細野正文、手記から見えるタイタニック。海外の反応。子孫は細野晴臣!

細野正文、えっ、誰?と思われる方は多いかと思います。

このかたは、ミュージシャン細野晴臣、YMOのメンバーでもあった方のお祖父様です。

1912年4月15日、20世紀最悪の海難事故といわれたタイタニック号に乗り合わせていました。そして奇跡的に助かりました。

まだ日本人が海外に行くことが珍しい中での渡航、人種ならではの苦労されたことでしょう。

さあ、どんな運命に導かれて、乗船、救助へと至ったのでしょう?

そして細野正文氏に対する反応はどんなものだったのでしょうか?

細野正文の手記、何が書いてあった?

細野正文はタイタニックに乗っていたにあたって手記を残していました。

手記をいつ書いたかというと、船を脱出してカルパチア号で救助された時、に書きました。上着のポケットにたまたまタイタニック号の用箋が入っていたことに気がついて、日記のように書き綴りました。

そこには沈没が始まってから、沈没後のことを自分の感想を加えながらかなり詳しく書かれていました。

ただし、明治時代のことですから漢字とカタカナの混じった古文タイプの文章ですのでかなり読みづらいです。

順を追って・・・

なんらかの事故が起こった模様。大変深刻な事故と知って、「もしかしたら命がここで終わるかもしれない。それを覚悟して、慌てず日本人の恥にならないよう心がけて、最後の時を待とう」と。

ここの心境が非常に重要だと思います。心境からとても他人を押し除けて救助ボートに乗るような人には思えません。

次には、脱出に向かう人々のことがかなり詳しく書かれています。

甲板に集まった乗客は落ち着いて行動しており、救助ボートにも女性・子供を優先していた。焦って乗ろうとしていた男性客もいたが、船員が銃を見せて、止めていた。

船は45度まで傾いてきた。

かなり詳しいです。細野正文はずいぶん落ち着いていた感じです。

女性・子供がほぼ全員救命ボートに乗った模様です。ボートがスルスルと降り始める。あと2名ほど席が空いている!

「空いている!」と叫ぶ声がする。誰かが、一人飛び乗ります。ここでこのチャンスを逃したら2度どない、そう思って細野正文はボートに飛び込みました。もしここで、船員に「ダメだ!」といって銃で撃たれても、飛ばないよりは後悔しない、そう思いました。

そうして、細野正文は無事に日本に帰国できたのですね。

咄嗟の判断が要求される出来事でした。人生に何があるかわからないと思い知る一瞬でした。

手記・・・今では細野家の家宝になっているそうです。

この手記は、映画監督、ジェームス・キャメロンもよんで映画「タイタニック」の背景を知る資料としました。

そういえば、船の傾き具合、の記述など書いていたと言う点が映画の中で生きていましたね。

希望を言わせていただくと、ほんのわずかでも細野政文と見られる日本人を、ちょっとでも出演させて欲しかった。

細野正文、タイタニックの乗客

細野正文はミュージシャン細野晴臣の祖父です。

逓信省(ていしんしょう、と読みます。郵便と、運輸を一緒に省庁で、現在で言えば運輸省に当たる)の役人でした。鉄道関係が専門でしたので、その関係で海外に行くこととなり、その帰国のため、タイタニック号に乗り込んだのでした。

当時は日本人として、豪華客船に乗ることな非常に珍しいことでした。

もちろん1等なんて言うところには乗れず、2等船室でした。3等と書かれている記述もありますが、いくら軽んじられていた日本人とはいえ、一応役人でありましたから、2等なのでは、と思っています。

映画「タイタニック」のディカプリオ演じるジャック・ドーソンが乗っていたのは3等船室です。

映画でもあるとおり、1等とその他の船室の格差は激しいものです。1等は超豪華なインテリア。ホテルのペントハウスみたいです。現在の「飛鳥」以上の豪華さです。貴族、大金持ちといった特権階級しか乗れません。現在の飛行機のファーストクラスとエコノミークラス以上の格差がありした。

4月14日の無夜中、タイタニック号は氷山にぶつかり、浸水そして沈没へと向かいます。

ここでも船室格差が起こります。救助は1等船室の乗客からと決まっています。1等の乗客が全員降りないと2等、3等は逃げられません。

それに救命胴衣の配布も1等の乗客は着付けるのも手伝ってもらえる。2等は一応手渡し、それに対して3等はただ放り投げてよこされるだけ。

この時代欧米では階級制度が非常にあからさまでした。日本人なんかどこの馬の骨?扱いです。

ただタイタニックの沈没は、その階級制度崩壊の第一歩となったともいわれる事件です。

細野正文の新聞記事、海外の反応

タイタニック号沈没の様子は何人かの生存者からの、懐古話があります。

その中であるイギリス人の手記からは、「他人を押し除けて乗ってきた、嫌な日本人がいた」と書かれています。それも女性子供用のボートだった、と言います。

「嫌な日本人」これはまさに当時の人が見る日本人のイメージでした。有色人種に対する明らかな偏見だったと思われます。

西洋人にとって黄色人種はみんな同じに見えたのかもしれません。また当時は日本人や東洋人が西洋の船に乗っている機会はほとんどなかったから、ますます東洋人が目立ちました。

「押し除けて無理やり乗ってきた日本人」の話は、日本にも入ってきました。

当時、細野正文は帰国していました。

日本では、ほとんど日本人がいなかった乗客の中で、名指しで日本人(東洋人)なら細野正文に違いない、と勝手に判断されます。

細野正文は、職場で降格になるし、国内では悪く言う声も上がってました。細野正文をそれとなく仄めかして、非難する文章を寄稿する著名人も出る有様でした。その中には新渡戸稲造もいました。

細野正文が肩身の狭い思いをしたことが思いやられます。生きづらい世の中になった、と思ったことでしょう。

細野正文は「卑怯に逃げた」と言う批判に対し何も言いませんでした。なぜかは知る由もありませんが、タイタニックの事故が悲惨すぎたこて、事件がトラウマとなって彼に襲い掛かったのかもしれません。

こうした人命をたくさん失わせてしまう事故の場合、生存者は自分が何一つ悪いことをしていなくても罪悪感をトラウマ的に感じてしまうことが多いのです。だからこそカウンセリンがが必要なのですが、この時代まだトラウマに対処する医学は発達していませんでした。あえて真実を語ると言うのも、自分がどうすれば正しかったのか、そこの判断が難しかったからかもしれません。

細野正文の真相、ついに晴らされる濡れ衣

細野正文は結局何一つ語らないままその一生を終えました。

けれども1981年に、細野正文自筆の、手記が発見されました。そして調査され1997年に手記の内容が証明されました。

細野正文が乗った救命ボートについて誤った認識がありました。

例の人を押し除けて乗った人物がいたとされるボートは救命ボート13号、しかし細野正文の乗ったボートは10号だったという見間違いがあったと言う。

しかし、もっと調査が進んでいくと、10号ボートにも13号ボートにも、人を押しのけて乗った人が誰か、存在したかどうかも不明でした。

細野正文自身、いくら空きがあるとはいえ、女性を救助するボートに男性である自分が乗ってしまったのだから、この点を恥ずべきこと、と自責の念に駆られていたのかもしれません。あえて汚名を訂正しなかった理由もここに見つけられそうです。

タイタニック号からの生還者は女性が多かったのです。救命ボートの数が乗客数全てを満たしていなく、女性・子供を優先的に救助したから、男性の生存者が少なかく、生き残った男性は肩身が狭かった思いだったようです。

実際欧米人でも、タイタニックから生還した男性は「卑怯者」の汚名を着せられた人が多かったようです。

それなら、映画「タイタニック」の主人公ローズの婚約者キャルは、大・大・大卑怯者と罵られてもいいと思うのですが。

細野正文の子孫

細野正文の子孫として何より有名なのは、孫の細野晴臣です。ミュージシャン、作曲家、YMOのメンバーとして活躍しました。

細野正文には息子が3人いて、それぞれ、日出児、日出光、日出臣と日出がつく名前でした。細野晴臣の父が日出臣でした。臣の名前は父譲りと言うわけです。

細野晴臣の活躍は松田聖子の曲の作曲などでも有名ですが、中でもとりわけ印象的な作曲があります。

1985年のアニメ映画「銀河鉄道の夜」です。宮沢賢治の小説をアニメ化したのですが、登場人物を猫の擬人化した絵で表されています。悲しさと美しさが交互に現れては消える映画です。

その音楽を細野晴臣が担当しました。

「銀河鉄道の夜」は主人公のジョバンニは親友カムパネラとある夜、不思議な汽車に乗ります。汽車はいろいろなところを、いろいろな人を乗せながら走っていきます。あるところで全身が濡れた幼い兄弟を乗せます。

その子たちは「自分たちの乗った船が沈んでしまった」と言うのです。その子たちは途中で降ります。

最後にはカムパネラもいなくなり、ジョバンニは一人帰ってきます。

そう、その汽車は最後の地に赴く列車だったのです。

全身濡れていた兄弟は、タイタニック号に乗っていたことを意味します。船から投げ出されて永遠に旅に出る途中、銀河鉄道はそうした魂を運ぶ汽車でした。

細野晴臣自身、「銀河鉄道の夜」の音楽の話が来た時、何かの縁かと思ったそうです。

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