2024年 フジテレビ系ドラマで「大奥」を放映中です。
お品という女性が、活躍しています。
京都から来た、宮様に従ってやってきた、侍女ですが、大奥の権力争いに巻き込まれていきます。
そして、自分の主人、将軍御台所と張り合う関係になってしまいそうです。
お品は実在の人物です。
しかしドラマの中では史実を変えられているところもあります。
実在のお品を探りながら、ドラマでどう変わっているか、見ていきたいと思います。
大奥 お品 は実在!
はい!実在の側室です。
そして、徳川家治の息子を産みました。
養蓮院、という名が残っています。そして俗名は 品(しな)と。
五十宮倫子(いそのみやともこ)が江戸に、徳川将軍 家治の元に嫁いでくる時に京都より、侍女として従ってきた女性です。
父の名前も、藤井兼矩(ふじいかねのり)といい、、吉田兼好の流れを汲む血筋です。
大貴族の出身ではありませんが、血統としては正しく、文人の家柄なので、宮様付きの女官には、ピッタリな人物でしょう。
ドラマの中では、お品はむかし宮様(倫子)と一緒に本を読んだ話などしていたので、血筋通り、インテリな女性だったようです。
将軍家御台所(みだいどころ、将軍家の正室という意味)五十宮倫子のもとで支えているうちに、将軍家治の側室になることになって、男子を産みます。
〜院というのは、夫に先立たれた時に、妻も出家することで、名前を捨てた、法名を名乗るのですが、お品は、家治より先に、1778年に亡くなっています。
亡くなった時に戒名が、養蓮院妙開心華大姉。
戒名からとって「養蓮院」と呼んでいます。
大奥 お品 史実とちょっと違うところ
大奥 お品、側室になったいきさつ
「大奥」のドラマでは、お品は、大奥上﨟お年寄り 高岳(たかおか)に脅されて、主人の五十宮倫子と離さレ、将軍の側室にされたのでした。
しかし、実際はそうではありません。
お品を、側室に推したのは、実は、筆頭老女 松島(まつしま)でした。
松島が、お品を自分の養女にしたのです。
お品は、松島の姪だった、という説もあります。
松島も公家の出身だったので、そんなこともあるかもしれません。
御台所付きの上﨟御年寄が、松島・田沼意次(たぬまおきつぐ)と連合して力をつけていくのを阻むためお品を、松島の養女にした上で側室に推挙した、とい言われています。
そうなると、松島側は、お品ともう一人の側室 お知保の方(おちほのかた)二人の側室を味方に置くことになり、より一層権力が強まる気がしますが・・・
案外、二人の側室が、それぞれに主張し、相対することで、松島の勢力が半減する可能性を狙ったのでしょうか。
「毒を持って制す」でしょうか?
大奥 お品・・家基の死に関係?
ドラマ「大奥」ではお品追放、なんて顛末になりましたが、実際には記録されていないことなので、この辺りの史実はわかりません。
が、跡取りのはずの、家基の死亡となれば、大事件です、それがもし殺人であったとすれば。
しかし実際の家基は18歳まで生きています。
18歳頃といえば、1780年あたり。
その頃、お品は死んでいるので(1778年没)、家基死亡事件とは関係ないはずです。
大奥 お品は主人を裏切った?
お品 側室へ・・・御台所を苦しめた?
御台所(みだいどころ)五十宮倫子にとっては、信じていた侍女が自分の夫の側室になる・・・裏切り行為ですね。
ドラマの展開では、ここれを寄せた男性との交流が気がつかれて、それをネタに脅迫されての同意、ということになっていました。
大奥というところは、妻であろうと、お上﨟であろうと、下働きであろうと、将軍以外の男性と接点を持ってはいけない、というしきたりです。
ですから、お品が、料理係の男性と密かに会っている、なんて非常なスキャンダルです。
部下のスキャンダルは、上司である倫子様の落ち度につながります。
それをばらされたくない、お品は、倫子様を守ったという美談の形に持っていっています。
理由を何も知らされない・・・・
だから、御台所、五十宮倫子は、ドラマの中で、非常に悲しみます。
お品の裏切り・・・実は裏切りではない
ここでも、ちょっと歴史と違うところが・・・
徳川時代の多くの、御台所や側室たちがやってきたことがあります。
将軍を自分のところに留めたおきたいために、自分の指示で動く女性を将軍様の、新たな側室として差し出すことをしました。
年齢オーバーで(目安として25歳過ぎると)、これ以上子供を持つことが難しくなった側室たちは・・・
そうして新たな側室をうまく味方につけることで、大奥内での自分の地位を高めていきました。
「大奥」のドラマの中で、「朝廷から来た嫁は、子供を作れない」という意味のことを他の侍女から聞かされ、苦しんでいたような御台所に見えました。
が、本当は知識としてしっかり知らされていた事項ではないかと思います。
御台所としては、気心が知れて、信頼のおけるお品なら、側室になっても大丈夫、むしろ、頑張って男子を産んでもらいたい、と思った、と言うことの方が考えられます。
後継者が不可欠な時代だったら、むしろ、自分の信頼のおける人が側室になった方が安心、という気持ちもあったでしょう。
大奥 お品と葉山の恋
葉山とは、葉山貞之助、大奥の料理係です。
お品が実在の人物だから、葉山も・・・・と思いたいのですが、葉山は創作の人物です。
「大奥」のストーリーの悲劇性をあげるための人物と思われます。
「大奥」というテレビ番組は、悲恋が多いですね。
お品と、葉山貞之介の間も悲恋に終わります。
悲恋は、心を殺して生きるための必須アイテムなのでしょう。
大奥、という場所は、上級身分のものから、下働きに至るまで、想って良い相手は将軍様ただ一人、と決まっています。
ですが、大奥に期間限定で働きに入りる女性は、時期がくれば大奥を出られるので、大奥を下がってからは誰と恋愛をしようと自由ですが。
お品の場合は、御台所に使える重要な役職ですから、恋愛は全面禁止です。
恋愛禁止と言われようとも、素敵な男性がいたら心惹かれるのは仕方ありませんが・・・
重要な役割をする人物、それも仕える御台所が四面楚歌の中にいるという場合、お品はもっと恋愛に関して注意すべきだったのです。
恋したから、仕方ない・・・では済まされない立場なのです。
最初は、御台所の食事についての相談から始まったのですが、次第に気持ちがたかまり、キスシーンなど、敵対する女中に見られてしまうなんて。
見られてしまったおかげで、お品は、田沼意次(たぬまおきつぐ)と高岳(たかおか) に、将軍の側室になるように執拗に進めます。
側室にならないと、監督不行届として、御台所様が困った立場に立たされる・・・そう脅して。
全く、隙を作ったしまった、困った、お品です。
大奥、お品 子供は?その行末
ここでも史実の改変があります。
まず、将軍 家治の子供を最初に産んだのは、正室の 倫子です。
女子だったのは、ドラマと同じですが、死産ではありませんでしたが、生後10ヶ月ほどで亡くなっています。
しかもその頃は、家治はまだ将軍についていません。
家定が将軍についた翌年、倫子は再び女子を出産します。
この子は無事成長します。
その翌年、1762年に、お知保の方、男子を出産、続いて、お品が男子(家治にとっては次男)を出産します。
その子が、ドラマで、貞治郎と名付けられた子供ですが・・・この子供も生後4ヶ月も経たないうちに早逝します。
江戸時代では、幼い子供が亡くなるのは珍しいことではありません。
毒殺・・・などと騒がれるこもあるのですが、実際そうでないことの方が多いです。
一方、お知保の方の子供、竹千代こと家基も亡くなりますが、18歳までは生きています。
子供たちの生まれる時期、死ぬ時期が変えられているのが気になります。
そこにどんな意味が出てくるのでしょう。
ドラマの展開上、仕方ないことではありますが・・・それも限られた時間でドラマを完結させなければならない制作者側の苦労なのでしょう。
ドラマ「大奥」では、将軍 家治が亡くなった後、またお品が、五十宮倫子に、奥女中に戻って仕えています。
これはテレビドラマの中だけの、出来事で、大奥 ではこのようなことは行われません。
あくまでも、お品と五十宮倫子との絆をテーマにしたかったからなのでしょうね。
大奥 お品の最後
大奥に入り、側室になったお品は、1778年10月27日に、亡くなりました。
生年が知られていないので、何歳で亡くなったのか、わかりません。
しかし、ちょっと逆算してみましょう。
五十宮倫子の輿入れが1749年。
倫子に従って、江戸にきたと言うわけで、倫子とほぼ同じ年代とすると、1738年あたりでしょう。
子供が生まれたのは、1762年。18歳まで生きれば、1780年。
お品が子供を産んだのが、1762年。
それなら、亡くなった年齢は、約40歳でしょうか。
五十宮倫子の方は1771年に亡くなっています。倫子は33歳で亡くなったのですね。
お品は、家治よりも先に亡くなっています。
墓所は、上野の陵雲院。
現在は、上野寛永寺内に移されていますが、元は、上野国立西洋博物館のあるあたりにありました。
元々、寛永寺の末寺ではありましたので、本寺の方に1955年に移されました。
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