大岡弥四郎(大賀弥四郎)事件。大岡忠相の先祖?築山殿(瀬名姫)の危機?最後は悲惨

大岡弥四郎(おおおかやしろう)は松平信康付の徳川家家臣でした。

謀反を起こし、徳川家をかき乱した人物です。

大賀弥四郎(おおがやしろう)という名前であった、とも言われていますが、どちらが本当でしょうか?

その事件に、築山殿が関わっている噂が・・・・

後世、大岡忠相という町奉行がいましたが、大岡弥四郎と関係があるのでしょうか?

大岡弥四郎(大賀弥四郎)とは?

NHK大河ドラマ「どうする家康」に大岡弥四郎という人物が登場しました。

何やら不穏な動きが・・・・

この人は一体何だったのでしょう?

家康の馬丁を務めていたことがあると「岡崎東先記」に出ています。

「大賀弥四郎」(おおがやしろう)と呼ぶこともあります。

川の氾濫があった時に、真っ先に水深を測ろうと自ら、水の深みに足を入れたことから、弥四郎の行動が賞賛されて、代官に抜擢されました。

また、「徳川実紀」には大岡弥四郎(大賀弥四郎)は算術が得意だった、ともありその点が重宝されて、家康につかえました。

やがて松平信康が岡崎城の城主となると、家康に命ぜられて松平信康に使えました。

ここまではなかなかの気が利く働き者に見えます。

家康は、そんな大岡弥四郎に、まだ若く経験の少ない息子を任せたのです。

それだけ信用されていたのですね。

大岡弥四郎(大賀弥四郎)の事件とは?

1575年、大岡弥四郎(大賀弥四郎)は武田勝頼(たけだかつより)に内通します。

なぜ内通したのでしょう?

大岡弥四郎は、徳川の他の家臣の領地加増を自分のお陰と豪語したのですが、実はそれが嘘・・・

嘘がバレた大岡弥四郎から全財産が没収されてしまいました。

それに対する、恨み、だったというのが大きな原因です。

恨みを晴らすため、現在支えている、松平信康を滅ぼす。そのために武田と協力する、としました。

その前にまず、一揆の計画を立てて、地元の撹乱を狙いました。一揆の隙間を縫って、武田に攻めてもらう計画です。

戦国時代のことですから、これを機に自分の一国一城の主人になろうという野心もあったでしょう。

計画は着々と進んでいました。

しかし・・・参加するはずだった者が、家康に密告し、事件が発覚しました。

大岡弥四郎(大賀弥四郎)、「どうする家康」の場合

「どうする家康」の中で、裏切りが発覚した大岡弥四郎(大賀弥四郎)は、理由を述べます。

  • いつも戦をしてばかりの徳川家に嫌気がさした。
  • 徳川は、いつも織田にいい顔ばかりして、自分の家臣の命を顧みない
  • こんな、世の中に早くけりをつけたい

ということを言っていました。

残されている、資料からは家康や徳川の自分に対する仕打ちに怒って・・・が理由の反乱で、それ以外は真実を書いたものは見つかっていません。

しかし、家康の配下にいるものたちは、ほとんどが「戦にうんざり」だったのではないでしょうか?

これは徳川だけでなありません。他の国にも言えることでした。

この時の大岡弥四郎(大賀弥四郎)は、武田につくことで、戦の世が少し楽になるかも、と考えていたのかもしれません。

いずれにせよ、当時の人々の心のうちを、推測する良い脚本だったと思います。

大岡弥四郎の、子孫は大岡忠相?

徳川家5代目将軍、徳川吉宗の時代に、大岡越前守忠相(おおおかえちぜんのかみただすけ)という奉行がいます。

時代劇、「暴れん坊将軍」、「大岡越前」などでお馴染みのキャラクターです。

罪人の裁判の仕方は、「大岡裁き」と呼ばれるほど有名でした。

さて、その御奉行様の先祖が、大岡弥四郎だったのでしょうか?

苗字が同じ、「大岡」というだけで、直接の子孫の記載はどこにもありません。

実は、この人物名前が「大岡弥四郎」か「大賀弥四郎」かで、子孫が別れてくるのです。

大岡弥四郎がは「大賀」か「大岡」か?

「家忠日記増補追加」に出てくる、弥四郎を「卑賎」と表現しています。

しかし「岡崎領主日記」では、「三河国の武家、大賀氏」と書かれています。しかも町奉行と表記があります。

そうだとしたら、「卑賎」の身の上ではありませんね。

「卑賎」としたところに、後世の徳川家からの、貶めたい気持ちが伝わってきます。徳川にとて都合の良い歴史ではないのですから。

しかし、もし「大岡」だったら、松平広忠(まつだいらひろただ、家康の父)に支えていた大岡忠勝の血筋となります。

大岡忠相の先祖が、大岡忠勝ということはわかっています。

だとすれば、血統症つきの徳川の家臣になります。

このような裏切り者が、徳川の家臣にいては恥、ということで、「卑賎」とわざと書いたとしか思えません。

大岡弥四郎(大賀弥四郎)の妻が有力者?

弥四郎の妻は、中根正照の娘だったと言います。

弥四郎と妻の関係を書いているのは「三河物語」に出ていますが、そこでは中根家の娘の夫は「大賀」とあります。

中根正照は、家康の家臣で二俣城の城主であったこともありその後、城主となった松平信康に仕えていました。

中根正照の娘の夫は、謀反の罪で極刑にされました。

この時点では「大賀」でした。

処刑された人物が「大賀弥四郎」だったかもしれない?

大岡弥四郎(大賀弥四郎)の子供が残っていた?

大岡弥四郎(大賀弥四郎)と妻の間には子供がいたのですが、妻も子供も、磔の刑で死んでします。

娘が残りました、が、その娘たちも尼になり、親兄弟の菩提を弔って生涯を終えましたから、直接の子孫は残っていません。

しかし、大岡忠勝の孫娘(父親の名前は忠政)が中根家に嫁に行っています。

大岡家と中根家のつながりから、弥四郎を大岡とする説が有力です。

しかし、どちらであったかは、まだまだはっきりした結論は出ていません。

今では「大岡弥四郎」という方が正しい、とされています。

大岡の親元が、残っているなら、大岡忠相の先祖に、大岡弥四郎がいるのは納得です。

直系ではないので、子孫は奉行職につけた、というわけですね。

大岡弥四郎事件、築山殿(瀬名姫)の今後に波紋・・・・

大岡弥四郎の事件、築山殿(瀬名姫)が関わっていた・・・噂もあります。

「岡崎東泉記」にその様子を匂わせる内容が見えます。

その内容はというと、

武田勝頼が甲斐国の巫女をスパイとして、築山殿に近づけました。

巫女には、武田と通じておけば、松平信康を武田氏の嫡男に養子にし、やがて信康は天下を取れるようになる。

築山殿(瀬名姫)は武田勝頼の妻になる。

そうしないと、信康は死ぬことになる。

というお告げを築山殿に、信じさせようとしました。

武田方は、築山殿と大岡弥四郎と2重の手で徳川を、落とそうとしました。

巫女を使ったのは、情報戦ですね。

「草の者」と呼ばれる間者(スパイ)を使いこなした武田ならではのやり方です。

巫女とは、「どうする家康」に出てくるあの女でしょうか?

築山殿は信じるでしょうか?

これを信じたから、後世、築山殿は悪女言われるようになったのですが。

息子の命を、かけられたら、大抵の女性は、信じるかもしれませんね。

築山殿、悪者説が、徐々に作り上げられていきます。

大岡弥四郎、の最後!

大岡弥四郎、事件の計画を家康に知られ、捕獲されました。

この行動に、家康は相当激怒したのでしょう。

大岡弥四郎は、引き回しにされ、首だけ出して生き埋めにされ、何人もの人に首を鋸引きされた、という恐ろしい刑でした。

弥四郎の、妻や子供は磔にされました。

全く容赦ない刑罰だったのです。

切腹ではなく、ここまでの死刑にされるということは、謀反に対する見せしめの意味がります。

大岡弥四郎は、算術が得意な人物だから、計算高いところが、武士たちの間では嫌われていたのかもしれません。

 

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