ルイ16世は、フランス王でフランス革命に遭い、ギロチンで処刑されました。
優柔不断、愚かと呼ばれていた王ですが、実際は、勉強家で知識も豊富な上、現在言われているほど、太った王でもありませんでした。
そんな長所を数多く持った王が、なぜ処刑されなければならなかったかを、ここで考察してみました。
ルイ16世は、なぜ処刑されたか?
これは非常に単純な理由で、「国王であるから」なのです。
国王一家の全ての人に当てはめられた処刑理由は
「祖国の革命に対する裏切り」ということなのです。
処刑理由として考えてみると、漠然とした曖昧な理由、にしか聞こえませんね。
どうやら、革命政府の方も、ルイ16世の処刑理由をはっきりと示すことができなかったのでしょう。
ルイ16世、処刑の投票
ルイ16世に対する裁判が行われ、最後の判決、それは多数決で行われました。
結果、361票 対 360票。
たった1票の差で、有罪、死刑と決まりました、ということがツヴァイクの歴史小説に書かれていますが、
実はこの結果に至るまで、時間がかかっています。
最初におこなわれた投票では、死刑賛成 387票、反対 334票でした。
こうした結果が出たら、有無を言わさず処刑、という流れになるのですが、
賛成の投票には、執行猶予をつけるというものが26票ありました。
そこで、その猶予票を反対票に回した結果が、361 対 360 なのです。
ここまで、票の取り扱いに迷った、ということは、ルイ16世の罪状を疑問視する人が多かった、ということを表ししているのではないでしょうか。
ルイ16世は優柔不断だった?
ルイ16世は、フランス革命を回避するには、優柔不断な性格の持ち主でした。
元々、内気な少年だったところに、帝王教育を受けて「感情や心の内を表さないように」という術を身につけました。
ですから、妻となったマリー・アントワネットを始めとして、周囲の人たちからは「何を考えているかわからない人」と見られていました。
フランス革命が起きた時でも、市民たちからは、「王の考えが、わからない」とまで言われるほど。
優柔不断を反面から見ると、慎重。まさにルイ16世は慎重な人物でした。
外交では、すぐに答えを出さないことで、相手は混乱し、その分有利に交渉を進められる、という利点がありました。
もしルイ16世が自分の性格を利用していたとしたら、賢い王ということができます。
ですがルイ16世は、自分を知った上での、交渉だったと思います。
しかし戦争や、革命などでは、素早い決断が要求されるので、ルイ16世の持つ、慎重さは命取りになりました。
逃亡事件(ヴァレンヌ逃亡)では、なかなか決断しなかったために、出発の決断が遅れ、そのため失敗に終わってしまいました。
ルイ16世がギロチンを改良した?
ルイ16世はギロチンによって処刑され命を落としました。
実はギロチンの、改良に力を貸したのが、他ならぬ、ルイ16世なのでした。
ギロチンの語源になったのは、ギロチンの考案者、フランスの医師 ジョセフ=イニャス・ギヨタンです。
Guillotinと書きますが、l(エル)が二つ続いた場合、フランス語では「ヨ」となりますが、私たちは「エル」のまま「ギロチン」と読んでいます。
そのギロチンの、刃に改良を提案したのが、ルイ16世だったのです。
それは刃を、斜めにして、より切れやすい形にする、そうすることで処刑される人の苦痛が軽減されることを目的としました。
ギロチン自体、非常に残任性を感じる物体ですが、ギロチンが出る前まで行われていた処刑の斬首方法では、処刑人が刀を使って行うため、失敗することもありました。
処刑が失敗する時代から見れば、一瞬で死にいたるギロチンは「人間的」と見えた、それが18世紀の見方だったのです。
それでも、断頭台(ギロチン)まで自分で歩いていかなければならないから、恐怖を感じる、という点では、相当苦しい処刑方法ですね。
そんな、ギロチン改良に手を貸した、ルイ16世、歴史の皮肉を感じます。
ルイ16世、どんな人?
ルイ16世は自分の見た目や性格にコンプレックスをもっていました。
自分に自信がなく、そして、真面目な性格、かなり忍耐力の強い人柄でもありました。
ルイ16世は、兄の死後から帝王学を学ぶようになり、1日12時間も勉強していました。
ルイ16世は勉強家!
1日のうち半分を勉強に費やす、というのだから、勉強好き、知的好奇心が高いことを意味します。
何より読書好きだった、と言います。
複数の言語に堪能で、物理学、数学、航海術、地図作成術で、優れた能力を発揮していました。
勉強好き、というと、どうしても暗いイメージを持たれますね。
特に18世紀フランス宮廷の華やかな世界と比べると、時代にそぐわないです。
「鈍い王様」とルイ16世が言われていたのは、同時代の貴族たちは影口のせいもありました。
しかし、自分たちとは少々違うところ、好みが合わないことなどは、国王、という特別な身分にあるものだから仕方がない、宮廷の人々は思っていたところもありました。
ルイ16世が「愚かな王」と言われる理由は?
18世紀の貴族的生活と感覚が違うから「愚か」と言われたのでしょうか?
いえ、それよりも、のちの革命政府にも原因はありました。
革命政府のプロパガンダ?
「愚かな王」と言いだしたのは、のちの革命政府側でした。
革命政府は、国王を処刑してしまったのだから、その王が悪い王であってくれないと、困るわけです。
つまり処刑の言い訳として、広めたデマなのです。
王の落ち度を、「愚か」ということにしました。
革命政府は言い訳を考えるのに、必死だったのですね。それほど、ルイ16世そのものに罪を見出すのが難しかったのでしょう。
ルイ16世の日記には、「何もなし」
しかし、後世の私たちが、ルイ16世は愚かだったのではないか?と思われることが一点あります。
それはフランス革命が起きた日、1789年7月14日のことです。
日記に、「何もなし」とルイ16世はつけていたからです。
国の一大事に…と思うのですが。
ルイ16世は、革命というものを身をもって知らなくて、ちょっとした反乱ぐらいの意識しかありませんでした。
それは愚か、というより無知だったからです。
この頃は、王権神授説が信じられていて、王の位は神から与えられたものだから、それに逆らうことは神に逆らうことと同じ。
だから神の罰を恐れて、王に歯向かうものはいない、という説でした。
ある意味、ルイ16世をはじめとする、当時のフランス貴族は平和ボケしていたのかも知れませんね。
ルイ16世の見た目は?
漫画や、アニメの「ベルばら」をみると、ルイ16世の見た目は良くない、とかかれています。
結婚式直前の顔合わせでも「こんな眠そうな目をした人が私の夫」とマリー・アントワネッとのモノローグがありましたし、
「ベルばら」での絵柄も、ルイ16世はコロコロしていました。
では本当に、見た目が美しくない人だったのでしょうか?
ルイ16世の肖像画は、結構残っています。
それらをみると、そんなに魅力ない顔立ちには見えません。
マリー・アントワネットが初めてルイ王太子(のちの16世)に出会った頃の肖像画もありますが、それでは、太っていません。
ルイ16世を18世紀的視点で見ると?
ルイ16世は現代の感覚では、それほど見た目が悪いとは思えなくても、18世紀の感覚ではそれほど「イイ男」には見えなかったのです。
だから、ルイ16世は、間抜けとか、馬鹿な人、というレッテルを貼られなければならなかったのでしょう?
それは見た目よりも、ルイ16世が、気の利いた会話ができなかったからです。
18世紀の男性は、軟派傾向で、ちょっとふざけた感じに見える方が魅力的、と思われていたのです。
また会話も、男女の仲をほのめかすような(実際に関係がなかった間柄としても)話を上手にもっていける人がステキ、とされていたので、
そのような洒落た会話ができないルイ16世は、ノロマと言われてしまうのです。
ルイ16世自身、あんまり会話上手ではなかったので、現代でいう、コミュ障が感じられます。
ルイ16世の身長は?
ルイ16世は太ってる、というイメージが強く身長までは考え使いませんでしたが、
実は長身です。
残された遺品から、また肖像画に見る比較から、190センチを超える長身であったことがわかっています。
マリー・アントワネットと結婚した14歳の時でも、170センチ超えの身長でした。
ルイ16世の生まれた家系 ブルボン王家の男性は、背が高い人が多かったから、遺伝なのでは、と言われています。
ですから、ルイ16世も身長が高かったのですね。
ルイ16世は、本当に太っていた?
マリー・アントワネットと結婚した頃の肖像画に描かれたルイ16世は、そんなに太っていませんでした。
実は大人になっても、それほど太らなかったのが、ルイ16世の実態です。
ですが、残されている肖像画はどれも太めに描かれています。
なぜかというと、王様としては、痩せぎすより、むしろがっしりと見える方が威厳があるように見えるからです。
太っている、というより、しっかりした身体付きだったのではないでしょうか?
狩猟が好き、というのですから、鍛えられて体幹が良かったに違いありません。
痩せ型で背が高い、現代ならむしろイケメンの部類に入っていたかも知れませんね。
ルイ16世は大食だった?
大食いだった、とマリー・アントワネットの日記には書かれていました。
それなら太るだろう?と思われるのですが、過食症の傾向がありました。
というのも、たくさん食べた後、消化不良を起こし、マリー・アントワネットに看病される有様でしたから。
これはストレスによる、過食だったのでしょう。
ルイ16世は、真面目な性格でしたので、王の責務でストレスが溜まってたようです。
押さえ込んだ感情の吐け口を、大食で紛らわそうとしました。
国王の食事の記録によると、狩りに出かける朝は、カツレツ4枚、鶏肉一羽分、ハム一皿、1ダースものソース漬け卵、さらにシャンパンを1瓶半。
これではお腹を壊さないほうがどうかしています。
ルイ16世は、さらに、フランス革命が起きた時、ヴァレンヌ逃亡の時と、常に食べていました。
もしかしたら、ストレスから、中枢神経がおかしくなっていたのではないでしょうか?
ルイ16世に必要なのは、カウンセラーだと、思うのですが、18世紀の時代にはまだそのような医者はいません。
どうにも気の毒に思える、ルイ16世です。
ルイ16世の趣味
ルイ16世は読書好きでした。
そのほかでは、狩りと錠前作りが趣味でした。
狩りはともかくとして、錠前作りは、「暗い!」とみられがちですが、ヨーロッパの王族の中には、変わった趣味持つ人が多かったので、それほど変わっている、というわけではありません。
確かに優美な貴族たちから見たら、なんとも美しくない趣味に見えたでしょう。
錠前を作るには、工学や化学の知識と、確かな技術が必要だったので、勤勉なルイ16世にとっては、うってつけな趣味だったと言えますね。
狩猟が好き、というのは貴族にとって、良い習慣だったのではないでしょうか?
運動量も半端でないし、体力も必要とされます。
やはり、ルイ16世は、スラリとした長身に筋肉質、頭もいい、となればイケメンの要素はあったのではないでしょうか?
ルイ16世、不妊体質は本当?
ルイ16世は包茎だったか?そして治療のための手術をしたか?という話なのですが。
今では、そんなことはない、という説が主流になってきました。
まず、「ルイ16世は包茎の手術をした」という記録がどこにもないということです。公的の記録でも、日記といった私的な文章の中にもです。
では、ないものがどうして手術をしたことになっているかというと、結婚して子供がなかなか生まれなかったため。
フランスの歴史学者たちが「オーストリアの皇帝ヨーゼフ2世(マリー・アントワネットの兄)が強く勧めたために、手術を受けることにした」と書いてあるからです。
その割には、手術をしたという記録そのものが見つからない、というところが矛盾点です
確かにルイ16世の主治医が、ルイ16世に手術をした記録はあるのですが、手術をしたのは1782年。
それより前、1778年12月に、ルイ16世とマリー・アントワネットとの間に第1王女 マリー・テレーズが誕生しているので、ルイ16世への手術は、包茎関係ではありません。
じゃあ、これまでルイ16世に子供が生まれなかったの理由は、というと、ルイ16世の疾患などではなく、
単に ルイ16世が奥手であったというだけのことでした。
そして、人目につく中で、妻の寝室に行くのがとてもきまりがわるい、と思っていたからでした。
女性に対し、自由奔放だった、18世紀宮廷の貴族たちにとっては、そんな奥手が信じられなかったのでしょう。
ルイ16世の政治は?
ルイ16世に、処刑されるほどの悪い点を探すとしたら、政治の失敗ですが、実際はどうだったのでしょう。
ルイ16世、財政難からの回復に力を知れました。
財政難は、王妃 マリー・アントワネットの無駄遣い、と当時は言われていましたが、実際の財政難は、ルイ14世、15世時代の戦争費用のためでした。
ルイ16世の経済政策
ルイ16世は経済に詳しい者を、政府に入れて改革を目指しました。
それが、経済学者ジャック・テュルゴー、であり銀行家ジャック・ネッケルの登用でした。
しかし両者とも、財政計画に失敗し、フランスは革命にまっしぐら、と向かい始めました。
失敗した、というと二人が悪いような、感じがしますが、
そうではなく、二人とも精一杯の案を出したのですが、貴族たちがその危機に気が付かなかった、というのが失敗の大きな要因だと思います。
結局は、ルイ16世の、政策ミスと言われてしまうのです。
なんといっても、フランス国の最高責任者ですから。
それでもルイ16世の裁判の時には、政策ミスについてはあまり議論されなかったのですから、裁判は、ルイ16世の処刑がまず、最初にあっての裁判ということになりますね。
ジャック・テュルゴーの場合
ジャック・テュルゴーは裕福な商人出身です。
三男だったため、神学校に行き勉学の道に進み、勉学で優秀な成績を収めたため、やがて、ルイ16世の政治に参加となりました。
政策としては、穀物取引の自由化など、自由化による財政再建を目指しました。
しかし、1775年、小麦が不作となり、そのため農民一揆が起きたことで、チュルゴーの自由化政策は批判され、貴族たちの反発を買い、辞任しました。
飢饉が起こることで、チュルゴーの政策は失敗したのですが、商人出身ということで、特権階級の貴族たちからの反発もあったからと思われます。
商人出身だから、一度失敗すると、貴族たちからの風当たりは強いでしょう。
ジャック・ネッケルの場合
チュルゴーの後にフランスの財務長官となったのが、銀行家 ジャック・ネッケルでした。
ネッケルも貴族階級ではなく、ブルジョワと呼ばれた中産階級で裕福な銀行家で、しかもスイス人とでした。
ネッケルは、チュルゴーの穀物の自由化については批判していましたが、チュルゴーの退任後、財務長官として、ルイ16世から任命されました。
「国王への財務報告書」と提出し財政立て直しに取り掛かるのですが、王妃 マリー・アントワネットの臣下への増給を阻止したことで、職をクビになります。
次の財務大臣ブリエンヌが就任するも、貴族への課税を進言したところ、貴族の大反対にあい、ブリエンヌもクビになり、再びネッケルが財務長官として呼ばれました。
ネッケルは、ここで、財政立て直しには三部会議の必要性を感じ、三部会を開くのです。
しかし、ネッケルは、第三身分に有利にしている、革新的と貴族たちからみなされ、再びクビ、今回はフランスを出国する命令まで出されてしまいました。
ルイ16世のアメリカ独立戦争への支援はなぜ?
フランスは、植民地支配の夢再びを心に秘め、そこから得られる経済効果をアテにして、アメリカ独立戦争に支援を行ったのでした。
いえ、アメリカというより、アメリカ大陸の植民地ですね。アメリカに恩を売っておけば、アメリカ大陸の他の小国に対し、植民地政策が取れるからです。
アメリカと結ぶことで、フランスはイギリスを弱体化させることも、狙いました。
しかし、ルイ16世の先代の王たち ルイ14世とルイ15世が繰り返す戦争によって、財政がどんどん傾いていったことに、ルイ16世自身、気がついていないわけはないはずですが。
アメリカ独立戦争への支援から、一気に国力を経済力の回復を目指したのか?
そうだとしたら一か八かの、ルイ16世の賭け、かと思われるのですが。
フランス政府自体は、アメリカへの支援に対して、あまりいい顔はしませんでした。
だから、兵を派遣するのも、国からの派遣にしたのではなく、志願兵という形でした。
独立戦争は、アメリカがイギリスからの独立という形で、1783年、勝利しました。
独立戦争は突き詰めて言えば、アメリカ合衆国を支配していたイギリスからの解放、これは支配者に対する一種の革命、に近い考え方です。
アメリカへの志願兵というのも、自由さと近代化の理想を抱く人たちであった、というところにも、フランス革命への道を着実に進み始めていた、ということです。
ルイ16世には兄がいた!
どこの国でも、国王の後継は、国王の嫡子で長男である人物です。
しかしルイ16世には、兄がいました。
しかもルイ15世父ではなく、祖父だったのです。
兄が、健康で長生きしたなら、ルイは16世という王位につくことはなく、平穏な生涯を送ることができたかも知れない、と思うと、王位につくことが運命のいたずらと思われます。
ルイ16世はルイ15世の孫!
ルイ16世の両親は、父はフランスの王太子 ルイ・フェルディナン、母はマリー=ジョセフ・ド・サクス(ポーランド王にして、ザクセン選帝侯の娘)。
ルイ・フェルディナンは、ルイ15世の王子だから、ルイ16世は、ルイ15世の孫ということになります。
ということは、ルイ・フェルディナンは、即位することなく、王太子のままで亡くなってしまったことを意味しています。
しかし、ルイ16世は、ルイ・フェルディナンの長男ではなく三男だったのです。
1754年生まれのルイ14世は、ベリー公爵 ルイ・オーギュストと言いました。
ルイー・オーギュストは三男とは言っても、すでに一人男子が亡くなっていますので、ルイ16世は次男の位置付けにあります。
フランス王位の順番は、ルイ15世の後は、王太子である父のルイ・フェルディナン、その次は王太子の長男 ルイ・ジョセフとなって、その次はルイ・ジョセフの息子と流れていくはずなので、
ルイ・オーギュスト(のちのルイ16世)は国王としての出番はないはずでした。
ルイ・オーギュスト(ルイ16世)が王太子に
ところが、王太子になるはずのルイ・ジョセフが1761年結核で亡くなり、ついで1763年 父 ルイ・フェルディナンが亡くなり、ルイ・オーギュストが、王太子になります。
ルイ・ジョセフは幼い頃から、明るい性格で、将来の国王にふさわしいと見られていました。
見た目も可愛らしい子供で、祖父、両親から愛されていました。
ルイ16世(この頃はルイ・オーギュスト)との中はまずまずでした。
兄は、弟をいじめることもあったようですが、ルイ・オーギュストの方は兄を非常に尊敬していました。
その尊敬し、兄を痛む気持ちがずっとあったために、ルイ16世は、自分の長男に、兄と同じ
ルイ・ジョセフの名前をつけました。
ルイ16世は、最初はフランス王にならないはずの王子でした。
もし、ルイ・オーギュストがルイ16世にならなかったとしたら、どんな世の中になっていたでしょうか?
フランス革命は起こったでしょうか?
まとめ
ルイ16世は、フランス革命政府でも、その処刑理由を見つけるのが困難な王でした。
本当は王にはならなかったはずの王子が、王になってしまった神様の間違い?とも思えてしまうほどです。
国を建て直す政策を頑張ってはみたものの、周りがついてきてくれないところが悲劇の人でした。
優柔不断さは否めませんが、もし平和な時代なら、穏やかな治世をした王となっていたでしょう。
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