ウィリアム・ウォレスの最後は?実在だった!どう動いた?現れる前のスコットランドは?キルトはあった?

イギリス史

実在したスコットランドの英雄ウィリアム・ウォレスを紹介します。

貴族に嫌われながらも戦い抜き、裏切りの果てに壮絶な処刑へ。

「ブレイブハート」はキルトや青い顔のペイントは史実とは違いますが、あえて映画で使うことでスコットランド動乱の真実を訴える映画です。

ここでは、ウィリアム・ウォレスのスコットランドにかける想いを調べ上げました。

ウィリアム・ウォレスの最後

ウィリアム・ウォレスは大陸へ逃れたものの、愛国心からでしょうか、スコットランドに帰ってきました。

ウィリアム・ウォレスの逮捕から裁判へ

イングランド側から見ると、ウィリアム・ウォレスは反逆者だから、逮捕するまたは殺すということで賞金をかけました。

賞金に目が眩んだスコットランド側からの裏切りで、ウィリアム・ウォレスは逮捕されイングランドに引き渡されました。

囚われたウィリアム・ウォレスは見せ物にされながらロンドンまで連れていかれ、そこで裁判が行われました。

裁判と言ってもすでに反逆という罪状は決まっているので、形式的なものにすぎず、むしろ処刑の方法を決めるのがこの裁判の主旨でした。

ウィリアム・ウォレスの処刑

処刑方法は死刑ですが、簡単に罪人の命をとるものではありません。

首を死なないように締めた後、内臓を引き出し、四つ裂き、最後に斬首です。

極めて残虐な刑ですが、重罪人に対して、見せしめのために行われることがありました。

首はロンドン塔に、四肢は4つに分けられ、スコットランドとイングランドの4箇所にそれぞれ晒されました。

ウィリアム・ウォレス、処刑の意味

イングランド側は、反乱を起こした者の末路を、見せつけるために、恐怖を与えることを目的にしました。

しかし反対にスコットランド国民はむしろ国民感情を高め、イングランドに立ち向かう勇気を奮い起こすことになりました。

イングランドはその後苦戦し、結局スコットランド支配を断念しました。

私はウィリアム・ウォレスは、スコットランド人の心を一つにさせるために、あえて、厳しい処刑を受け入れたのではないか、と思いました。

ウィリアム・ウォレスは実在の人物?

ウィリアム・ウォレスは実在したスコットランド人で、生まれた年は、1270年4月3日、木曜日いう記録があります。

没年は1305年8月23日、刑死でした。

ウィリアム・ウォレス、スコットランドの英雄の条件

英語名を見るととSir William Wallaceとありますから、Sirつまり騎士号を授与された人物であることがわかります。

それだけでも、英雄だったことがうかがえます。

ウィリアム・ウォレスは身長180㎝を超える大柄な人物だったと言われています。

西欧諸国では、英雄と称される人物は大体大柄である、と表現されています。

大勢の人の尊敬を受け、魅了するには人より優れた部分がなければ、身長は大切な要素だったのでしょうね。

そして性格も激しいと言われています。

だからこそスコットランドを苦しめるイングランドに猛烈な怒りを覚えて、反乱を起こしたのではないでしょうか?

ウィリアム・ウォレス、「スターリング・ブリッジ」の戦いを勝つ!

ウィリアム・ウォレスが起こした戦いは、敵国イングランドからみるとゲリラですね。

この頃はまだ正規軍ではなかったのですから。

最初の小競り合いは1297年5月、ここで勝利しました。勝利をきっかけに各地から反乱の声が起上がりました。

小競り合い程度大したことないと思っていなかったイングランド側も、黙っているわけにいかなくなり、ついに平定軍を差し向けます。

そしてついにウィリアム・ウォレスに同調したスコットランド国民終結の軍とついに衝突する時を迎えました。

その戦いが、「スターリング・ブリッジの戦い」です。

戦力が圧倒的に多いイングランドに勝利しました。歩兵数は両軍まずまずですが、騎馬兵がスコットランド軍200〜300に対し、イングランド側は2000を超えていました。

その中での勝利ですから、スコットランドは国としての自信を回復させた意義ある戦いでした。この功績ウィリアム・ウォレスはSirの位を授かりました。

ウィリアム・ウォレス、どう動いた?

戦果に貢献したことでウィリアム・ウォレスは叙勲され、スコットランド守護官に任ぜられて、国政への参加もしました。

スコットランド貴族に嫌われていた、ウィリアム・ウォレス

もとよりスコットランドの貴族位でなかったウィリアム・ウォレスは民衆からの人気はありましたが、貴族階級からはむしろ嫌われていました。

なにしろ、貴族たちを無視した戦い方をしていたからです。

だからこそウィリアム・ウォレスにあまり協力的ではありませんでした。

ウィリアム・ウォレスはどんどんイングランドに迫って行くのですが、スコットランド貴族たちから嫌われているため協力が得られず思うように進みません。

中にはイングランド側に加担するスコットランド貴族もいました。

ウィリアム・ウォレスの敗北

そんな中でイングランド軍とスコットランド軍はついに1298年7月、グラスゴーの北東の地フォルカークでの戦いを迎えます。

ここでもスコットランド軍は兵士の数ではイングランドの兵数を下回っていました。

ウィリアム・ウォレス側はスターリング・ブリッジの戦いと同じ戦方を取ろうとしていました。

しかしイングランド側についていたウェールズ部隊のロングボウ(大きめのクロスボウ)の一斉攻撃に太刀打ちできなかったのです。

そこをイングランド軍に一気に攻められウィリアム・ウォレスは敗北しました。

ウィリアム・ウォレスはその後、スコットランド守護官を辞任しました。

反ウォレス側の貴族から解任されたという説もあります。

そのあとは大陸に渡り、スコットランドへの援助をローマ、フランスに求めたことは記録があります。金銭的な援助くらいは得られたようです。

一方イングランドはフォルカークの勝利後からスコットランドへの戦いを仕掛け、1303年にはスコットランドを平定しました。

ウィリアム・ウォレスが現れる前のスコットランド

鑑賞する日本人にとってはあまり馴染みのないスコットランドの歴史物語ですが、当時のお国事情を知ること必要と私は思い、この記事を書いたのです。

スコットランドの分裂

「ブレイブハート」では敵役であるエドワード1世という王はイングランド歴史ではスコットランドに鉄槌を下した王、として知られます。

ことのはじめは、1280年代に王位を継いだ、マーガレット王女が7歳にして死亡したことから始まりました。

マーガレットはまた幼いエドワード1世の息子エドワードとの結婚が決まっていましたが、実現前に死亡してしまいます。

その後、エドワード1世はスコットランドとイングランド双方の血を引いたジョン・ベイリャルというものを王位継承者としました。

この時はスクーン石(運命の石と呼ばれる)上で戴冠式を行いました。

しかし、スコットランド王ジョン・ベイリャルはエドワード1世の戦争遠征の命令を拒否しました。

怒ったエドワード1世はスコットランドに攻め入ったため、スコットランド側は敗北し、ジョン・ベイリャルは廃位させられロンドン塔幽閉となりました。

ロバート・ドゥ・ブルースの出現

そこで王位が空位になったため、王家の血縁、ロバート・ドゥ・ブルースが王位を主張しますが、イングランドは自分がスコットランドを治めたい、意見が合わない状態でした。

また、スコットランド貴族にはイングランドに味方する者もいて、裏切りも茶飯事な状態。こんな混乱が「ブレイブハート」の背景にあるのです。

ロバート・ドゥ・ブルースは「ブレイブハート」では、主人公・ウィリアム・ウォレスと盟友となりますが、また反対にイングランドに売り渡しもします。

ですが、最後は、ウォレスの意思を継ぎ、スコットランドのために戦います。

ウィリアム・ウォレスの恋人の存在?

「ブレイブハート」ではウィリアム・ウォレスが反乱を起こすきっかけとなった事件の一つは、彼の妻の死、である描き方がされています。

が、映画に出てくる妻ミューロン(モランと訳されている場合も)は架空に人物です。

ウィリアム・ウォレスのキルト

映画でウィリアム・ウォレスの身につけているキルトはこの時代まだ着用されていませんでした。初めて歴史に登場するのは1500年代後半ということが記録に残されています。

また「ブレイブハート」内で、ウィリアム・ウォレスたちが顔を青くペイントしているシーンがありましたが、これは古代ケルト人の風習ではあります。

しかしいくらスコットランドがケルトの血を引くとはいえ、もう13世紀のスコットランド人たちは行なっていませんでした。

キルト、青いペインティングも、イングランドと一味違ったスコットランド魂を映画の中で強烈に印象付けるために利用した演出と言えましょう。

それゆえにより一層、自分たちの民族を、国を愛する国民の形、何よりも他から支配されない自分たちの国を目指そうとする、スコットランド民族の誇り高い意識が伝わってきたと思います。

まとめ

ウィリアム・ウォレスは実在したスコットランドの英雄です。

1270年に生まれ、1297年にスターリング・ブリッジの戦いでイングランドの大軍に勝利し、Sirの称号を得ました。

しかし1298年のフォルカークの戦いで敗れ、その後裏切りによって捕まり、1305年に残酷な処刑をされました。

映画「ブレイブハート」のキルトや妻の話は史実とは違いますが、ウォレスの勇気はスコットランド人の心を一つにし、独立への誇りを支え続けました。

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