リシュリュー、三銃士で有名悪役。フランスの宰相にして枢機卿。戦艦名にもなる、「ペンは剣よりも強し」に関係

リシュリュー・・・ご存知だと思います。フランスの人気小説にしてドラマ、映画「三銃士」内で稀代の悪役として書かれている人物です。

リシュリューは「三銃士」内の創作ではなく、フランスのルイ13世に仕えた宰相です。そして枢機卿でした。

リシュリューの政策も少し辿ってみ見ると、なぜ悪役になったのか、また名宰相だったと両方言われる理由に納得できます。

リシュリューの偉業を示すように、後世リシュリューの名前をとったものが色々出てきます。軍艦の名前に、美術館の建物の名前に。

リシュリューを扱った戯曲ではリシュリューが言ったと言われる名言も登場します。

直系ではありませんが子孫も残り家柄は続いています。

リシュリュー、三銃士の悪役

「三銃士」を扱った映画、ドラマ、そしてアニメ全て細面の顔立ちで陰険な目つきをし、そしてたえず陰謀をめぐらしずる賢く立ち回る。そんな人物が想像できます。

「三銃士」は活劇ですので、三銃士という正義の味方には敵役である悪役が必要です。リシュリューは「三銃士」にぴったりな悪役なのです。

三銃士対リシュリュー、その対決がまずリシュリューを悪役扱いにしたところから始まります。

三銃士たちの騎士道精神とリシュリューの悪役ぶりが見事に合わさったところに「三銃士」の面白さがあります。

実際のリシュリューもかなりの陰険人物でした。ですからますます、「三銃士」のドラマが盛り上がり面白くなっていったわけです。

国を思う気持ちは三銃士の面々も一緒でしたが、やり方や重んじるものが違った・・・そしてそれは到底相入れる種類のものではありませんね。

リシュリューは自分の目標を、第一は国王の尊厳、そして第2は国家の栄え、と言っていました。国のため、国王のため尽力してきたのですが「三銃士」、リシュリュー、と三銃士の決定的なやり方の違いから「三銃士」ではすっかり悪役になったと思われます。

リシュリューは確かにフランス国家のために働きました。そのためにはどんな手段をとっても、また自分が後世までも悪い評判が立つとしてもそれを一切顧みないというわけなのですね。

もちろん三銃士たちもフランスを思う気持ちは一緒です。しかし、ドラマの主人公である三銃士たちのやり方は潔いやり方、一途な精神を持ち合わせることで一致団結する、ということでリシュリューの陰謀を使うやり方とは正反対の路線でした。

そこで対立が生まれ、物語が生まれるのですが。

王権を強化するための、貴族、国民への締め付け、宗教をカトリックのみとするためとった強硬な政策などが人々に嫌われる要因になっています。

リシュリューはハプスブルク家が強大になりフランスに影響を及ぼすことを恐れていました。そこでルイ13世の王妃アンヌ・ドートリッシュがハプスブルク家の出身だったため、王妃が力を持つことをリシュリューは良しとしませんでした。

そこでなんとか、王妃を王との間を引き離そうとする場面が「三銃士」では出てきます。そのために陰謀をめぐらす場面で、リシュリューはますます悪役へと印象付けられていきます。

ところが三銃士の面々は、王妃を守ることで王妃の故国ハプスブルグ家と敵対することを避けようとし、騎士道精神を発揮して、女性である王妃を守るのです。

この立場の違いが「三銃士」の面白さと言えます。しかしこの面白さはリシュリューなしでは絶対に実現しなかったと思います。

リシュリュー、究極の悪役へ

何よりも悪役を決定づけたと思われるのは、宗教戦争の時でしょう。

リシュリューは自らをカトリックの枢機卿でありながら、新教徒であるユグノーに加担する場面があります。これではローマ法王を始めとするカトリックからの怒りを買ったのも当然です。リシュリューは日和見主義ではないかと見られても仕方ありません。

またスパイを用いたことにもあります。

リシュリューほどの地位にある人なら、失脚を狙う人物の多かったはずです。多分リシュリュー本人も敵が多いことは感づいていたと思います。政策に反対する者も多かったでしょう。反対派を取り締まるためにリシュリューに必要だったのがスパイ網でした。

スパイが各地に潜入している・・・国民にしては決してうれしいことではありません。スパイがいる、ということはリシュリューに対し、政策その他不満をもらせば筒抜けになるかもしれませんから。

スパイを置いたリシュリューはやはり悪巧みをする人物に思われてしまうことは必須です。

性格も一役買っていました。後世に伝わる性格は陰気で、その一方怒りっぽいところがあると言われています。ですが本人は、この性格も政治的に演出している、という言い方をしています。冷徹な政治家。そこから見るとかなり陰険で計算高い人間に見えませんか?

これらすべての要素が集まって、悪役像が出来上がったのでしょうね。でも一番の悪役説に貢献した人物はアレクサンダー・デュマだったというわけですが。

ですが、リシュリューは、あえて自分を悪役にしてフランスを守り抜いた人物なのです。政治家としての人生を全うした人、ではないでしょうか。

これこそ究極の悪役と言っていいかもしれません。いわゆる悪役冥利につきる人物ですね。

リシュリュー、どんな人物と生涯

リシュリューは「三銃士」の中ではいつも陰謀を廻らせ、自分が有利に動けるよう常に何かを目論んでいます。そして主役の三銃士たちをいつも貶めようと頑張っています。

悪役でありながら、一体どんな人物だったのか見て行きましょう。

名前は、アルマン・ジャン・デュ・プレシー・ド・リシュリュー。1585〜1642。生まれは下級貴族で、幼きリシュリューは僧職を目指し、リュッソンで司教となります。

司教就任後、フランス第1回三部会に出席し、雄弁を振るったところから時の母后の目にとまり、母后付きの司祭となりました。

母后は幼くして王位に就いたルイ13世の摂政を勤めていました。やがて成長した王は母后と対立し、巻き込まれたリシュリューは母后が権力を失った時点で失脚しました。

しかし国王に再び登用されることとなり、ここからいよいよリシュリューの活躍が始まります。ここで枢機卿に任命され、その後宰相の役割も国王より下されました。

宰相になってからのリシュリューはひたすら王権強化のために働きました。

強硬な政策をとったため、リシュリューには敵が多く、リシュリュー追い落としの陰謀が後を立ちません。そこで国内にスパイ網を張り巡らせて反対派の動きに常に目を光らせていたのです。

またリシュリューは他国がフランスと力で並ぶことを許しませんでした。強大になりつつあったハプスブルク家に対しては特に自国に寄せ付けない気力で立ち向かいました。

これでリシュリューの敵はフランス国内ばかりでなく、国外にもできたことになります。

リシュリューの晩年もリシュリュー失墜の陰謀が繰り広げられながらも、それらは失敗に終わっていました。数々の苦労がたたったのでしょうか、体調不良に悩みながらも職務を全うして、57才で亡くなっています。

肖像画が残っていますが、映画、ドラマはみなこの絵を見本にしてリシュリュー像を作ったのではないかと思われるほど良く似ています。アニメーションでさえも、また人形劇でさえも。

リシュリューは枢機卿にして宰相、名宰相だった?その政策は

じゃあ宰相って何?何する人?今では宰相なんて言葉使いませんものね。宰相・・・・いってみれば総理大臣に当たる役職です。

日本でも総理大臣を「宰相」と呼んでた時代もありました。古くは中国で使われていた言葉だったので、日本でもそのまま使ったようでしたよ。

ではリシュリューの「宰相」大臣としての手腕はどのような物だったでしょうか?リシュリューが宰相の地位に就いた時は若干25才でした。

国王ルイ13世は、父王アンリ4世が不慮の死を遂げた後、わずか10才にして王位を継いでいます。最初は母后が摂政となっていました。しかしルイ13世の母后からの離脱後、リシュリューは一旦罷免されるのですが、その後またリシュリューが登用されました。

ルイ13世は、自分が弱小であることを知っていたのでしょうか。そのためリシュリューに頼った、と言えないわけではありませんが、リシュリューの政治家としての才覚を見出していたようです。そのような上司(王)に出会えた、リシュリューはある意味幸福と言えます。そこでリシュリューは思う存分自分の才覚を振るえました。

リシュリューの政策は常に王国と国王の権力の守り発展に徹しました。まずはフランスの第1の宗教をカトリックを守り、新教徒(ユグノー)を排除しました。

が一方、ハプスブルク家の台頭はフランス国力増加の妨げになるとし、30年戦争では、ハプスブルクの勢力を抑えるため、新教徒の支持に回りました。このリシュリューのとった戦略は、リシュリューの本来の政策から考えると矛盾していますが、フランスの権力を強化するには必要なことと考えていました。

しかもリシュリューはカトリック教徒で、枢機卿の立場ながらユグノーへの加勢がきっかけでカトリック側からも嫌われる羽目になってしまいました。ローマ教皇とも不和になりました。

実際ユグノーに加担したことで、ユグノー対カトリックの戦争が複雑化してヨーロッパの国々、特にハプスブルグ家の力は減衰してくことになりました。その代わりフランスの存在感がヨーロッパの中で大きくなって言ったことは、フランスにとって非常に有益でした。

リシュリューはさらに権力の中央集権化に努めた人物でもありました。全国に行政、司法、徴税の権限を発揮できる地方監察官を派遣していました。もちろん地方検察官はリシュリューの息のかかった者たちでした。

そのほかにリシュリューは重工業、貿易にに取り組みました。貿易から、そろそろ植民地に対する政策もできあがりつつありました。植民地を得ることで、海軍力も必要となってきます。このころリシュリューのもとで軍事力も強化されつつありました。

しかしリシュリューは一般庶民の幸福には興味がありませんでした。そして一般人に対して課税したのです。軍事力を賄うためです。かなり厳しい税だったようで、暴動もしばしば起きました。

とにかくリシュリューは一般市民からの人気は全くなかったわけです。

しかしフランスとしては、リシュリューのとった数々の政策のもとで絶対王政への舵取りができるようになりました。その意味では立派な宰相であった、と言えます。

リシュリューの名前、後世に名声が、軍艦に・・美術館の名前

リシュリューは、政治の他にも芸術を擁護したり文化面での貢献面の多い人物でした。その名残を今日も見ることができます。

リシュリューの名前をつけた戦艦があるなんて驚きです。20世紀に作られた戦艦です。第2時世界大戦で活躍しました。

17世紀フランス宰相のリシュリューの名前にちなんでつけられた戦艦です。リシュリューは植民地政策を始めたときに軍事力の強化も行いました。そこからの発想だと思われます。その当時は世界最強の戦艦の部類に入るものでした。

嫌われ者のリシュリューでしたが、その偉業は大いに評価されるものだったのですね。

またいまでも残る名前がフランスの有名な観光地、ルーブル美術館にあります。昔は王宮だったルーブル宮殿のその大きさを拡大させたのがリシュリューだったのです。その業績にちなんで、ルーブル美術館の一角にリシュリューの名をとってリシュリュー翼と呼んでいます。メソポタミアからイスラム美術、またフランドルを中心とした絵画、中世やルネサンスの美術品など幅広い作品が鑑賞できます。

リシュリューは文化のパトロンでもありました。その面に注目しての美術館命名だったのです。

文学に登場するリシュリュー「ペンは剣よりも強し」。後世に残るワインの名前

「ペンは剣よりも強し」これずっと、諺だと思っていました。確かに意味を考えると、古くかそのような考え方はあったかもしれませんが。文章としては存在していませんでした。

これは芝居のセリフから広まっていった格言、といっていいでしょう。他ならぬリシュリューを描いた芝居です。「リシュリューあるいは謀略」というイギリス人作家ブルワー・リットンが1839年に発表した演劇です。

劇内でリシュリューには抹殺したい相手がいるが、枢機卿という僧侶の身分であるため実際には剣を取ることができない。代わりにペンで文章をかくことで相手を葬り去ることができる、という内容のセリフをいったことによります。

実際にリシュリューが言ったかどうかは不明ですが、リシュリューなら言いそうだ、という予想を元に作ったセリフです。確かに。

このセリフ、いまではジャーナリストの格言のようになっています。

リシュリューはいまでも、様々な場面でその名前の名残が見られます。当時は強引な手腕から腹黒い人物のように見られてきましたが、結局はリシュリューの行動がフランスを救い、強いフランスとなる足がかりとなったことで、いわゆるフランスの守護神というかむしろ大魔神(?)的な意味合いになっていったのだと思います。

最後におまけの子孫のお話です。

リシュリュー枢機卿の出身地はボルドーです。ボルドーといえばワイン!リシュリューはボルドーに巨大なシャトーを建てました。リシュリューは僧職にあったため、自分自身の子孫は残せませんでしたが、一族としては子孫が残っています。

リシュリュー枢機卿はさらにボルドーにあるフロンサック公爵領の所有権も得ました。フロンサックはいまでは有名な高級ワインの銘柄。ですが、当時はボルドーワインの地位はあまり高くありませんでした。

リシュリューの子孫も一人はルイ15世時代に元帥を務めました。リシュリュー元帥はボルドーの総督に任命されました。当時のフランス宮廷ではブルゴーニュワインが主流でした。コンティ公爵がもたらしたブルゴーニュワインがロマネ・コンティと名付けられ今日に至ります。

ブルゴーニュワイン主流の中で是非とも王宮でボルドーワインを飲んでもらおうと、リシュリュー元帥は尽力します。

そこでルイ15世の愛妾出会ったポンパドール夫人にボルドーワインを薦めたところ夫人のお気に召しました。王も飲むこととなり、大いに気に入ってもらえたということです。

ここで献上されたのはいまでもボルドーワインの銘品「シャトー・ラフィット」だったと言われています。それ以降シャトー・ラフィットのワインは「王のワイン」と呼ばれるようになりました。そしてフランス宮廷でもボルドーワインが好まれるようになったということです。

現代の私たち、いや世界中の人たちがボルドーワインを楽しめるのはリシュリュー家の功績ですね。

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