榊原康政(さかきばらやすまさ)は徳川家の家臣です。
小平太(こへいた)と呼ばれています。2022年大河ドラマ「どうする家康」で活躍中!
「どうする家康」では杉野遥亮がイケメンぶりを発揮。実際にイケメンだったのでしょうか?
「三方原の戦い」で家康のために大活躍が有名ですが、真実は?
「小牧長久手の戦い」ではびっくりすることをしました。何をしたのでしょう?
「関ヶ原の戦い」にも出陣しますが・・・その後の人生はどのように?
榊原康政(小平太)は『どうする家康でイケメン!肖像画は?
「どうする家康」を見ると、榊原康政(小平太)を演じている杉野遥亮でなかなかの美形です。活躍する姿は目を奪われそうです。
では実際はどうだったでしょうか?肖像画が残っています。東京国立博物館に模写があります。武将姿です。
イケメン・・・とまでは行かないかも知れませんが、頬がふっくらしており、育ちの良い方のように見受けられます。当時の美形、ってもしかしたらこのようなことをさしたのかも知れません。
浮世絵もあります。こちらは小牧の戦いの最中の図です。颯爽と馬に乗り槍を構えています。秀吉を追っているところです。
明治時代に描かれているから、作者のイメージが詰まった作品でしょう。
「どうする家康」では活躍を見せます。
老後の、姿、メイクですが、妙に似合って老人に見えるのが面白いです。
最近のメイク技術には目を見張るものがあります。
榊原康政と「三方ヶ原の戦い」!
徳川家康の三大危機の一つが、三方ヶ原(みかたがはら)の戦いです。
「どうする家康」でも、山場を迎えようとしています。
三方ヶ原の戦い・・・この戦い以降、徳川の結束が固まっていきます。
三方ヶ原の戦いから逃走して
三方ヶ原で、家康は負けて、浜松城まで逃げ帰ります。その時家臣が身代わりになりました。
この時、榊原康政(小平太)は、浜松城には入りませんでした。そして浜松城に入れなかった味方の兵を集めて、ある作戦を立てました。
まず浜松城の門を開け放ち、火をたき、敵軍が攻めやすい状況を作ります。
これは「空城の計」と呼ばれる作戦で、味方が劣勢の時に使われる作戦です。この作戦で、味方がまだ大勢いると思わせます。
敵が用心深ければ、警戒して近寄って来ません。しかし見破られるとおしまいなので、勇気が必要です。
次に、夜には、集めた兵たちに大声を上げさせ、敵(武田軍)に突入させます。驚いた武軍は動揺して逃げまどいます。
浜松城ののすぐ下に「犀ヶ崖」(さいががけ)という深い険しい崖があります。
実は夜襲の前に崖に白い布をかけ、橋があるかのように見せかけていました。
夜襲を受け、逃げる人々は橋に見える白い布を目掛けて押し寄せたので、たちまち真っ逆さまに・・・
犀ヶ崖での作戦をたて、家康を助けたことで知将と呼ばれることになりました。
三方ヶ原、犀ヶ崖の実態は
犀ヶ崖、今でも残っていますが、長さ120m、幅30m、深さ13mと測定されています。ただし当時は長さ2km、幅50m、深さ40mということでした。
これは「新三河物語」書かれていました。「新三河物語」は徳川家家臣が江戸時代に書いたものを、20世紀に読みやすいように書き直した本です。
果たして、榊原康政たちは、急に白い布をこんなに広い峡谷に敵方に知れないように張ることができたでしょうか?
けわしい崖では確かに、落ちて命を落とす人も多かったでしょう。
犀ヶ崖の戦場での惨劇のあと、崖には良くない噂が経ちました。悪いことが起こるなど・・・
そこで家康は、慰霊祭として大念仏会を執り行いました。これが「遠州(えんしゅう)大念仏踊り」の起源となりました。
三方ヶ原の戦い、「空城の計」は本当か?
「どうする家康」の中では武田軍は「空城の計」に引っかかりませんでした。見破りましたね。
じゃあ、本当に「空城の計」は行われたのか?
「空城の計」はともかく、家康側は色々な方法を試して、武田を追い払おうとしていたことだけは確かでう。
「空城の計」が書かれているのは、「改正三河後風土記」、「四戦紀聞」にです。
「武徳大成記」では、徳川側は城の外に向けて鉄砲を撃ちまくり敵の侵入を防いだ、とあります。
さらには、適当な死体の首を槍にさして、「信玄の首をとったぞ!」と大声をあげて、敵を威嚇し、味方を落ち着かせた、という内容もあります。
徳川、武田、それぞれに自分をよく見せようと歴史を書いています。
戦争中は、混乱してますので、ますます真実は分かりにくいです。
三方原の戦いに至るまで
1572年、三方ヶ原の戦いは、徳川家康を危機に陥れます。その危機を乗り越えられたのは臣下たちのおかげです。
武田信玄の駿河(するが)侵攻作戦は、二俣城の戦い→駿府城前を素通り(武田信玄)→三方ヶ原、です。武田の侵攻に対して、織田・徳川は協力して対抗します。
駿府城に武田勢が攻め入ってくると予想していた、徳川勢。しかし、武田は駿府城の横を素通りして、三方原の方(静岡県浜松市北区)に向かいました。
家康は、武田軍を追って出ます。三方ヶ原に着いたら、武田が陣を敷いて待ち受けていました。徳川をおびき寄せるためのワナだったのです。
それぞれの、陣営の人数、は各国の記録によりまちまちで正確には分かりませんが、およそ武田方25000〜40000、織田・徳川は10000〜25000。約倍の差があります。
徳川勢は敗退・・・直ちに浜松城まで敗走しました。
榊原康政、豊臣秀吉を怒らせる
「本能寺の変」(1582年)の後、後継者問題で意見が分かれた徳川と秀吉の争いが起きました。
それが「小牧長久手の戦い」(1584年)です。徳川は織田信長の次男、信雄(のぶかつ)と連合しました。
ここにきて、戦争はなかなか展開がありません。両軍とも、全面対決とはしたくなかったのです。
戦の中で榊原康政(小平太)は何をした?
なんとか、戦争を派手に始めて決めたい、という心情がありました。
小平太は、秀吉を非難するビラをばら撒き、立て看板を立てました。相手の悪口で名誉を攻撃する作戦は、戦争でよく使われる手です。
これは秀吉に送った書状とも言われています。
「秀吉は、主君織田家の恩を忘れてその息子を殺そうとしている。こんな秀吉に味方して良いのか?」と。
「この恩知らず!身分の卑しい猿めが!」
という内容を、達筆な筆で書きました。榊原康政は、筆上手な武将でもありました。
身分の低さを言われることは、秀吉な何より嫌いでした。
榊原康政の狙いは、秀吉を怒らせて、戦いを仕掛けてくること、
秀吉にやじを入れることで、豊臣軍の士気を下げること。そrには裏切り者呼ばわりが効果的ですね。
実直に見えて、なかなかの策略好きな、ところもある人物でした。
今、岡崎市桜橋には看板を立てる榊原小平太の銅像が作られています。
怒った秀吉は、榊原信康を討ち取った者には報奨金を出す、とまで言いました。
徳川が勝利、というものの、織田信雄が和平に応じたため、戦う必要がなくなったからです。
榊原康政、秀吉と和解
榊原康政と秀吉は天下を取った時に和解しました。
秀吉を怒らせたヤツがいる、と各戦国武将たちは驚きました。同時にこんな家臣を持つ家康に、注目が集まりました。
とすれば小平太は家臣としての務めを十分に果たしましたね。
このエピソードは江戸時代に作られた「藩翰譜」に書かれています。
榊原康政、この後、秀吉には気に入られてようです。
自ら、戦を仕掛ける、何事も前向きい捉える資質あり、とみなしたのでしょうか?
そして、榊原康政には、自分の妹、朝日姫と家康の結婚の仲介役に任命したのでした。
榊原康政(小平太)の性格
榊原康政の性格・・・エピソードから見ていくと、規制観念にとらわれない自由な発想をするような人物に思われます。次男であったためとも言われています。
徳川四天王、徳川十六神将に選ばれていますので、相当有能な人物だったはずです。
奇策を編み出して、それに部下がついてくるのですから、信頼できる人柄です。
正義を重んじ、不公平を嫌い、私利私欲のない人物だった、と伝えられています。
NHKのHPによると、
文武に優れた若き武将。 名門榊原家の生まれだが、次男のため自由気ままに好きに生きていたところを、家康にその才能を見いだされる。 マイペースで、ちょっとひねくれた性格。
生まれの良さが表れています。若い時から勉学に励んでいました。だからこそ中国に歴史にあるような「空城の計」と言う戦術を繰り出せたのでしょう。また美しい文字を書く人物と言われています。
同時に、自分の信念に忠実な、ブレない人物像も見えてきます。
13歳の頃から小姓として家康に仕えていたので、家康からも気に入られ、家康の「康」の字をもらい、康政となりました。ですが年は家康とはそんなに違いません。学友的な仲間だったのかも知れませんね。
今後の活躍が気になります。
榊原康政、関ヶ原で
榊原康政、秀忠に従う
関ヶ原の戦いでは、榊原康政はすでに50歳を超えていました。当時の武将の年齢では老齢です。よく言えばベテラン。
関ヶ原の戦いでは、榊原康政は2代目将軍となる秀忠(ひでただ)の補佐役に回っていました。
関ヶ原へは、秀忠は家康とは別動態で出陣。
しかし、途中、上田城(長野県上田市)の真田氏を討つと言い出したものの、結局真田にしてやられました。
その挙句、関ヶ原の戦いに遅刻しました。とんだ大失態。
榊原康政はこのわがまま者・・・と引っ叩くわけにもいかず、秀忠の希望を通しました。失敗するもよし、と親心的なところもあったかも知れません。
榊原康政、家康に物申す!
しかし、主君の失敗は家臣の失敗。
榊原康政も家康の怒りを買いました。
榊原康政は、家康に秀忠を許すよう、願い出た時になぜ、秀忠を無理やりにでも関ヶ原に急がせなかったのか・・・と。中管理職は辛い、というところですね。
ところが、榊原康政はおとなしく「申し訳ありませんでした!」というのではなく
「子供を待たないで、(戦を)始める親が一体どこにいるんだ!!」と怒鳴りつけました。
これには家康もびっくり。びっくりして秀忠を許すことにしたようです。
さすが、徳川家の古狸(?)
しかし、榊原康政自身は、手柄を立てなかったため褒賞も得られず、第一線から退くことを決めました。
それでもその後、返り咲いて老中を務めます。
それでも最後の引き際はいさぎよかったでした。
榊原康政の最期
榊原康政の領地は館林(群馬県)です。
最期は館林城にて息を引き取ります。1604年5月14日のことです。58歳の生涯でした。
死因は細菌性の病気。現代の言葉で言うと毛嚢炎(もうのうえん)という病気です。毛穴の毛根部分に細菌がついて炎症を起こし、やがて感染が身体中に広がる病気です。髭剃りなどから細菌が入ることもあるようです。見た目はニキビと似ています。
現代では患部を清潔にして抗菌剤で治すのですが、江戸時代では抗菌剤などというものはありませんので、悪化をたどったのでしょうね。
「どうする家康」では榊原康政本人が「ハラワタが悪く・・・」というようなことを言ってました。
これから見ると、癌かな?という予想もあるのですが、感染症から、内臓も悪くなってきたから、というのが正しいようです。
墓は館林市、善導寺にあります。「榊原康政墓所」が立派に作られています。
他にも、和歌山県高野町の高野山奥之院、新潟県上越市の榊神社に祀られています。
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