マリー・アントワネットの住んだところ、オーストリア時代は?ヴェルサイユ、プチトリアノンを経て、テュイルリー、そしてタンプルとコンシェルジュリーへと

マリー・アントワネットについて、今回は、マリーが住んだ城に注目して見ました。

今回は、マリー・アントワネットの生涯を、その住んだところから見ていきます。

マリー・アントワネットのすべてについては、こちらをご覧ください。

シェーンブルン宮殿、ベルサイユ宮殿、プチ・トリアノン宮殿、テェイルリー宮殿、タンプル塔、コンシェルジェリと、順を追って、解説していきます。

どこも、人気の観光地ですが、マリー・アントワネットのことを知りながら見学すると、またお城に関する見どころが変わって、もっと楽しめます。

マリー・アントワネットのオーストリア時代の宮殿は?

マリー・アントワネットは結婚前に過ごしていた、オーストリアの宮殿はどんなものだったでしょうか?

マリー・アントワネットが過ごしたのは、シェーンブルン宮殿です。

この宮殿は夏の離宮とも呼ばれ、実際オーストリアの歴代の君主たちは、夏はこの宮殿で過ごすことが多かったです。

シェーンブルン宮殿は、ヴェルサイユ宮殿をモデルにして作られて宮殿。

「鏡の間」によく似た広間があり、マリー・アントワネットは幼い頃から、慣れ親しんでいましたから、結婚して、ヴェルサイユ宮殿に言っても、どこか懐かしさを覚えていた、のでは?

シェーンブルン宮殿で少女時代のマリー・アントワネットは心ゆくまで、少女時代を楽しみました。

色々とイタズラもして。

オーストリアには、ウィーン中心にホーフブルク宮殿があり、このほうが、皇帝、女帝が政務をとる宮殿となっています。

ここは、また、冬の宮殿とも呼ばれています。

シェーンブルン宮殿の方が、プライベートな居城として、扱われていました。

のちの時代(エリザベートの頃、19世紀)になると、またシェーンブルン宮殿の役割は変わってきていますが、それはまた別のお話です。

マリー・アントワネットは、ヴェルサイユ宮殿で

マリー・アントワネットが結婚後に住んでいた城は、ヴェルサイユ宮殿でした。

ヴェルサイユ宮殿というと、遠い日本に住んでいる私たちには、パリにあると思いがちですが、パリではありません。

ヴェルサイユ宮殿は、当時のフランス王国の中枢。

ヴェルサイユ宮殿が、フランスの政治の中心地となったのは、ルイ14世の頃からですが、その理由は、こちらに説明してあります。

王が政治をとるべき場所で、王妃も王と共にいなければならない場所でした。

しかし、王妃はいつも…

1789年に、革命軍の手による、バスティーユ監獄の襲撃が起こると、やがて暴動の手がヴェルサイユ宮殿にも襲い掛かり、

マリー・アントワネットたちは、ヴェルサイユ宮殿を、永遠に去ることになるのです。

ヴェルサイユ宮殿とパリの距離

ヴェルサイユという地名で、パリから少し離れています。

距離は約22キロ、ちょうどハーフマラソンの距離ですね。

現在だからこそ、パリ、ヴェルサイユ間は、列車で30分〜40分ほどですが、マリー・アントワネットの時代は、馬車で、2時間もかかりました。

マリー・アントワネットは、パリ行きがとても気に入って、王妃に即位してからは、ひんぱんに出かけることになります。

ということは、その間、マリー・アントワネットはヴェルサイユに不在。

束の間の休暇を楽しむ程度ならいいのですが、必要なときに、王妃が王宮にいないのってどうなの?

たかが2時間、されど2時間。

ヴェルサイユにいない、王妃の人気は王宮ではだんだんと落ちていきます。

マリー・アントワネットは、ヴェルサイユ宮殿のロココ風を愛した?

マリー・アントワネットは「ロココの女王」と呼ばれていますが、マリーアントワネットは、ロココより、少しだけ次の時代にきた、新古典主義の方が好みでした。

ロココとは、芸術様式ですが、時代で言うと、18世紀初頭〜中期にかけて流行しました。

特徴は、「ロカイユ」と呼ばれる貝殻から発想を得た装飾で、優美で女性的です。

優美な点が、マリー・アントワネットにハマっている感じですね。

ヴェルサイユ宮殿自体は、ルイ14世(ルイ16世の曽祖父)の時代に建てられた宮殿なので、、バロック様式です。

内部の装飾には、ロココを取り入れているので、ヴェルサイユは、バロックとロココの混ざった宮殿ということができます。。

ヨーロッパの城は、壮大なので、建築の着手から完成まで、長い時をかけているので、作っている間に、様式が足されていることがよくあります。

ベルサイユもそんな宮殿です。

ルイ14世の時代に、出来上がってから、フランス王国の政治の中心地となっていました。

マリー・アントワネット、なぜヴェルサイユが、嫌になった?

マリー・アントワネットは、ヴェルサイユが嫌、というより窮屈さが嫌、だったのです。

それはヴェルサイユの生活が、たえず人の目にさらされているからでした。

食事の時、下級の貴族たちは、王家の人々が食事をしているのを見学することができました。

またのちには、出産も大勢の人が見守る中で、行われました。

もっとも出産が大勢の目に触れるのは、この妃から確かに生まれた子である、ことを証明するためでした。

過去には、本当に産んだ子ではないのかも?または双子だった、という疑惑が起きていたからです。

他にも、朝の着替えなどは、洋服一枚一枚、王妃に手渡す係が違っており、王妃が完全に衣服を身につけるまで、ずっと待っていなくてはならない、それはめんどくさいですね。

窮屈すぎて嫌になる習慣です。

よその国から嫁に来ると、自分では受け入れにくいしきたりがたくさんあります。

逃げ出したくなる状況には同情しますが、一国の皇女と生まれ、王妃となる人物であるなら、乗り越える必要、あるいは変えていく必要があると思うのですが、

そのために努力をしないで、他に逃げてしまったのが、マリー・アントワネットの欠点だったのですね。

マリー・アントワネットが愛したプチ・トリアノン宮殿

マリー・アントワネットが一番愛した、プチ・トリアノン宮殿をご紹介しましょう。

マリー・アントワネットにとっては、非常に重要な位置を占める、宮殿です。

マリー・アントワネットを政治から離した、プチ・トリアノン宮殿

プチトリアノン宮殿が、マリー・アントワネットをフランス革命の渦に落とした、と言えると思います。

なぜかというと、マリー・アントワネットはプチ・トリアノンを愛するあまり、王妃としての務めを蔑ろにするようになったからです。

この宮殿は、ヴェルサイユ宮殿の敷地ないにある宮殿で、離宮と言っていい、小さな宮殿です。

プチ・トリアノンは、マリー・アントワネットの別荘的意味合いが強い宮殿でした。

それもそのはず、マリー・アントワネットは、ヴェルサイユ宮殿のわずらさしさが嫌になったから、プチ・トリアノンに逃避してきたわけですから。

それでもその逃避の方が、マリー・アントワネットの生活になってしまったのです。

そして、恋人だった、フェルゼン伯爵と一緒に過ごしたのも、このプチ・トリアノン宮殿でした。

プチ・トリアノン宮殿の由来

プチ・トリアノン宮殿は、夫のルイ16世からマリー・アントワネットへの贈り物です。

るい16世が建物を贈ったとき、鍵を渡すのですが、その鍵はダイヤモンド、531個が散りばめられた、という豪華なもの。

贈り物、と言っても、マリー・アントワネットのために建てられた宮殿ではありません。

ルイ16世の祖父、ルイ15世が自分の愛妾 ポンパドゥール夫人のために建てた城です。

愛人のために作られた城を、マリー・アントワネットがもらう、というのは、いかがなものでしょうか?

かつて、ルイ15世の愛妾だった、デュ・バリー夫人とのいざこざで、マリー・アントワネットは深く自尊心を傷つけられました。

そういう人が、愛妾のものだった、城を喜んでもらうかな?と思いましたが、マリー・アントワネットは物事を深く考えない女性。

だから、城のことも、こじんまりした美しさ、理想の城、というところだけに気を取られて、由来についてまでは、気が回らなかったのでしょう。

マリー・アントワネットのプチ・トリアノンでの生活は?

マリー・アントワネットは、プチ・トリアノンで、非常にくつろいだリラックスした生活を送っていました。

ヴェルサイユ宮殿での、政務に追われるストレスを癒すために、プチ・トリアノンで過ごしていたわけです。

休日を、ここで過ごしリフレッシュしてまたヴェルサイユに戻る、というのなら、納得もいくのですが、どうもこちらでの生活の方が気に入ってしまいました。

そして、自分が気に入った人とだけ、ここで過ごす、という毎日でした。

呼ばれた人物は、ポリニャック夫人、ランバール公夫人、顔もでした、そして恋人と言われていたフェルゼン伯爵でした。

大貴族を締め出してしまった、マリー・アントワネットは彼らから、恨まれることになります。

のちに、革命が起きた時に、マリー・アントワネットに貴族の味方がつかなかったのは、自業自得という面もあります。

マリー・アントワネット好みのインテリア

ここで注目したいことは、プチ・トリアノン宮殿内の、インテリアは、ロココ様式と新古典様式の両方を取り入れた作りです。

時代で言えば、ちょうど、ロココから新古典主義への過渡期、と言えます。

建物の外観は、新古典主義様式でした。

家具などのインテリアは、サロンには、ロココ風の椅子が配置されていますが、「会食の間」「内殿」は家具にはゴテゴテさが取れてスッキリした、テーブル、椅子が置かれています。

サロンの椅子が、ロココ風と言っても、キンラン色ではなく、ピンクの花の可愛らしい印象です。

マリー・アントワネットの寝室は、宮殿に備えてありますが、国王 ルイ16世の寝室はありません。

マリー・アントワネットは、ルイ16世を、プチ・トリアノンに招待する気がなかったのでしょうか?

その代わり、恋人と言われる、スェーデン貴族フェルゼン伯爵はしっかり招待されています。

フェルゼンといえば、プチ・トリアノンの庭園には東屋(あずまや)が作られており、そこにはキューピット像がありますが、それは現代に残されているものとは違い、

当時は、フェルゼンの顔を模した美しい像だった、と思われる記録がある、ということで今は調査中です。

マリー・アントワネットのお気に入りの農村をプチ・トリアノン敷地内に

ここでは何が目を引くかといえば、人工的に作られた農村です。

乳牛を飼って、搾乳風景を楽しんだり、麦を植え刈り取る、そして自分も時々参加する。

そこで農作業する人たちは、農作業をするために、わざわざ雇われていました

農村生活の完全なコピーなのですが、その様子を知った、本物の農民たちは怒りました。

自分たちの、神経を逆撫でするようなものでしたから。

何が楽しくて、苦しい農村生活をコピーし、そのためにわざわざお金をかけてまで…

本家本元の農民たちからすれば、ふざけるな!ですね。

マリー・アントワネット、プチ・トリアノンを愛した結果

快楽ずきなマリー・アントワネットの性格を示したのが、プチ・トリアノン宮殿でした。

その宮殿が、マリー・アントワネットとヴェルサイユの距離を作ってしまったような者でおす。

マリー・アントワネットは、プチ・トリアノンをあまりにも気に入り、ヴェルサイユ宮殿に戻ることが少なくなりました。

ここから感じられるのは、マリー・アントワネットは、現実逃避型の人間?ということ。

一般人としてならどうでもいいのですが、王妃という責任ある身の上ならば、これはよろしくない傾向だと思います。

マリー・アントワネットとプチ・トリアノン宮殿からわかること

プチ・トリアノン宮殿は、マリー・アントワネットが心血注いで作り上げた宮殿といえましょう。

それは、単に愛した、というだけでなく、のめり込んだ、だけでなく、マリー・アントワネットの趣味についての認識を新しくした、と思われます。

マリー・アントワネットの好みは、後世の人が見ているように装飾ゴテゴテしたものが好き、というわけではなかったのです。

マリー・アントワネットの趣味は、あっさりした上品なものだった、ということを示してくれる建物、それがプチ・トリアノン宮殿でした。

マリー・アントワネットの牢獄、テュイルリー宮殿

フランス革命が起こると、マリー・アントワネット一家は、ヴェルサイユ宮殿を去らなければなりませんでした。

そして、今度はテュイルリー宮殿で、監視される身の上になりました。

これまでのヴェルサイユ宮殿でも、人々の目にさらされる生活をしていたのですが、今度はもっとたちの悪い、刑務所の監視下の状態になってしまいました。

マリー・アントワネットが連れて行かれたテュイルリー宮殿とは?

パリの中心にある宮殿ですが、マリー・アントワネットとルイ14世の時代、この宮殿は使われていませんでした。

太陽王と呼ばれたルイ14世の時代まで、王が政治をとるところとして使われていましたが、1683年、に王国の中枢はヴェルサイユ宮殿に、引っ越しました。

それが、1789年 フランス革命が起きると、ルイ16世をの国王一家は、革命軍の下によって、テュイルリー宮殿に連れて行かれます。

マリー・アントワネットたちはなぜテュイルリー宮殿についれて行かれた?

1789年は、民衆が国王に庶民の苦しい生活を知ってもらおうとし、ヴェルサイユ宮殿に進軍しました。

その時の、民衆のスローガンは「パンをよこせ!」というもので、暴動が起きるのは一触即発というところまで来ました。

この時から、マリー・アントワネットやルイ16世の支配者としての権力を奪われつつあり、パリまで国王一家を連れてきて、庶民の苦しい生活を見せてやるつもりだったのです。

それと同時に、マリー・アントワネットや国王を自分たちの監視できるところにおいておこう、という意図がありました。

この時、「マリーアントワネットには2度と、ヴェルサイユに戻れないような予感がした」、とマリー・アントワネットが書いた手紙に記載があります。

この宮殿は、長年にわたり使われていなかったので、かなり古ぼけていたと思います。

ツヴァイクの小説「マリー・アントワネット」の中で、息子のルイ・シャルルが、古臭いところ、と文句を言うシーンがあります。

ここから、監視の目をかいくぐって、マリー・アントワネット一家は、亡命を図ります。

マリー・アントワネットの獄舎、タンプル塔

ついに国王一家は、革命軍の監視のもとに置かれた住居がタンプル塔です。

ここは、歴史好きなら注目したくなる城です。

中世(12世紀)からあった城で、イスラエル奪還する騎士団、テンプル騎士団(フランス語だと、タンプルが近い)の居城だった城です。

フランス革命以降は、牢獄として使われるようになりました。

古い城だし、騎士団の城だったこともあり、質素でした、贅沢な環境になれた、マリー・アントワネットたちにとっては、非常に苦痛に思えたことでしょう。

しかし、この城で、マリー・アントワネットと国王一家は、監視の目にさらされながらも意外と、家庭的な生活を送れるのです。

例えが、親が子供に勉強を教える、など、一般的に見られる家族の生活が見られたようです。

マリー・アントワネットもある程度の贅沢な暮らしが許されるようになり、ヴェルサイユから、必要な品物を持ってきてもらうことができたし、

マリー・アントワネットお抱えのデザイナー、ローズ・ベルタンも出入りできるようになり、

ルイ16世は、この城からギロチンへと向かいました。

マリー・アントワネットの最後の住居、コンシェルジュリー

マリー・アントワネットの最後の住まいになった場所はコンシェルジェリー。

「コンシェルジェリー」という言葉、聞き覚えがありませんか?

ホテルやマンションの受付の人のことをコンシェルジェリと言います。

パリの中心、シテ島の中にあり、10世紀〜14世紀は、国王が移動の時に付き従う、守衛たちの詰め所として使われていました。

コンシェルジュリーとは、元は、守衛という意味でしたが、やがては守衛たちがいる建物そのもののことを指すようになりました。

守衛、見張りという名前が今でも残り、ホテルやマンションの管理人をコンシェルジュリーと呼んでいるのですね。

1370年に、国王はその城、コンシェルジュリーの使用をやめ、その時から、牢獄として使われて、フランス革命時代に及ぶのです。

城のふたつの塔が、牢獄として使われ、その他の建物は、国民公会の革命裁判所が作られました。

革命政府としては、牢獄と裁判所を簡単に行き来できる、効率的な作りだったのでしょう。

コンシェルジュリーは最近私たちは、目にしています、

2024年7月に行われた、パリ五輪、開会式のアトラクションの演出です。

本物の、コンシェルジュリーを使い、窓辺に、たくさんの赤いドレスを着たマリー・アントワネットならべ、それが一斉に歌い出す、というシュールな演出でした。

それを見ると、フランス国民は、マリー・アントワネットを「悲劇の王妃」として見ていないのだなあ、と思う次第です。

平穏な時のコンシェルジュリーはたたずまいも美しく、内部もととのえられており、あんな悲惨な歴史があった、とは思えないような感じです。

まとめ

マリー・アントワネットは、ジェットコースターのように、運命の急降下を味わった人間です。

住居にそれがよく現れていますね。

一人の人物がこんなに、住居を変えた、特に人生後半は。

それも自分の好みではなく、人の手で、移されたのですから。

幼少期、結婚後、王妃としての在位中は、非常に煌びやか、そして美しい宮殿に住んでいました。

革命が起こると、戦犯として扱われ、その住居も変えられてきます。

住居からも、わかるように、マリー・アントワネットは、人生で、天国と地獄を味わった人物なのです。

マリー・アントワネットが過ごした城たちは、彼女がどんなに苦しい時を過ごしたか、など全く関係ないかのように現在では、観光資源となっているところが皮肉でもあります。

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