お愛の方(西郷の局)、性格よし、美人な秀忠の母。死因は?築山殿の影が死にも?家康に愛された側室

お愛の方は徳川家康の側室で、西郷(さいごう)の局とも呼ばれた方です。

美人で、温厚な性格のいうことない女性だったと思います。

近眼だったのは有名な話です。

だからこそ、目の悪い人たちにボランティア活動をして、愛された方でした。

徳川家の2代目将軍となった秀忠(秀忠)の母です。

家康には非常に頼りにされた、しっかりものです。

早死のため、死因が憶測されました。

その中には、家康の正室だった、築山殿(つきやまどの)の影がある、という噂まで出たほどです。

さて、真偽の程は?

お愛の方(西郷の局)の出身

名前ですが「おあいのかた」と言います。

のちには西郷の局と呼ばれます。

お愛の方、生まれ

1552年の生まれですが、1561年の説もあります。9年もの差がありますね。

父は戸塚忠春(とつかただはる)、母は西郷氏の出身です。ここでもまた女性の名前というのは記録に残っていないのですね。

「〜の娘」とか「〜の妻」という記録しか残されていません。

現代の豊橋市西郷にあたる場所です。

どちらも三河国におり、今川家の支配下にありましたが、それほど有力な家ではありませんでした。

桶狭間の戦い以降は、松平家に属することになりました。

父はお愛の方が2歳の時戦死しました。

その後は母の実家西郷家に保護されたとも、母の再婚相手、服部兵太夫正尚(はっとりへいだゆうまさなお)の元で成長した、と両方の説があります。

お愛の方、最初の結婚

成長したお愛の方は、母方の従兄弟の西郷義勝(さいごうよしかつ)と結婚しました。

最初は側室の身分で入りましたが、その後正室になりました。

そこで、一男一女を産みました。

しかし、西郷義勝は1571年、戦争で落命します。

武田氏の一党が攻めてきた時の攻防戦でした。

身内の人間を2回とも戦争で失ってしまった、お愛の方は運が悪いとしか言えません。

しかも、息子はまだ小さすぎて、西郷家の後継にはなれませんでした。

結局、西郷の家を出て、母の嫁ぎ先、服部家に戻っています。

しかし、運の悪さが、逆転する出来事に出会いました。

お愛の方(西郷の局)どんな人?

お愛の方は家康の最愛の側室と言われています。

家康には側室がたくさんいましたが、お愛の方は大事にされた方の一人です。

きっとお愛さん自体が、愛情深い人だったのでしょう。

お愛の方は近視?

お愛の方は、強度の近視でした。

目の悪い苦労がわかるので、盲目の女性の力になり、衣食住の面倒を見ていました。

つまりボランティア活動ですね。

確かに、メガネのない時代、近視は辛いです。はっきり見えないのですから。

お愛の方の活動からも、色々な人に愛されていた、そんな人物像が見えてきます。

お愛の方の記録

お愛の方の記述は、「駿国雑誌」という駿河国の地誌に少し触れられている程度です。

今でも、西郷の局を熱心に調べている人がいて、静岡県掛川市では「西郷の局物語、お愛様」という小冊誌にまとめ上げました。

掛川観光協会で売られており、掛川市立図書館ではその小冊誌を読むことができます。

その小冊子には、お愛の方の、生まれ、子供時代、成長してからのこと、両親のこと、結婚(最初の)、家康のそばにあがり、出産から死までのことが書かれています。

その中では、最初は西郡局(お葉)の侍女となり、その性格の良さ、可愛らしさから家康に引き合わされた、ということが書かれています。

23年NHKの大河ドラマ「どうする家康」では、築山殿(つきやまどの)が気に入って、側室として家康を、お愛に任せた、と、描かれていました。

実は詳しいことはよくわかっていないのです。

ですが、お愛の方の生涯の一つの流れとしては、面白い読み物だと思います。

1000円でネット注文できます。

お愛の方、性格は?

実はお愛の方(西郷の局)は性格が非常に良い女性でした。

お愛の方は、三方ヶ原の戦い、設楽原(したらがはら)の戦い(長篠の戦いに続いています)、小牧長久手の戦いという、家康にとって苦難の時代を支えます。

お愛の方自身も早くに夫を亡くし、苦労を知っているからかもしれません。

台所の取り仕切り方も上手で、三河武士たち、侍女にも人気がありました。

明るく、働き者で、気配り上手な女性像が浮かび上がってきます。

性格の良い女性はやはり愛されキャラなのですね。それが一番の側室になれた理由でしょうか。

お愛の方、美人!

お愛の方は、美人との評判がありました。

お愛の方のものと伝えられる肖像画が、宝台院にあります。

宝台院は静岡市にある、駿府の徳川家の菩提寺で、お愛の方の墓もあります。

肖像画を見ると、涼やかな切長も目元の、優しそうな方に見えます。

掛川の地元には、ある御詠歌が伝わっています。御詠歌とは、仏様や仏教行事を節に載せて歌う讃歌のことです。

御詠歌「いつき ぼさつ わさん」にはお愛の方の美しさを表現する歌詞があります。

「生まれた女 あい と名付けられ 顔・かたち例えようもないほど美しい」という意味が入っていました。

家康はほとんど浜松城暮らしのため岡崎城にいた正室の築山殿とは離れていました。

そこで、支えてくれていた、お愛の方に自然と愛情が湧いてきたのかもしれませんね。

美人で、性格も良ければもういいことありません。

お愛の方(西郷の局)、家康と出会う

お愛の方が服部家に帰ってきてからのことです。

お愛の方は、西郷家に残っていた、という説もあります。

とにかく、お愛の方にまつわる話には、違った部分がたくさんあります。

徳川家康が、服部家にやってきました。

家康が狩に行った時の休憩所で、突然に出会った、という話もあります。

そこで、家康はお愛の方を見初めて浜松城に連れ帰って行きました。

電撃的な恋に落ちたようです。

お愛の方は、叔父である西郷清員の養女となった上で、家康の元に上がる、という手順を取りました。

ということは父方の実家より、母方の家の方が格が高かったのでしょう。

「西郷の局」の西郷とは自分の家の名前です。

お城に上がったとき、お愛の方は27歳でした。

最初は側室ではなく、城で、台所などの用事をするよう言われて、浜松城に上がりました。

お愛の方(西郷の局)の死因

お愛の方は、1589年、38歳で亡くなります。

心身ともに疲労を感じていた様子が見えます。

とすると第一に挙げられる死因は、心労から心臓がやられたということです。

正妻の役目を果たしていましたが、家康は戦に明け暮れていました。

武田勝頼との戦い、賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦いと次から次へと・・・

家康の身にいつ何時、不幸が襲ってきても不思議ありません。

その中で、お愛の方自身も、子供を立て続けに二人産みました。

昔のお産は、命懸けでした。

疲労が蓄積されて、体調を崩したのが原因でしょう。

明治以前は、人はいつ亡くなってもおかしくない状況でした。

風邪で命を落とす人もいました。

お愛の方にこれといった、病気の記録がなくても、不思議ではありませんでした。

現代のドラマ化に当たって、お愛の方の死を重要人物の死として、演出が考えたのが、お愛の方自らが、明るい性格を作り上げていた、という構想でした。

人1人の裏には色々なドラマがあります。

お愛の方が、無理をしたことで、心労にきた、という話を際立たせた演出でした。

でも、お愛の方の、人生そのものはお愛の方にとっても、苦しいのもではなかったはずです。

と私たちもそう思いたいです。

お愛の方は、目の見えない女性たちにボランティア活動をしていたために、彼女たちが、お愛の方に恩を感じ、お愛の方の墓には参詣者が絶えなかったようです。

お愛の方(西郷の局)と築山殿は・・・死の疑惑とは?

お愛の方の死が早すぎたため、築山殿の侍女の暗殺、の説も浮上するのです。

お愛の方は家康の正室 築山殿(つきやまどの)の亡くなる前から、家康の元におりました。

正室の立場からすると、「自分の目が届かないのをいいことに・・・」と思いますね。

こうした世間の思惑から、お愛の方の死に、築山殿の影を考えた話も出ました。

お愛の方、築山殿の関係者に暗殺?

お愛の方は、38歳で亡くなる、つまり早死にだったため、暗殺されたという噂が出ました。

築山殿近くに仕えた侍女の一人の身内が関わっているなんて言われました。

侍女の一人が伊奈忠基(いなただもと)の娘、ということ。

娘本人の名前はわかっていません。

伊奈忠基の娘が仁木助左衛門某(にきすけざえもんなにがし)と結婚し、築山殿の侍女となりました。

この侍女は、築山殿が、処罰で殺された後に殉死しました。後を追って死んだという事です。

この話は「寛政重修諸家譜」(かんせいちょうしょうしょかふ)という歴史書に載っています。

二木助左衛門何某と伊奈の娘との間に、娘がいた可能性があります。

どこにも記録は載っていません。

この娘が、母と母の主人の無念を晴らすために、お愛の方の暗殺を図った事が考えられます。

また、この娘の祖父、仁木氏はお愛の方の義理の父、服部氏と伊賀国で敵対関係にあったので、色々な意味でお愛の方に恨みがあったのかもしれません。

ですが、この説は憶測でしかありません。

築山殿の侍女に娘がいたかどうかも不明ですし、その娘が お愛の方を敵視するようになった理由もわかりません。

お愛の方が、若くして亡くなるはずがない、と思った人たちが、いろいろ話を考えだしたのでしょうか?

それとも築山殿の亡き後までも、築山殿を悪役にしたかった人がいたのでしょうか?

あるいは、築山殿にどこまでも、忠義を見せたいと思った人がいたのでしょうか?

お愛の方と築山殿は会った事があるのか?

直接の接触はなかったと思われます。

築山殿がお愛の方の存在に、目くじらを立てた、いびった・・ひどい喧嘩をした、といったエピソードは残っていません。

年代を考えてみると、築山殿が亡くなった年は1579年。

お愛の方が長男を出産した年も1579年。

同じ年ではありますが、築山殿は、陰謀に巻き込まれて、お愛の方にこだわる時間がなかったのだと思われます。

お愛の方(西郷の局)の子供

お愛の方と徳川家康との間に男子が二人生まれました。

子供達が10歳にもなる前に、母のお愛の方が亡くなったため、二人の子は、家康のもう一人の側室、阿茶の局(あちゃのつぼね)に育てられました。

二人とも阿茶の局によく懐いていたようです。

お愛の方の子供 長男

上の子は長丸(ちょうまる)。後の徳川家2代目将軍秀忠です。

家康にとっては三男ですが、長男は松平信康といい、母親は家康の正室、築山殿でした。

本来なら2代目将軍となるはずの人物でしたが、謀反の疑いで処罰、切腹させられました。

2番目の息子は、結城秀康。

結城秀康は側室、お万の方の子供。

家康はなかなか自分の子と認知しませんでした。

そこあらもあんまり次男として、重きを置いていなかったような気がします。

結城秀康は、人質として豊臣秀吉の元に送られて、秀吉の養子になりました。そののとに結城家に婿養子で入り、結城家の跡取りとなりました。

そこで三男の、長丸こと秀忠が2代目将軍となりました。

お愛の方の子供 次男

次男は、福松丸(ふくまつまる)と言いました。

福松丸はのちには、松平忠吉(まつだいらただよし)になります。

関ヶ原の戦いの後は、清洲城の城主、尾張藩主となりました。

忠吉の若い頃に父、家康と送り合った手紙の中で、父親から息子への情愛を示す文章があり、今でも注目を集めています。

それでも、父親の怒りに触れないでおこうとする配慮も持ち合わせていました。

次男坊のため(お愛の方にとっての)の要領が良かったのかもしれません。

この辺り、ちょっと不器用さが見える、兄、秀忠とちょっと違います。

27歳と、若くて死んでおり、子孫は残っていません。

お愛の方と西郷氏との子供

お愛の方の最初の結婚にも生まれた子供がいました。

西郷義勝との間には、西郷忠勝(さいごうただかつ)という息子がいました。

大河ドラマ「どうする家康」ではこの子を連れて、お愛の方は浜松城に上がったようです。

義勝が亡くなった時には、まだ小さすぎて家督を継ぐことができなかった子供です。

西郷忠勝は、家康の十男、頼宣(よりのぶ)に仕えることができました。

頼宣というと尾張藩の当主となりました。

西郷家は、それなりに良い地位につくことができていました。

しかし、二代将軍、秀忠が亡くなると扱いは落ちました。

大名職は失いましたが、旗本に身分にはとどまっています。

西郷氏との子供の謎

西郷氏との間の子供は、実は お愛さんの子供ではない、という話もあります。

徳川の世になって、西郷の子供達を良い地位につけてもらうための、西郷家の捏造ではというなのです。

これには、お愛の方の、生まれた年が、非常に関わってきます。

二つの説があります。

1552年と1561年。9年もの違いです。

後の方の年代だと、最初の出産は10代にやっとなったか、という頃。

最も、他の大名の奥方でも13歳で子供を産んだ例がありますから、可能性はあります。

お愛の方の実家はそれほど身分が高くないので、はっきりした記録が残されていません。

謎の残る人生ですね。

コメント

タイトルとURLをコピーしました