メアリー女王の生涯。エリザベス1世と関係が?姑カトリーヌとの仲。後スコットランド女王。追放の理由。やがて処刑に。デスマスクの美貌。

メアリー女王(メアリー・スチュアート)は16世紀のスコットランド女王でした。エリザベス女王とは血縁関係にあり、イングランド王位の継承権もある女王でした。そのためイギリスのエリザベス女王と敵対することになります。

メアリー女王の生涯は複雑です。フランソワ(フランス王太子)と結婚してカトリック教徒でもありました。

メアリー女王とエリザベス女王との血の争いが繰り広げられ、結果メアリー女王は捕らえられます。その後色々画策するのですが、暗号で書いた陰謀がバレて、最後は処刑となりました。

処刑後にデスマスクが取られていました。今日の私たちも目にすることができます。

また、メアリ女王には息子がいます。その息子はどうなるのでしょうね?

メアリー女王については映画「二人の女王」がメアリーの心情にまで踏み込んて書き込んだ映画があります。TVドラマに「メアリー、愛と欲望の王宮」というのもありますが、こちらは創作部分が多すぎて歴史を辿るにはちょっと不足ですが、面白いドラマです。

メアリー女王ってどういう生まれの人?その家系図は?

メアリー女王、ことメアリー・スチュアートはスコットランドの女王であると共にフランス王妃でもありました。

メアリー女王はまたイギリス(イングランド)王家の血も引いていました。どういう家系図になっているかというと、メアリー女王の祖母はイギリスのヘンリー8世の妹でした。つまりヘンリー7世の娘。そしてヘンリー8世の娘がエリザベス1世でした。メアリー女王の側からみると、大伯父さんの娘がエリザベス1世に当たるというわけです。

複雑に見えてますが、自分の身内に置き換えて考えてみると納得できると思います。

メアリー女王の方がむしろ正統な血筋、と言っている人も当時はいました。というのもエリザベス1世は王女になったり、母親の結婚無効で庶子に落とされたり、と最後こそ王女の地位が確定しイングランド女王となりましたが、過去は不安定でした。

それに対してメアリー女王の方は最初から王女であった者の孫なので、血統に曇りがないと考える人もいたのです。メアリー女王も実際そう思っていたらしいと言われています。

メアリー1世のイギリス正統性を当時のローマ教皇も信じていました。

メアリー王女の生涯、フランソワ(フランス王太子)との結婚、義理の母はカトリーヌ・ド・メディチ

メアリー・スチュアートの父はメアリー誕生後すぐに亡くなりました。他の男兄弟がすでに亡くなっていたメアリーは生後わずか6日で王位につきました。メアリーは幼かったので、その王位就任をよしとしない者たちにより反乱が起こり、それにイギリスが加担する、という事件も起きてます。

メアリー・スチュアートの母親はフランス貴族の出身だったので、メアリーにはフランス王家との結婚が決まりました。そしてわずか6歳で婚約から結婚までの15年以上、フランスで育てらることになりました。

スコットランド内にいると、王位のために命を狙われる危険性があり、嫁入りにあたり文化の優れたフランスで花嫁修行をさせるという目的もありました。また婚姻によって、スコットランドはイングランドとの間に今後抗争が起きたときに援助を得ることもを目的の一つでした。

1565年メアリー・スチュワートとフランソワは結婚します。

義理の母となる女性は、カトリーヌ・ド・メディチです。そう、後に聖バーソロミュー事件の発端となった人物。世界史の教科書でもおなじみです。義理の母カトリーヌと言い、イングランドの女王エリザベスと言い、この時の世界史の女性陣は豪傑な有名人揃いですね。

メアリー・スチュアートの生涯、スコットランド女王として 音楽家リッチォとの出会い

メアリー・スチュアートはフランス王妃となるも、一年ほどで夫フランス王フランソワ2世が亡くなると、スコットランドに帰国して、スコットランド女王としての人生を歩み始めました。砲塔に波乱の人生を歩む人ですね。

当時のスコットランドは、混乱の嵐が吹き荒れていました。イギリスで起きた宗教改革の波がスコットランドにも押し寄せてきていて、だんだんとプロテスタント教徒が増えてきましたが、カトリックを守る人も依然としているわけで、対立が続いていました。

それと同時に、貴族たちの対立もあり、これがメアリー女王の統治の妨げとなっていました。

メアリー女王に再婚を促して国力の補強を図ろうとしましたが、なかなか有力な王族との結婚はかないませんでした。スコットランドが力をつけるのを恐れたイングランドのエリザベス女王からの妨害もあったと聞きます。

しかし周りからの懸念も何処へやら、メアリー女王はさっさと2回目の結婚をしてしまいます。相手はダーンリー卿という人物でした。ダーンリー卿はメアリー女王の父親ジェームス5世の異父妹の息子、メアリーにとっては従兄弟に当たります。と同時にダーンリーの祖母(メアリー女王と同じ祖母)はイングランド王家の出身であるために、イングランドの王位継承権があります。

この事実はイングランドにとっては他国に王位継承者がいるというマズい事態なので、エリザベス女王は大反対でした。

ダーンリー卿はこれといって優れた点が見られる人物ではないのですが、いわゆるイケメンでメアリー女王のタイプでした。今でいうちょっとダメンズ?そんな相手に対し優しくしてあげるのが、当時メアリー女王は愛だ、と思っていたようです。

ところがこのダーンリー卿、なかなかの権力志向家で、女王と一緒に自分にも統治権を当然のように要求して行使する勘違い男でありました。そして振る舞いもだんだんと横柄になってきました。

その横暴ぶりに手を焼いていたころい登場したのが、イタリア人音楽士兼秘書のリッチオ。メアリーはリッチオに対し心を砕くようになりましたが、万が一の再婚を恐れた家臣の一部と、自分の寵愛を取られたくないダーンリー卿が結託して、リッチオをメアリー女王の目の前で殺害しました。

場所はエディンバラのホーリールード宮殿。リッチオ殺害の場所はいまでは、宮殿の観光ルートに入っており、「ここで殺された」という意味の説明文が添えられています。

メアリー女王、ボスウェルと3度目の結婚、失脚してエリザベス側に投降

リッチオ殺害の時メアリー女王は懐妊していました。ダーンリー卿の子です。なんとか無事に子供は生まれましたが、その時からボスウェルを頼りにし始めます。

とりあえずダーンリー卿と離婚したいのですが、カトリック教徒のためそれはできません。

ですがその時、ダーンリー卿は教会での爆発に巻き込まれて死亡します。ダーンリー卿をメアリー女王が持て余していたことは多くのものが知っていましたので、メアリー女王とそして女王と親密な関係が知られていたボスウェルの仕業と誰もが疑いましたが、いまでもその証拠はなく犯人の謎のままです。

爆発事件後3ヶ月ほどで、メアリー女王とボスウェルは結婚しています。ボスウェルには妻がいたのですが、プロテスタントであったため離婚してメアリー女王と結婚できました。

この結婚は当然、プロテスタント、カトリック両陣営から反対を受けました。それが元でスコットランドで内乱が起きました。

結局メアリー女王側は敗北、メアリーは女王の位を廃位とされてダーンリー卿との間に生まれた男子がスコットランドのジェームス6世として即位しました。

イングランドで暗号を利用した事件を起こし、処刑で最後を迎える デスマスクがいまも残る

メアリー女王は廃位後、幽閉されていたのですが脱走し、イングランドのエリザベス女王の元に逃げ込みました。

この状況、徳川家康のもとに逃げ込んだ石田三成、との関係みたい。敵でありながら、この時点で断ずる理由がはっきりしない状態では、どうすることもできない。むしろここでもし処刑するなりの断罪をするとこちらに非があると、受け取られてしまいそう・・・そんな困った状態です。

メアリー女王はエリザベス女王の血縁であるという関係を逆手にとった行動でした。エリザベスもしばらく軟禁状態に置くしかありませんでした。

カトリックの君主・・・しかもイングランドと血縁関係が近い。イングランド側にとって危険な存在です。イングランドの家臣たちは、メアリー女王の処刑を提案します。

がエリザベス女王は首を縦に振りません。そのまま20年近く、イングランド国内の城に軟禁されていました。結構自由な軟禁生活だったようです。

しかし、メアリー・スチュアート本人が正統なイングランドの王位継承者である、この考えはずっと捨てずに、イングランドで王位を狙う陰謀を企てていました。

その一つが暗号事件です。暗号事件のあらましは、どうも何かを計画をしているらしいメアリー・スチュワートの動きに気づいたイングランド側は、スパイを用いてその暗号文書を手に入れたとところから、メアリー女王の罪が発覚した事件だったのです。そこにはエリザベス女王の暗殺計画も含まれていたということです。

メアリー女王の処遇についてさすがのエリザベス女王も処刑の文書に承認の署名をしました。

1587年、メアリー・スチュアート、フォザリンゲイ上で斬首。当時は斧での斬首でした。メアリーの処刑も一発は失敗で、3度目でようやく成功したと言います。

処刑では黒いドレスを着ていましたが、それを脱ぐと真っ赤な下着を纏っていました。これは洗練されたファッション感覚を持つメアリーの最後の身だしなみでした。

またエピソードの一つには処刑後、スカートの影から子犬が飛び出してきた、と言います。メアリー女王の愛犬だったようです。

メアリー女王のデスマスクがあります。死後、すぐに型をとり作ったものです。スチュアート家の遠縁にあたる人物がアメリカにおりそこで発見されているそうです。

刑死した人とは思えないほどの、清々しいまでの美しさです。

メアリー女王とエリザベス女王、メアリー女王の美人度

血縁関係がある女王同士。歳はメアリー女王の方が9歳下。メアリー女王がイングランドで軟禁されてから、二人の女王は書簡の交換をしていました。どちらも姉、妹と姉妹のように呼び合っていました。ですが、二人が実際に会ったことは一度もありません。メアリー女王の方は会いたい、と書いていましたが、エリザベスの方は全然応じませんでした。

同じ時代に生きた女性として、お互いどちらが美人だったか気になっていたようです。特にエリザベスの方がそう思っていました。スコットランドからくる使節団に「どちらが美しいか?」という質問もよくしていました。家臣たちは、はっきりとは返事をしなかったようですが。

果たしてどちらが美しかったか・・・いまも残る写真から見る方達から判断をしてください。

メアリー女王が軟禁されてから処刑まで18年あります。その間にメアリー女王は40歳を超えました。運動不足や加齢で太ってしまったと言います。

それをメアリー女王に対するエリザベスの嫉妬という声もあるのですが、実際はそんなレベルの低い話ではなく、王を人が勝手に処刑してもいいものか、というエリザベス女王の葛藤からでした。

当時は王権神授説が信じられており、王の位を授けることができるのは神だけ、そして王の位を奪うことができるのも神だけ、だったのです。ですから、神が授けたスコットランドの王位に就いている者の命を人が奪っていいものか?だったのです。今人の手で王位を奪う先例を作ったら、いつか自分も奪われるかもしれない、その懸念がありました。そこでいつまでも、処刑の承認をしませんでした。流石に自分に対する暗殺計画となると・・・ということで処刑に同意したわけです。

メアリー女王処刑の時、スコットランド王位に就いていたジェームズ6世は、エリザベス女王没後、その王位に一番近い血縁者として、イングランドにジェームズ1世として即位します。そしてイングランドのスチュワート王朝の始まりとなります。

王位を狙っても、イングランド王になれなかったメアリー・スチュアート。その代わりに息子が継ぐことになり・・・・メアリー女王、エリザベス女王、この戦いに勝敗はあったのでしょうか?

メアリー女王、エリザベス女王、二人のお墓はウェストミンスター寺院内にあります。観光客はその墓を見ることができます。

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