瀬名姫(せなひめ)・・・徳川家康の正室だった女性です。後に、築山殿(つきやまどの)と呼ばれました。
NHK大河ドラマ「どうする家康」では有村架純さんが、健気で可愛らしい瀬名姫を演じています。
ところがこれまで語られてきた歴史では、瀬名姫は悪女です。
どちらが本当でしょうか?
「覚醒」した?と言われる瀬名姫の心情に迫ってみましょう。
それは徳川への裏切りなのでしょうか?
しかしその最後は悲劇に終わります。
瀬名姫の性格などを考えながら、どんな人生を送ったか見ていきましょう。
瀬名姫、どんな人?
瀬名姫は、徳川家康が最初に結婚した人、そして正室です。
瀬名姫の容姿は美しい人だった、ということです。抜けるような白い肌の持ち主とあります。
抜けるような白い肌・・・というとそれだけで絶世の美女のような気がしてくるではありませんか。家康のその美しさに一目惚れしたとか。
ただし、当時の美貌を示す、肖像画も像もありません。
「築山御前像」という肖像画が「西来院」にありますが、鈴木白華(すずきはっか)という近代の画家が描いたものなので、真実を伝えるのもではありません。
美人薄明のイメージも手伝っているのでしょう。瀬名姫美人説は。
瀬名姫(築山殿)の性格
その性格は内向的、大人しい感じの女性ということでした。
家康と結婚する頃はそのような性格でした。
そうすると、勝ち気で、家康が弱気になると活を入れるような女性だった、とはちょっと矛盾する感じもしますが。。
結婚した最初は夫を支え、時には励ます良い妻のイメージが浮かび上がります。
しかし、瀬名姫(築山殿)はこれまで、悪女と思われてきました。
どこが悪女かというと、夫を裏切り不義密通の上、武田と内通し息子と共に織田家を攻撃しようとした、と言う説が大手をふるって歩き出していました。
悪女と言われる瀬名姫の性格はこうです。
傲慢で嫉妬深い。
処罰されても仕方ない性悪女の印象を植え付けたかったのでしょう。悪女ゆえに家康が取った行動を正当化させています。
瀬名姫処罰の話は、信長に頼らないと存続できない家康の葛藤を描く意味で欠かすことのできないエピソードです。
葛藤をより一層際立たせるためには瀬名姫悪女説が必要でした。
結局、瀬名姫と松平信康が徳川家の未来のためのスケープゴートになってしまいました。
瀬名姫の墓所と首塚が作られて祀られ供養されているところから見れば、家康も瀬名姫犠牲の元に成り立った徳川家安泰、と心に秘めていたに違いありません。
瀬名姫、「築山殿」と呼ばれるわけ
徳川家康の正室としては、瀬名姫という名称より、「築山殿」という呼び名の方が知られています。
ではいつから、どういう理由で築山殿と呼ばれるようになったのでしょう。
「築山殿」の名称は、人質として今川に留め置かれたのち、解放されて、家康の本拠地岡崎城に住む時から始まります。
岡崎城の敷地内の築山の近くに居を構えたところからそう言われています。
築山とは庭に景観のため、盛り土をして作った小山です。
それにちなんで築山が美しく見えるところに作った屋敷を築山御殿といい、そこに住む女主人、つまり家康の正室を築山殿、と呼んでいました。
権力者の奥方は居住地の名前に「殿」または「方」をつけて呼ばれました。
例えば、建物の北面に奥方の部屋があったことから「北の方」と呼ばれています。
瀬名姫の最期。誰に殺されたの?
実際に伝えられている話と、大河ドラマ「どうする家康」とでは描かれ方が少しちがいます。
では、歴史上で言われている、瀬名姫の最期とは・・・
瀬名姫は、徳川家康の正室でありながら、家康の命により殺害されました。
実際には家康から命令された家臣ですが。
付き添っていた家臣の名前は、岡本時仲、野中重政、と記録されてます。
では、なぜ?
徳川家康と織田信長の勢力関係から起きた事件でした。
徳川家はまだこの頃には大きな力がなく、織田に頼ることが必要でした。
と言っても徐々に力をつけてきた徳川は、織田信長には脅威です。
徳川の力を少し弱めておきたい、と思った頃でした。
おりよくきたのが、徳川に嫁に行った娘からの手紙・・・
そこから、瀬名姫は悪女であり、松平信康は乱暴者である、という設定にされました。
信長は、娘を思う子煩悩な父親の役を演じました。
そして娘の苦しみの原因になっている二人を、排除する。
それと同時に、家康の心を折りたい、そんな織田信長の悪どいやり方がなんとなく見えてきます。
つまり、瀬名姫を殺害した真犯人は、家康に圧力をかけた織田信長なのです。
この命令系統は、「どうする家康」でも変わりませんでした。
瀬名姫の元にきた嫁、徳姫
家康と瀬名姫の間の長男、信康のところに嫁に来たのが信長の娘、徳姫です。
力関係で織田家の方が強い中での嫁入りです。
ところが瀬名姫は今川義元の姪。今川義元は織田信長に討たれました。
そのために織田家に良い印象は持っていません。
その仇の娘を息子の嫁にするのだから心中穏やかではいられません。
嫁姑問題が必然的に持ち上がってきます。
瀬名姫に不満を持つ徳姫
女子しか産まなかった徳姫に対し、瀬名姫が物足りなく思っていました。
そんな雰囲気では、嫁の徳姫も面白くありません。徳姫は実家の織田家に、不満の手紙を書きます。
「徳川の義母上は武田方と通じているかもしれません」と書きました。しかも「武田と組んで織田を滅ぼそうとしている」とまで・・・
ちょっと徳姫様、やり過ぎたかんじですね。さらに徳姫は自分の夫の信康についても書いています。
夫は残虐な性格で、時には人をなぶり殺しにすることもあると・・・
徳川方は、それはデマだと弁明をしようとしますが、信長に睨まれて何も言えません。
信長は、自分の愛娘を傷つけた瀬名姫親子は許せない。それを許した家康も許せない。
許して欲しければ、瀬名姫と信康を処刑するようにと。もしこの言いつけを守らなかったら、織田、徳川同盟を亡きものとする、と言い渡しました。
結局家康は、折れました。まだ確固とした力を持っていなかった徳川は、織田家の命令を守る形で自分の家を守ったのです。
徳姫の、手紙の内容が、この事件の引き金になりました。
瀬名姫、いつ死ぬの?お墓は?
亡くなった日、天正7年8月29日、新暦で言えば1579年9月19日です。享年38歳。
場所は現在の浜松市、佐鳴湖(さなるこ)。家臣は自害を勧めましたが、瀬名姫は拒んだため斬首となりました。
またある話では、家臣は瀬名姫の乗った輿を外から槍でついて死なせた、ともあります。
瀬名姫は、息子信康の助命嘆願のため岡崎城に向かい、その途中にて瀬名姫も処刑された、という騙し討ちとも思える事件で、悲劇的であります。
息子のの信康の方は二俣城で自害となっていました。
お墓は浜松市の高松山西来禅院に作られました。なお首塚は岡崎市の祐傳寺にあります。
気になるのは「どうする家康」でいつ死ぬのかしら?でしょう。
年代で言うと、三河一向一揆(1563〜4)から15、6年後、ですが。
家康の人生観を変えるような事件です。
家康はこの後、変わっていくことでしょう。
瀬名姫、裏切りは本当か?
瀬名姫処刑の理由は、裏切りとされたのですが、では徳川家、織田家に対する裏切りはあったのでしょうか?
瀬名姫陰謀説
まずは瀬名姫が本当に陰謀を企てていたのではないか、という説。
瀬名姫は今川義元を殺害したのは織田家であるということで、織田家を憎んでいたのは事実です。
桶狭間の戦いで今川義元戦死の後、家康は今川の元を出て岡崎城に向かいます。その時今川氏真(吉本の息子)の怒りを買って、瀬名姫と子供が今川けの人質とされてしまいます。
ここで、瀬名姫と家康は離れて暮らすことが続きました。
この別居(?)期間に二人の間に溝ができたことが考えられます。
この頃には家康には側室が何名かいました。
瀬名姫が、これをみて心穏やかでいられるわけがありません。いくら側室が当たり前の時代だとしても、夫に対する信頼は薄れます。
そこで織田家を憎むと同時に夫家康に対しても不信感を抱き始めます。
織田と一緒に夫家康も貶めようとして、力のあった武田氏とコッソリ同盟した、という可能性です。
武田陰謀説
この説はあまり取り沙汰されていませんが、十分ありうることです。
武田氏も天下取りを狙っていましたので、徳川家はその妨げになっていました。
徳川家がいなくなれば、敵は織田家だけになる、と。
徳川家を攻撃する手段として、徳川家を内部から崩壊させようとしたことが考えられます。
言ってみれば、トロイの木馬のようなやり方ですね。
そのために、武田氏の配下を瀬名姫(築山殿)の元に送り、築山殿の心理的面を不安定にすることから始めました。
それが松平信康を家康が排除したいと思っている、と言う話でした。
瀬名姫が、不倫をしたかもしれないと言われている相手が、武田の人間でした。
「三河物語」で出てくる人物が、甲州(山梨県当たり)の浪人で、唐人(中国系)医師「滅敬」(めっけい)、または「減敬」(げんけい)が瀬名姫の相手というのです。
ただし、「どうする家康」では、武田家の親族で重臣の、穴山梅雪(あなやまばいせつ)が「滅敬」と名乗って登場しましたが、これは番組の創作で、実際にはその事実はありません。
最後には武田は敗れて、天下取りのレースから降りることになるので、結果として武田が企てたとすれば、失敗に終わりました。
信長陰謀説
家康の嫡男、信康は有能な武将となる素質があった。
でも、信長はそんな信康が将来自分の地位を脅かす人物になりそうなのを恐れた。
だから早いうちに自分の妨げになりそうな才能の芽を摘んでおきたかった。
という理由から、インネンをつけて信康排除を決意、という説です。
瀬名姫はきっかけの一つです。瀬名姫に不倫の汚名を着せて、それを黙って見ている信康と共に成敗する、と決めました。
信康の妻、徳姫は瀬名姫の不倫を匂わせるような内容も実家への書状の中に書いていたようです。
その場合、瀬名姫はコマの一つとして扱われたに過ぎません。
また、当時の力関係から来る信長のパワハラですね。
家康陰謀説
この説も松平信康が有能だったことが前提です。
信康の能力に父親の家康が嫉妬したという説です。
戦乱の時代は子供であっても親を追い落として一族の長として就く、という可能性もありました。
例えば、信長の義理の父斎藤道三も自分の息子にその地位を奪われました。武田信玄も自分の父信虎を追放して、家督を相続しました。
家康は信康に、自分にはない才能を見ていたのかもしれません。その才能が自分をいつか蹴落とす日が来るかもしれない不安に駆られた。
不安が実現しないよう、早いうちに信康を排除しよう、そう思ったのでしょう。そのために信長と協力して、瀬名姫、信康親子の謀反を企てました。
しかし徳姫が織田信長に宛てた書状にあるよう、信康は残忍で、気に入らない人を切り捨てる面がある、人物なら、信康有能説には当てはまりません。
とすると、残忍説こそがでっち上げかもしれません。
実際はどの説も、わかっていません。証拠がないのです。
結果、全ては築山殿そして松平信康が悪い、ということで歴史が語られています。
瀬名姫、覚醒とは?
瀬名姫心境の変化
2023年6月、大河ドラマ「どうする家康」の瀬名姫(築山殿)の心情が変化しつつあります。
その理由は、息子、松平信康です。
次々起こる戦争・・・信康も成長し変わっていきます。
その中で、もしかしたら次期、徳川家の当主としての資質が問われる状況に陥るかもしれない不安に襲われる瀬名姫でした。
瀬名姫の今の心情は何としても信康を助けたい。一人前にしたい・・・それが願いなのです。
母とは、子供のためにはどんなことでする、傷つけるものがいれば鬼にもなって戦う、という心情になります。
今、瀬名姫はその戦いの最中にいます。
「瀬名、覚醒!」とは?
大河ドラマ「どうする家康」にこんなタイトルがつけられました。
そしてこの次に続く「築山へ集え!」では従来と全く違う瀬名姫像が作られました。
瀬名姫は、松平信康を助けるだけでなく、この世から戦争をなくしていく考えに至りました。
そのためにあらゆる人が協力する必要があると説きます。
戦争をなくし、平和の世にする・・・これは古今東西、多くの人が持った望みです。
戦争を起こして人でさえ、この戦争をすることによりこの世に平安が訪れる、そう考えていました。
しかし真に平和な世になったことはありませんでした。
「どうする家康」でも、瀬名姫の強い願いが叶うことはありませんでした。
現代でさえも・・・・
しかしそれでも平和な世がくると、願い、信じているのが私たちです。
今回の大河ドラマは、世界平和と言う壮大な夢を描いた瀬名姫の物語なのです。
これから「どうする家康」は一気に後半へとストーリーが進みます。
瀬名姫亡き後の家康は・・・
「どうする家康」のなかでは、武田が裏切ることで、瀬名姫の願いは崩されました。
瀬名姫と松平信康が責任を取る形で、二人は自害して終わります。
今でも真相は闇の中です。
大河ドラマでは、結末を歴史的事実に合わせた形で終わらせました。
松平信康、瀬名姫殺害事件は、後の家康の心に影響を与えます。
時には初めての嫡男だった信康を守ってやれなかった自分を後悔するようなことを口にすることもあります。
家康にとっては、トラウマになる事件でした。
瀬名姫については瀬名姫の処刑以降、しばらく正室を持とうとしなかったことにも、悔恨の気持ちが表れているような気がします。
後に、家康は秀吉の妹を正室としますが、それには秀吉から絶対に断れない状況のもとで引き受けた話でした。
ですが、その時でも瀬名姫を守れなかったことを思い出すのでした。
瀬名姫、生存?
非業の死を遂げた人にこのような噂がついて回るものです。瀬名姫も例外ではありません。
身代わりとして侍女がなった、という話です。瀬名姫はその後尼になってひっそりと残りの人生を過ごしたことになっています。
そういえば、瀬名姫のお墓を世話する係の比丘尼(尼さんです)がいたと言います。もしかしたらその人こそが瀬名姫本人だったのかもしれない・・・
瀬名姫、大河ドラマ今昔
某テレビ局の大河ドラマ・・・戦国時代→関ヶ原の合戦となると信長や家康が活躍しますが、その中で瀬名姫は欠かせない登場人物です。
築山殿、という名での登場が多かったです。
かつてはツンデレのイメージでした。今川家と徳川家では徳川家の方が格が上でしたから、瀬名姫は徳川家に嫁に行ってやった・・・的な気位の高さが表れていました。
徳川家康に惹かれているのですが、気位が高すぎで素直になれない。そしてツンデレを続けているうちに、今川義元は討死・・・今川家の勢力は落ちてくると瀬名姫には耐えられない状況に陥ってくるのです。
その中で信長に味方しようとする家康が段々と許せなくなって、やがては家康との間に亀裂が入って・・・結局は武田と通じていると疑われ、息子信康と共に処罰され殺される、という筋書きでした。
しかしここ最近の瀬名姫は健気です。健気さを最初に表現していたドラマが「女城主直虎」の瀬名姫でした。
その頃から世の中の「瀬名姫観」が変わってきたのかもしれません。
「どうする家康」の瀬名姫もまたまた非常に可愛らしく一途です。
そして最初から夫家康との仲も順調で、この様子を見ているともしかしたら家康は瀬名姫を最後には討たないのではないか?と思われるほどです。
家康と引き離されて今川家の中に残されていって危機を迎えている瀬名姫を見ると、視聴者も切なくなります。
今回「どうする家康」で瀬名姫を演じる有村架純さんが「悪女と言われる役が楽しみ」なんて言っておられました。
果たして・・・
瀬名姫の家系図。出身と親?名前の由来はここに?
瀬名姫の出自は今川義元の姪でした。父が関口親永で、母親が今川義元の妹です。
ですが、母は元は井伊家の娘で、関口親永と結婚する前、今川家に側室に入ったことがあるという説もあります。
側室説が事実なら今川義元の養妹となったのちに、関口氏に嫁いだわけです。
なお、今川義元の父、氏親の娘の一人が瀬名氏に嫁に行きました。瀬名姫の名前の由来もその辺りからきている可能性があります。
というのも、関口親永は瀬名氏の一族で、関口家に養子に来たからです。
義元の妹と結婚し、一時期住んだ館の名前が瀬名館。そこで生まれた娘を瀬名ととよんだ、というわけです。
家康の正室だった、瀬名姫。瀬名姫または築山殿の名前で知られています。
築山殿というのは、正室の住居から来た名称なのですが、本当の名前は実は記録に残っていません。
駿河の出身なので駿河御前と呼ばれることもあります。
瀬名という名前が見られるのは、江戸時代中期に書かれたと見られる書物に「関口、または瀬名」というような記述が見られます。
瀬名姫の子供たち
瀬名姫の子供の一人、松平信康は切腹を命じられて命を落としましたが、もう一人の女子亀姫は永らえました。
のちの宇都宮藩主になる奥平氏に嫁ぎました。
一方、信康は徳姫との間に熊姫という娘をもうけました。熊姫は徳川家の家臣本多忠勝の息子の元に嫁に行きました。そこで忠刻という息子を産みます。
本多忠刻は後に徳川秀忠の娘、千姫の再婚相手となり勝姫という女子を産みました。勝姫の子孫は徳川家最後の将軍となる徳川慶喜がいます。
なんと、徳川家の初代と最後に瀬名姫が関わっていたのですね。瀬名姫はまさに徳川家の基礎を作った姫でした。
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