北政所(ねね)とは誰?名前の由来とは。性格は?美人?秀吉の正室。信長、家康も頼りにした

北政所(きたのまんどころ)とは、豊臣秀吉の正室です。

名前でなく、通称なのですが、それでも、北政所というと、秀吉の正室が連想されます。

本当の名前は何だったのでしょう?

正室となると、この女性は美人だったか、どんな性格だったか、が気になりまます。

秀吉の、需要な側室、淀殿との間はどnのような関係だったのでしょうか?

そして「関ヶ原の戦い」、「大坂の陣」の中で取った行動とは?

北政所、誰?

北政所という、呼び名は、国の重要な役職、摂政や関白の正室に与えられる名称でした。

1583年、秀吉が関白になり、同時に妻の「ねね」も従三位という高い位を与えられました。

そこで関白の妻として「北政所」と呼ばれるようになったのです。

秀吉も、ねねも、身分の低い生まれですので、ここで二人とも一気に、公家の仲間入りのような偉大な役職、名称を名乗ることとなりました。

「北政所」というと、これまで公家という生まれの血筋の良い人に与えられた地位だから、過去にも「北政所」と呼ばれた妻はたくさんいました。

それでも「北政所」というと誰もが、「ねね」を思い浮かべるようになりました。

  • 秀吉と共に政治に携わった。
  • 一般庶民の生活を考えるためなら、秀吉と堂々と口論したこと。
  • 人質の子供たちを可愛がり、彼らから尊敬を受けした。

が理由にあがります。

北政所の名前

北政所は、呼び名ですので、生まれてつけられた名前があるはずです。

「ねね」というのがよく知られている名前です。

漢字では「彌々」とも「寧々」とも表記があります。

戦国時代の女性の名前は、はっきりと記載されていませんでした。

当時を書いた物語、歴史書に時折乗っている名前から、現代、私たちが推測しています。

「彌々」とあるのは、大坂の陣に参加した、土屋知貞(つちやともさだ)という人物が書いた「太閤素性記」にです。

「太閤記」には「ねね」の名は見られません。北政所、とあるのみです。

北政所本人は署名に「ね」と書きました。

最近では「おね」という名が使われていることが多いです。

それでも観光地京都では、高台寺西側の通りを「ねねの道」と名付けています。

「ねね」も「おね」も「ね」から来たのでしょう。

昭和初期頃までは、女性の名前の上に「お」をつけることがよくありました。

例えば「はな」を「おはな」と呼んだりしていました。

一言「ね」というだけでは、呼びにくいので「おね」になったり、ちょっぴり可愛らしく「ねね」と呼んだいたのが今日に伝わっているのでしょう。

1981年、NHK大河ドラマ「女太閤記」では西田敏行演じる、秀吉が、ねねのことを「おかか」と呼んでいました。ちなみに ねね は佐久間良子でした。

秀吉が1585年、関白に任命されてから、「北政所」という名称で呼ばれています。

北政所(ねね)の性格

非常に性格の良い女性だったようです。

人の面倒をとてもよく見る人でした。

秀吉が関白となってからは、大名たちの妻子を人質にとっていましたが、北政所(ねね)は彼らに大変、気を配っていました。

各大名が、心置きなく働けるよう、大名たちに、妻子の様子を手紙で書き送っていました。

その子供たち、また自分の、そして秀吉の子供たちもよく面倒を見てやっていました。

秀吉は関白になって以来、側室をたくさん連れてきましたが、彼女たちとも仲良くなり、一緒に楽しむこともよくありました。

戦国時代、日本に来ていたキリスト教宣教師、ルイス・フロイスは北政所のことを

「人格者であり、頼み事をすれば快く引き受けてくれる。『日本の女王』と言っていいほどの人だ」と自分の国、ポルトガル国王にあてて手紙を出しています。

これはフロイスが自国の国王に宛てているので、秀吉や、北政所に全く忖度しない表現です。

ここから、北政所の性格の良さが伝わってきます。

北政所、美人だった?

美人だったのでは、と想像できます。

秀吉が惚れての恋愛結婚、となるとやはり美人であったからでしょう。

信長の、「秀吉にはもったいない」と言っている。

秀吉の浮気癖を信長に訴えたところ「この間、お会いした時より美しくなっている」と書かれている手紙がある。

以上の2点から美人であることが伺えます。

肖像画がありますが、秀吉が亡くなった後、未亡人となって出家した姿ですので、絵を見たところでは美人かどうかの判断はつきません。

ですが、美人と考えて間違いないと思います。

北政所(ねね)と秀吉 仲は良かった?

恋愛結婚!

秀吉と北政所(ねね)は恋愛結婚でした。

その頃の秀吉はまだ、木下藤吉郎(きのしたとうきちろう)という名でした。

恋愛結婚というより、秀吉の方が、北政所(ねね)に惚れ込む形でした。

秀吉は、百姓から足軽になった身の上。

北政所(ねね)は下級であるけれども武士の出身。

北政所(ねね)の親は身分違いで反対しましたが・・・

結婚したのは、北政所(ねね)14歳、秀吉25歳の頃でした。

二人は仲睦まじい夫婦になり、子供は生まれませんでしたが、それでも仲の良さはずっと続いていました。

秀吉は、女性好きで、よその女性と浮気していましたが、北政所(ねね)は起こりながらもうまくやっていました。

出世した秀吉のもとで

二人の間に子供は生まれませんでしたが、一生秀吉の妻として秀吉をサポートしました。

秀吉は出世し、城を任せられるようになると、戦争などで城を開ける機会もありました。

不在の期間、妻の北政所(ねね)が、政治のことを代行して行いました。

秀吉と北政所、政務で意見が合わないこともありました。

そんな時は、秀吉と北政所、が口論することもよくありました。

その時は、尾張弁丸出しで言い合う、場面がありました。

北政所は、秀吉にとって、公私にわたるパートナーでした。

秀吉が関白になっても、このサポートは変わらず、朝廷の交渉をすることもありました。

淀殿が、側室に上がり、子供を産み、秀吉の寵愛が淀殿に移ったか?と見えるかもしれませんが、北政所は、秀吉にとって単なる妻でない位置を占めているのです。

共同統治者に近い相手でした。戦友と言うべき相手でした。

北政所と淀殿

北政所、淀殿・・・・仲は悪くない

イメージとしては、正室と側室だから仲が険悪・・・と考えるのが一般的です。

しかも、淀殿が男子を産んだのだから、正室としては面白くない、と思った、と考えられるかもしれません。

ところが、仲はそれほど悪いものではなかったのです。

淀殿が懐妊した時も、安産を願っています。

淀殿は出産を機に、自分の城を与えられ、北政所とは住む場所が異なってしまいました。

そうすると、意思の疎通が難しくなり、二人の縁も遠くなっていきました。

秀吉亡き後は、豊臣家のあり方を巡って、対立する立場になります。

どちらも、秀頼のことは可愛く思っていました。

淀殿は、秀頼が豊臣家そして、関白となって日本そのものを率いて欲しいと思っていました。

一方、北政所(ねね)は、秀頼がそして豊臣家が存続していけば良い、と。

世の中の動きはすでに、徳川に向きつつある。と世情を読んでいた人でした。

黒百合の話

秀吉の家臣、佐々成政(さっさなりまさ)と言う人物がいます。

佐々成政は九州平定を成し遂げますが、チャンスを与えるきっかけとなったのが北政所だったため、そのお礼として、一本の黒百合を献上しました。

越中 立山に自生する花でした。

北政所は非常に喜び、黒百合を活け、茶会を開き秀吉の側室たちに披露しました。

それを見た淀殿は、黒百合をたくさん取り寄せ、雑草と一緒に手桶に入れて、「花供養」と言って北政所に見せました。

淀殿は、北政所の自信たっぷりに花を見せつけるところが気に食わなかったようです。

黒百合など、たいして珍しい花でもない、と見せて仕返しをしました。

北政所は、恥をかかされたと秀吉に報告しました。

その罰を受けて、佐々成政は切腹を言い渡されました。

性格がいい、と言われている北政所にしては意地悪な話だなと、思うのですが。

本当は、佐々成政は、黒百合のことで切腹させられたのではなく、自国の肥後で、一揆が起きてしまたことの責任を取らされたからでした。

多分、黒百合事件と一揆の話が、似たような時に起きたので、一緒の話に作られたのでしょう。

北政所、聚楽第に住む意味

1583年に、秀吉が、朝廷から『関白』の地位を授かると、妻 ねねはいよいよ「北政所」と呼ばれるようになりました。

北政所は聚楽第に移りました。

聚楽第に住む、と言うことは、北政所は日本国のファーストレディーであるとの意味です。

1587年には、京都の中心部に、自分の住居と仕事を執り行うオフィスとしての機能を持つ城「聚楽第」を建てました。

かなり贅沢な御殿です。

聚楽第は、言ってみれば、ホワイトハウスに匹敵する役割を持ちました。

「じゅらくだい」と今では呼びますが、「太閤記」には「じゅらくてい」とふりがながあることから、当時は「じゅらくてい」と呼ばれていたようです。

実際、「聚楽亭」と書かれていたこともあります。

秀吉は、「聚楽第」で公的な役割全て行うこととしました。

北政所、と大政所が聚楽第入りは、派手に行列を仕立てて行い秀吉の権威を示しました。

なお、聚楽第は今では、取り壊されて残っていません。

秀吉の甥、秀次が関白になったとき、聚楽第に住んだのですが、秀次は切腹させられる事件を起こしたので、縁起が悪い、として秀吉が壊してしまいました。

北政所は関ヶ原の戦いでは?

北政所が、関ヶ原の戦いで、徳川寄りか豊臣寄りか、はっきりしていません。

北政所は、子供を産まなかったため、養子がたくさんいました。

養子以外にも、人質にきた大名たちの子供を大層可愛がっていました。

加藤清正(かとうきよまさ)、福島正則(ふくしままさのり)がその有名どころなのですが、その武将たちはほとんど、徳川側につきました。

西軍の、石田三成が全くの不人気だったせいもありますが、ここに北政所の影響があるのでは?と思われるところです。

それに加えて、淀殿も武将たちからの人気がありませんでした。

と言うよりも、みな、北政所が好きだったからなのです。それに対する反発が淀殿に向かいました。

北政所の血縁のものたちも、ほとんど東軍(徳川方)につきました。

北政所は、秀吉の妻で、秀吉をずっと愛し続けていましたので、豊臣家を滅ぼそうとしていたわけではないのです。

豊臣家が存続すること、それには和平が必要だ、と思っていた女性だったと思われます。

豊臣家と徳川家が手を携えて世の中の平和を作り上げる、これが夢だったのでしょう。

大坂の陣の時、北政所は?

北政所の願い

北政所(ねね)は豊臣家の存続を願っていました。

秀吉のたった一人の子供、秀頼の存命を願っていました。

そのためには、徳川の家臣となっても仕方がない、と思っていました。

豊臣に仕えていても、その後家康の元に走った家臣たちは、それでも豊臣を、秀頼を大事に思ってくていると、北政所(ねね)は考えます。

家康から、淀殿人質の話が来たときに、秀頼はそれを拒みましたが、北政所は人質の話は従った方が良い、と思い、淀殿と秀頼を説得に行こうとしていました。

しかし、そうされては困る、と家康は北政所を行かせないよう、妨害しました。

この時、北政所はすでに出家の身の上でしたが、まだまだ豊臣家臣に影響力があったことを示しています。

淀殿との違い

淀殿にも豊臣存続の願いがありました。

ここで北政所と決定的に違うのは、豊臣秀頼は秀吉の後継者で、関白でなければならない。

秀頼が、日本に号令を下す立場にいなければならない、と思っていました。

豊臣を取るか、秀頼を取るか、これが、北政所と、淀殿争いだったのです。

北政所は、秀吉の「最高の伴侶」、淀殿の場合は「最愛の伴侶」、こういう区別ができます。

二人は、意図して争ったわけではありませんが、結局、大坂の陣の根底には、北政所と淀殿の思惑の違いが流れていました。

北政所と淀殿は二人して、丁々発止とやり合ったわけではありません。

しかし、北政所びいきの武将が徳川につき、淀殿に味方する武将が大坂についた・・・

二人とも豊臣を思うがあまり、結果敵対することとなり、それが豊臣の滅亡に繋がったのはなんとも皮肉と言えましょう。

北政所(ねね)は、徳川家康にとってどんな人?

北政所(ねね)と徳川家康の関係がどのようであったか?実ははっきりした記録は残っていません。

豊臣秀吉の正室として見知ってはいました。

豊臣秀吉は、多くの大名たちの妻子を人質に取っていました。

その中に、徳川秀忠(徳川幕府2代目将軍)もいました。

北政所はまだ幼少の秀忠を可愛がり、武士としての着物の着付けを教えてやり、髪も結ってあげていました。

秀忠は、北政所に懐いて慕っていました。

ですから、秀忠は「関ヶ原の戦い」以降も、北政所の元に挨拶伺いに行くことがありました。

北政所(ねね)の所領(財産、土地)も秀吉が生きていた時と同様、いやそれどころか増やしてもあり、徳川家に取って、北政所は特別な存在だったようです。

「大坂の陣」の時でも、家康は、まだ北政所が大勢から支持を受けている、と悟っていました。

これも、北政所の性格の良さ、からきていると思われます。

また、北政所の行動から、政治力を持った人である、と見ることができます。

だからこそ、北政所は、秀吉に何人もも分が高い側室がいても、政治力ではその才能を発揮させました。

優しい性格も人気の一つでした。

「どうする家康」でどうなる?

2023年、NHK大河ドラマ「どうする家康」では和久井映見が、北政所を演じます。

「どうする家康」はこれまで知られていた家康ストーリーを、新しい視点で写しています。

しかし、これまで信じられてきたこと自体が、確実性のないことですので、その点がツボにハマって視聴者に、「なるほど」と思わせます。

秀吉も、従来の人情味あふれる秀吉とは一味違い、これまで真剣な笑顔を見せていません。

北政所は、秀吉が自分を曝け出せる存在です。

そこで秀吉がどう変わるか楽しみです。

それにまた、新しい北政所の魅力も出てくるのでしょうか?

北政所(ねね)を織田信長はどう見ていた?

織田信長は、ねねのことがお気に入りのようでした。

織田信長は、北政所(ねね)のことを、「三国一の嫁御」と呼んでいました。

信長が、鷹狩りの途中、休憩に寄った臣下の家で、お茶を出してきた女性がねねでした。

ねねを見て、「これは藤吉郎(当時の秀吉の名前)の嫁にちょうどいい」と思った、という話が残っています。

「これほどのおなごはハゲネズミ(秀吉のあだ名)にはもったいない」とも言っていました。

秀吉は、女遊びが大好きでした。浮気で、ねねを苦しませることがよくありました。

ある時、秀吉のそんな性格に我慢できなくなった北政所(ねね)は信長に手紙を書いたところ以下のような手紙が来ました。

この前久しぶりに会ったがあなた(ねね)はいっそう美しさを。藤吉郎(秀吉)があなたに対し色々と不満を言っているようだが、言語道断である。あのハゲネズミ(秀吉)があなたほど良き女を他に得られるはずはないのだから、あなたも奥方らしく堂々として、嫉妬などしないように。この書状は秀吉にも見せてやりなさい」

この手紙は、女性が読みやすいように、ひらがなで書かれていました。

近代になるまで、男性は漢字、女性はひらがなで書くのが普通でした。

普段は、恐ろしいイメージの織田信長でしたが、北政所(ねね)には優しい一面を見せています。

これは信長が、ただ女性にやさしい人、というわけだけではなさそうです。

北政所(ねね)には特別な、人を惹きつけるところがあったのでしょう。

北政所の出自

北政所(ねね)の出身は下級武士です。

尾張国朝日村(おわりのくにあさひむら)、現在は 愛知県清須市 で生まれました。

父は 杉原定利(すぎはらさだとし)、母は 朝日殿(あさひどの)と言います。

その後、北政所(ねね)は浅野氏の養女になります。

こちらも武士の家柄。

ですから、北政所(ねね)の母、朝日殿は秀吉との結婚を認めませんでした。

身分が違うからです。

そして秀吉が、大名になってさえも、まだ朝日殿は娘と秀吉の結婚を許していなかったのです。

北政所の最後そして墓

北政所は、1603年、秀吉の唯一の子供秀頼と家康の孫 千姫(せんひめ)の婚礼を見届けてから、出家しました。

そして、出家名を、高台院(こうだいいん)としました。正式名称 高台院湖月心尼(こうだいいんこげつしんに)。

住居も、京都東山に高台寺を建立し、その門前の屋敷にすまいました。

高台寺には、御霊屋があり、秀吉の霊を祀っていました。

大坂の陣では、ここから大坂城に駆けつけて、淀殿や秀頼を説得しようとしましたが、家康の部下に止められました。

高台寺に住まうようになってからも、家康の訪問、公家に贈り物を届けるなど、まだまだ大きな影響力を持つ女性でした。

1624年、9月6日が北政所(ねね)はこの世を去りました。76歳、とも83歳ともいわれます。

そもそも、生年がはっきりしないので、享年、と言っても数えられないのではないでしょうか?

墓として、高台寺の御霊屋にある、高台院木像の下に安置されています。

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