マリー・テレーズ・・・フランス革命を生き延びたフランス王室最後の王女です。
母親はマリー・アントワネット。母親と似ていたのでしょうか?どんな性格の王女なのでしょう?
マリー・テレーズはフェルゼンを見知っていたのでしょうか?そして会えたのかどうか気になります。
また、マリー・テレーズには身代わり説があります。これはどういうことなのでしょうか?
どのように生き延びて生を全うしたか・・・その生涯はどのようなものだったのでしょう?
マリー・テレーズ、性格は?
マリー・アントワネットの娘だった、フランス王女マリー・テレーズ・・・・その性格は母親に似ていたのでしょうか?
幼少時代は、なかなか気位の高い王女様でした。実際の歳よりもませていました。確かに子供の頃から母親と一緒に舞踏会などに出ていれば、どうしてもそのような傾向になってしまいますね。
大人の会話も耳に入ってきます。そんな場では母親に対する悪口も聞こえてきます。そんな時代ではむしろ真実を知ろうとする好奇心が育まれていったのではないか、と思うのですが。
しかしただ高慢なだけでなく、目下の者を思いやる心も持ち合わせていました。自分が侍女の不注意で怪我をした時でも、ずっと黙っていて、後からなぜ何も言わなかったか?と尋ねられると「もし言えば、あなたが自分が原因だったことを理由に傷つくと思ったから」と言いました。その侍女が罰せられるかもしれない、ということで口をつぐんだのでした。
ここから考えられることは、まだ幼いながらも人の上に立つ、という自覚が育ちつつあったということです。
もし世の中が平和だったら、マリー・テレーズはどんな王女に育っていたか?興味があるのですがあいにくフランス革命勃発などという物騒な世の中を生きなければなりませんでした。
なんといっても、父母を殺され幽閉され、2年もの孤独な生活を送らさせたのはマリー・テレーズの性格に大いに影響したでしょう。
王女としての自覚を持たなければ、と言われつつ育ったにも関わらず囚人生活を送らされるのではそのプライドもズタズタにされてしまったと思います。
父親ルイ16世からは、自分の死のために復讐しようと考えてはいけない、と戒めのような遺言を残されたにも関わらず、革命そしてナポレオンを憎んでいます。
ナポレオンやその支持者、また革命後時の権力によって勝手に貴族階級になった人たちも許しませんでした。
これには自分が理不尽に苦しむことになったのだから、ある意味当然の心の動きでしょう。
フランスの王太子妃となったあとでも古くからフランス王家を慕ってくれた人々に対して、また由緒ある貴族で革命によって国を追われた人々には助力を与えました。そのためにマリー・テレーズ自身の懐具合も厳しくなったこともありました。
そのため生活も質素で、自分のところの雇人も50人弱と、少なめでした。
またマリー・テレーズ自身の衣装も、周りから時代遅れとか野暮ったいとか言われるような身なりをしていました。あまりたくさんは作らなかったようです。
ここがマリー・テレーズの母親と大いに違う点ですね。マリー・アントワネットはドレスを作りまくって、生涯かけても全部着る暇があるか、どうかというほどだったのですから。
舅である叔父のシャルル10世(ルイ16世の弟)もマリー・テレーズを見てこういっていました。見た目はどちらにも(ルイ16世とマリー・アントワネット)に似ている。善良で優しい子だ、と。
ですが激しい1面もあります。
ナポレオンが最初の流刑地エルバ島から脱出して自分の体制を整えて再び戦おうとしていた時、マリー・テレーズはナポレオンと対するために、ブルボン王家の軍隊に演説をします。
その様子を知ったナポレオンはマリ・ルイーズのことを「ブルボン家唯一の男子だ」といったそうです。これは敵ながらマリー・テレーズの豪胆さを讃えたのですね。
革命方を許さない、という強い意志を持った人物ですが、それでも性格は優しい人物に育ったようです。
そして面倒見の良い人物になりました。夫の弟が革命側によって殺害された時も残された子供を養子のように、可愛がりました。もちろん子供の母親にも保護を与えました。
今でも残されている肖像画を見ると、成長した姿は王女様というより「おかみさん」的なイメージでした。
三つ子の魂百までも・・・じゃありませんんけれど、両親がかなり甘やかさずにしっかり育て、成長の基盤を作ったのでしょうね。
マリー・テレーズはフェルゼンに出会ったのでしょうか?
マリー・アントワネットの娘マリー・テレーズ。
となると、マリー・テレーズとフェルゼンとの間になんらかの接点があったのでは?とつい期待してしまいます。実際どうだったのでしょう?
もちろん、子供時代にベルサイユにいたときは、度々やってくるフェルゼンと面識がありました。フェルゼンはアントワネットの愛したプチトリアノンにもよくきていたし、マリー・テレーズも母親と一緒にいることが多かったですから。
そしてヴァレンヌ逃亡と呼ばれる、亡命を企てた時もフェルゼンが準備に動いてくれたからよく目にしていたことでしょう。
では、両親が処刑されオーストリアに送られた後は?
フェルゼンは、自国スウェーデンで外交顧問に任ぜられ、ウィーン宮廷に出入りする機会もありました。ちょうどマリー・テレーズがウィーン宮廷に保護されていた時代です。
その時、何度かマリー・テレーズを見かけたようです。ただし二人が会話をする機会はありませんでした。
マリー・テレーズの存在はウィーン宮廷では腫れ物扱いでした。ですからあまり、外国の人とは口を聞いてはいけない、と言い渡されていました。
フェルゼンはマリー・テレーズの顔を見かけはしたものの、会話できなかったため、ちょっと冷たい人だ、という感想を持ったみたいです。
一方マリー・ルイーズの方は知っていた顔を見かけて、嬉しかったそうです。しかもヴァレンヌ事件で準備をしてくれたことなど知って、フェルゼンを見かけて懐かしく思っていました。
後にフェルゼンは、マリー・アントワネットの遺品、特に宝石類を取り戻してマリー・テレーズに渡そうとしました。
フランス革命で王宮襲撃で盗まれたもの、また国王一家が資金調達のために売ったものなど探し回って集めてきました。
多分自分の資産を投げ打って買い戻したのでしょう。直接マリー・テレーズに渡すことは許されませんでしたが、ウィーン宮廷に預けそこからマリー・テレーズに返却されました。
マリー・テレーズは大いに感謝したそうです。
フェルゼンがマリー・テレーズを見て思ったことは・・・その感想には二つの説があります。
一つは、その母マリー・アントワネットに行き写しであったと。その姿を見てフェルゼンの目には涙が溢れてきた、と。
もう一つの説はマリー・テレーズは元々母マリー・アントワネットそっくりだった・・・しかしウィーンで出会った、この少女(と言っても17歳にはなっていました)からはその面影がすっかり失せていた、と。
両極端の二つの説ですが、何かここにありそうな気がします。
エルネスティーヌ、マリーテレーズどんな間柄?
エルネスティーヌという名前の少女は実際に存在しました。ヴェルサイユ宮殿に仕えていた小間使の娘でした。この時の娘の名はマリー・フィリピーヌ・ド・ランブリケと言いました。
なんと、マリー・テレーズ王女に瓜二つでした。年もマリー・テレーズと同じ。
マリー・フィリピーヌの母親は亡くなった後、マリー・アントワネットとルイ16世はこの娘を養女として、エルネスティーヌと名前を変えました。そしてエルネスティーヌのために部屋を用意し、養女に相応しいドレス、調度品を整えました。
エルネスティーヌと名付けられた少女は、マリー・テレーズ、その弟ルイ・シャルルと一緒に仲良く遊んでいました。
ところがエルネスティーヌ・・・噂があります。なんとルイ16世の私生児では?なのですが・・・ルイ16世は実直な人間です。ルイ16世の祖父や曽祖父のような色好みではないため不思議なのですが。
ある理由があります。ルイ16世は包茎の手術をしています。その時手術首尾を確かめるための証拠としてある女性と関係を持った、という話です。
どのやらエルネスティーヌはその時にできた子供らしいのです。それでも王家で可愛がって育てられたところにちょっと安心を覚えます。
国王一家がヴァレンヌに逃亡する時には、父親(母親と結婚して、名目上の父親となっている)のもとに送られましたが、国王たちが亡命に失敗しチェイルリー宮殿に軟禁されると、エルネスティーヌもまた国王一家の元に戻りました。
マリー・テレーズは国王、王妃、弟たちと共にチェイルリー宮殿からタンプル塔へ移されるのですが、その辺りのエルネスティーヌの存在はよくわかっていません。
次にエルネスティーヌでは?と言われるのは、1795年マリー・テレーズがタンプル塔を出てオーストリアに身柄が引き渡される時です。フランスの捕虜とマリーテレーズの交換でした。
その時に引き渡されたのが、マリー・テレーズ本人ではなく、エルネスティーヌではないか?という疑惑が、あります。
ここでもまたいくつかの説があります。
マリー・テレーズは実は逃げ仰せていて、エルネスティーヌが替え玉になっていた、だからマリー・テレーズはどこかに生きていたはずだ。
マリー・テレーズは獄中で乱暴された。その結果妊娠してしまった。そのようななってしまったマリー・テレーズを出すわけにいかない、だから替え玉を用意した。
という理由で、替え玉説が存在するのです。
もし替え玉であれば、フェルゼンがマリー・テレーズが以前はあったマリー・アントワネットの面影を残してない、と思ったのも当然なのかもしれません。
ですが、以上の疑惑は確信がありません。名の知れた人の死には必ず、なんらかの秘密が付き纏います。というか作られます。混乱の時代に亡くなった人に対しては。
しかし、替え玉を裏付ける証拠がないので、信憑性のほどは分かりません。後のマリーテレーズの生き様を考えると、本物のように思えてならないのです。
そしてエルネスティーヌはむしろ王家を離れて普通の生活をしていた、そんな気がします。
替え玉説・・・夢がありますけれどね。
マリー・テレーズは発声が苦手!
マリー・テレーズはフランスで少女時代に幽閉中、ほとんど口を聞きませんでした。革命政府に対する反抗もありましたし、両親について彼らに語りたくなかったということもあります。
幽閉期間、14歳〜16歳あたりまでほとんど人と会話しませんでした。10代というと人間は一番心身ともに成長する時期です。その時代に口を聞かなかった・・・・これが成長の妨げになった、ということです。
そのため発声障害を起こしてしまったのです。どんな症状なのかというと高めの音を出す時に声がざらつく、つまり声が掠れ気味になるのです。それが時として雑音のように聞こえたりします。
現代ではエアロビクスやフィットネス教室のインストラクターの声はハスキー気味です。それは大きな声を続けて出し過ぎが原因です。
出し過ぎも良くないし、反対に出さないのも良くないのですね。
そういえば、新型コロナウィルスの流行で、家に閉じこもることが増えました。その時も1週間近く人と話さないでいると、声が出しにくくなっている自分に気がついたことはありませんか?
あの状況に似ていると思うのです。マリー・テレーズの場合は1週間ではなく2年近かったわけですから・・・
しかし成長期の空白というものは恐ろしい。マリー・テレーズの発声障害は一生治りませんでした。
マリー・テレーズの生涯、結婚は?そして死因は?
マリー・テレーズのフランス時代
マリー・テレーズは「マダムロワイヤル」という称号で呼ばれていました。王家に生まれた第1番目の王女という、敬意をもって呼ばれる称号です。男子であったら皇太子に匹敵する女性皇族に対する敬称です。
フランス革命が起こった時、マリー・テレーズはわずか10歳ほど。ヴァレンヌ逃走の際は母親マリー・アントワネットが娘を見て、不憫に思いました。その時代のアントワネットはウィーンの宮廷で毎日楽しい少女時代を送っていましたから・・・
ヴァレンヌ逃走は失敗に終わり、逮捕された国王一家はタンプル塔に移されます。そこで国王一家は身を寄せ合うように一緒に暮らし、むしろ王宮にいた時より家庭的な生活を送っていました。
ですが時代の空気はだんだん不穏になり、やがて父ルイ16世は処刑・・・これは残りの家族で嘆き悲しむことができました。
次は弟と引き離されます。
ついで母マリー・アントワネットと叔母(父の妹)エリザベートが処刑されます。この二人の処刑については、マリー・テレーズは知らされませんでした。その後もずっと知らさせないままでした。
幽閉は約2年でした。
その間に、弟の具合が悪くなり、やがて死に至りましたが、マリー・テレーズはなすすべもありません。マリー・テレーズにとって一番辛い時でした。多感な少女時代に、この環境はかなりきつい・・・その割には人格が歪む・・・ということが起こらなかったのは、持って生まれた性質、そして王女として生まれたプライド、それから両親の愛情であったと思われます。
フランス革命の急進派ロペスピエールがやがて処刑されると、世論はだんだんとマリー・テレーズに同情的になってきます。身の回りの世話をしてくれる人もできました。また新しい洋服、日用品を差し入れしてもらえるようになりました。
マリー・テレーズ、オーストリア時代
その頃にはオーストリアに囚われていたフランス人捕虜とマリー・テレーズの人質交換が行われ、マリー・テレーズは母の故郷オーストリアに送られます。
時のオーストリア皇帝はフランツ1世(神聖ローマ帝国皇帝フランツ2世)は表向きはマリー・テレーズを大事にしてくれましたが、交友関係、手紙など監視していました。マリー・テレーズをオーストリアに有利になるように使おう、と思ってのことだと思います。ですからフランスやその他の外国との接触は避けたい、そんな思いがフランツ1世にあったのでしょう。
マリー・テレーズはウィーン宮廷にいても自分は、フランス人であり、オーストリア人ではないと確固とした自覚をもっていました。自分の名前を、マリー・テレーズ・シャルロット・ド・フランスといつでもはっきりと名乗っていました。
マリー・テレーズの名前は母マリー・アントワネットが自分の母親マリア・テレジアにちなんでつくてくれたのですが、マリー・テレーズ本人はあくまでもフランス人マリー・テレーズの自覚でした。
マリー・テレーズは物おじしない態度ではっきりと意見をいう性格だったようで、フランツ1世は、自分の弟フランツ・カールと結婚したらいいのでは、と思っていました。
それに、マリー・テレーズはフランス王家の血筋です。例え革命が王政を廃止したと言っても、列強の国王たちは革命なんて認めていません。王の血筋は大切でした。
ここでハプスブルク家の伝統的な考えが出てきます。「ハプスブルクは結婚により栄える」と。ハプスブルク側はマリー・テレーズが持って生まれた権利を手に入れたかった。
兄の皇帝の後押しもあって、カール・フランツはマリー・テレーズとの結婚を前向きに考えてみるのでしたが、結局マリー・テレーズはオーストリアを去っていきました。
フランスのもう一人の従兄弟と結婚するために。
マリー・テレーズは口では、すぐに自分たちを助けに来れなかった母の実家オーストリアを恨んではいない・・・と言っていましたが、実は心の底では蟠りがありました。
ウィーンの宮廷ではどうも馴染めず疎外感を感じていた日々だったことでしょう。
マリー・テレーズの結婚
マリー・テレーズは父方の従兄弟ルイ・アントワーヌと結婚します。ルイ16世の弟シャルル10世の息子でアングレーム公爵でした。
フランスはナポレオン失脚後、ルイ16世の弟ルイ18世がフランス王として即位します。
その時マリー・テレーズもフランスに戻ります。そこでルイ18世に政治的アドバイスを行います。ルイの方もマリー・テレーズを頼りにしました。
ルイ・アントワーヌとの結婚はマリー・テレーズにとっては幸せでした。夫は優しい人でした。
これまでの投獄生活、ウィーンでの馴染めない環境でマリー・テレーズの心は冷え切ったようになり、その表情も氷のように強張っていました。でもそんなマリー・テレーズの心の氷を溶かしてくれた人物がルイ・アントワーヌでした。
ナポレオンが1815年に流刑先で亡くなると、王党派にとっての王政復古の時代がやってきました。
王位についたルイ18世が1824年68歳で崩御しました。ルイ18世には子供がいなかったので、後継者は弟のシャルル10世です。弟ということはマリー・テレーズの義理の父、叔父でもあります。
そしてマリー・テレーズは皇太子妃となります。かつての母と同じ地位に立ちました。この時マリー・テレーズは何を思ったのでしょうか?やっとこれから本格的に両親の志を継ぐことができる・・そんな決意だったのでしょうか?
しかし、王政復古を望むあまり、急進的にことを進めすぎて反発を招き、7月革命が起こる結果となりました。
7月革命のためシャルル10世は退位して王位はオルレアン家のルイ・フィリイップが継ぐこととなりました。オルレアン家はブルボン家の直系から外れますので、ほとんどブルボン王家は終焉を迎えたと言っていいでしょう。
こうして、マリー・テレーズたちは再び亡命生活に入ります。
イギリスに移りその後はプラハに移り、シャルル10世はここで没しました。
マリー・テレーズの死因
亡命生活を転々と続け、舅のシャルル10世を次いで夫アングレーム公を最後を送ったのちは、ウィーン郊外のスロースドルフ城に居を構えました。
そこで散歩、読書、刺繍、をしながら祈りの余生を送っていました。マリー・テレーズは刺繍が好きだったようで、作った作品はオークションで売られ売上金は貧しいもの達に寄付されました。
そして1851年72歳、肺炎で亡くなります。
子供はいませんでした。
マリー・テレーズ、白色テロ?
「白色テロ」とは?白色テロとはフランス王権の象徴の白百合に由来しているところから白の名前がついています。まさにこの時代から始まった言葉です。
体制側が、現在の体制に反対する勢力に加える暴力的な弾圧や行動のことです。政府による不当逮捕もこれにあたります。
マリー・テレーズは白色テロに加担、いえ自ら行っていました。
ルイ18世、シャルル10世のブルボン王家復古となりましたが、まだまだナポレオンの支持者ボナパリストは大勢いました。
シャルル10世の息子ベリー公(ルイ・アントワーヌの弟)がボナパリストに暗殺されました。息子の息子の死でシャルル10世は精神に以上をきたしてしまいました。
それを見たマリーテレーズは多くのボナパリストを弾圧しました。投獄され死刑にされたものも多くおりました。
白色テロ・・・人々はマリー・テレーズを「復讐のためにフランスに戻った王女」と呼びました。
マリー・テレーズにはフランス革命、ナポレオンに対する憎しみは強かったのです。いつまでも心の熾火のように沸々と湧いている怒りでした。
さらに、ナポレオン時代に新たにナポレオンに任命された貴族のことは決して認めませんでした。マリー・テレーズにとって貴族とは革命前から貴族を名乗っていた家のみでした。
また7月革命でフランスを再び追われる時に国王についたオルレアン公のことも許していません。オルレアン公は王族でありながら、ルイ16世の処刑に賛成の票を入れたからです。
マリー・テレーズは革命派からは嫌われており、時には脅迫状などが送られてきましたが、王党派には慕われていました。また慕ってくる人たちには惜しみなく助力を与えていました。
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