ジャンヌ・ダルクの芝居が上演されています。
2023年冬は、東京と大阪公演があります。
ジャンヌ・ダルクは今から600年も前の人物ですが、女性ながら軍隊を動かし、王を救い、・・それなのに、魔女として処刑されてしまった話は、今でも私たちの心を打ちます。
ここでは。ジャンヌ・ダルクがなぜ、異端審問にかけられ火刑されたのか、見ていきたいと思います。
ジャンヌ・ダルクはいつの人?
ジャンヌ・ダルクが生きた時代ですが、イギリスとフランスが100年戦争をしていた時代です。
100年戦争と言っても、1339年〜1453年と110年以上にわたって行われた戦争なのです。
ジャンヌ・ダルクは1412年に生まれ、1431年に処刑で死亡したので、100年戦争の末期の活躍となります。
ヨーロッパの歴史では、中世と言われる時代です。
この時代、フランスはイギリスに王位を奪われ、イギリス王がフランス王を兼ねていました。
なぜ王位が、イギリスに渡るようになったかは、こちらのヘンリー5世の記事をお読みください。
フランス人にとっては屈辱の歴史です。
フランスにとって正統な王であるシャルル7世も、戴冠できずに皇太子のままでした。
そんなかに、やってきたのがジャンヌ・ダルクでした。
ジャンヌ・ダルクの罪とは
ジャンヌ・ダルクの行動が当時のキリスト教の教義に従っていない、ということでジャンヌ・ダルクの罪は、「異端審問」の裁判となりました。
では、当時のキリスト教の事情とはどんなものだったのでしょう。
そして、ジャンヌ・ダルクはどんな罪にあたるというのでしょう?
ジャンヌ・ダルクの罪
ジャンヌ・ダルクがなぜ、罪に問われたのか・・?
まず神の声を聞いたからです。
神がジャンヌ・ダルクに何語で話しかけたのか、これが裁判の重要な点でした。
ジャンヌ・ダルクは農民の娘だから、ラテン語がわかるような教育を受けていません。
それが、有罪の理由の一つです。
なぜ有罪なのか、その理由を下の項目で示しておきます。
もう一つの理由、ジャンヌ・ダルクが男装をしていたからです。
特に男性のフリをしたわけではないのですが、戦争に参加するのに、甲冑を身につけなければならない。
そのためには、スカートは邪魔だし、動けない。
兜を被るには、髪を切らないと・・・つまり、女性の装束では戦えない、という話なのですが、とい時の考え方では認められないのでした。
こちらの理由も下で説明しましょう。
15世紀ヨーロッパのキリスト教
ジャンヌ・ダルクがいた15世紀のヨーロッパは、キリスト教、それもカトリック教会が支配していた、時代です。
言い換えればキリスト教から離れると、人は生きていけない・・・ほど、宗教と密着していました。
生まれた時に、洗礼を受けないと、この人間はもう地域では生きていけません、悪魔扱いされます。
生まれた時のみならず、結婚も毎日の生活も、人生最後の葬儀まで何もかも、キリスト教なしで済ませることはできませんでした。
神の教えに背いてはいけないのです。
自殺なんてもってのほか・・・15世紀は、神から頂いた命を、神の赦しなく勝手に自分で終わらせた・・という意味で罪なのでした。
神の思し召しに叛いたも落として、自ら命を取ったものは罰として、神のもとに行くことはできない、つまり神のみ前に行くための葬儀をあげてもらえない、のです。
神のお告げを伝えるジャンヌ・ダルク
ジャンヌ・ダルクは神の声をきいた、と言いました。
その証言は中世の人にとっては信じて良いものか、判断がつきません。
中世のキリスト教は、聖書もお祈りの言葉もラテン語でした。
ラテン語のみがキリスト教の公用語だったのです。
神の言葉を、民衆に伝える者は、正式に神学とラテン語を勉強した神父、修道士でした。
当時の神学者は、勉強をした学のある人間、と特権階級意識を持っていました。
学のない、農民の娘になんかわかってたまるか・・・・と考えていました。
だから、自分のわかる言葉で聞こえた、というジャンヌ・ダルクは彼らにはは不信感しか持ちません。
だから、ジャンヌ・ダルクは神の声を聞いたのでなない、あれは悪魔のささやきだったかも、というのです。
それにしても、イエス・キリストはユダヤの生まれだったから、それもラテン語が存在する前の時代の人だから、ヘブライ語など使ってたと思うのですが・・・
その点は、無視だったのですか・・・?
ジャンヌ・ダルクは本当に神の声を聞いたのか?
ジャンヌ・ダルクは神の声を聞いたのか・・・・?これは永遠の謎です。
そしてジャンヌ・ダルクはフランス国王の戴冠式を終えて進軍する途中から神の声が聞こえなくなった・・・といっています。
最近の、心理学者たちの研究の結果の一つには、思春期に見られる、一種のヒステリー現象でなないか?と。
ヒステリーと言っても、キーッて怒ったりすることではなく、精神的高揚が生まれてくることがある、ということです。
少女時代、ジャンヌ・ダルクは村にも襲いかかってくるイギリス軍に怒りを覚えていました。
自分の土地を踏み躙る嫌な奴・・・なんて感情を持っていたのでしょう。
思春期の女性は、月経の時に神経がたかぶることがあります。
だからこそ現状を変えるために、王に訴えて国を救ってもらおう、としたのがそもそもの初めだった、と思います。
のちに聞こえなくなった、ということは、月経と月経の間の落ち着いた時期、との可能性もあります。
似たような状況から、今日でもジャンヌ・ダルクが出現してもおかしくありませんが、現代は仮現れたとしても、世の中が喧騒すぎて、気が付かないでしょうね。
守るべき性別
15世紀の、キリスト教の教義では、女の男装や、男の女装を禁じていました。
生まれながらに持った性別を、勝手に変えるのが罪だったのです。
生まれたままの性別でなければならない、というのは子孫繁栄のことが関わっているからです。
ですから、同性愛も、子孫を残せないということで当然罪です。
しかし、聖職者になれるのは男子のみ、なのです。
神学校は男子しか入れません。
じゃあ、尼僧はどうだったのでしょう?
神に仕えたいと志す者は、女子修道院に入りましたが、女性のための神学校はなく、司祭、神父になる道は閉ざされていました。
ただ、女子修道院にこもるのみです。
それでも、義務は男性の場合と同じように、質素な生活を送り、異性と付き合ってはいけない、感情に流されてはいけない、と厳しい物でありました。
女性に対しての扱いはかなり理不尽に思えるのですが、聖書の教えによると、創世記でイブがアダムを誘惑したから、女が悪者にされているのです。
誘惑される男も悪いと思うのですが、そこは両成敗ではないのですね。
でも聖母マリアを崇拝する、というのが中世のキリスト教なら、女性蔑視説に矛盾を感じます。
ジャンヌダルクのオルレアンの奇跡
フランス王、シャルル7世はオルレアンにいましたが、ここではまだ王太子(つまり皇太子)のままで戴冠式をあげた正式な王にはなっていません。
イギリスに王位を抑えられていたからです。
王太子のいるオルレアンはイギリス軍に包囲され、フランスは全く動けない状態です。
この戦争状態を、「オルレアン包囲戦」と言い、1428年10月12日〜1429年5月8日まで戦われました。
ここでジャンヌ・ダルクは、国王に直接会い、国王の許可を得て、フランスの軍隊を与えられ、国王の解放を目指して、イギリス軍と戦うこととなりました。
ジャンヌ・ダルクが甲冑を着て、フランスの旗を持ち戦場で兵士たちの前に現れると、フランス兵たちの士気が上がりました。
ジャンヌ・ダルクは指揮官でありながら、自ら最前線にで、兵士たちを励まし続けたことから、兵士たちから熱い支持を受けるのです。
もしかしたらジャンヌ・ダルクは話し上手だったのかもしれません。
ほとんどイギリス優勢だったところ、ジャンヌ・ダルク参戦後、ほんの9日で、イギリスの包囲網は突破されたのでした。
この大逆転こそが「オルレアンの奇跡」です。
イギリスにとっては、1415年アジャンクールの戦いで勝利して以来、フランス国土で勝ち続けてきたため、オルレアンの敗北は大打撃でした。
これ以降、イギリスのフランスでの勢力はどんどん落ちていくこととなりました。
ジャンヌ・ダルクはフランスの突破口を作った人物なのです。
その結果、フランスは勢いを盛り返し、1629年7月16日、ランスまで行き、翌日7月17日ついに、王太子は戴冠式を上げ、シャルル7世として王位につくことができたのです。
どこで、王になっても良さそうなものですが、フランスでは王位につく時には、必ずランスのノートル・ダム大聖堂で行わなければならないしきたりなのです。
ランスにある寺院で、パリにあるノートルダム寺院ではないのでお間違えのないように。
ジャンヌダルク 異端審問の理由
ジャンヌ・ダルク ブルゴーニュ公国の捕虜に
フランス王の戴冠以降、進軍を続けるジャンヌ・ダルクですが、この頃から神の声が聞こえなくなってきます。
こんなに国王のために働いたのに、ジャンヌ・ダルクは異端審問にかけられてしまいました。
ではなぜ、普通の少女から、救国の女性に、そこから急に、異端者あつかいになったのでしょう?
ジャンヌ・ダルクは1430年、フランス領土内にありながら、イギリスと同盟を結んでいたブルゴーニュ公国にとらえられました。
そこから、ジャンヌ・ダルクの苦難が始まります。
ジャンヌ・ダルクにコテンパンにやっつけられていたのはイギリス。
イギリスの同盟のブルゴーニュがジャンヌ・ダルクを捕虜にした・・・となるとイギリスはジャンヌ・ダルクに恨みを晴らしてやろう、と思うわけです。
そこで、イギリスは身代金を払って、ブルゴーニュからジャンヌ・ダルクの身柄を買い取ります。この場合、「買取」という言葉の方が「引き取り」よりふさわしいです。
ジャンヌ・ダルクを処罰するには、裁判が必要です。
裁判には、罪状が必要ですが、宗教を扱うのがここでは一番手っ取り早い。
異端審問会は、フランス南部ルーアンで行われました。
ジャンヌ・ダルク 異端の理由
ラテン語を知らないジャンヌ・ダルクが神の声を聞いた・・・これはおかしい。
ではジャンヌ・ダルクが聞いたものはなんだったのか?
なにしろ、神学とラテン語を習得した神父、司祭でないと神の言葉を聞くことができない、というのですから、学のないジャンヌ・ダルクが神の声を聞くはずがない・・・
それは神ではなく、悪魔の声だったに違いない・・・当時の人々はそう結論しました。
ジャンヌ・ダルクはキリスト教ではない・・・よって異端者だ、と。
キリスト教徒ではない = 異教徒 = 異端者 = 魔女
というのが中世の考え方、非常に短絡的です。
ここで、裁判の論点は、ジャンヌ・ダルクが戦争で何をしたか、ではなく、神の声といったジャンヌは異端者だ・・・となってきました。
普通、戦犯を裁くとは、被告が戦争でどんな悪行を働いたか・・・と審議することなのですが。
フランス側も、宗教を盾に取られると、反論することはできません。
迂闊にジャンヌ・ダルクを庇うと、こちらは異端を頼りにした国という言われてしまいます。
宗教を絡ませてくるところを考えると、イギリスは相当ジャンヌ・ダルクを憎んでいる、ということです。
それなら、フランスがどんなに身代金を払っても、イギリスがジャンヌ・ダルクを返してくれる可能性は見込めません。
また、単にフランスに身代金を支払うほどの、お金がなかった、ともいいます。
意外とケチだったのですね。
それだけではありません。
ジャンヌ・ダルクの進軍が予想以上に熱狂的で、シャルル7世の停戦命令を聞かきませんでした。
そして、ブルゴーニュでの兵士たちの略奪をジャンヌ・ダルクが止めなかったことでフランスは頭を悩ませていました。
となると、ジャンヌ・ダルク逮捕のニュースはフランスにとっても、ホッとしたニュースでもありました。
結局ジャンヌ・ダルクはフランスでは使い捨てられる存在だったのです。
ジャンヌ・ダルクの男装
ジャンヌ・ダルクの罪状の一つに「男装」がありますが、ジャンヌ・ダルクは留置所内では男装をしないわけにはいかなかったのでした。
というのは、ジャンヌ・ダルクが恐れていたのは、男性の看守たちからの性的暴力でした。
看守たちはジャンヌが女性と知ると、絶えず狙っていました。
そこで自分の身を守るために、ジャンヌ・ダルクは男の服装を着るしかなかったのです。
最初の審問で、ジャンヌ・ダルクは「男装をしない」と誓わさせられました。
しかし暴力の危険から、男性の衣服を身につけた・・・・
また、わざと、女性の服を隠された、という証言もあります。
ジャンヌ・ダルクとしては自分の身を守るためだったのですが、イギリスにはジャンヌを処刑する良い口実となりました。
「誓いを破った」理由で、再び審問の場に立たされます。
そして、ついに死刑の宣告が出されるのです。
これは、全くもってイギリス側の陰謀です。
ジャンヌ・ダルクを追い込んで、罪を犯さなければならない状況に追い込んで、誓いを破った、という。
異端審問と言って、これはすでに処刑決定、で始まった茶番裁判と言っていいでしょう。
ジャンヌダルクの処刑
ジャンヌ・ダルクの処刑は、火刑・・・つまり火あぶりです。
中世の、異端者や魔女だと、判決が出た人たちへの代表的な処刑方法です。
場所は、ルーアンにヴィエ・マルシェ広場です。
火刑とは、処刑される者の足元に薪を積みその上に処刑台を立てて、そこに本人を縛り付け、薪に火をつける、という考えたくない残酷な者でした。
どんな屈強な男性でも震えがくるほどの恐怖ですから、ジャンヌ・ダルクのようなまだ20歳にもならないジャンヌには耐えられない恐ろしさだったことは、簡単に想像がつきます。
現代では人権に関わることのため、こうした残酷な処刑は行われることはありません。
ジャンヌ・ダルクは処刑の時に、「十字架を自分の前に掲げてください」と立会人に願い出て、小さいながらも十字架を目の前に置いてもらえたのが、せめてもの救いでしょう。
ジャンヌ・ダルクの遺体は、灰になるまで焼かれ、その灰は皮に流されました。
これは当時、処刑した魔女の遺灰の処理の仕方dした。蘇らないようにするために。
しかし、異端者である、という罪状は、1452年〜1455年にジャンヌ・ダルクの復権裁判が行われ、ジャンヌ・ダルクは異端者から殉教者へと、格上げされました。
ジャンヌ・ダルク復権については、こちらをご覧ください。
ルーアンから260キロほど離れたシノンの博物館には、ジャンヌ・ダルクの骨と皮膚、と言われるものが保存されています。
2006年に医学的調査がされましたが、ジャンヌ・ダルクのものである、とは確認できない、ということでした。
のちに復権したとはいえ、処刑当時は魔女扱いだったのですから、復活を恐れた中世人たちは、残しておく、ということは絶対にしないと思うのですが・・・・
ひょっとしたら、物好き、あるいは、呪術に使おうなんていう不届きものがいたかもしれませんね。
ジャンヌダルクの生まれ
ドン・レミ村の農民
ジャンヌ・ダルクは農民の娘です。
1412年、ドンレミ村というところで生まれました。
ドンレミ村はフランス北東部のロレーヌ地方というドイツとの国境に近い街です。
アルザス・ロレーヌ地方と呼ばれ、17世紀以降にはドイツや神聖ローマ帝国に領土が支配される時代もありました。
ドンレミ・ラ・ピュセルと言います。
意味は「ドンレミの乙女」この呼び名は、「オルレアンノ乙女」からきています。
生地ドンレミ村でもジャンヌを同じように呼ぼうと・・・・
非常に美しい村で、観光スポットになっても良い土地なのですが、ドンレミ村へのツアーは、旅行会社では見かけません。
個人旅行するしかないでしょうか?
村には、ジャンヌが洗礼を受け、そした通った教会、ジャンヌ・ダルクが幼少期に遊んだ場所などがあります。
ジャンヌ・ダルクの生家も残っていますが、キレイに修復されていて、本当に15世紀から残っていたのでしょうか?
ジャンヌ・ダルク王族説
ジャンヌ・ダルクは王家の血を引くもの、あるいはシャルル7世の腹違いの妹、という説もあります。
その理由は、オルレアンの城に入城した時に、変装していた王の顔がわかった、軍隊を指揮できる素質がある、にあります。
しかし、どちらも根拠としては薄いです。
王の顔などは、誰かがこっそり教えていたのかもしれません。
軍の指揮については、ジャンヌ・ダルクが実際に軍の指揮をしたわけではありません。
軍隊を、旗を振って勇気づけたことだけです。
フランス王家としては、名も知らぬ農民に助けられた、というより、王族の血を引くものに助けられたという方が、聞こえがいいからでしょう。
現代では、フランス王家とジャンヌ・ダルクを結びつける血縁はないものとみなされています。
「ジャンヌダルク」の上演時間
「ジャンヌ・ダルク」の芝居は、上演時間は合計 2時間55分です。
第1幕が 75分
休憩 20分
第2幕 80分です。
幕の上がりは、ジャンヌ・ダルクの処刑された後の、フランス宮廷の様子から始まります。
そこからすぐに、展開され・・・
第1幕は、ジャンヌ・ダルクが神のお告げを聞いて、シャルル7世が戴冠式をあげるまでです。
第2幕は、敗戦が続いてブルゴーニュで捕まり、裁判、処刑と一気に進みます。
この芝居、エキストラが100名ほどいます。
舞台をどう動き回るのか、そしてその中で、主役がどう輝くのか、見どころだと思います。
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