マリー・アントワネット、まずは誕生と幼少期をのぞいてみましょう。
マリア・テレジアとフランツ1世の娘として、のびのびと育ちましたが、そんなゆるい生活が王妃時代の快楽的性格に結びついたのでしょうか?
性格や、容姿は母とは似ていないところも面白く感じます。
兄弟姉妹はたくさんいましたが、特に仲の良い、お姉さんがいました。
ここでは、マリー・アントワネットの生涯の最初の1ページを、当時のオーストリアの事情と共に、みていきましょう。
マリー・アントワネットの誕生日
それは、1755年 11月2日です。
マリー・アントワネットは、16人いた兄弟姉妹のうち15人目の子。女子では11人目でした。
残念なことに、マリー・アントワネットが生まれた日についてのエピソードは残されていません。
このブログを書いている日は、2024年10月17日。二週間ほどで、マリー・アントワネットの269回目のお誕生日がやってきます。
日本では、なぜか11月1日が「紅茶の日」とされています。日本紅茶協会が決めました。
性根逞しい(?)日本人は、「紅茶の日」とマリー・アントワネットのお誕生日を組み合わせて、スペシャルなセットなど出す店もあります。
フランスの紅茶ブランド「ニナス」が作り出した「ニナス マリー・アントワネット」という名前の紅茶です。
「ニナス」は1600年代にフランスにできた、紅茶店の老舗で、香料も扱っています。
その紅茶と、マリー・アントワネットをイメージした、スイーツがセットで提供されます。
日本の、紅茶の日の由来は、
1791年、日本人商人 大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)が。ロシアに船が漂着した時、ロシア女帝、エカテリーナ2世からお茶会に招かれた日が11月1日だった、からきているのですが。
なぜ、ロシアがフランスにすり替わったのか?
たまたま、マリー・アントワネットの誕生日が11月初めだったから、フランスの紅茶メーカーだからに、こじつけたとしか思えません。
マリー・アントワネットの本名
本名というのは、生まれた時につけられた名前です。
ドイツ語で言うと、マリア・アントニーア・ヨーゼファ・ヨハンナ・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン と言います。
嫁入り先のフランスでは、フランス読みとなりますから、マリー=アントワネット=ジョセフ=ジャンヌ・ド・ロレーヌ・ドートリッシュ となります。
私たちが、親しんでいる名前、マリー・アントワネット はフランス語読みだったのですね。
今では、マリア・アントニーアと呼ぶ人は、ドイツ語圏以外ではまずいないと思います。
名前の中に、オーストリア出身である、印があります。
ドイツ語の場合は、ハプスブルク、フランス語の場合だと、オートリッシュ(この場合ドートリッシュ)。
どちらにも、父親の出身地のロートリンゲンも名前に入っています。フランス語だとロレーヌです。
こうしてみると、ハプスブルク=ロートリンゲン、または ロレーヌ・オートリッシュが苗字に当たるのではないでしょうか?
ファーストネームは、本人の直接の名前が、マリー・アントワネット、またはマリア・アントニアでう、残りの、ジョゼフ(ヨーゼファ)や、ジャンヌ(ヨハンナ)などは洗礼名です。
マリー・アントワネットの幼少期
「ベルサイユのばら」を読むと、マリー・アントワネットは、子供もころかなり自由に育てられたように見えます。
確かに幼少期は自由に育てられていたのですが、これは親の目が行き届かなかった、と言う意味でもありました。
でもマリア・テレジアに子供達に愛情を注がなかった、と言うわけではありません。
むしろ、当時の王族としては、子供たちを可愛がっていた、といえます。
それでもオーストリア帝国の女帝である、マリア・テレジアは、激務で、ゆったりと子供たちを見ている暇はでききません。
それに16名も子供がいたのですから、すべてに目を配ることは難しいでしょう。
子供の世話係はたくさんいましたが、親の方に子供一人ずづの個性に合わせた教育方針を探る余裕はありません。
とにかく、マリー・アントワネットの幼少期は、不幸ではありませんでした。
16人の兄弟姉妹のうち、歳の近いきょうだいもいましたし、なにしろ、広大なウィーン シェーンブルン宮殿ですから、野外遊びし放題。
当時のマリー・アントワネットのはっきりした記録などは、ありませんが、
後にマリー・アントワネットが、幼少時代を懐かしんで手紙、日記などに書かれていた文章から、のびのびとした、生活を送っていたことが察せられるのです。
のびのびのまま、フランスに嫁に行って、独身時代と同じよう、のびのびと生活したのがまずかった。
しかも、今度は自分で自由になるお金があったのがなお、悪かった、のですね。
マリー・アントワネットの母、マリア・テレジア
マリア・テレジアはオーストリアの女帝でした。
マリア・テレジアは16人もの子供を産んだ強者ですが、その体質はマリー・アントワネットにも受け継がれてました。
しかし、容姿はあまり似ているとは言えません。
また、、政治的手腕というと、どうだったのでしょうか?
マリー・アントワネットの母、マリア・テレジアは多産
16人の、子供を産んだのだから、凄い!の一言に尽きます。
5人産んだ、マリー・アントワネットにも多産の傾向はあります。
男性の王・皇帝の場合、子沢山であっても、妻以外の女性から、ということでそんなに大変、とも思いませんが、女性の場合は、一人で産むわけですから。
マリア・テレジアは1736年に結婚して翌年 1737年に長女を産んでから、2、3年ごとに早い時は翌年に子供を産み続けていました。
そして、政治は激務。ご苦労様、としか言いようがありません。
なぜこんな、子供をたくさん産んだかというと、マリア・テレジアの父 カール6世が、後継者に苦労したからです。
たくさん産めばいいでしょ、ということで、子沢山です。
娘の、マリー・アントワネットは子供のことについては、辛い思いをしました。
多産のマリア・テレジアの娘なら、後継者に困らない、とフランスで思われていたかもしれません。
それは、夫のルイ17世の方に問題があったからなのですが、その問題が解決してからは、次々と、4人産みました。(一人は生後すぐに亡くなった)
マリー・アントワネットも多産の体質を持っていたのではないでしょうか。
マリー・アントワネットは、マリア・テレジア、二人の肖像画
親娘だから、似ているのかな?と思われがちですが、似ていません。
まずは顔立ち、肖像画を見てみましょう。
マリア・テレジアの肖像画は割と太め、マリー・アントワネットは細めに描かれています。
ですが、マリア・テレジアの若い時(11歳)の肖像画をみると、ほっそりした美貌の少女です。
14歳のマリー・アントワネットの肖像画も残されています。多分、お見合い用。
どちらも可愛らしいですが、娘は、母の若い頃とはあんまり似ていません。
マリア・テレジアの方は、強い意志が顔に表れている感じです。
それに対し、マリー・アントワネットの方が、おしとやかそうで、おっとりした感じに見えます。
マリー・アントワネットの肖像画は、お見合い向きなので、あんまり意志が強そうに見えるのはまずいでしょう。
マリー・アントワネットの顔立ちは、ハプスブルク家の特徴が表れている、と 歴史小説作家 ツヴァイクは書いています。
ハプスブルク家の特徴は、はなが鷲鼻、口元は受け口で顎が長めなところです。
マリア・テレジアについてはその特徴はあんまり言われていません。
マリー・アントワネットとマリア・テレジア、その性格
二人は、その資質も似ているとは言えません。
マリア・テレジアの方は、オーストリアをささえた、力ある皇帝として、歴史上に名を残す人物です。
一方のマリー・アントワネットは、革命を引き起こした女として、フランス中から憎まれる女性となってしまいました。
これは、フランス革命という中で、誰かを悪役にしないと気が済まない国民の思いが一気にマリー・アントワネットに集中した結果なので、必ずしも正しい評価ではありませんが、
その人気が違いすぎました。
確かに、マリア・テレジアが王者として行動する一方、マリー・アントワネットが娯楽にしか興味がない、という現実があると、どうしても似ているとは言えません。
マリー・アントワネットはフランス革命が起こったあと、思慮深くなり、以前とは別人のようだった、というのですが、それは特にマリア・テレジアの資質を受け継いだ、とは思えません。
マリア・テレジアは、帝王学を学び、自分の世の中になってからの経験が、彼女を名君に作り上げたのです。
マリー・アントワネットの行動は、本能的なものみられます。
では、もっと早くにこの才能に目覚めていたら、フランス革命を乗り越えられたか?
まず、フランス革命は、フランス史の流れから回避できないものですが、マリー・アントワネットの行動一つで、少し変わっていたかもしれません。
「歴史に、もしもはない」と歴史家がよく言う通り、考えても仕方ないことです。
でも、マリー・アントワネットの資質は、非常時にならないと目覚めないタイプだったような、気がします。
マリー・アントワネットの父
マリー・アントワネットの父は、フランツ1世と言います。
フランツ?1世?というなら、どこかの王様でしょうか?
フランツ1世はロートリンゲン公と言う小さな領主の次男です。
この時代の王家の結婚にしては珍しく、マリア・テレジアとフランツ1世は恋愛結婚でした。
二人は、親戚同士で幼馴染でもありました。
ロートリンゲンは、ドイツ語読みですが、フランス語読みはロレーヌ。
ここはドイツとフランスの国境近くにあり、ドイツ・オーストリアとフランスとが戦争をするたびに
どちらかの国に必ず占領される、悲劇の土地です。
血縁的には、ハプスブルク家に属しますが、そこの息子が、オーストリアの皇帝になる女性と結婚するとなると、国がオーストリアに併合されるのではないか、と心配され、結婚は反対されます。
それでも二人は純愛を貫いたのでした。
フランツ1世という、王様っぽい名前が付いたのは、神聖ローマ帝国の皇帝である、と言う印です。
神聖ローマ帝国とその皇帝とは、
神聖ローマ帝国この頃は国ではなく、ヨーロッパでの最高の世俗的権威、という意味で、神聖ローマ帝国皇帝というのはその最高権威者である、と示した地位です。
ですが、実際には、国を治める力は持たず象徴的な意味として使われました。
マリア・テレジアは夫に、実際の支配の権力は与えず、より立派な名称を与えることで、オーストリア統治の安定を目指しました。
ロレーヌの土地の所有をめぐって、フランス王ルイ15世は、特に反対しました。
二人が結婚するなら、ロレーヌ地方をフランスに譲れ、とフランスの主張により、アルザス・ロレーヌ地方はフランスの領土となったのです。
後に、フランス革命が起きたから、マリー・アントワネットはヴァレンヌ事件と言われる逃亡時事件を起こしましたが、その時、アルザス地方を通過して逃げました。
もし、この土地がドイツ(オーストリア)所有のままでしたら、マリー・アントワネットの逃亡は成功していたかもしれません。
マリーアントワネットが生まれたオーストリアとは
マリー・アントワネットがいた、時代背景に触れておきましょう。
オーストリアには、この国創設以来のモットーがありました。
「戦いは他のものに任せよ、幸いなるオーストリアよ、お前は結婚せよ」というものです。
国に力をつけたいなら、戦争ではなく、結婚をしなさい、という意味です。
結婚を、戦争より重要視しているみたいですが、オーストリアは、戦争もなかなかハデにやりました。
マリア・テレジアが皇帝になることを反対する国(プロシや、現代のドイツ)と戦争の結果、敗北しながらもマリア・テレジアがなんとか、皇帝につくことができました
戦争をした国々と、同盟を結んだのですが、どの国とも、一触即発のような状態でした。
特にポーランドを巡る戦いは、厳しいものでした。
ポーランドは、ドイツ・オーストリア(現在のチェコ、スロべキア)・ロシア(現在のウクライナ)と国境を接しているので、絶えず侵略され、分割され他の国に併合されていました。
その3国の様子を伺うのが、フランス。
こんな時こそ、同盟の絆を強くするために使われる手法が、結婚。
オーストリアには11人もの娘がいます。(うち一人は、生まれて1年ほどで亡くなりました)
マリア・テレジアは、その持ち駒を存分に使って、ヨーロッパ中に娘を嫁に出しました。
マリー・アントワネットも、その計画の一端ということです。
せっかく嫁に行っても、自分の故国と嫁ぎ先が戦争なると、これは不幸でしかありません。
当時は姫君なんて、高い身分のもとに生まれても、どんな運命が待ち受けているか…それは辛いものです。
マリー・アントワネットの兄弟・姉妹たち
マリー・アントワネットは16人の兄弟・姉妹で、姉妹11人、兄弟5人です。
マリー・アントワネットは下から二人めの子供で、一番下の子供は男子で、アントワネットの生年の翌年に生まれています。
こんなにたくさんいると、仲の良い相手というのは決まってくるのかもしれません。
男子は二人が皇帝になりました。
兄弟仲は、良かった方です。
一家の肖像画が多く、兄弟や姉妹たちとバレエを踊っている絵から仲の良さが伝わってきます。
マリー・アントワネットと仲が良いマリー・カロリーナ
マリー・アントワネットが子供時代、一番仲がよかったのは、すぐ上の姉、マリー・カロリーナでした。
マリー・カロリーナという女の子は、マリア・テレジアの3番目の娘と、同じ名前ですが、3番目の娘は、1740年に生まれ、その翌年に亡くなっています。
マリア・テレジアは、自分の娘たちをあちこちの王家に嫁にやって、オーストリアの勢力を強めようと思っていました。
これは、どの王家であっても同じようなもので、結婚イコール同盟の印でした。
マリー・アントワネットは実は、最初からフランスに嫁に行くことが決められていたわけではありませんでした。
この仲がよい、マリー・カロリーナがフランス王妃候補でした。
ですが、二人のすぐ上の姉、マリー・ヨーゼファが、ナポリ王と婚約したすぐ後に急死したのですから、花嫁が順送りにしたにずれます。
つまり、マリー・カロリーナが、ナポリ王のところに嫁に行き、空いたフランス王家にマリー・アントワネットが行くこととなりました。
今なら、姉妹といえども、花嫁の差し替えは失礼にあたるのですが、この時代は家と家の結婚という考え方が何より大切でしたので、むしろ当然のことと考えられています。
マリー・アントワネットの兄は皇帝に
二人の兄が、皇帝になります。
マリア・テレジアの第4子、待望の男子が1741年に誕生しました。ヨーゼフ2世です。
1765年に、兄弟・姉妹の父 フランツ1世が亡くなると、ヨーゼフ2世は母と。オーストリアの共同摂政になりました。
ちょっと革新的な人物でした。
それは、母親が初めての男子だから、甘やかした結果、と当時のウィーン市民たちは噂していました。
しかし、ヨーゼフ2世は、子供がいないまま、22歳で、天然痘で亡くなりました。
次の皇帝になったのが、ヨーゼフ2世の弟、レオポルド2世。
この王様は、兄がいたため、オーストリアには残っておらず、イタリアのトスカーナ大公でしたが、兄の死で、オーストリアの皇帝を継ぎました。
二人の、オーストリア皇帝は、マリー・アントワネットを気にかけていたようです。
ヨーゼフ2世は、マリー・アントワネットとルイ16世の仲がどうなっているか、気にし、ルイ16世に手術を受けることを勧めました。
そのおかげで、マリー・アントワネットは子宝に恵まれることになったのです。
レオポルド2世は、劇作家の、ダ・ポンテを国から追放した皇帝で有名です。
その、ダ・ポンテの脚本「セビリアの理髪師」、「フィガロの結婚」などをマリー・アントワネットが気に入ってしまったのは、困ったものですが。
この時代のマリー・アントワネットは深く物事を考えることが、苦手だったのです。
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