ミケロット、チェーザレ・ボルジアの腹心の部下。その本名は?チェーザレ失脚後のミケロットは?

ミケロット・・・聞いたことがある名前でしょうか?

もしあなたがイタリアルネサンスに大いに興味があって、ルネサンスらしい陰謀話が大好きなら・・・チェーザレ・ボルジア・・・この名前ならご存知でしょうか?

もしタカラヅカ大好きなら、テェーザレ・ボルジアのファン、いらっしゃるかもしれません。チェーザレ・ボルジア大好きならミケロット、この名前ご存知のはず。

ミケロット・・・それはチェーザレ・ボルジアに影のように付き従う従者。いえ従者という呼び名はふさわしくないかもしれません。従者というと、ご主人様の馬を引いたり、剣をお持ちしたり、と騎士の下働きの意味で使われる言葉です。

それより、腹心の部下といったほうがふさわしいです。チェーザレ・ボルジアと勝るとも劣らない剣の腕前を持ち、ご主人さまの為なら汚れ仕事も厭わない。時として分身の役割も果たす。ご主人をいついかなる時も決して裏切らない、まさに得難い臣下・・・そうした人物です。

ミケロットの記述は実在の人物ながら、あまり多くありません。本名はなんていったのでしょうか?

またチェーザレ亡き後、ミケロットはどうしたのでしょうか?

ミケロットの本名、そしてチェーザレ・ボルジア との出会いは

ミケロットの出身地はスペインです。ミケーレ・ダ・コレーリアというのが本名です。コレーリアアはコレッラとも発音できます。Cerellaこう書きます。

この街はスペイン北東部のナヴァーラ州にあります。ナヴァーラ州はバスク地方の一州です。

ダ・〜という名前は、ヨーロッパ人では自分の出身地をつけていることが多いです。有名なところではレオナルド・ダ・ヴィンチで知られるとおり、これはヴィンチ村のレオナルドさんという意味になります。

ミケーレ・ダ・コレーリア、腹心の部活として呼びやすい愛称として、短くミケロット、こう呼ぶことにしたのでしょう。

ボルジア家もスペイン出身です。がボルジア家の方はスペインでもアラゴン方面の出身だったので、位置的には南と北です。特にミケロットはバスク側。接点はスペインと言っても、離れすぎかもしれません。

出会いは、いくつか説があります。

まず幼い頃からの友人。これは先ほども書いたように、北と南と違う出身だったので、どこで幼馴染になったのかはまり信頼できる情報ではないような。

それから学友だった、という話もあります。ピサの大学だった、という話です。こちらはあり得そうな話ですが、実は・・・裏は取れていません。

ピサ大学は、ガレリオ・ガリレイが通った大学としても知られています。ガリレオとチェーザレ・ボルジアは同時代の人物ですね。

当時の大学は神学や法学を学ぶ機関でした、チェーザレは一度僧職についていたから、神学はわかるのですが、ミケロットの場合は何を学ぼうとしていたのでしょうか?家柄が良くなくて勉学で優れていれば、職業につくコースとしては神学校に入って僧侶になる、それが一番のやり方でした。

ピサ大学には、世界最古の学術植物園がありました。のちにボルジア家は気に入らない相手を毒殺する毒を調合する、そんな噂がありましたので、この植物機関で習ったことが功を奏したのかもしれませんよ。

とにかくいつからと、はっきりわからないくらい時からミケロットはチェーザレ・ボルジアとともにいた、そういうわけです。

ミケロットとチェーザレ・ボルジア との出会いをドラマに見る

「ボルジア家 愛と欲望の教皇一族」(The Borgias) というドラマがあります。創作された箇所もあるみたいですが、それもかなり面白いです。

シチュエーションはミケロットがチェーザレ・ボルジア暗殺のために送られた刺客、から始まりました。でもミケロットは失敗するのです。二回も試みて二回とも失敗。反対にミケロットはチェーザレに押さえ込まれ、短剣を突きつけられてしまいます。

そこでチェーザレ、まばたき一つでもしたらその目をえぐってやる・・なんてことを言われました。そこでミケロットは、たとえ片目となってもあなた様にお仕えします・・・といって後、チェーザレに付き従うのでした。

この瞬間に、ミケロットはチェーザレ・ボルジア に惚れ込んだというわけです。でもそんなに瞬時に、なんで?

まさかミケロットはチェーザレの容貌に惚れ込んだわけではないでしょう?チェーザレ・ボルジアも当時からかなりの美丈夫として知られていましたが、単に美形というならチェーザレの弟のホアン・ボルジアのほうがはるかに容姿端麗で鳴らしていました。

ここでミケロットがチェーザレに見出したのは、その内面。人の上に立つ者、指導者としての力量、チェーザレ本人から放たれる強烈な魅力・・・・それはもしかしたら、ワルにも徹することができる、潜在能力に気が付いたのかもしれません。

ミケロット、チェーザレ・ボルジアの1400年後半から1500年代にかけて、マキャベリもちょうどその時代を生きる思想家でした。「君主論」が有名です。

マキャベリは「君主論」で君主のあるべき道を書いたのですが、君主のモデルがチェーザレ・ボルジアです。「君主論」以前は、君主のあるべき道は道徳的な面を取り上げていたのですが、「君主論」では人の心を掴みながらも、時には冷徹な決断も必要とし、そしてブレない決断を持つべき、という内容が記されています。

このドラマのシーンでは、君主の素質を持つチェーザレ・ボルジアを一瞬のうちに見抜いたミケロットに、拍手を送りたい気分です。

ミケロットには「学がない」説もありますが、ミケロットの先見の明を見ると、学がない、とは言えないと思います。

とにかく、この時からミケロットは、いかなる時もチェーザレの元を離れない、と心に誓ったのでした。

もちろん、これだけチェーザレ・ボルジアに心酔しているとなると、同性愛の傾向が疑われます。実際はどうだったのか知るすべもありません。

「ボルジア家・・・・」のドラマの中では、サヴォナローラ(宗教改革家、カトリック絶対主義者で非常に厳格、贅沢品を悪として焼捨て極端に走った人物)に、罪の同性愛者と罵られる場面があります。

もしかしたら、本当に同性愛者だったのかもしれませんが、チェーザレ・ボルジアへの腹心ぶりは、同性愛では片付けて欲しくないです。そうではない絆を私は信じています。

今でもNetflixで見ることができます。

ミケロットの仕事

ミケロットはチェーザレ・ボルジアのために働きました。

チェーザレへ対する反逆者を処刑する。戦の最中、暗殺されそうになったチェーザレを救う。チェーザレに一隊の指揮を任されることもありました。そして功績も数々あげていました。

ミケロットはチェーザレ・ボルジアのためにした仕事・・・汚れ仕事の話も残されています。むしろことらの方がミケロットという人物の地位を表していると思えるのですが。

ミケロットの悪業(?)で一番知られているのが、チェーザレ・ボルジアの妹ルクレティア・ボルジアの夫殺しです。

ルクレティア・ボルジアは生涯3度結婚しましたが、暗殺されたのは2番目の夫アルフォンソ・ダラゴーナ。ナポリの王族です。

ルクレティアとは政略結婚ですが、アルフォンソはイイ男だったためルクレティアは夢中になっていたみたいです。でも政治的な理由から、チェーザレ・ボルジア、その父アレクサンデル6世たちからは、すでに役は果たして無益になった人物として、ルクレティアと別れさせようとしていました。

でも別れるだけでなく、抹殺をチェーザレ側は考えていました。

そこでまず、アルフォンソの毒殺を計るのですが、うまくいかずアルフォンソは病床につくだけとなりました。しかし隙を縫って、あっという間に殺してしまいました。これは剣ではなく絞殺でしたが、ミケロットが直接手を下しました。

この事件では、ルクレティアは兄をひどく恨んだ、という話でした。きっとミケロットのことも決して許さなかったと思います。

また、チェーザレ・ボルジアにはホアンという弟がいました。先ほども少しだけ紹介したように、イケメン度といえばホアンのほうが美形だったようです。

このホアン、美形だけれども軽佻浮薄な人物でした。父の教皇アレクサンデル6世も、兄のチェーザレも持て余し気味でした。

それでも持て余したと言われている父、アレクサンデル6世にとっては、目に入れても痛くない一番愛する息子でした。

そして・・・・ホアンはある日テヴェレ川に死体となって浮かんでしまう結末となったのでした。彼の身体はめった刺しにされていました。

あちこちで恋愛沙汰を起こして嫌われていたホアン、敵は多く、容疑者と思われる人物も複数いました。

アレクサンデル6世も犯人探しに躍起となりますが、ある時から突然不自然にも真相を探る調査を打ち切ります。

その後、チェーザレ・ボルジアが真犯人ではという噂が出ます。

真相を知ったアレクサンデル6世がもみ消したのかもしれない・・・その噂ももちろん浮上します。なぜか・・・教皇はチェーザレが軍事的才能に長じた重要人物だから・・・という理由もありました。

今でも、その内容を記した文書は残っています。でもこれだけしかないので、現代でいえばチェーザレは重要参考人にしかなりません。

ですが、もしホアン殺人がチェーザレの計画だったら、私は絶対にミケロットが直接手を下した、そう思います。

ミケロットはチェーザレに出会う前、ホアンの軍に所属していたことがある、という説もあります。その時イタリアはフランスと戦っていたのですが。

ミケロットも、かつての主人が遊び呆けている様子を見るのは辛いものがあったのでしょうか?今はだらしないかつての主人には、現在の主人のために自分が引導を渡してやろう、そんな思いもあったかもしれません。

大切な方の手を肉親の血で汚してはならない、殿は知らなかったこと、自分がやった、そうミケロットは思った、そんな気がしてなりません。

ミケロットの忠誠、チェーザレ・ボルジアの失脚で

チェーザレ・ボルジアは、父アレクサンデル6世の死後急速に失脚します。それに自分自身も病気となりました。

テェーザレ・ボルジアはアレクサンデル6世と、ある邸宅に呼ばれ食中毒となったと言われます。またはその屋敷の人物に毒殺しようとして、間違えて自分たちの食物に入ってしまったという説もあります。

食中毒が元で教皇アレクサンデル6世は亡くなり、チェーザレは死の縁を彷徨いました。治癒したものの体力はすっかり落ちていました。

それどころかチェーザレの失脚を感じ取った政敵たちが、次々と反旗を翻し、敵対行為に及びます。新しい教皇ユリウス2世もチェーザレを敵視します。テェーザレは窮地に陥りました。

ミケロットはチェーザレを守って獅子奮迅の働きをしましたが、ついに新たな教皇ユリウス2世側に捉えられてしまいました。

冷酷な仕打ちをしたチェーザレですので、チェーザレ同様ミケロットも、しっかりと憎まれていました。

捉えられた後は、当然これまでの罪を問われ、特に殺人の罪を問われ拷問にかけられます。拷問って当時の敵方捕虜に対する常套手段ですよね。

しかしどんなに拷問されても、ミケロットは一言もチェーザレについて話しませんでした。

ここがミケロットの凄いところです。失脚したチェーザレを見捨てる人が増えてきている中で、一人口をつぐんで拷問を受けている。

相当な信念の持ち主です。

その後は、身柄をローマに移され、裁判を受けます。裁判については記録がないので、経緯と結果はわかっていません。

裁判は1504年で、1506年春突如ミケロットは釈放されます。これが不思議です。

ミケロットは釈放の条件がフィレンツェの傭兵隊長になる、ということだったのです。

実はマキャベリが、チェーザレ・ボルジアを絶賛していたあのマキャベリが、ミケロットを見て、ミケロットのような質実剛健、有能な武人がフィレンツェの傭兵隊長であったらいいだろうなー、とつぶやいたのだそうです。

そしてマキャベリの推薦でフィレンツェで軍務についた次第です。

かつてチェーザレとミケロットはフィレンツェに攻めてきた側だったので、フィレンツェ側からは懸念の声が上がったのですが、マキャベリの一押しが効きました。

ミケロットは職務を全うしたのですが、1年ほどで解雇となりその後行方知らずになったということです。ひょっとしたらどこかで暗殺されたのかもしれない、とも聞こえてきます。

チェーザレ・ボルジアは1507年に死んでいます。ミケロットが釈放されて1年後のことです。

私が想像するに、ミケロットは主人、チェーザレ・ボルジアに殉死したのかもしれません。それを考えるのまた歴史のロマンですよね。

コメント

タイトルとURLをコピーしました