久松源三郎(勝俊)の生涯は?どうする家康の場合。もらった名前と刀。墓の所在

久松源三郎という人物が「どうする家康」に出ています。

徳川家康の父親違いの弟です。この弟の、行動が徳川家を支えることになります。久松源三郎はどのようなことをしたのでしょうか?

虐待ともみえる、ドラマのシーンは事実なのでしょうか?

一生懸命の行動に家康は感激し、褒美を与えるほどでした。と、同時に名前も松平姓になります。

心身ともの苦しみ、早死にした、源三郎、お墓の所在はどこでしょうか?

久松源三郎、どんな人

久松源三郎は、徳川家康とは父親違いの弟です。母は「於大の方」(おだいのかた)です。

於大の方が家康の父、松平元康(まつだいらもとやす)と離縁された後の次の夫、久松長家(ひさまつながいえ)との間に生まれた男子です。3男3女の一人でした。源三郎は男子のうちの真ん中の子供です。

源三郎の父、久松長家は、今川氏が敗退した桶狭間の戦い(1560年)をきっかけに、徳川家に味方します。

久松源三郎は徳川家のために、2度も人質生活を送る羽目になりました。

人質となったにも関わらず、ずっと徳川家を思って、兄のために尽くした、健気な人物です。

一方、徳川家康の方は、両親とも同じ兄弟、姉妹はいなかったので、久松の兄弟を大切に思っていました。

人質というのは過酷な運命に聞こえますが、国と国との関係を繋ぎ止めるために送られるので、重要な役割なのです。その役割を果たせる久松源三郎は頼りになる人物でした。

久松源三郎の生涯

久松源三郎の生涯を一言で言うと、「苦難の生涯」と言っていいでしょう。

生まれは1552年です。

生涯、その1・・・人質生活

源三郎は、人質生活を2回送ります。戦国時代は武将の子供が人質になるのはよくあることでした。しかし人質である以上、いつ殺されてしまうかもわからない身の上。ストレスが溜まる生活です。

第1の人質時代は、1563年で今川家に送られました。

今川家(今河氏真、いまがわうじまさ)は桶狭間の戦いで負けたとはいえ、家康のかつての主君。家康に裏切られたくなかったので、人質として、異父弟の、久松源三郎を預かりました。

1568年、武田氏が今川家に攻め入ります。

ここで久松源三郎は武田氏に人質として送られます。これは今川家の家臣が今川を裏切って、源三郎を連れて武田側に走ったからです。

武田信玄はこの、出来事に喜びます。が、久松源三郎にとっては、急な運命の変化でした。ここでは命の危機も感じたかもしれません。

結局、源三郎は1570年まで、約2年間、武田で人質として過ごしました。合計8年間の人質生活でした。

生涯、その2・・・人質生活終了後

久松源三郎は、解放されたのではなく、徳川家康の手配で脱出で人質生活は終了しました。

武田氏の国は、甲斐国(かいのくに)、今で言う、山梨県です。山梨県は山岳地帯。寒い地域です。

甲斐国からの脱出となると、山道を人に見つからないように歩いて逃げなければなりません。しかも脱出の時期は冬。非常に寒いです。現代のように防寒具も備わっていません。

雪道を脱走してきたので、久松源三郎は凍傷にかかり、足の指を失ってしまいました。

足の指がなくなると言うことは、歩行にも苦労します。

その怪我が元で、戦争にも出陣できませんでした。武家の家に生まれた男子であれば、戦に出られないと言うことで悔しい思いをしたのかもしれません。

ですが、人質生活を黙って受けていたことに感動した徳川家康は、久松源三郎に城を与えました。その城は「久能城」(くのうじょう)といい、今では「久能山東照宮」(くのうざんとうしょうぐう)になっています。

久松源三郎は1584年、34歳で亡くなりました。やはり人質生活で身体に無理がたたったのでしょうか?

久松源三郎俊勝・・・読み方は、人生の変化

久松源三郎俊勝は、ひさまつげんざぶろうとしかつ、と読みます。生まれた時につけられた名が源三郎、そして元服後についた名前が「俊勝」でした。

しかし、元服してからも、名を呼ばれる時はいつも、源三郎、でした。というのは、当時の武士が元服名を名乗ることは割とありませんでした。

人質生活が終わると、家康から感謝され、褒美として刀などと共に、松平姓を頂戴しました。そして、松平康俊(まつだいらやすとし)となりました。「康」の漢字はもちろん、家康の「康」から貰い受けました。

松平姓は家康の昔の姓。つまり、ここで松平姓をもらったことは、徳川家に次ぐ立場にある人物、ということ意味です。

久松源三郎、「どうする家康」の中では?

ドラマの場面では、源三郎初め、人質たちが¥は、訓練と言って、拷問のようにボコボコにされます。非情な訓練は実際にあったのでしょうか?

人質に対する扱いについては、武田氏や他の家でも記録したものは残っていません。人質の役割を考えてみると、人質の身体を痛めつけるのはダメではないでしょうか?人質を死なせてしまっては、その人質の出身国に喧嘩を売っているみたいなものじゃありませんか?

「どうする家康」では、武田信玄は家康に伝えたいことがあって、源三郎が逃亡するのを見逃した様子が見えます。このエピソードも、資料がなく創作と思われます。

しかし、家康の命令で久松源三郎を脱出させたのは事実で、家康は本気で武田信玄と決着をつけようとしました。

武田信玄を恨んでいない、源三郎に対する扱いも酷くはない、源三郎は武田を擁護しますが、戦国時代の武士にしては性質が優しすぎる感じです。

源三郎の性質を記した文献が見つかっていないので、芝居の作り手にとっては面白い題材です。

人気のある、長尾謙杜を起用することで、久松源三郎に新しいドラマが生み出されるような気がして、これからのストーリーに目が離せません。

久松源三郎の刀

久松源三郎は、11歳で今川家で人質になってから、武田の人質を経て18歳でやっと、自由の身になりました。

徳川家康は、黙って耐えた源三郎に感動し、感謝し、源三郎に下記の3つの褒美を与えました。

  • 「一文字の刀」とは「一」の字を名前として刻んである刀です。「一」の文字は柄にあって、普通は、柄(つか)を外してみないと見ることができないものです。鎌倉時代に備前(岡山県南東部)の刀職人の作、と言われています。
  • 「当麻の脇差」(たいまのわきざし)とは奈良の当麻寺に所属していた刀職人たちの手で作られた脇差です。鎌倉時代後期から南北朝の頃に作られていました。その作りは当麻派と呼ばれていました。脇差は日本刀より短い刀剣で、江戸時代になると、武士は日本刀と脇差の日本を腰に差していました。
  • 「山形十文字槍」。十文字槍というのは、突くのではなく、相手に打ち込んで引っ掛けて相手の武器を絡めとる役目の槍です、三つ鉾となっており、山形というのは真ん中の槍が他の2本より長く、漢字の山のような形をしています。

刀、と脇差というのは褒美として部下に与えることはよくあります。しかし「槍」は珍しい気がします。それも刀に比べて、それほど由緒ある品ではなさそうです。

足を痛めた、久松源三郎に護身用として与えたのでしょうか?

久松源三郎勝俊から生まれた歴史

久松源三郎は、結婚しますが、女子1人しか生まれませんでした。したがって、源三郎死後は、娘の婿養子が家を継ぎました。

その養子は、於大の方の弟、水野忠分の息子、勝政です。婿養子にも、松平姓を名乗ることが許されました。

娘の名前は残念ながら伝わっていません。

なお、この娘は、家康より「龗蛇頭」(りょうじゃとう)という名前のものを与えられます。「龗蛇頭」というのは、龍の頭で天候を左右する神通力がある、とされていました。

「龗蛇頭」は源三郎の血筋に代々伝えられ、現存しています。今では下野国多古(現在の、千葉県香取郡多古町)に現存しています。松平の子孫が町に贈ったと言います。

「龗蛇頭」は動物の頭蓋骨のようなものらしいです。

下野国多古は、源三郎の孫の時代に、与えられた国なので、龗蛇頭がゆかりの地に送られました。

その後、久松源三郎、もとい松平。。。は久松松平家と呼ばれます。この家系は明治維新まで残ります。維新後は、再び久松姓に戻り、華族(貴族)になります。

かなり重要な家系ですね。

久松源三郎、死因は?

久松源三郎は35歳で亡くなりました。死因は記録にはありません。

2度もの人質生活、雪の中を歩いての脱出、凍傷で足指を失ったとあれば、心身ともに衰弱していたのは間違いありません。

そのせいか、帰還後も病がちでした。若い人の死因は、昭和初期までは、結核が主流を占めていたらしいです。身体が弱った源三郎も、結核にかかった可能性が考えられますね。

墓所は、浜松市の西来院(せいらいいん)にあります。西来院には、家康の妻、瀬名姫の墓所が隣にあります。どちらも徳川家康の若い時代を支えた人物として、同じ寺に葬られたのかもしれません。

源三郎の墓石には、法名の他に、死亡年月日と見られる「天正十四年丙戌年四月三日」が刻まれています。法名(仏教でつけられる名)は、善照院殿泉月澄清大居士(ぜんしょういんどのせんげつちょうせいだいこじ)。心が澄んだ人、のイメージが思い浮かべられます。

西暦でいうと、1586年5月21日、となります。美しい季節です。辛い生活を送った人と考えると、人生の終わりとしては慰めらるような気持ちがしました。

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