森蘭丸(森乱)、エピソードで気配り上手。森長可は兄。明智光秀を見抜くイケメンな信長の小姓?最期は?

戦国時代のイケメン代表、森蘭丸。その噂は本当だったのでしょうか?

織田信長のお気に入りの小姓でした。

気が利く小姓で、明智光秀の動きにも気がついていたのではないかと言われています。

最期は織田信長と共に本能寺にで討ち死にします。

ここでは森蘭丸の気配り上手なイケメンぶりを見ていきましょう。

森蘭丸(森乱)のエピソード

森蘭丸のエピソードは、森蘭丸の有能ぶりをよく表しています。

「老談一言記」(ろうだんいちごんき、歴史のいつわしゅう、江戸時代中期に成立)、「朝野雑載記」(ちょうやざっさい、戦国時代の武将について書かれた本、成立は1800年代後期)に以下のようなエピソードがあります。

どれも、嫌味な感じに聞こえるのですけどね。

エピソードその1

仕事中の織田信長は部屋の障子が開いているような気がしました。

そこで控えていた森蘭丸に、障子を閉めるよう言いつけました。

しかし森蘭丸が見に行っても障子はしまっていました。

そこで、森蘭丸は、障子を自分で開けて音を立てて締めなおした後、信長の元に戻って「障子は閉まっていました」と報告するのです。

信長は「障子がしまった音がしたぞ」と言ったところ、森蘭丸は、「信長様に恥をかかせてはならないように、わざと戸を閉め直しました」と、事実を言いました。

ここに見えるのは、真実を告げる森蘭丸の態度でした。「はい閉めました」とそう告げればいいだけなのに・・・

正直に話すことで、森蘭丸は嘘をつかない人物、だから信頼できる人物と信長に印象づけました。

エピソードその2

信長が爪を切った時のエピソードです。

ある日、爪を切り、その爪をすてるよう森蘭丸に言いました。

森蘭丸は、爪が9本分しかないことに気がつき、残り一本の爪を探しました。

爪ごとき、と思うかもしれませんが、爪や髪の毛は、人を呪う時に使われるアイテム。

今ではそんなこと考える人はいませんが、江戸時代末期ごろまではまだまだ信じられていました。

細かいことにまで気が回った森蘭丸、その有能さを見せた話でした。

ですが、爪を切るとき、一本の爪から出るかけらは一個だけとは限りませんよね。

20個以上は出ると思うのですが・・・

まさか森蘭丸は爪を復元してみたのでしょうか?と疑問が湧きました。

もしかしたらフェイクが入った話かもしれません。

エピソードその3

森蘭丸は、台の上に乗せた山盛りのみかんを運んでいました。

それを見た信長が「気をつけろ、転ぶぞ」と声をかけました。

その後すぐに、森蘭丸はこけて、みかんをころがし、台をこわしました。

「それ見たことか」という信長でしたが、森蘭丸は涼しい顔です。

実は森蘭丸、わざと転んだのです。

信長様が、「転ぶぞ」といったのに、何事もなく運んだら、殿様の言葉が間違っていたことになる、それで殿様は間違えないのだ、ということを示すために転んだ・・・・こう森蘭丸は言いました。

殿様第一なのですが、どうも殿様のご機嫌取りをしているようにも見えるのですが。

下手するとあざとい(?)森蘭丸、に見えてきます。

世渡り上手な森蘭丸、なのですね。

森蘭丸(森乱)と織田信長?

森蘭丸と織田信長の関係は、どうだったのか?本当に同性愛の関係があったのか?という疑問を持たれる方は多いでしょう。

これは、その事実は認められない。いや関係はあった。その両方の説があります。

まず関係がなかったとする説は、「信長記」、「信長公記」にその記載がないこと。

だから同性愛関係にはない、というのです。

しかし、関係ある、という説では、戦国時代の武将は、男色も武家のたしなみだから、あえて記録することもない。当たり前のこと。だから関係があった、と言います。

江戸時代には、戦国物の歴史書が数多く書かれ、その中に男色が描かれています。

その中の「明智軍記」「森家先代実録」でも男色、美少年の単語が見つかります。

しかし、森蘭丸が男色で信長の相手だったとは、直接に書いていません。

また森蘭丸について特に詳しく描かれているわけではありません。

しかし、実際はあったという説に私は賛成したいです。

森蘭丸(森乱)の評価は

森蘭丸は、容姿で気に入られた、と思いがちですがそれだけではありません。

森蘭丸の評価される点こそが容姿以外の部分です。

森蘭丸は、織田信長を思いやる行動をしています。

エピソードで見るように、信長のプライドを傷つけない気配りの人です。

もちろん織田信長を怒らせると恐ろしい、ということもありますが、それだけではなく、織田信長の存在そのものを尊敬し、慕っていました。

信長の、日本統一を目指すこころざし、目的を達成するためのやり方そのもの、性質を含めて、信長はあこがれの存在だったのです。

そして信長の夢を叶えるために、全てを捧げたいと思ったことでしょう。

かゆいところに手が届くような勤務ぶりを見せています。

蘭丸の、信長を立てる働きぶりから考えると、森蘭丸は信長の有能な秘書としての評価は高いです。

森蘭丸(森乱)、明智光秀の陰謀を感じた?

織田信長の秘書のような仕事をしていた森蘭丸。秘書だけあって洞察力も優れていました。

明智光秀の本能寺の計画も気がついていました。

森蘭丸(森乱)、明智光秀を打つ

討つではなく打つです。つまり殴った、ということです。

織田信長が、同盟を結んでいる徳川家康を安土城に呼んで、接待します。

接待責任者は明智光秀でした。

明智光秀は、家康の宿泊所や料理を豪華に飾り立てて準備しましたが、贅沢さに信長は怒りました。

そこで、誰かに明智光秀の頭を罰として殴れと命令したのですが、家来の誰もが恐れてやろうとしませんでした。

明智光秀は身分の高い武将です。そんなことを家来はやりたくありません。

だからと言って、信長の言いつけにさからって、罰せられるのもイヤだし・・・

そんな中、森蘭丸がすくっと立ち上がって、鉄扇で明智光秀の頭を殴ったのです。

みんな驚きのあまり、開いた口がふさがらなかったでしょうね。

あんな小僧が、有力な武将の頭を殴ったのですから・・・・

光秀は散々な思いだったでしょう。

本能寺の変はこの出来事の約2週間後に起こりました。

森蘭丸(森乱)、本能寺計画あり、とみた

明智光秀は、殴られた上、厳重注意までされた時に、「この仕打ちはあんまりにもひどい!ですが、だからと言って、謀反までは考えておりません・・」と言ったのでした。

それを聞いた森蘭丸は、明智光秀に反乱を起こす気持ちがある、とみて、信長に訴えました。

しかし信長は、森蘭丸の発言に対して、「ありえないこと」と言って、毛利家(もうりけ)を倒すための応援作戦を立てるのでした。

毛利の場所は中国地方です。

すでに毛利と戦いに、豊臣秀吉が行っているため、明智光秀をその応援に出す、という計画です。

その後に、信長も向かいます。

ところが、明智光秀は毛利に行かずに、「敵は本能寺にあり!」と言って自分の軍を京都の本能寺に向けたのです。

もし、織田信長が、森蘭丸の忠告を聞いていたら・・・明智光秀は毛利に行かずに捕まっていたかもしれない?

もし忠告に耳を貸していたら、信長自身も出陣しなかったかもしれない。

もし・・・本能寺の守りをもっと、厳重にしたかもしれない・・・

歴史に「もし・・・」はありませんが。

森蘭丸(森乱)の最後

森蘭丸(森乱)、本能寺にて

1582年、織田信長は、中国地方の毛利討伐のため出兵します。

途中の宿泊所が京都の「本能寺」です。そこを信長暗殺をねらう明智光秀は、夜襲をかけます。

森蘭丸は小姓として務めていたので、戦闘の経験はありません。

いわゆる武官ではなく文官という、職種でした。

武道は多少なりとも習ったかもしれませんが、実戦で使えるものではありませんでした。

それでも、信長の近習として最後まで信長についたまま戦いました。

そして森蘭丸、は一緒に信長に仕えた二人の弟、力丸、坊丸と戦い、本能寺で命を落としました。

森蘭丸(森乱)を討ち取った男、安田国継

森蘭丸は明智家の家臣、安田国継(やすだくにつぐ)に打ち取られました。

その時、森蘭丸は、白装束で髪もきれいに結った姿だったそうです。その時は18歳でした。

それを記述しているのは他でもない、討ち取った、安田国継。

安田国継は生き残って、名前を変え天野源右衛門(あまのげんえもん)と名を変えます。

そして書いたと言われるのが『天野源右衛門覚書』なのですが、実はこの書物、江戸時代幕末に書かれた、創作物ということがわかりました。

本は実際に書かなかったとしても、安田国継は森蘭丸の最後は見たはず。

そのことを、何かにつけて話していた、ということも考えられます。

それに、「森蘭丸はこうあるべき」と、後世の人々が抱いていたイメージが一緒になって、今日私たちが想像する、森蘭丸の最後の姿、となったのではないでしょうか。

森蘭丸(森乱)はイケメンだった?

森蘭丸を思い出す時、織田信長に使える美少年、イケメン、のイメージですが、本当にイケメンだったのでしょうか?

大河ドラマ、時代劇、絵画に見る森蘭丸はどれも若いイケメンですが・・・

しかし、織田信長を記録した「信長記」をはじめ戦国時代の書物には森蘭丸の容姿については何一つ書かれていません。

どの文書にも森蘭丸の容姿が描かれていない、それならたいしたことはない。というのが結論です。

森蘭丸の兄、森長可(もりながよし)は「鬼武蔵」というあだ名があり、その顔立ちについては「鉄面頬入らず」と言われたという記録があります。

鉄面頬(てつめんぼう)とは、兜についている装備で顔を守ために使います。そのデザインは大体怖い顔に作られています。

つまり、森蘭丸のお兄さんは鉄面頬がいらないほど非常にゴツい顔立ちをしていた、とのことです。

もし森蘭丸がお兄さんに似ていたら、イケメンとは言えないでしょうね。

しかし、森蘭丸は気配りの人でした。

その気配りが有能につながり、立ち振る舞いが、森蘭丸をイケメンに見せていたのでしょう。

「顔じゃないよ。心だよ!」

森蘭丸(森乱)の兄、森長可(もりながよし)

森蘭丸のすぐ上の兄は森長可(もりながよし)と言います。森蘭丸より7歳年上です。

父の森可成、長男の可隆(よしたか)は戦死したので、次兄、長可が森家の当主になりました。

弟、森蘭丸たちが亡くなった後はも織田家に忠誠を尽くしています。

名前に「長」が入っているのも織田信長から頂いた名前なのです。

妻は、池田家の出身です。

妻の実家は信長の臣下 池田恒興(いけだつねおき)。

ですから、森長可も義理の父とともに秀吉に従っていました。

武力にすぐれ「鬼武蔵」と呼ばれ、鉄面頬要らずとまで言われた兄とはこの森長可のことです。

どうも顔が鬼瓦のように怖かったから、と言うことも、鬼武蔵と呼ばれる理由の一つです。

しかし、「どうする家康」を見る限り、城戸優がカッコ良すぎて、鬼瓦には見えません。

それより、さすが、森蘭丸のお兄さん!と言う感想です。

1584年、小牧・長久手の戦いで敗れます。

小牧・長久手の戦いの最中、徳川の気力を挫こうとして、徳川の本拠地、三河を潰そうとします。

しかし、その策を読まれて、反対に追ってきた徳川の家臣の部隊に攻め込まれ、徳川の足軽に眉間を撃ち抜かれて戦死します。

長久手氏には、森長可の戦死の場所に「武蔵塚」が建てられています。

森蘭丸(森乱)の名前

蘭丸、というのは幼名です。

しかし元々は「蘭」ではなく、「乱」とされています。

しかも「丸」はついていなく、「乱」、「御乱」または「乱法師」ということが昔は知られていました。

「蘭」の文字は軍記物語で使われています。

それと、イケメンが一緒になって、美しい「蘭」の文字の方がイメージなので、今では「蘭丸」が普通です。

大河ドラマ「どうする家康」では「森乱」の名前での登場です。

なお、成人してからの名前は、「成利」(なりとし)です。しかし「長康」(ながやす)と書かれている文書もあります。

森蘭丸(森乱)の家族

森家の兄弟

森蘭丸の父は、森可成(もりよしなり)。織田の家臣です。

父は武勇に優れ、槍の名手でした。

森成利こと、蘭丸は、1565年、森可成の三男として生まれます。全部で6人兄弟です。

森可成は愛妻家で、子供はみな同じ女性の子供です。側室を持つのが戦国武将の習慣とした中では珍しいことでした。

森蘭丸は1577年に弟、力丸(りきまる)、坊丸(ぼうまる)、忠政、とともに信長の小姓となります。

この時の森蘭丸は12歳ですね。

この二人の弟も森蘭丸と一緒に、本能寺で討死しました。

三人兄弟で、頑張って織田信長を守ろうとしたのでしょうね。

森家のその後

では後継者はいたのか?

森家にはもう一人、六男の忠政がいました。この人は幼名でなく元服名での名が残っています。

忠政も、織田信長に小姓として使えましたが、本能寺の変があったときにはちょうど留守番でした。

そこで忠政だけが残り、森家の当主となりました。

森蘭丸直系の子孫はいませんが、生き残った忠政には子孫はいる可能性はあります。

しかし、現代では知られていません。

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