小松姫(いね)、強い!婿選にびっくり!性格は?美人?父に似て?最後、そして墓は?

小松姫(こまつひめ)、戦国時代をたくましく生きた女性です。

父親は徳川氏の重臣、本多忠勝(ほんだただかつ)。夫は真田信之(さなだのぶゆき)、真田幸村(さなだゆきむら)のお兄さんです。二人の結婚はどのようであったのでしょう?

小松姫は勇敢な女性と見られています。その理由はどこにあるのでしょう?また美人としても知られていました。

勇敢な女性、ということは気も強いのでしょうか?エピソードが残されていますので、そこから小松姫の性格を見ていきましょう。

小松(稲)姫の性格

小松姫は、1575あたりに生まれた戦国時代の女性です。

戦国の姫、戦国武将の妻としては比較的エピソードが多いです。ということは、その性格が強烈だったからかと思われます。戦国時代の女性にしては珍しく自分の主張をする姫・・・人々に印象付けるものがあった、ということになります。

以下、二つのエピソードを紹介します。

小松(稲)姫、強い!

小松姫、小松殿と呼ばれることもあります。

小松姫は徳川家康の重臣、本多忠勝の娘です。父親譲りのところがあったのでしょうか?かなり活発な娘でした。毎日剣術の稽古に励んでいたと言います。

その腕前、なかなかなものでした。小松姫の腕前を表すエピソードがあります。

小松姫が父と共に千葉県大多喜町の大多喜城(おおたきじょう)で暮らしていた時の話です。

小松姫は、イノシシが街中で人を襲おうとしている所出会しました。小松姫は刀を携えていたので、その刀を振りかざして猪を竹藪に撃退しました。

その時、振り上げた小松姫の刀が日を浴びて、きらり、と光りました。そしてその光が小松姫に差し掛かって、姫自身が光り輝いて見えたのです!

光り輝く姿を見て人々は。小松姫のことを「かぐや姫」という名で呼ぶようになりました。

大多喜町ではこのエピソードから、今でも、筍をいれた炊き込みご飯を「かぐやご飯」と呼ぶそうです。

しかしイノシシを、倒したのではなく、撃退した、というところに、小松姫の優しさを垣間見たような気がします。獰猛だからイノシシを倒すというのではなく、イノシシにももしかしたら、家族がいるといった思いが働いたのではないでしょうか?

小松姫の婿選び

ここには物おじしない小松姫の話があります。

小松姫はお年頃になり、婿選びをすることとなりました。

小松姫は家康に可愛がられ、好きな男を選ぶように言われました。そこで一堂に集められた男たちのうちから婿を選びにかかります。

そんなシチュエーションはちょっと羨ましいですが・・・

小松姫は相手を見定めようとすると、男衆は恥ずかしがって下を向いてしまいました。

そこで小松姫がしたこといえば・・・一人一人の髷を掴んで顔を上げさせて、顔を確認したことでした。

これには一堂に会した男性たちもタジタジ・・・・髷など引っ張られれば、大抵の男性は面目丸潰れ、あんなおてんば娘、嫁になんぞ、願い下げだ、となることが多いように思えます。

いよいよ小松姫の顔見分(?)は真田信之のところまでやってまいりました。真田信之は、小松姫の手が自身の髷に触れる前に、姫の手を持っていた鉄扇で打ち据え、その頬を叩きました。

鉄扇?相当痛かったのではないでしょうか?ですが小松姫は怒らずに・・・他の人と違うと見て、真田信之を気に留めたのでした。

この時の小松姫の年齢は13歳〜17歳。かなりの意志の強さを感じさせます。

真田信之も肝の据わった人物ですね。家康のお気に入りの娘を打ち据えるなんて、家康が怒りくっても仕方ない所業でした。

しかし、小松姫もなかなかなもの。保護者の家康の威を借りて、タカビーな態度でいたのですが、反撃を喰らった、という感じです。

しかし、真田信之の反撃に怒ったりせず、むしろ「凄い!」と感じ入った様子は、当時の女性としてはなかなかの強者(つわもの)ですね。

この時の小松姫は、徳川家康の養女として見合いに臨んでしました。徳川家康はハキハキと話す、小松姫が気に入っていました。

だからこそ、「そなたの好きにするが良い」とばかりに小松姫に夫選びをさせたのでした。武将たちに取って、小松姫から気に入られるものは、家康から目をかけられる・・・と思った人はいなかったのでしょうか?

しかし小松姫の、ハッチャケぶりにほとんどの武将は、度肝を抜かれたのでしょうね。

ですがこの出会いで、小松姫は真田信之を夫と決めたのでした。

小松(稲)姫、美人だった?父、本多忠勝に似て?

小松姫は、性格、容貌ともに父、本多忠勝によく似ていた、と言われています。

そしてその姿は容姿端麗だったと、伝えられています。

本多忠勝というと、非常に勇猛果敢な武将で有名です。また戦争に出てもかすり傷ひとつ負わない、という伝説の持ち主でもあります。これはちょっといきすぎた伝説だと思いますが、それほど運の強い武将だった、ということでしょう。運も実力ですね。

父親が強いから、娘もきっと強いだろう、という憶測が先立って性格が父によく似た気の強い娘、という評判が立ったのかもしれません。

本多忠勝の肖像画が残っていますが、どちらかというと不細工?でもこれは、本多忠勝自身が、「もっとゴツくしろ!いかつく描いてくれ」と希望したからです。本人は肖像画とは違い優男だった、と。

また反対に、娘の小松姫が美形だったから、本多忠勝も美形だった・・・という憶測です。

本多忠勝は「どうする家康」で大活躍中です。小松姫間も無く登場でしょう。

本多忠勝役の山田裕貴さんがイケメンなので、姫君にも期待が高まります。

「どうする家康」では 鳴海唯さんが演じます。楽しみですね。

小松姫と真田信之

真田信之には元々妻がいました。従姉妹の静音院(せいおんいん)という女性でした。

信之は「信幸」と書かれることもあります。真田家に伝わる歴史書では、関ヶ原の戦い前は、「信幸」関ヶ原後は「信之」と漢字を変えたとあります。漢字を変えることで、関ヶ原の前と後では違うことを示したかったのです。

「信之」は真田側として、「信幸」は徳川側として・・・

真田信之は小松姫との結婚後、豊臣秀吉から武家の妻たちが上方に住まわせるよう、要請がきました。そこから小松姫を上方に住まわせまることになりました。対外的な事項、例えば、秀吉への挨拶などが仕事です。

小松姫の役割は正室が主に受ける仕事でした。ついに小松姫が正室となっていきました。

真田信之と小松姫は、仲が悪かったわけではありません。小松姫は信之の妻として真田家を支えましたし、二男二女を産んでいます。

小松姫は真田家を、真田信之を支えました。このサポートを表す逸話があります。

豊臣家の天下を支持する西軍、徳川の天下を支持するのが東軍。と日本が二つに分かれて戦さをしましたが、真田家も二つに分かれました。

真田信幸が東軍、真田昌幸(信之の父)と信繁(信之の兄、のちの幸村)が西軍と。家を二つに分けることで、家の存続を目論みました。

東軍と西軍が天下をかけて戦ったのが「関ヶ原の戦い」です。

関ヶ原の戦いの前、敵同士となってしまった真田親子。真田昌幸、信繁は自分の城、上田城に戻る途中の話です。

昌幸は、信之の城、沼田城に孫の顔を見に立ち寄ろうとしました。

そこを小松姫は、敵となった者を、たとえ実の親でも、絶対に城内に入れない、と主張しました。そして自分自身は武装して城の前に立ちはだかり、義理の父を追い返しました。

真田昌幸一行が沼田城を乗っ取るつもりがあるのでは?と小松姫は疑いました。

このエピソードにある、真田昌幸の思惑は確信が取れていません。多くの研究家たちの間でも意見が分かれているそうです。

ですが真田昌幸は、徹底した小松姫の行動に感銘を受けました。「あっぱれ!さすが本多忠勝の娘だ!あの奥方がいれば真田家は安泰!」と褒めたそうです。

しかし後日談があり、夜にこっそりと、小松姫は孫たちを連れて真田昌幸に会いに行った、と。

この一連の話は真田家の記録「滋野世記」にあるのですが、出来すぎた話のような気がします。

すでに信之vs昌幸・信繁の対立が決まっていたなら、あえて孫の顔を見る口実で沼田城にはいかないと思うのですが。

小松姫が気の強い女性、そして腕自慢の性質を表すために強調されたエピソードだったのかもしれません。

小松姫と子供

小松姫は真田信之との間に、2男1女を産みました。二人の男子は大坂夏の陣に参加しました。この時、真田信之は体調を崩して出陣できなかったので、その代わりです。

しかし息子は二人とも若かったため、小松姫は息子たちを、本多忠朝(ほんだただあさ、小松姫の弟)の陣に入れてもらいました。

その時、弟をはじめ、本多の家臣たちにも手紙を書いて息子たちのことを頼んでしました。

その気遣いのお陰か、二人とも戦争から無事に帰ってきました。

その時は「どちらか一人か戦死していれば、自分の家も忠臣の家柄になったかもしれないのに」とぼやいたそうです。

かなり強気なお母さん・・・・と言っていいです。

小松姫のイメージは、一族を盛り立てようとする気の強い女性!母としては肝っ玉かあさん?

小松姫の最後と墓

小松姫は、大坂夏の陣の後に具合が悪くなります。1620年の頃です。

病気療養のため江戸から草津温泉に療養に行きます。なんの病気かは記録にはみられません。そのころは48歳と言われています。

当時は48歳といえば、老齢に差し掛かった年齢、と言われる時代ですから、何らかの病気があってもおかしくありません。

江戸を出て、武蔵国鴻巣(こうのす、今の埼玉県鴻巣市、北陸新幹線で行くと、熊谷市近く)で亡くなりました。草津温泉までは行き着けませんでした。

戒名は「大蓮院殿英誉皓月大禅定尼」。浄土宗に帰依していました。武蔵国鴻巣の「勝願寺」を保護していていましたところから、勝願寺の住職に戒名をつけてもらいました。

墓は勝願寺、長野の沼田にあるの正覚寺、信濃(同じく長野)にある法泉寺の3つの寺に分骨して埋葬されました。

夫の、真田信之は後に、上田城下に大英寺を建てました。やがて真田が江戸幕府から松代藩に国を変えられると、大英寺も一緒に移築しました。その大英寺に、小松姫の御霊屋を作っていました。

そこから、真田信之の小松姫に対する愛情が感じられるのです。

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