藤原頼通どんな人、人柄?したこと。平忠常の乱に遭い。妻とは。道長、弟との仲は?死因。平等院建立。

藤原頼通は、藤原道長の息子です。

道長ほど、名前が売れていない人物ですが、頼通の後、世の中が変わっていきます。

なぜ、と言う理由が、藤原頼通に隠されています。

ここではその理由を解明していきます。

宇治の平等院を建立した人と知られていますが、建立に平和を願ったお寺と言うことが伺えます。

また、意外と妻を愛した人物像も見えてきます。

藤原頼通、どんな人

藤原頼道は、992年生まれ、1074年没年で、82歳の生涯を送りました。

藤原頼道(ふじわらよりみち)は藤原道長(ふじわらみちなが)の息子、それも長男です。

一言で言うと、父道長と、姉 彰子(しょうし)がついていたため、大出世し、しかも権力の座に長くいた人物なのです、

そのため、藤原道長の後継者であり、父と共に、藤原家全盛期を作った人物といえましょう。

藤原頼道は、道長の息子ということで、スピード出世を遂げました。

そして、50年の間、関白の位につき続けた人です。

わずか15歳で、従三位(じゅさんみ)という位を与えられ、政権入りを果たしたほどです。

26歳で、摂政という役を父から引き継ぎ、なんと、史上最年少の摂政となりました。

摂政という役目は、幼い天皇の外戚の祖父(母方の祖父)が普通でした。

しかし、藤原頼道はこの頃まだ、自分の娘を入内させていなかったので、頼道の妹である彰子
(しょうし)の息子、後一条天皇の摂政でした。

政治家であるのはもちろんのこと、歌人でもありました。

とは言っても平安時代は、公家であるならば、政治に携わる公職に就く身であっても、歌(和歌)が読めない人は、価値がない人、だったのですね。

藤原頼通の人柄

藤原頼道は、長生きをしたせいで、若い頃と晩年とではその人柄が違って見えました。

若い頃の人柄については、紫式部は紫式部日記に書いています。

「とても立派な方」、「立派なのに人々が(頼道を)軽くみるのは良くないこと」、「物語の貴公子のように素晴らしい」などど、ひいきするような書き方をしています。

若い時は、のほほんとした貴族の若様、と言う感じでしたが、華やかな公家生活を送って年を重ねていくと、だんだんと、横柄になってきたようです。

藤原道長の時代から100年後、藤原家の子孫 藤原忠実(ふじわらただざね)、書い談話集「中外抄」などからによると、「癇癪持ちだった」だそうです。

また、鎌倉時代初期に書かれた説話集「古事談」にも、我(が)を通したい一面が描かれています。

藤原頼道が50年にわたって勤めていた、関白の職を、息子 師実(もろざね)に譲りたかったのだけど、姉の彰子に反対されました。

実は、藤原頼道と彰子の父 道長に、関白職は頼道の次は、教通(のりみち、頼道の弟)に譲るよう、指示していたからです。

それで、藤原頼道は、面白くなく思っていた、と言うことです。

この状況は、ちょうど、頼通の伯父、藤原道隆が自分の息子 伊周に 自分の職務を継がせたい、と言うときによく似ています。

藤原頼道も、この頃は70代にさしかかるところ。

となると、年寄り特有の頑固さが、全面に出てきた時代なのでしょう。

藤原頼道のしたこととは?

藤原頼通は、父 藤原道長の後を継いで、摂政、関白、内大臣を務め、政治を執り行っていました。

政治家としての、藤原頼道ですが、「したこと」と言うより、できなかったこと、と言うべきでしょうか。

政策が失敗したのではなく、自分が、藤原家が主導権を取ることができなくなった、と言うことです

と言うのも、藤原頼通の、娘、養女も天皇のもとに入内しても、男子を産まなかったのです。

と言うことは、天皇の外戚になれませんでした。

そのために、藤原道長から続く、藤原家九条流はこれから先、衰退していく、と言うことを意味していました。

ちょうど、藤原頼通の時代の後三条天皇は、藤原氏からの影響を逃れるかのように、国家財政の改革にかかりました。

貴族の土地である「荘園」を再調査し、これまで税を免除されていた貴族からも税を取るようにしたとです。

これまでは、藤原氏に有利にできていた法律も、変革されました。

藤原頼通は、親戚関係が薄いため、三条天皇の政策にあまり口を出せなかったのですが、頼通自身も押しの強い人ではなかったのではないでしょうか?

こうして、だんだんと藤原氏の権力が衰えていきました。

それが次の世の、院政への足音のようにも聞こえます。

藤原頼通、平忠常の乱にあう。

藤原頼通の時代、1028年 平忠常が乱を起こします。

平忠常の乱は、東国 房総半島での事件です。

「平」と言っても「平将門の乱」ではありません。

忠常は、将門の伯父の孫で、現在の千葉県あたりを拠点にしてましたが、房総半島の権力を自分のものにしたいために、朝廷から派遣された役人を殺してしまったところから始まります。

反乱軍を討伐する軍隊を送ることを決めたのが、藤原頼道でした。

反乱が起きた年は、藤原道長が死んで1年後。

藤原頼道は今度こそ、自分で判断しなければならないのです。

戦争に慣れていないのが、当時の平安貴族。

即座に出兵しなければならないのに、吉日を選ぶ、などして、実際の派遣まで、40日もかかってしまいました。

遅れた結果、反乱の平定まで3年もかかってしまいました。

戦争に慣れていない、と言えばそれまでなのですが、平定に長引いた、ということは朝廷の力が甘く見られてしまった、と考えられます。

それがやがて、貴族政治の衰退につながっていくのです。

こうしてみると、藤原頼通はちょっと「残念な人」と言えますね。

藤原頼道の妻

藤原頼道の妻は4人いました。

一番愛していたのは、17歳の時に結婚した 隆姫皇女(たかひめひめみこ)と言う皇族出身の姫です。

隆姫との結婚については「栄花物語」に詳しく書かれています。

この結婚は、隆姫の父 具平(ともひと)親王からの立っての希望でした。

皇族からの姫、となれば、藤原家の後継者にとってはまたとない縁談です。

政略結婚ではありますが、藤原頼通と隆姫は非常に仲が良い夫婦でした。

どうしたかというと、1015年、藤原頼通が20代前半の時に、三条天皇から新たな皇女の降嫁(天皇家の姫を家臣の妻とすること)を打診されます。

父親の道長は、皇室出身の嫁が二人になる、と大変喜んだのですが、父の藤原頼通は、「いかようにでも」とうかない返事。

そしてその時、目に涙を浮かべていたのです。

妻を愛していた、と言うことなのですね。

父は、藤原頼通に新しい妻を持つことが、貴族として当然、そして、子供を作るのが当然と説き伏せていました。

しかし、縁談を進めるうちに、藤原頼通は病にかかります。

その原因は不明でしたが、隆姫を心配する姫の亡き父 具平親王の霊と言うことだったのです。

「栄花物語」に出てくる話なので、霊が藤原頼通を病気にした!というのは真実味に欠けますが、平安時代は、何か不都合が起きると、たちまち霊の仕業、とされてしまいます。

三条天皇の娘との縁談は、霊のことが原因となり、結局はこの話は無くなりました。

なにかあると、霊のせいにされる…これは霊にとってもたまりませんね。

新しい縁談に涙を見せて、藤原頼通でしたが、実に生真面目な夫と思ったら大違い!

他に、きちんと通う女性がいました。

感心して損した?

藤原頼通と道長の親子仲は?

藤原頼道は大物政治家 藤原道長の息子 というと、二人の間には、親子の確執があったのでは?と期待したくなるのですが。

しかし、期待とはちょっと外れ、親子仲は良くも悪くもない、と言うところでした。

道長の孫である一条天皇が即位すると、藤原頼通は24歳で、すぐに内大臣になり、摂政となり、藤原家の当主となりました。

藤原道長は太政大臣になりすぐ辞任して、息子 藤原頼通のバックアップに努めます。

藤原頼通の方も、重要事項は必ず道長に相談し、大きく逆らうことはありません。

従順だったのですね。

父と意見を大きく異にしたのは、三条天皇の娘を嫁にすることを勧められた時でした。

これは、藤原頼通が病気になったこともあり、破談になったのですが。

のちに藤原頼通が関白になってからは、父 藤原道長とは衝突があったようです。

意見の違いというより、藤原頼通をはじめ、その弟の教通(のりみち)が、父 道長の権威を振りかざすところがあったため、藤原道長は子供達を、絶えず叱っていた、というわけでした。

藤原頼通の弟との確執

藤原頼通の弟は教通(のりみち)と言いました。

ずっと、教通は兄に従順でした。教通も父に従順だったから、兄弟は目上の人に逆らえない性格だったのでしょうか?

藤原頼通は、30歳になって、子供が数名できるようになりました。

相手は、隆姫ではありません。

藤原教通の後継者になったのは、藤原師実(もろざね)です。

関白職を、師実に渡したかったのですが、その関白職は藤原頼通の弟、教通が引き継いだのでした。

関白の後継は、「弟(次男)教通に継がせるように」という、父 道長の遺言がありました。

道長の遺言をスルーして、息子 師実に継がせようとしていたところ、ストップがかかります。

藤原頼通は、とにかく遺言に従い、弟に関白を譲りました。

教通は、なんとなく気まずく思ったのでしょうか?辞表を出してみたりして、兄に「自分はそんな気、なかったんだよ」というアピールをしていたのですが。

教通は、だんだんと、「天皇が決めたこと」というようになってきました。

そんな弟の裏表を見せられて、藤原頼通は弟を恨むようになってきました。

藤原頼道の死因

藤原頼通の死に関しては、あっさりとしか残っていません。

1072年に出家し、1074年2月に82歳で無くなりました。

「百練抄」に一言書かれているだけです。

関白職にいた人なのに、その死の記録は至って簡素です。

もはや天皇の外戚ではなくなったので、世間の注目度は減少していたのかもしれません。

それとも、弟に裏切られて失意のあまりに、亡くなったのでしょうか?

長生きの家系なのでしょう、姉の中宮 彰子(ちゅうぐう しょうし)は87歳、弟 教通(のりみち)は80歳でした。

藤原頼通が、建立した、宇治の平等院で亡くなり、宇治方面で火葬され宇治陵に葬られました。

藤原頼通といえば宇治平等院 鳳凰堂

藤原頼通の名前を知らなくても、頼通の作ったものの一つは、みなさんご存知でしょう。

ですが、「宇治の平等院」は誰でもご存知でしょう、特に十円玉の裏のデザインですから。

「宇治平等院 阿弥陀堂」(うじびょうどういん あみだどう)というのが、名称です。

鳳凰堂というのは、江戸時代から呼ばれるようになった名称です。

元々は藤原道長の別荘だった建物を改修して、寺院にしました。

阿弥陀堂には、仏師 定朝(じょうちょう)作の、阿弥陀如来像が安置されているから、阿弥陀堂、というのです。

作られた年は1052年、この年は仏教で言うと、釈迦の教えがだんだんと減衰し、世の中が乱れていく「末法」と呼ばれる年代が始まる年でした。

「末法」のせいでしょうか?

乱が起きる、など不穏な空気が流れ始める時代でした。

その世の中を、清めたい意味で、藤原頼通は、宇治に平等院を作ったのでしょうか?

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