吉良上野介、弟が身代わり?ムロツヨシ好演 おでこに傷の刃傷事件。実はいい人。大石内蔵助と親友。高家とは?

吉良上野介を主役にした、新しい忠臣蔵の映画「身代わり忠臣蔵」というコメディー時代劇が封切りになりました。

弟は吉良上野介は弟と瓜二つだった、という設定です。

この映画の吉良上野介は、本人の、悪い評判と、良い評判の両方を兼ね備えた人物になっています。

それは、吉良上野介に身代わりがたったからなのです。

では吉良上野介はどんな人物と、評判があったのか。

また、悪役と呼ばれなければならなかった理由を解き明かしていこうと思います。

吉良上野介の弟?

吉良上野介に弟はいたのでしょうか?

弟は確かにいます。5人の弟で、一番下の弟が 孝証 です。

まさに、「身代わり忠臣蔵」の主人公です。

それも、僧侶ですから、この設定は事実に基づくものです。

ただし、瓜二つ、という話も、なまぐさ坊主になっていた、なんて記録もありません。

記録にないからこそ、自由に作れると言うものです。

吉良上野介に関しては、冷徹で横暴な殿様と見られていますが、自分の領地では、良い政治を行い、領民から人気があったという、異なった見解があります。

それも、二人の人間がいたからこそ、二つの見解があった、原作者は考えてストーリーを作ったのだと思います。

孝証の兄たちに、東条という姓のものがいますが、こちらは、東条英機とは関係ありません。

吉良上野介には、息子がいて、息子は妻の実家、米沢藩の上杉家に養子に行っています。

ですから、吉良という名字の子孫は残っていませんが、上杉 という現代に生きています。

ちなみに上杉鷹山(うえすぎようざん)も、吉良上野介の子孫の一人です。

吉良上野介役 映画で ムロツヨシが一人で兄弟!?

2024年2月公開の映画「身代わり忠臣蔵」でムロツヨシが、吉良上野介(きらこうずけのすけ)にキャスティングされています。

吉良上野介、二人いた?

吉良上野介だけでなく、同時に弟との二役になります。

映画の中では、吉良上野介が赤穂藩主 浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)に切り付けられます。

浅野内匠頭は殺人の罪で切腹、赤穂藩は改易(藩取りつぶしのこと)となります。

そして、投手を殺された吉良家は、困った挙句、上野介そっくりな弟を、身代わり当主に仕立て上げ、周囲を欺きます。

吉良上野介の弟は、孝証(たかあき)と言います。

映画では、孝証は元々、素行が悪く、兄 上野介に家を追い出された身分。

家を出た弟は、僧侶になるものの、うまくいかなかったのでしょう。

悪いことでもしたのでしょうか?金も尽きて、吉良の家に出戻ってきました。

当然、兄 上野介は渋い顔・・・「あの無駄飯食い・・・」と弟を罵ります。

弟は弟で、兄を煽り、からかいます。

どちらの役も、ムロツヨシさんが演じており、冷酷な表情の兄、おちゃらけの弟と、対比する役を一人で演じ切っており、大変面白いです。

身代わり吉良上野介が、成長する?

さあ、その弟が、今度は兄の身代わりになるから、実物です。

冷酷そうな兄を、陽気な弟がなりきる、これまたこの映画の醍醐味です。

吉良上野介になっていきながら、弟 孝証はだんだんと世の中を馬鹿にしている自分から抜け出して、人としての情を取り戻していきます。

そして人間性に丸みが加わります。

ところが「忠臣蔵」の中では、吉良上野介はあくまでも嫌われ役、さて、そのギャップはどうなっていくのか・・・・これが、本質になっていくと思います。

悪役と、そうでない役を同時に演じながら、人間性を向上させていく・・・それがムロツヨシさんのうまみ、であります。

何よりも、ムロツヨシさんご本人が、大変楽しんで演じられた、ということです。

吉良上野介のおでこ

吉良上野介は浅野内匠頭に切り付けられ、おでこ(額)に酷い怪我をします。

「身代わり忠臣蔵」はここがポイントなのです。

吉良上野介、おでこを縫われる

吉良上野介の傷は出血が止まらず、医師団は大変苦労しました。

当時、外科の名医と評判だった、栗崎道有(くりさきどうゆう)が治療に呼ばれました。

栗崎道有は吉良上野介の傷を記録に残しています。

それによると、額の傷は斜めに11センチほど、傷は骨に達していました。

傷の治療は6針縫い、石灰を混ぜた練薬を貼って傷口をふさいだということです。

なぜ石灰かというと、石灰には殺菌作用があるからです。

現代のように、外気に触れないような良質のテープなどが存在しなかったので、石灰などが使われていたのですね。

背中にも傷を受けており、こちらはそれほど深手ではなく、と言っても3針縫い縫いました。

そしてどちらの傷にも、白布を包帯にして巻きました。

傷を縫った・・・・と言っても・・・小針と小糸で縫う、という記録がありますから、ひょっとしたら裁縫用の針を使ったかもしれませんね。

出血が酷さから、医師は吉良上野介が気力減退するのではないか、と心配し、塩水を飲ませ、さらに食事をさせました。

医師は低血糖になるのを恐れたそうです。

江戸時代でも、低血糖、という名前は知らなくても、酷い出血から起こる症状とその対処法に気がついていたのでしょうか。

「おでこの傷」はのちに、赤穂浪士が仇討ちをするときに、吉良上野介本人である、という大切な証明になりました。

何しろ、現代と違い、吉良上野介の顔を知っている者は、限られていましたから。

吉良上野介、生死は紙一重

吉良上野介は、松の廊下の刃傷沙汰では命を落としていてもおかしくない状況でした。

それほど、怪我の状態は深刻なものでした。何しろ骨まで達していた、というのですから。

江戸時代の医療でよく回復したものです。

映画「身代わり忠臣蔵」では、ここで吉良上野介は死んでしまったのです。

吉良家の当主である吉良上野介が死んでしまったら、お家取り潰しになるかもしれません。

江戸時代、特に吉良上野介が生きた元禄時代はお家の存続は厳しく、家に事件があったり、後継者がいないと、お家取り潰しと幕府から命令されることがよくありました。

何がなんでも取り潰しは避けたい!

そこで、吉良家が思いついた案は、殿(吉良上野介)と瓜二つの弟 孝証を殿に仕立て上げて、殿は死んでいない、としました。

幕府を詐欺にかけたようなものです。

このなりすまし、バレないといいのですが・・・

吉良上野介、もし現代医療を受けていたら・・・

そうすると、赤穂浪士たちは、本物の吉良上野介がわからず、逃げられる、あるいは替え玉に翻弄されるかして、全く主君の仇が取れなかったでしょう。

人間が受けた傷がよく切れる刃物なら、その傷はわからないまでに完治します。

日本刀は、世界でも1、2を争うほどの切れ味優秀な刃物だからです。

ですから、傷口も断面がきれいでくっつきやすいです。

もし、料理の時に切れ味抜群の包丁で怪我をした方がいらっしゃたらよくわかると思います。

本当にキレイに治ります。

いくら傷口がきれいでも、江戸時代の縫合は麻酔がありませんから、縫われる方は相当痛かったと思います。

家臣たちが寄ってたかって、吉良上野介を抑え込んだと思いますが、それでも身悶えするほどの痛さから、多少なりとも暴れて、縫う方は安定して針を刺せなかったのではないでしょうか?

それでも、昔から、頭の傷(この場合、おでこ)は、首から上は血流が良く、新陳代謝がよく、治りやすいです。

一説では、吉良上野介の傷は目立たないまでに回復し、赤穂浪士の討ち入りの時に、おでこの傷の判明がつかなかたから、背中の傷を見た、とも言われています。

傷の医療があまり発達していなかった、江戸時代でも、これほど良くなった例があるのなら、現代のテープを貼る治療法を受けたなら、吉良上野介には全く傷が残らなかったでしょう。

吉良上野介、いい人説

吉良上野介は名君だった

吉良上野介の領地は、愛知県 西尾市。昔は吉良町と呼ばれていました。その名の通りですね。

吉良上野介は、自分の領地に行くときは、馬で領地を回り、領民たちと話をした言います。

自分の領地が洪水にあったといえば、復興事業を行い、堤防を作って次の洪水に備える、領民のために新田の開発を手掛けるなど、国にとっては良い領主様でした。

ですから、吉良町の領民たちにしてみれば、吉良の殿様が浅野内匠頭に嫌がらせをした、そして赤穂藩士に恨まれた、などとは信じられない出来事だったのです。

だから今でも、吉良町では、赤穂の殿様が悪い、と思っています。

吉良上野介は悪役か?

吉良上野介は、朝廷からの勅使饗応役 浅野内匠頭をいびった、ということが原因で悪者扱いされています。

そして、その理由が浅野が吉良上野介に贈り物をしなかったから、ということが挙げられています。

現代の感覚では、賄賂はいけないことだったのですが、当時の考え方としては、これは賄賂ではなく、ご指南くださったことに対する謝礼なのです。

ですから当然、謝礼品も値がはるものになります。

饗応役になるものとして吉良上野介から指南を受ける大名たちは、当然のことと思って、謝礼を出すのでした。

浅野家だけが、謝礼を簡単な地元の名産品にしてしまっていました。

多分、浅野家の家臣一同が、揃って「こんな土産品で良い」と結論を出したからなんでしょう。

しかし、これが当時の世間の常識から外れていた、ということでした。

きちんとした謝礼の礼儀を赤穂藩はわきまえていなかった、ということです。

つまり、吉良上野介は悪徳ではなかったのでした。

「身代わり忠臣蔵では」吉良上野介とその弟が出てきますが、吉良上野介の方は、イメージの通り、冷血で嫌な奴。

弟 孝証のほうが、良い人間に変化する性格。

これをみると、二人で、一人前の吉良上野介の像が出来上がってきます。

吉良上野介はなぜ嫌な奴、になったのか

家臣が主君のために戦う、という美談を仕立て上げたかったからなのではないでしょうか。

殿中での争いは当時のしきたりで言うと、喧嘩両成敗なのですが、幕府が、特に将軍が、自分の母への称号拝受の儀式で起こされた事件ため、激怒しました。

時の将軍は、徳川綱吉(つなよし)、マザコンと言えないまでも、母親を大事にする将軍でした。

母親への称号を受ける日を台無しにされたため、その怒りは騒ぎを起こす原因となった、浅野内匠頭に向かいました。

そして、浅野内匠頭は申し開きをする暇もなく、断罪され、即 切腹を申しつけられました。

将軍がわも、のちに冷静になった時に、本当は喧嘩両成敗であるはずの処分が、浅野内匠頭一人に負わせてしまったことを後悔したのです。

だからと言って、その時の裁きを撤回するわけにいきません。

そこで、赤穂浪士の仇討ちに目をつけました。

幕府の失政を誤魔化すために、仇討ちに気が付かなかったふりをした、と言うことです。

しかも仇討ちは、主君の仇を討つことだから、忠義という思想を印象付ける事件になった、という思いも幕府は、こっそりと抱きました。

赤穂浪士は、政府の失策を補うために利用され、吉良上野介はその犠牲となってしまいました。

悪役のレッテルも貼られてしまったし、吉良上野介にとっては、踏んだり蹴ったりの事件です。

吉良上野介は大石内蔵助の仇?

吉良上野介、大石内蔵助と親友になる?

大石内蔵助(おおいしくらのすけ)とは、浅野家の家老で、主君 浅野内匠頭の仇討ちを指揮した人物です。

吉良上野介は、大石内蔵助にとってかたきです。

「身代わり忠臣蔵」ではどうなっているのでしょう?

大石は、本物の吉良上野介はすでに死んでいることはもちろん知りません。

それどころか、僧侶に変装した(というか元の姿?)、現在目の前で一緒に酒を飲んでどんちゃん騒ぎをしている相手が、身代わりとなった吉良家の人物(なりすました弟)であることを知らない。

しかし、大石内蔵助の配下にいるものたち(赤穂浪士)が、人相書きを持ってくることから、顔が知られます。

身代わり吉良上野介は、大石内蔵助に秘密を明かすことになりました。

赤穂浪士はもし仇討ちをしなければ、臆病者と世間から馬鹿にされ辛い思いをします。

吉良家の方も、ちょっと幕府の不穏な動きを感じていました。

幕府は今頃になって、浅野内匠頭への処罰が不当だった、とわかり、密かに吉良上野介が、赤穂浪士に討たれたら、なんとか面目が立ちそうと思うのでした。

そこで幕府は、吉良家の屋敷を、江戸城外濠の内側にあった屋敷から離れた、本所両国橋に変えられます。

元禄時代は、両国橋の向こうは、江戸ではなかったのです。

現代の感覚からすると両国は、お江戸の真っ只中、と言う気がするのですが、江戸時代の江戸は思っより小さかったのですね。

吉良上野介、大石内蔵助と計画を練る

屋敷がえを命じた幕府は、『どうぞ吉良を打ってくれ』と、赤穂浪士に勧めているようなものです。

幕府のやり方を、『きたない』と感じた、吉良上野介(身代わりの弟、孝証)は、大石内蔵助とある計画を立てます。

吉良孝証は、兄の非道さを精算したい気持ちもありました。

とにかく、大石内蔵助に討ち入りはしてもらう。

一方の大石内蔵助の方は、吉良孝証と言う人物が気に入り、斬りたくない、と思っていました。

大石内蔵助は討ち入りをするのか?

身代わりとなった吉良上野介は討たれるのか?

映画のクライマックスです!

映画を見てのお楽しみです!

吉良上野介、刃傷事件

スキャンダラスなタイトルですが、吉良上野介が刃傷事件を起こしたのではありません。

吉良上野介が切り付けられたのです。

吉良上野介、饗応役の指導をする

1701年3月14日のことです。

京都から、天皇のお使い(勅使、ちょくし と言います)がやってきます。

つまり幕府にとって客人だから、おもてなしをいたします。

朝廷からやってくるから、気位が高く、面倒さそうな客の予感です。

だから、おもてなしをする「饗応役」というものが大名たち持ち回りで務められます。

今回は、赤穂藩と他の藩が係に当たりました。。

そこで、幕府の行儀作法教授としてその道の大家である、吉良上野介が指導を行います。

饗応役に当たった藩は、不手際をおこさないように、しっかりと指導を受けます。

吉良上野介、浅野内匠頭に対し・・・いじわる?

これまでの当番たちは、指導役の吉良上野介に、お土産を持参して、「ご教授」をお願いします。

「お土産」・・・ただの地元の産物ではありません。

そう、値の張るものが必要だったのです。絹とか・・・陶磁器とか・・・

ところが、赤穂藩の藩主、浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)は本当に、地元の特産品しか持っていかなかったのです。

吉良上野介に対して、高価な贈り物をしなかったのが、まずかったのです。

名産品程度のお土産に全く満足しなかった吉良上野介は、浅野内匠頭に、きちんと作法を教えなませんでした。

簡単にいうと、賄賂を持ってこなかった人に冷たく当たる、ということ。

江戸時代だけでなく、もっとその前の時代から、エライ人にお願い事をするときは、ワイロが必要だったというわけなのですね。

いや、ワイロを持ってお願い事をするのは、古今東西あること・・・

料理の試作品にケチをつけたり、畳を張り替えていないと言って、短期間で畳を新しくさせたり、といびり倒したのです。

浅野内匠頭は、ストレスが溜まり続けでした。

吉良上野介は、「田舎侍」発言が引き金に

ついに、朝廷の勅使が江戸城にやってくる当日になりました。

この朝にも、饗応役の衣装について、吉良上野介からわざと違った衣装を指定を受け、浅野内匠頭は危うく恥をかくところでした。

浅野内匠頭の部下の機転でそれは免れましたが。

朝廷の勅使のお迎えの仕方を、浅野内匠頭が吉良上野介に尋ねた時に、事件は起きました。

いらだった吉良上野介は浅野内匠頭を「田舎侍め!」とののしり、手にしていた扇で、浅野内匠頭を打ち据えました。

歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」(かなでほんちゅうしんぐら)では、「鮒侍じゃ」と言ってます。

「鮒」は鯉と同じ淡水魚ですが、グルメ料理の代表、鯉と違って鮒は、泥臭いです。

江戸時代では、鮒は、意気地無し、田舎者のことを馬鹿にする言葉であるから、鮒侍 イコール 田舎侍 につながるのです。

実際はどちらの言葉を言ったのでしょうね。

どちらにしても、浅野内匠頭を馬鹿にしたことには違いありません。

馬鹿にされた、浅野内匠頭、ついにプッツンときて、吉良上野介を追いかけて、刀で切りつけてしまったのです。

幕府にとって大事な日に、流血騒ぎでその場が汚れた、ということ、江戸城内で、刀を抜いたらそれは重大な罪に当たる、という2重の意味で、浅野内匠頭はすぐにお縄になりました。

吉良に切り付ける、浅野内匠頭を後ろから押さえてとどめた名台詞が、「殿中でござる」です。

結果、浅野内匠頭は罪に問われて、切腹。赤穂藩はお取り潰しとなりました。

浅野内匠頭の切腹が忠臣蔵という仇討ちの話の発端なのです。

吉良上野介の家 高家(こうけ)とは

高家の役割

吉良家は高家と呼ばれる家柄です。

格式が高い家柄、ということなのですが、どんな意味で、どのくらい高い格式なのでしょう?

高家の仕事とは、一言で言うと、儀典係と御作法指導係、でした。

儀典係としての役目は、将軍の代理として伊勢神宮、日光東照宮、寛永寺への参拝、幕府から朝廷への使者となること、、朝廷からの勅使の接待でした。

また接待にあたる、饗応役の大名たちへの指導も含まれています。

「高家」になれる家は、旗本ですが、旗本ならが誰でもいいというわけではなく、幕府によって人選されます。

主な高家としては「吉良家」他に、「一色家」、「大友家」(大友宗麟の子孫)、「織田家」(織田信長の子孫)、今川氏(今川氏真の子孫)がいます。

吉良家も、足利家の流れを引く、古い家柄です。

戦国時代以前から続いている名家が任命されているようです。

他の武家たちからは一目置かれている家柄です。

石高(幕府から、各家に与えられた土地で、そこで見込まれる収穫のこと、その家の稼ぎ)は低いですが、権威は高いです。

高家の髪型

高家の人々には見た目も特徴があります。

それは髪型です。

江戸時代の武士は、丁髷を結って額から上にかけて月代(さかやき)と言って剃りを入れます。

ところが、高家の人間は、月代を入れないで、髪を束ねて上でまとめ、髷にします。

この髪型を総髪(そうはつ)と言います。

時代劇で見る、吉良上野介はどの役者さんが演じても、この髪型をしていますね。

ではなぜ他の武士たちと神が多々違うのでしょう?

それは高家では、上品で格式あると見られた、作法、所作などは公家風をお手本にしたからです。

武家の世になっても、作法の上品さは公家に敵わない、と見ていたのでしょうか?

徳川幕府は、武家風の作法に自信がなかったのでしょうか?

案外、公家風を上品として、公家を立てていたのかもしれませんね。

コメント

タイトルとURLをコピーしました