森蘭丸はその美貌から、イケメンとして名高い武将です。
織田信長の小姓として深く信頼され、裏切り者を見抜く聡明さで高く評価されていました。
兄弟とともに信長を支えましたが、蘭丸は、本能寺の変で信長と運命を共にし、若くして壮絶な最期を遂げました。
ここでは森蘭丸が本当にイケメンだったか?
なぜ、織田信長に愛されたかの理由を、調べ上げたページです。
森蘭丸はイケメンだった?
森蘭丸を思い出す時、織田信長に使える美少年、イケメン、のイメージですが、本当にイケメンだったのでしょうか?
織田信長を記録した「信長記」をはじめ戦国時代の書物には森蘭丸の容姿については何一つ書かれていません。
それならたいしたことはなかったのでしょうか?
蘭丸には兄弟がいますが、兄弟は似ると言いますが、森兄弟はどうでしょう?
森蘭丸は、兄に似ている?
森蘭丸の兄、森長可(もりながよし)は「鬼武蔵」というあだ名があり、その顔立ちについては「鉄面頬入らず」と言われたという記録があります。
鉄面頬(てつめんぼう)とは、兜についている装備で顔を守ために使います。そのデザインは大体怖い顔に作られています。
森長可が
「鉄面頬」と呼ばれた理由は下記のことからです。
- 森蘭丸のお兄さんは鉄面頬がいらないほど非常にゴツい顔立ちをしていた、から「鉄面頬」と言われた
- あるいは、鬼のような面棒をつけて、鬼のように強かったから、強さを讃える意味で「鉄面棒」と呼ばれた
もし森蘭丸がお兄さんに似ていたら、イケメンとは言えないでしょうね。
二つ目の理由が本当なら、イケメンの可能性はありますが。
森蘭丸は弟に似ている?
森蘭丸の顔立ちについて、もう一つ手がかりになりそうな、人物がいます。
それは弟・森忠政です。忠政は、兄・森蘭丸と同時期に織田信長に仕え、本能寺に一緒に行かなくて、命が助かった、森家の六男です。
森忠政は、のちに津山城の城主になったため、その坐像が、城に残されています。
しかし、その坐像は美形とは程遠いもの。
しかし、城での案内人はこう説明しています。
元となる像は木像で、森家の菩提寺・本源寺にあるのですが、その像は修復されているのですが、修復前には首がなく、首がない状態でモデルになってしまいました。
では、現在の城にある像の首はどうやって作ったのでしょうね?
現在、本源氏にある本物の木像の方は、風格のある顔立ちをしているので、この差は一体どうしたものか?と思いますが。
弟・忠政は、もともとイケメンだったのでしょうか?だから信長の小姓をしていたのでしょうか?
本当の森忠政の面構えがわからないので、こちらについてもなんともいえません。
森蘭丸、なぜイケメンと言われる?
顔の様子を探しても、イケメン、という確証は得られませんでした。
しかし、森蘭丸は気配りの人、これは、残されているエピソードから確認されています(下記の陽ソードの項をご覧ください)。
その気配りが有能につながり、立ち振る舞いが、森蘭丸をイケメンにしたのでしょう。
「顔じゃないよ。心だよ!」と私は言いたいですね。
また、次の項の、織田信長と同性愛の関係があったかもしれない、という説から、森蘭丸はイケメンという思い込みが入ったのでは?と私は見ています。
というのは、恋愛は美形が原因で始まることが多いからです。
これは男でも女でも関係ないでしょう。
森蘭丸が美形だから、惚れ込むのは当たり前、なんて私でも考えてしまいますから。
森蘭丸、織田信長の関係は?
森蘭丸と織田信長の関係は、言い伝えにあるように、本当に同性愛の関係があったのか?という疑問を持つ方は多いでしょう。
これは、その事実は認められない。いや関係はあった。その両方の説があります。
まず関係がなかったとする説は、「信長記」、「信長公記」にその記載がないとなると、同性愛関係はなかった、ということでしょうか?
関係ある、という説をとると、戦国時代の武将は、男色も武家のたしなみだから、あえて記録することもない。当たり前のこと。だから関係があった、ことになります。
江戸時代には、戦国物の歴史書が数多く書かれ、その中に男色が描かれています。
その中の「明智軍記」「森家先代実録」では男色の単語が見つかります。
しかし、森蘭丸が男色で信長の相手だったとは、直接に書いていません。
また森蘭丸について特に詳しく描かれているわけではありません。
しかし、実際はあったという説に私は賛成したいです。
森蘭丸の評価は?
森蘭丸は、容姿で気に入られた、と思いがちですがそれだけではありません。
森蘭丸の評価される点は、容姿以外の部分です。
森蘭丸は、織田信長を思いやる行動をしています。
エピソードで見るように、信長のプライドを傷つけない気配りの人です。
もちろん織田信長を怒らせると恐ろしい、ということもありますが、それだけではなく、織田信長の存在そのものを尊敬し、慕っていました。
信長の、日本統一を目指すこころざし、目的を達成するためのやり方そのもの、性質を含めて、信長は森蘭丸にとってあこがれの存在だった、と私は考えています。
そして信長の夢を叶えるために、全てを捧げたいと思ったことでしょう。
かゆいところに手が届くような勤務ぶりを見せています。
蘭丸の、信長を立てる働きぶりから考えると、森蘭丸は信長の有能な秘書としての評価は高いです。
森蘭丸、明智光秀を見抜く!
織田信長の秘書のような仕事をしていた森蘭丸。秘書だけあって洞察力も優れていました。
明智光秀の本能寺の計画も気がついていました。
森蘭丸、明智光秀を打つ
森蘭丸は、明智光秀を、殴ったのです。打つ出会って、討つではありません。
織田信長が、同盟を結んでいる徳川家康を安土城に呼んで、明智光秀に接待します。
明智光秀は、家康の宿泊所や料理を豪華に飾り立てて準備しましたが、贅沢さに信長は怒りました。
そこで、信長は、誰かに明智光秀の頭を罰として殴れと命令したのですが、家来の誰もが恐れてやろうとしませんでした。
明智光秀は身分の高い武将です。そんなことを家来はやりたくありません。
だからと言って、信長の言いつけにさからって、罰せられるのもイヤだし・・・
そんな中、森蘭丸がすくっと立ち上がって、鉄扇で明智光秀の頭を殴ったのです。
私が光秀だったら、こんな若造に恥を加えれるのはごめんだと思ったことでしょう。
森蘭丸、明智光秀を打って考えたことは?
本能寺の変はこの出来事の約2週間後に起こりました。
しかし、私は森蘭丸は、自分の他人を殴る、という行動についてきちんと考えていたと思います。
これで、もしかしたら明智光秀は反乱を起こすかもしれない、ということをです。
後世に「賢い」と言われている森蘭丸が、何も考えることなく、明智光秀を打つわけはない、と私には感じられます。
明智光秀に、反乱の隙をあたえて、明智勢を一網打尽にする考えもあったのだろうか?と考えられます。
それでも結果は、うまく行かず、結局織田信長を暗殺させてしまった、という結果に終わりましたが。
森蘭丸、本能寺計画あり、と見た!?
明智光秀は、殴られた上、厳重注意までされた時に、「この仕打ちはあんまりにもひどい!ですが、だからと言って、謀反までは考えておりません・・」と言ったのでした。
それを聞いた森蘭丸は、明智光秀に反乱を起こす気持ちがある、とみて、信長に訴えました。
しかし信長は、森蘭丸に、「ありえないこと」と言って、毛利家(もうりけ)を倒すための応援作戦を立てるのでした。
毛利の場所は中国地方です。
すでに毛利と戦いに、豊臣秀吉が行っているため、明智光秀をその応援に出し、織田信長は後をおう、という計画です。
ところが、明智光秀は毛利に行かずに、「敵は本能寺にあり!」と言って自分の軍を京都の本能寺に向けたのです。
もし、織田信長が、森蘭丸の忠告を聞いていたら・・・明智光秀は毛利に行かずに捕まっていたかもしれない?
もし忠告に耳を貸していたら、信長自身も出陣しなかったかもしれない。
もし・・・本能寺の守りをもっと、厳重にしたかもしれない・・・
織田信長が耳を貸してくれることが、森蘭丸の賭けだったのでは?と私は感じています。
森蘭丸の最後は?
森蘭丸も、主人・織田信長とともに本能寺で亡くなります。
森蘭丸、本能寺で討ち死に!
1582年、織田信長は、中国地方の毛利討伐のため出兵します。
途中の宿泊所が京都の「本能寺」です。そこを信長暗殺をねらう明智光秀は、夜襲をかけます。
森蘭丸は小姓として務めていたので、戦闘の経験はありません。
いわゆる武官ではなく文官という、職種でした。
武道は多少なりとも習ったかもしれませんが、実戦で使えるものではありませんでした。
それでも、信長の近習として最後まで信長についたまま戦いました。
そして森蘭丸、は一緒に信長に仕えた二人の弟、力丸、坊丸と戦い、本能寺で命を落としました。
森蘭丸を討ち取った男、安田国継
森蘭丸は明智家の家臣、安田国継(やすだくにつぐ)に打ち取られました。
その時、森蘭丸は、白装束で髪もきれいに結った姿だったそうです。その時は18歳でした。
それを記述しているのは他でもない、討ち取った、安田国継。
安田国継は生き残って、名前を変え天野源右衛門(あまのげんえもん)と名を変えます。
そして書いたと言われるのが『天野源右衛門覚書』なのですが、実はこの書物、江戸時代幕末に書かれた、創作物ということがわかりました。
本は実際に書かなかったとしても、安田国継は森蘭丸の最後は見たはず。
そのことを、何かにつけて話していた、ということも考えられます。
それに、「森蘭丸はこうあるべき」と、後世の人々が抱いていたイメージが一緒になって、今日私たちが想像する、森蘭丸の最後の姿、となったのではないでしょうか。
森蘭丸の名前
蘭丸、というのは幼名です。
しかし元々は「蘭」ではなく、「乱」とされています。
しかも「丸」はついていなく、「乱」、「御乱」または「乱法師」ということが昔は知られていました。
「蘭」の文字は軍記物語で使われています。
それと、イケメンが一緒になって、美しい「蘭」の文字の方がイメージなので、今では「蘭丸」が普通です。
以前の大河ドラマ「どうする家康」の時は、「森乱」とオープニングクレジットに書かれていました。
なお、成人してからの名前は、「成利」(なりとし)です。しかし「長康」(ながやす)と書かれている文書もあります。
森蘭丸のエピソード数々
森蘭丸のエピソードは、森蘭丸の有能ぶりをよく表しています。
特に織田信長とのエピソードがたくさんあります。
その出典は「老談一言記」(ろうだんいちごんき、歴史の逸話しゅう、江戸時代中期に成立)、「朝野雑載記」(ちょうやざっさいき、戦国時代の武将について書かれた本)です
どれも成立は1800年代後期)なので、言い伝えが多少入っているように見えます。
どれも、私には嫌味な感じに聞こえますが、そのエピソード達をご紹介しましょう。
エピソードその1 森蘭丸、障子を閉める
仕事中の織田信長は部屋の障子が開いているような気がして、控えていた森蘭丸に、障子を閉めるよう言いつけました。
しかし森蘭丸が見に行っても障子はしまっていました。
そこで、森蘭丸は、障子を自分で開けて音を立てて締めなおした後、信長の元に戻って「障子は閉まっていました」と報告するのです。
信長は「障子がしまった音がしたぞ」と言ったところ、森蘭丸は、「信長様に恥をかかせてはならないように、わざと戸を閉め直しました」と、事実を言いました。
ここで書物の作者が言いたかったのは、真実を告げる森蘭丸の態度でした。「はい閉めました」とそう告げればいいだけなのに・・・
正直に話すことで、森蘭丸は嘘をつかない人物、だから信頼できる人物と信長に印象づけました。
エピソードその2 森蘭丸、爪を探す
信長が爪を切った時のエピソード。
ある日、爪を切り、その爪をすてるよう森蘭丸に言いました。
森蘭丸は、爪が9本分しかないことに気がつき、残り一本の爪を探しました。
爪ごとき、と思うかもしれませんが、爪や髪の毛は、人を呪う時に使われるアイテム。
今ではそんなこと考える人はいませんが、江戸時代末期ごろまではまだまだ信じられていました。
細かいことにまで気が回った森蘭丸、その有能さを見せた話でした。
ですが、爪を切るとき、一本の爪から出るかけらは一個だけとは限りません。
まさか森蘭丸は爪を復元してみたのでしょうか?と私には疑問が湧きました。
この辺りも、エピソード盛りすぎ、とやはり私には感じられます。
エピソードその3 森蘭丸転んで見せる
森蘭丸は、台の上に乗せた山盛りのみかんを運んでいました。
それを見た信長が「気をつけろ、転ぶぞ」と声をかけました。
その後すぐに、森蘭丸はこけて、みかんをころがし、台をこわしました。
「それ見たことか」という信長でしたが、森蘭丸は涼しい顔です。
実は森蘭丸、わざと転んだのです。
信長様が、「転ぶぞ」といったのに、何事もなく運んだら、殿様の言葉が間違っていたことになる、それで殿様は間違えないのだ、ということを示すために転んだ・・・・こう森蘭丸は言いました。
殿様第一なのですが、私には、どうも殿様のご機嫌取りをしているようにも見えるのですが。
下手するとあざとい、おべっか使い(?)森蘭丸、に私は思えてしまいます。
森蘭丸の家族
森家の兄弟
森蘭丸の父は、森可成(もりよしなり)。織田の家臣です。
父は武勇に優れ、槍の名手でした。
森成利こと、蘭丸は、1565年、森可成の三男として生まれます。全部で6人兄弟です。
森可成は愛妻家で、子供はみな同じ女性の子供です。側室を持つのが戦国武将の習慣とした中では珍しいことでした。
森蘭丸は1577年に弟、力丸(りきまる)、坊丸(ぼうまる)、忠政、とともに信長の小姓となります。
この時の森蘭丸は12歳ですね。
この二人の弟も森蘭丸と一緒に、本能寺で討死しました。
三人兄弟で、頑張って織田信長を守ろうとしたのでしょうね。
森家のその後
では後継者はいたのか?
森家にはもう一人、六男の忠政がいました。この人は幼名でなく元服名での名が残っています。
忠政も、織田信長に小姓として使えましたが、本能寺の変があったときにはちょうど留守番でした。
そこで忠政だけが残り、森家の当主となりました。
森蘭丸直系の子孫はいませんが、生き残った忠政には子孫はいる可能性はあります。
しかし、現代では知られていません。
まとめ
森蘭丸は織田信長の小姓として仕えた人物で、イケメンとして知られていますが、当時の文献には容姿の記録がありません。
兄・森長可は「鬼武蔵」と呼ばれた猛将で、蘭丸がイケメンだったかどうかは不明です。
信長からの評価は非常に高く、有能な秘書として気配りに優れていました。
明智光秀の反乱を予感して信長に進言しましたが、聞き入れてもらえませんでした。
1582年の本能寺の変では、弟の力丸・坊丸とともに最後まで信長を守り抜き、18歳で討ち死にしました。
障子を閉め直すエピソードや、みかんをわざと落とすエピソードなど、信長を立てる気配りの逸話が数多く残っています。

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