藤原定子、美人で性格良し、一条天皇と仲が良く。清少納言が中心のサロン。中宮に。出家。最期には土葬を 

藤原定子は、一条天皇の中宮です。

藤原家一門の出身ですが、あまり幸せな人生を送った女性ではありません。

夫、一条天皇と相思相愛だったことだけは、良かったといえます。

美人で清少納言は絶賛していましたし、性格も可愛らしい。

ではなぜ、不運な人生を送ることになってしまったのか、そこを語ってみようと思います。

藤原定子、美人だった!

清少納言は「枕草子」に定子は大変美しい人だった、と書いています。

容貌の様子を記したものは、「枕草子」にも他の歴史書にもありませんが、藤原家の関白の娘だったこともあり、高貴で上品さが滲み出ていたのでしょう。

清少納言が初めて、藤原定子に出会った時、「こんなに美しい人がいるんだろうか」と思ったほどでした。

ではどう美しいのかというと、着物の端から覗く手の甲が美しい、と言っています。

当時の女性の着物といえば、十二単。

十二単は、たくさん着物を重ねているので、その女性がどのような身体付きをしているのか全くわかりません。

わずかに出ている身体の一部(顔以外で)といえば、手しかありません。

その着物からわずかに出ている手で疼くしさを感じてしまう、清少納言の感性もまた誠に豊かです。

藤原定子と清少納言が出会ったのは、藤原定子 17歳、清少納言 28歳。

28歳の女性が、17歳の娘を見て「美しい」と思うのならよっぽどの美人だったのでしょう、藤原定子は。

藤原定子の性格

藤原定子は、明るく朗らかな性格だったと言われています。

その証拠に、定子のいた 梅壺ではいつも笑い声が絶えませんでした。

そしてユーモアもあり、思いやりを持ち合わせた女性でした。

入内したばかりの時は、藤原定子はまだ幼い年代で、一条天皇も幼い年でしたので、二人でよく、一条天皇の乳母をからかうなどして遊んでいました。

清少納言が「枕草子」の中で、藤原定子の性格を表すエピソードがあります。

定子の部屋の庭先に雪が積もり、皆で雪山を作るのですが、その雪山がいつまで残るか、女房たちが賭けをしました。

いつまで雪山が残っているか・・・の日にちをかけたのですね。

今日でいう、桜開花予想日みたいなものです。

清少納言も賭けており、清少納言の予想が当たりそうになりました。

さて、清少納言が、予想した日、雪山はすっかりと消えて無くなっていました。

別に急に暖かくなったわけではありません。

実は、藤原定子が、夜のうちに庭師に命じて雪を完全に取り除かさせていたのです。

この理由には2説あります。

  1. 定子も賭けていて、そのXデイは清少納言の前日だった。だから定子は清少納言を出し抜きたくて、雪を処分させた。
  2. もう一つは、清少納言が、賭けに勝つと、得意がるから、懲らしめのため雪を始末した。

第1説の場合だと、藤原定子は清少納言をいじる、お茶目な人。

第2説だと、藤原定子は負けず嫌いな一面がある、と見れます。

意外な面は、藤原定子が出家した後でも、一条天皇と遭い、子供を産んだということですので、情勢気にとらわれず、自分が思った通りのことをやり遂げる人でもありました。

藤原定子と一条天皇との仲

藤原定子は一条天皇の元に輿入れをしました。

つまり結婚ですが、定子は13歳〜14歳、一条天皇はその少し下のの11歳でしたので、最初は形だけです。

藤原定子、一条天皇とは仲が良い

二人は、どちらも藤原氏を親に持ついとこ同士です。藤原定子と一条天皇との仲の良さを、清少納言はその著書「枕草子」の中に書いています。

一条天皇は、頭の良い女性が好きだったようです。

平安時代の歴史書、「栄花物語」でも一条天皇と、藤原定子の仲が良かったことを伝えています。

のちに長徳の変、と呼ばれる事件が起こり、定子の兄と弟が処罰を受けて左遷され、それが原因で、藤原定子が、出家してしまっても、天皇は定子を愛しく思い、定子を自分のそばに置きました。

その結果、出家した定子との間に子供が生まれたことに対しは批判を浴びました。

藤原定子の兄弟が左遷されても、やがて恩赦を受けて、都に戻ることができたのも、天皇の弟子への愛情がなせる業だったからです。

藤原定子、一条天皇の母 藤原詮子はどう見ていた?

藤原定子は、藤原詮子にとっては嫁です。それと同時に姪でもあります。

藤原定子の父 藤原道隆は 詮子の兄ですから。

姪が嫁にきたら、姪にも気を配って接すると思いますが、藤原詮子は「光る君へ」の中ではちょっと違っていましたね。

詮子は、藤原定子のことを、複雑な表情で見ていました。

一条天皇と仲良く遊ぶ定子に対し、はっきり嫉妬ということはできませんが、羨みと哀しみの混じった視線を、向けていました。

最初はまだ、一条天皇も定子も遊び事をしていただけなのですが。天皇と仲がいい、というのが面白くないようです。

詮子は自分と、夫の円融天皇とはあまり仲がよくなかったので、若い二人を見ると手放しには喜べない心情だったのでしょう。

もう一つ、詮子は、道隆があまり好きではなく、道長びいきだったので、藤原定子をあんまりバックアップしませんでした。

藤原定子と詮子の間には、冷ややかな空気が流れ、その空気が伝播して、二人の従者たちの諍いもあったようです。

「源氏物語」中の、六条御息所(光源氏の年上の恋人) と 葵(光源氏の性質) の車争いが想像できすワンシーンです。

藤原定子と清少納言は仲良し

若い公達がくる・・・となると、ますます若い娘たちの注目の的となり、彼女たちも、妃のもとに仕えにやってくることになり、サロンはどんどん栄えます。

女官、(こういうところに使える女性を、当時は女房と呼びました)たちを取りまとめるため、有力な教育者が必要となります。

藤原定子の、サロンで、中心役にスカウトされたのが、清少納言です。

「光る君へ」では、ききょう という名前でしたね。

清少納言は、生涯、藤原定子に誠実に仕えました。

清少納言は、藤原定子を「美しい人」と思っただけでなく、その教養の高さ、また漢文が読めることに驚き、尊敬を抱きました。

「香炉峰の雪」のエピソードに特に、藤原定子と清少納言の双方の教養の高さと、お互い一歩でも引けを取らない立場がよく書かれています。

次のようなエピソードでした。

ある雪の朝、定子は目を覚まして、女房たちに「香炉峰の雪はどうでしょうねえ?」と声をかけました。

香炉峰とは中国にある山で、白居易(白楽天)が漢詩に詠んでいます。

白居易の詩には「香炉峰の雪は簾をあげて、部屋の中から鑑賞する」という意味です。

女房たちは、よくわけがわからなくて、首を傾げていたのですが、清少納言だけは、定子の部屋の簾を巻き上げました。

それを見て、藤原定子は、「さすが清少納言だのう」と清少納言に向かって、にっこりと微笑んだ、というのです。

どちらも、白居易の漢詩をよく知り尽くしている、という証明の話です。

主従の関係を超えた、文学仲間という間柄に見えますね。

のちに、藤原定子は、24歳で亡くなったとき、清少納言は非常に気落ちしてしまします。

それだけ絆が強かった、二人だったのでしょう。

藤原定子のサロン

9世紀後半ごろから、宮廷では、和歌や、箏・笛で奏でる音楽と言った文化的楽しみが行われるようにになります。

ですから、妃たちを中心に、仕える女官たちも、和歌が詠めること、音楽演奏は必ず身につける必要がある教養だったのです。

藤原定子の母は、高階貴子(たかしなたかこ、または きこ)といい、宮廷で務めた経験があります。

平安時代のキャリアウーマン、ですね。

貴子は、宮中でなじめるのは教養、と思い、娘 藤原定子に、和歌や文学、音楽の演奏を仕込んだおかげで、定子は知的な女性に育ちました。

  • 藤原定子は、宮中に嫁として入ると、定子は自分の教養を分かち合う人たちが欲しかった。
  • そして自分の知識のことを天皇にアピールしたかった。

という理由で、宮中にサロンができ始めました。もちろん、「サロン」なんていう名前ではありませんが・・・

天皇の気を引くため・・・と考えたのは、定子本人ではなくて、親です。

藤原定子のもとには、たくさんの才女たちが集まってきました。

定子の部屋・・・そこは登華殿、またの名を梅壺と言いました・・・そこには知的語らいを求めて、有名貴族の子息もやってくるようになりました。

藤原定子、中宮に出世!

藤原定子のため、父は新たな法律を作る

藤原定子が、一条天皇のもとに上がったときは 妃でしたが、すぐに女御(にょうご)と呼ばれるようになりました。

女御とは、天皇の妃の中で、身分が高い女性です。女御になるには、父親の身分が高くないといけません。

女御という地位の妃は何人もいましたが、中宮になれる妃は一人だけです。

当時の法律は律令と言っており、律令には天皇家には「三后」という后のつく位は3人しか置いてはいけない、ということでした。

それは 大皇太后、皇太后、中宮でした。皇后という名称はこの時にはまだ使われていません。

大皇太后(たいこうたいごう)、このくらいを持つ者は3代前の冷泉天皇の妃だった 昌子内親王。

皇太后は、一条天皇の母 藤原詮子。

中宮は 円融天皇の妃 遵子 でした。

三つの地位が埋まっているので、ここで新たな中宮を立てるには誰かが亡くなるか、ですが・・・

990年、定子の父 藤原道隆が無理やり主張して、これまでの中宮の地位を、皇后とし、あいた中宮の地位を、藤原定子に与えるよう、律令を捻じ曲げたのです。

ついに「四后」になってしまいました。

藤原道隆は、関白になっていましたから、権力に物を言わせて、法律を変えたことになります。

道隆は自分の権威をもっと上げたいために、制度を曲げたのです、

藤原定子、中宮 は皆が反対

これで藤原道隆は、周りから総スカン食ってしまいました。

同調してくれる人がいなかったのですね。

弟の藤原道長でさえも、中宮の立后式を欠席しました。

欠席の理由の一つは、道隆、道長たちの父、藤原兼家の喪中(990年没)のため欠席しました。

道隆は、弟の道長を 中宮 定子の中宮大夫(ちゅうぐうだいぶ)という補佐の役職に任命しようとしていました。

が道長が欠席したことは、父の喪中を表向きの理由として、四后体制をよくない、と思っていたからです。

反対があっても、道隆は一条天皇を制度を決めさせて、これ以降は、藤原定子以外の入内を許さない、としました。

これより日がそれほど経たないうちに、藤原道隆は亡くなってしまったので、他の姫の入内はない、という取り決めはなくなり、新しく妃が入ってくるようになりました。

道隆は自分の娘によかれ、そして自分の一家によかれと思って、法律を変えたことが、かえって、藤原定子の身の上を不幸にした、といえます。

藤原定子、悲運が襲う!

藤原定子に降りかかる、以下の二つの事件で、藤原定子は完全に、後ろ盾を失い、孤立無縁状態に陥ってしまいました。

それは藤原定子自身のせいではないのですけれでも、有力な親がいないことは、肉親を失った辛さだけでなく、宮中で肩身の狭い思いをすることでした。

藤原定子、悲劇その1 長徳の変

天皇の妃になったというのに、何が悲運だ?と言いたいところですが・・・

あるときを期に、藤原定子の運命は下がっていったのです。

父、藤原道隆、中関白と呼ばれ、内大臣にも任命され、上昇気流に乗っていました。

道隆の父は、藤原兼家。こちらは藤原家の権力を作り上げた人物です。

一条天皇とだって、その仲は、ラブラブと言っていいほど。

このままうまくいって、男子が生まれれば一族は、両手をあげて喜ぶところです。

しかし、父、藤原道隆が 995年に亡くなったことから不運が始まりました。藤原定子、18歳の時。

ここで一番大事な後ろ盾を無くしました。

藤原定子、悲劇その2

翌 996年 今度は兄に問題が起きました。

兄が好きになって通い始めた女性の家にもう一人女性が同居していたのですが、そちらの女性にも通ってきていた男性がいたのです。

その男性は、かつては花山天皇と言われた人、その頃は花山法王といっていました。

同居している女性は二人とも、花山天皇が寵愛した妃 忯子(しし。またはよしこ)の妹でした。

藤原定子の兄、伊周(これちか)は、自分の思っている女性のところに他の男性が・・・・と勘違い位して、その男性・・・・花山院を襲撃したのです。

その襲撃とは、花山法王の衣の袖を矢で射抜いてしましました。

また、別の歴史書で見ると、さらに法王と一緒にいた、家臣である二人の童子を殺して、その首を持ち去った、とまで言われています。

子供の首をとったかまではわかりませんが、かつて天皇だった法王に弓を引いたとは、反逆罪問われるほどの事件でした。

これが、長徳の変の始まりです。

花山法王の方は、出家した身でありながら、女性のもとに通っていた、ということを知られるのは恥ずかしかったので、それほど騒ぎ立てませんでした。

さらに、伊周は、藤原道長とその姉、東三条院(藤原詮子)を呪詛した疑いがかけられました。

呪詛の真偽はどうでも良かったのです、藤原道長は、二人の甥を左遷するきっかけを手に入れたのです。。

道長にとって、二人は単なる甥ではなく、もはや政敵同士になっていました。

藤原定子の出家

藤原定子、出家の理由

藤原定子の行動が、直情的に見える?

藤原定子は、長徳の変 のあと、出家します。

長徳の変の頃、藤原定子は懐妊しており、実家に宿下りしていました。

そこに逃げ込んできたのが、法王に弓を引いた、兄 伊周 と弟 隆家(たかいえ)兄弟。

二人を探しに、検非違使がやってきました。

二人が捕まったところを見て自らハサミを手にし、髪をバッサリと切ってしまいました。

つまりこれが出家の印。

自分の恋人の妹に通ってくる人を、間違えて射かける兄弟、突然 髪を切って出家してしまう定子・・どうも藤原道隆の一家は直情的なのでしょうか?

定子は懐妊していた身体だから、急に出家すると困ることが多いはずでしたが・・・

ここを見ると、直情的とも言えます。

平安貴族と、検非違使たち。藤原定子も恐れた?

平安時代の事情を考えてみると、検非違使とは非常に恐ろしいものでした。

現代の警察にあたる役目でしたが、長官はともかくとして、下級役人は、そんなに身分の高い人で張りませんでした。

後には、武士に進化していくのですが、荒くれ者の集団のようなところがありました。

その威力には、貴族たちも震え上がるほどでした。

定子も非常に恐怖を覚えたことでしょう。

藤原定子もその兄、伊周ももうすっかり犯罪者一家の扱いです。

そんなかでは、全員検非違使たちからどんな暴力を受けるか・・・・想像もつきませんでした。

それから逃れるただ一つの道、それが出家でした。

出家したものに対しては、乱暴に扱ってはいけない・・・これが平安時代に根付いていた思想です。

藤原定子のとっさの行動は、相手に手出しをさせないための、手段でした。

この見方をすると、藤原定子直情的ではなく、むしろ冷静な判断をした、ことになります。

 

いずれにせよ、母を始め周りはびっくりする以外ありませんでしたけれどね。

もっとよく世間を見れば、長徳の変のこと、藤原道隆一家の不運に同情的な意見が多かった、と「枕草子」には記述があります。

藤原定子、出家した後までも・・・・

その後、藤原定子は、女子を産みます。

この出産の話を聞いた人々はあまり良いことではない、と非難しましたが、すでに懐妊していての出産なので、これは仕方がないでしょう。

むしろ、産まないことにする方が、人の道に外れていると思うのですが。

藤原定子は出家してしまっているので、もはや、元の梅壺に戻ることはできません。

その代わりに与えられた住居は、中宮職の上級役人の泊まる場所でした。

大臣が使っていたこともあって、それなりに、住めるような作りではあったのですが、暗い、雰囲気があまり良くない、と気味悪く感じられる建物でした。

「母屋に鬼が出る」なんて噂されたこともあります。

案外、噂を聞いた、紫式部がインスピレーションを得て「夕顔」の章を書いたのかもしれませんね。

そんな鬼が出る噂のところに、定子をすまわせた一条天皇は、中宮定子を近くにおきたかったから、と言います。

そして、なんとなんと、藤原定子はここで男子 敦康(あつやす)親王を出産します。

その前の女の子の時は、出家する前に懐妊していたから仕方がありませんが、今度の出産は、出家してからの子。

そしてもう一人、女の子を出産しました。

出家後の懐妊、出産には、非難が集まりました。

天皇が出家した後で、子供ができる、というのは平安時代にはよくあって、別に非難の対象になりませんでしたが、出家した妃が子供を持つと非難されるのは、不公平ですね。

藤原定子の最期

1000年12月15日、藤原定子は、最後の出産を迎えていました。

生まれたのは、媄子(びし)、父親は一条天皇。

しかし、藤原定子は、そのまま帰らぬ人となってしまいました。

産後の安全を祈願している最中、定子の様子があまりにも静かだったので、兄の伊周が明かりで照らしてよく見ると、亡くなっていました。

日本では明治時代までは、お産で命を落とす人は結構多買ったです。

それほど、お産というのは命懸けの出来事だったのです。

藤原定子、土葬を希望 なぜ

平安時代の貴人が死亡したときには火葬になることが多く、特に、妃だった人は火葬がほとんどです。

それは、天皇は、祭祀を司る国のかしらだったので、夫といえども死の穢れに触れてはいけない存在だったからです。

平安時代の人は本当に穢れを、忌み嫌っていました。

穢れに近寄ってもいけないのですが、天皇だって愛する妻の最後は見送りたいと、思います。

火葬にすれば、火葬の煙が立ち上る様子を遠くから眺めることもできます。

それに、煙の特質は上昇しますので、亡くなった人の魂が浄化され天に召されるように見えることで、亡くなった人物の家族、親しい人は心が休まります。

そこに火葬にする意味がありました。

ところが、藤原定子はあえて、火葬を望まなかった。

理由を書いたものはありませんが、藤原定子の辞世の和歌に、その理由と思われる思いが秘められています。

「夜もすがら 契りしことを忘れずは 恋ひむ涙の色ぞ ゆかしき」

(夜通しかけてお約束したことを、お忘れでなければ 私のことを恋しく思ってくださるでしょう、その涙の色を知りたく思います)

「知る人もなき 分かれ道に今はとて 心細くも急ぎ立つかな」

(誰も知る人がない現世からの分かれ道に立ち、今はもうこれで終わりと、心細い気持ちでこの世から急ぎ旅立ちます)

「煙とも雲ともならぬ身なりとも 草葉の露をそれと眺めよ」

(煙にも雲にもならない私も身ですが、草葉に置く露を、私と思って眺めて忍んでください)

以上三つの和歌は、定子が寝所としていた、部屋の几帳台に結び付けられていました。

3番目の歌「煙とも・・・」の和歌は、辞世の句と呼ばれる、自分の死出のために作る和歌ですが、「煙入りにもならない、雲にもならない」ということは火葬にするな、という意味です。

「草葉の露・・・」の意味は、土葬だから、地面に生える草に落ちる露を見てください、ここに私はいつもいます、という意味を込めました。

「千の風になって、あの大きな空を吹き渡っています」という現代の歌に心情がちょっと似てますね。

夫である、一条天皇にはもちろん、自分の子供たちも見守っていきたい、という藤原定子の、執念と言っていい想い、が感じられます。

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