怖を与えることを意図しました。しかし反対にスコットランド国民はむしろ国民感情を高め、イングランドに立ち向かう勇気を奮い起こすことになりました。イングランドはその後苦戦し、結局スコットランド支配を断念しました。

ウィリアム・ウォレスはスコットランド国民の愛国心に火を点けたのでした。

映画「ブレイブハート」はアカデミー賞を受賞。「ブレイブハート」から見る歴史

ウィリアム・ウォレスの生涯を描いた映画「ブレイブハート」は1996年アカデミー賞、10部門でノミネートされ、5部門(作品賞、監督賞、音響編集賞、撮影賞、メイクアップ賞)で受賞しました。

鑑賞する日本人にとってはあまり馴染みのないスコットランドの歴史物語です。当時のお国事情を知ることがまず大切です。

「ブレイブハート」では敵役であるエドワード1世という王はイングランド歴史ではスコットランドに鉄槌を下した王、として知られます。

ことのはじめは、1280年代に王位を継いだ、マーガレット王女が7歳にして死亡したことから始まりました。幼いながらもエドワード1世の息子エドワードとの結婚が決まっていましたが、実現前にマーガレット王女は死亡してしまいます。

その後、エドワード1世はスコットランドとイングランド双方の血を引いたジョン・ベイリャルというものを王位継承者としました。この時はスクーン石(運命の石と呼ばれる)上で戴冠式を行いました。

エドワード1世のお陰で王になったにもかかわらす、スコットランド王ジョン・ベイリャルはエドワード1世の戦争遠征の命令を拒否しました。怒ったエドワード1世はスコットランドに攻め入ったため、スコットランド側は敗北し、ジョン・ベイリャルは廃位させられロンドン塔幽閉となりました。

そこで王位が空位になったため、王の血を何らかの形でひく、ロバート・ドゥ・ブルースが王位を主張してくる、イングランドは自分がスコットランドを治めたい、との硬直状態でした。また、スコットランド貴族にはイングランドに味方する者もいて、裏切りも茶飯事な状態。こんな混乱が「ブレイブハート」の背景にあるのです。

「ブレイブハート」ではウィリアム・ウォレスが反乱を起こすきっかけとなった事件の一つは、彼の妻の死、である描き方がされています。が、映画に出てくる妻ミューロン(モランと訳されている場合も)は架空に人物です。

映画でウィリアム・ウォレスの身につけているキルトはこの時代まだ着用されていませんでした。初めて歴史に登場するのは1500年代後半ということが記録に残されています。

また「ブレイブハート」内で、ウィリアム・ウォレスたちが顔を青くペイントしているシーンがありましたが、これは古代ケルト人の風習で、いくらスコットランドがケルトの血を引くとはいえ、もう13世紀のスコットランド人たちはもう行なっていませんでした。

キルト、青いペインティングも、イングランドと一味違ったスコットランド魂を映画の中で強烈に印象付けるために利用した演出と言えましょう。それゆえにより一層、自分たちの民族を、国を愛する国民の形、何よりも他から支配されない自分たちの国を目指そうとする、スコットランド民族の誇り高い意識が伝わってきたと思います。

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