2024年 NHK大河ドラマ「光る君へ」の主要人物、藤原道長のお父さん、藤原兼家を取り上げてみましょう。
藤原兼家の活躍がなければ、後の藤原道長の政界進出はうまくいかなかったはずです。
活躍した藤原兼家ですが、悪人だったのでしょうか?
ドラマを見ていると、一族の繁栄のために、泥水を被ることもよし、としています。
藤原兼家の一族は数多くのメンバーがいます。その中でも特に、自分の息子たちだけのために頑張り方をここでは見ていきましょう。
藤原兼家、悪人っぽい・・・本当は?
藤原兼家は大河ドラマ「光る君へ」を見るところ、なかなかの悪人ぶりです。
藤原兼家は、「全て家のため」これを大義名分としています。
官位への執着、政治を思うままにしたい、という望みは自分が出世するためでなく、一族繁栄のため。
一族繁栄への望みとは、繁栄するのは自分の子孫たちだけに、という考えです。
将来、自分の子孫が政府の高職のほとんどを独占させよう・・と計画中です。
そのためには、悪事に手を染めることもいとわない・・・
スパッと気持ちのいい悪人ぶりです。
時には息子、それも主な3人の息子、道隆(みちたか)・道兼(みちかね)・道長(みちなが)には、父親らしい愛情を見せてはいます。
しかし、どうも一族繁栄のために使おうとしているところがあります。
例えば、まひろ こと 紫式部の母 ちやは を一時の苛立つ感情から殺してしまった、道兼に対し、絶対に許そうとしていません。
それどころか、「お前は一族を穢したのたから、我が家の汚いところをすべて、引き受けなければならない」と、脅しに近いことを言います。
道長に対しても、身分の高い家に婿に行き、藤原家の繁栄を強いものにしなければ、と言い聞かせています。
ここから藤原兼家の一族のためになるなら、手を汚すこともする、という姿勢が見えてきます。
藤原兼家、毒を円融天皇に盛ったのはホント?
大河ドラマ「光る君へ」の中で、藤原兼家は、円融天皇の退位を進めたくて、天皇に毒を盛り、天皇は、調子を崩し、退位となります。
しかし、藤原兼家が、天皇に毒を盛ったのはドラマのフィクションです。
藤原兼家と円融天皇の仲が微妙だったのは事実です。
藤原兼家は、前出であったように、関白職を巡って、兄弟と争いましたが、円融天皇から順番を守るように言われたことに対し、円融天皇を恨んでいたと思います。
円融天皇との間に起きた、ゴタゴタは、こういう藤原兼家に対する待遇からきていました。
円融天皇の退位後には自分の孫 懐仁親王を、天皇にすぐにつけたかったのですが、円融天皇の方は、藤原兼家の思うままにしたくありませんでした。
そこで、師貞親王を天皇につけ、花山天皇とし、懐仁親王の方は東宮(皇太子)としました。
それにしても、フィクションとはいえ、藤原兼家が、仮にも天皇に毒を盛ったことが発覚すれば、大変なことです。
ドラマの中では、円融天皇は毒に気がついており、天皇が命令を出せば、藤原兼家は大罪人となるわけです。
毒殺、は流石にありえないことではありますが、大貴族が自分の思い通りにならない天皇を退位に追い込むことは、貴族が政治の中心を担っている平安時代なら、珍しいことではありません。
藤原兼家、安倍晴明と結託
円融天皇が退位するに至って、大きな働きをしたのが安倍晴明でした。
安倍晴明は陰陽師であり、平安時代の人、特に貴族は、絶えず陰陽師の言葉を求めていました。
それは現代人がセラピーに頼るような状況と似ているかもしれません。いえ、セラピーよりもっと、実生活に密着していました。
「光る君へ」の中では、藤原家と安倍晴明の癒着が疑われるシーンが出てきます。
安倍晴明・・・・悪徳陰陽師?と見えるほどです。
安倍晴明は自分を売り込むことが上手だった、と言います。
歴史書として知られている「大鏡」では、安倍晴明は、花山天皇の退位を知っていた、と書かれています。
しかし、この事件のシナリオを書いたのが、藤原兼家だったとしたら、陰陽道ではなく陰謀です。
現代人から見ると、式神の知らせから、天皇の退位を知るより、陰謀の方が理解しやすいです。
「大鏡」は、兼家や道長親子の繁栄ぶりを中心にして書かれた歴史書です。
自分たちの陰謀を、神託と言い換えています。
花山天皇の事件に関しては「大鏡」にとりあえず記載がありますが、円融天皇の退位に関しては、記述が見当たりませんので、こちらは、創作です。
しかも、藤原兼家の毒盛り犯人の事件と絡ませて創作しています。
創作ながら、今後の、安倍晴明・藤原家との関連付けを期待させるシーンとして覚えておきたいところです。
藤原兼家の性格
2024年「光る君へ」内では、腹黒く、陰謀を絶えず考え、自分の家がいかに高い地位に行くかを考えているばかりの陰険じじい(?)に見えるかもしれませんが、実はちょっと違います。
藤原兼家は、右大臣の息子だったから、かなりのお坊ちゃんでした。
性格は、明るく、誰にでも優しく情に厚く、ユーモアもあり、なかなかの人気者でした。
和歌を作るのも得意な、理想の貴公子、だったに違いありません。
身分が高いので、家柄の良い女性の家から、婿に望まれることがたくさんありました。
その反面、厚かましいところもあり、要領が悪い点もありました。
この辺り、息子達に似ていますね。
案外、藤原兼家は自分の欠点を知って、その欠点が、息子の道兼に出ていたから、道兼に辛く当たるところがあったような気がします。
兼家は時姫と結婚しましたが、最初の子供を妊娠中に、兼家はもう二人目の妻を迎えていました。
二人目の妻が、「蜻蛉日記」の作者、藤原道綱母(ふじわらみちつなのはは)ですが、彼女のところに子供が生まれた時、またすぐに3人目の妻と結婚しました。
明るく朗らかな人柄・・・・と言っても、すごく女性好きでしたね。
藤原兼家、狸寝入り事件
藤原兼家の性格に、物怖じしない図々しい、厚かましい、面もありました。
御曹司だったことから、何をしても許された環境から出た性格でもあるしょう。
図々しいからできたエピソードがあります。
花山天皇が退位し、藤原兼家の孫、一条天皇が即位するときのことです。
一条天皇の即位を快く思わない人物が、即位に使われる高御座の玉座に、子供の生首を置きました。
血の穢れを忌む平安時代では、もうこれ以上の儀式を続けることができないほどの大事件です。
その知らせが藤原兼家のところまで来たとき、兼家は寝たふりをしていました。狸寝入りですね。
しばらく経った頃に姿を表し、「で、すべては片付いたのであろう」と言いました。
兼家が早い時点で口を出してしまうと、即位の儀式を取りやめるか、どうか始末しなければならなくなります。
ところが、兼家が気がづかないとなると、仕方なしに、儀式を進めていかなければなりません。
藤原道兼は、それを狙ったのです。
「光る君へ」の中では、息子の道長が、その穢れたものを処分して、何もなかったかのよう振舞った、と言う筋書きでした。
天皇の即位、と言う非常に尊い儀式で、狸寝入りしてやり過ごす兼家は、やはりただものではありません。
藤原兼家の死因
藤原兼家は、990年7月26日に亡くなりました。享年62歳です。
死因は病死ですが、どんな病気だったかは不明です。
「光る君へ」の中では、少し認知らしい症状が見えています。
現代では、60歳代というのはそれほど歳とも思われていませんが、平安時代なら普通に老人の部類に入るところです。
史実では病名は不明ですが、不明だからこそ、人に言えないような死に方をドラマでは描くことができるというものです。
呪詛があったかもしれない・・・
なにしろ、藤原兼家は、人に憎まれても仕方がないようなことをしてきましたから。
呪詛、というのはある意味、自分の心で悔いている悪行に悩まされた、ということにもなります。
源明子の、笑顔も不気味です。
夫、藤原道長の前では決して笑わない、というのに・・・
兼家は太政大臣に989年について3日で引退を決め、その職を長男の道隆に譲ります。
そして、その2ヶ月後に亡くなりました。
ひょっとしたら、自分で体調の不良を感じ、職を息子に譲った、なんてことも考えられます。
藤原兼家が太政大臣職を降りると、出家しました。
平安時代の慣わしで職を降りて引退すると、一度は出家して、死への旅立ちの準備をすることになっています。
女性も同じで、死が近づくと、出家をします。
と言っても女性の場合、本当に髪を剃り落とすのではなく、髪を形ばかり落として、出家の印にしました。
藤原兼家、兄弟仲の悪さが人生に影響か?
藤原兼家が、こんなに、自分と息子たちだけの権力に固執するようになったのは、兼家 本人の兄弟仲が関係しています。
藤原兼家は、藤原師輔(もろすけ)の三男で、長兄は 伊尹(これただ)、次兄は 兼通(かねみち)と言いました。
三人兄弟ということは道長たちと一緒ですが、兼家たちの兄弟関係は、結構悪いものでした。
長男、伊尹と 兼家は比較的仲が良かったのですが、次兄 兼通は、伊尹と仲が悪い状態でした。
長男 伊尹は順調に関白となり、道兼は兄を補佐をするうちに、次兄 兼家 よりも出世をしたことで、次男と三男との仲も悪くなってきました。
伊尹は病にかかり、関白職を降板。
そこで、道兼 と 兼家が次の関白職をかけて、険悪な仲となります。
そこで仲裁を買ったのが、円融天皇。
円融天皇は、藤原道兼、兼家の姉妹の息子です。(兼家にとっては姉、道兼にとっては妹)
円融天皇の母は、兄弟仲がうまくいかず争いになる日が来ると考えていたようです。
だから、息子である円融天皇に、「関白は兄弟順に・・・」という遺言を残していました。
円融天皇の「そのようにせよ」という鶴の一声で、遺言通り兄である兼通が関白におさまりました。
兄弟喧嘩が尾を引いて、兼通と兼家との間に、確執が生まれます。
そのうち、兼通は、重い病にかかり死が近いほどになってしまい、自分の後継者を指名する必要ができました。
その時、兼通が次の関白に指名したのが、藤原北家一族で一番年上の、従兄弟 藤原頼忠(ふじわらよりただ)を任命しました。
藤原頼忠というのは、「光る君へ」の中で、橋爪淳がキャスティングされている方です。
ドラマ内での特徴は、「声が小さい」、「ボソボソとしかモノを言わない」と言われていました。
藤原兼家が、頼忠にそんなに親しみを感じていないのは、以上のような理由があるからです。
自分の体験からでしょうか、藤原兼家は兄弟の争いは、一族のためにならない、と考えている様子です。
長男を中心として一家を盛り上げていく体制を理想としていました。
それもドラマの展開は思うようにいかなさそうです。
藤原兼家の子供たち、兼家は誰に期待をしたか?
藤原兼家の子供たちは、養子も含めて11人います。
妻も7人いましたから、11人ぐらいいてもおかしくない。
正室(正妻、第一夫人のこと)は時姫。その間の子供は、男子3人、女子2人です。
男子が、道隆(みちたか)、道兼(みちかね)、道長(みちなが)、女子が 詮子(せんし、またはあきこ)、超子(ちょうし)です。
正室の子供が、父親の後継者になるのが、普通です。
もちろん、長男 道隆を一番に考えていたのは間違いありません。
それが、家の安定のため、1番の選択です。
「光る君へ」は、道長を藤原家の中心として描いたドラマなので、父、藤原兼家は、密かに道長に期待をかけていた・・・という展開になってきますが、実際は兄弟の順列を考えていました。
次男 道兼には普通に接していました。
むしろ次男の方が、長男 道隆 との違いを面白く思っていませんでした。
藤原兼家が特に、期待をかけていたのは、娘でした。
兼家だけでなく、平安時代の大貴族は、自分の娘を、天皇のところに嫁にやって、そこで次の天皇になる男子を産んでもらう、というのが1番の望みでした。
娘も、その父も、天皇の皇子を産むための競走レースを走っているようなものでした。
道長と正室 時姫の間に娘は二人おり、二人とも天皇の妃になり皇子を産んでいましたが、詮子とその息子 懐仁親王(やすひとしんのう)が最終的に残りました。
しかも 詮子はしっかりした娘で、ずっと藤原家で重んじられていました。
「光る君へ」にある通り気丈な女性で、藤原兼家に兄弟姉妹の中で、一番似ていた・・・と言われています。
藤原兼家、妻の日記に何が書かれていた?
藤原兼家の妻で、日記を書いた人物といえば、「蜻蛉日記」の作者、藤原道綱母(ふじわらみちつなのはは)です。
非常に美しいひとで、和歌作りも上手な、そしてプライドも高い人でしたが、藤原兼家が惚れ込んで妻にしました。
この日記には、藤原道綱母という女性がの苦悩、嫉妬心などを書いた、日記です。
正室の時姫と、張り合うこともありました。
これを読むと、当時の貴族の女性達の思いを知ることができます。
平安時代では、貴族の男性は妻を複数持つのが当然とは言われていても、妻となった身には、辛いものだ、と。これはどの時代も一緒ですね。
「光る君へ」の中では、藤原兼家がくつろげる女性として描かれていますが、実際はそうではありませんでした。
他の女性のところに兼家が通うことの、苦悩を書いたところ、藤原兼家と道綱母との仲は、こじれてしましました。
うるさいことを言うな・・・と言うのでしょうか?
藤原兼家は、気が短い人だったのでしょうか?
藤原兼家という人物
「光る君へ」のもう一人の主軸人物 藤原道長の父、ですが・・・非常に精力的な人物です。
自分の一族のために、何がなんでもという意識が見られ、それが悪役の魅力と結びつき、見応えのあるキャラクターです。
なにしろ、これからの藤原氏のために、天皇をその地位から引き摺り下ろしてしまうのですから・・・これ、大それたことです。
小さなクーデターと呼んでいいですね。
現段階で、藤原兼家に比べれば、道長なんてまだまだ・・・と見えてきます。
藤原兼家の資質が、こののち、道長にどのように受け継がれていくのでしょうか?
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