藤原詮子、円融天皇との仲、何歳で入内?父と道長の力に。性格は?息子はマザコン?東三条院となり 吉田羊の活躍 最期は

藤原詮子(ふじわらのせんし)・・・・

2024年 NHK大河ドラマ「光る君へ」に登場する、藤原家出身の天皇の妃です。

吉田羊さんがキャスティングされています。

現在は、父 兼家(かねいえ)のいうことを不承不承ながらも聞いている姫ですが、何かこれからありそうです。

一体、どのような女性だったのでしょうか?

女性の地位は、低く見られていたのではないか?と思われる平安時代ですが、なかなかどうして、はっきり物を言う、力強く生きている女性です。

弟は、平安時代の大物政治家 藤原道長・・・

姉弟仲は大変良かったと言います。

藤原詮子がどうやって藤原氏を支えていったか・・・その手腕を見てみましょう。

藤原詮子と円融天皇の仲

藤原詮子は、のちに天皇となる親王を産んだから、さぞかし仲が良く・・・と思うかもしれませんが、あまり仲は良くない、と言われています。

どうしてかというと、これには、詮子の父 藤原兼家とその兄兼通(かねみち)の対立が関わっていたからです。

最初は 兄 兼通の方が関白でした。

兼通は、すでに自分の娘を入内させていました。その娘は円融天皇より12歳も年上でしたが。

入内とは天皇の妃として、嫁にやることです。

兼通が病気になった時、弟 兼家は兄を心配するどころか、朝廷にいて 自分(兼家)を次の関白にしてくれるよう運動していました。

それを聞きつけた、兼通は病をおして朝廷まで行って、自分の息子 頼忠(よりただ)を関白にさせると決めさせてから、亡くなりました。

兄が亡くなった翌年、兼家は、朝廷で力を持とうと娘 詮子を、一方の頼忠も自分の娘をそれぞれ入内させています。

円融天皇の子供を産んだのは、詮子でした。

ここで、藤原兼家は、詮子ともども子供 懐仁親王(やすひとしんのう)を自分の家に連れ帰って、子供を天皇に合わせないようにしました。

これは、関白の地位を兄の息子に与えてしまったことへの仕返し、でした。

ここで天皇も、仕返しを・・・

子供を産んでいない、頼忠の娘 遵子(じゅんし)を中宮にしてしまいます。

中宮というのは、天皇の妃の最高位なのです。中宮は皇后の地位に匹敵します。

この時代、皇后というくらいは滅多に与えられませんでした。

この事件だけをみると、円融天皇と詮子は仲が悪かったように見えますが、お互い嫌いあってはいません。

むしろ、親族の争いに巻き込まれてしまった詮子、という感じです。

しかし、詮子さん、父と夫(天皇)の仲裁が上手にできなかったのですね。

この時代は、まだ力不足、だったのでしょうか?

円融天皇が退位するときに、次期天皇に決まっていた弟である花山天皇に、花山天皇の次には、円融天皇の息子、懐仁親王(のちの一条天皇)へと継がれるよう指名しました。

ですから実際のところ、懐仁親王の母 藤原詮子と円融天皇は特に仲が悪かった、と言うわけではなさそうです。

というより、円融天皇は藤原詮子の後ろにある、藤原家というものに不満を抱いていた、その結果として詮子に辛く当たってしまった、ということがあります。

藤原詮子、何歳で入内?

入内とは、皇室にお嫁に行くということですが、皇族なら誰でもいいというわけでなく、天皇、あるいは皇太子(東宮と言います)に嫁入りすることを指します。

藤原詮子は、962年に生まれたということで、宮中に入内したのは978年、つまり16歳でした。

演じている女優さんの年齢が、16歳に見えるかどうかは・・・ですが、それは問題ではありません。

当時の、嫁入りの年齢からすると、特に早い方ではありません。

待遇は「女御」(にょうご)です。

藤原兼家の家柄が高いので、こういう家の娘は、だいたい女御として入内します。

2年後、藤原詮子は男子「懐仁親王」(やすひとしんのう)を産みます。後の一条天皇です。

藤原詮子の父

藤原詮子の父は、藤原兼家です。

母も同じ兄妹が、道隆(みちたか)、道兼(みちかね)、道長(みちなが)です。全員名前の最初に「道」がつきます。

藤原兼家は娘、詮子を大切にしています。

しかし、父が娘に注ぐ愛情以外に、天皇の子供、それも親王(男子)を産んだ、と言うことが、大切にする大きな理由になっています。

円融天皇が、詮子とその子供(懐仁親王)を大切にしようとしていても、どうもその間に入ってくる人物が、父 藤原兼家でした。

藤原兼家は、懐仁親王に一刻も早く、天皇位についてほしかったのです。

ですが、「光る君へ」にあるように、さすがに円融天皇に毒を盛ろうなんてことは実際にしませんでした。番組のための創作です。

確かに、国を左右する力を手にしたくてたまらなかったことは事実です。

自分が出世する大切な、持ち駒が、藤原詮子、そして懐仁親王でした。

普通に父が娘に対する愛情を示す資料が出てこないのが残念ですが、それはあったと信じたいです。

娘 藤原詮子の方も、ひょっとしたら父の野心を利用したのかもしれません。

平安時代、女性が関白になるという政治の表舞台に立つことはありません、というよりできませんでした。

しかし女だからと言って、政権を取る夢を持っていけない、なんてことはありません。

実際に関白になれないのなら、他の道を探せばいいのです。

父の野心に乗れば・・・と考えたかもしれません。

天皇の妃になり、将来の天皇となる皇子を産む。

そして、皇太后で・・・そしてさらに次へと・・・自分の意見を堂々と通せる地位につくこと・・

その夢を実現させる、一つのキーとして、父 兼家を大切にしていました。

どちらも、持ちつ持たれつの関係だったわけです。

藤原詮子と道長

藤原詮子は藤原道長の姉です。

同じ母から生まれた兄弟は4人で、上から、道隆、道兼、詮子、道長の順です。

道兼と詮子の差は1歳、詮子と道長の差は4歳で、詮子は道兼との方が年が近いですが、道長の方と特に仲が良いです。

なぜ仲が良かったか・・・と言いましても、その理由はよくわかりませんが、兄弟や姉妹で数がたくさんいると、時として、特にうまが合う相手、というのはいるものです。

詮子は、気の強い性格、一方 道長の子供時代は、物おじせず、はっきりとモノを言う子供でした。

「大鏡」(おおかがみ)にあるエピソードでは、父 兼家他の家の若君をほめたところ、道隆、道兼の二人の兄は、落ち込んだのですが、道長だけは、違いました。

父は「うちの息子たちは、その若君の影さえ踏めぬだろう」と嘆いたのですが、道長は「影などと言わず、ツラを踏みつける」と豪語しました。

実際に、ツラを踏むわけではありませんが、その心意気が他の兄弟とは違う、と言う面を姉 詮子は見抜いたのでしょう。

道長が、20歳になった頃でも、他の仲間を連れて肝試しを試みるなど、ちょっと誰もが思い付かないことをやっていました。

その点を、詮子は、面白い、この弟はきっと何かをやってのける・・・と将来性を感じたようです。

詮子は洞察力がある女性だったのですね。

この弟に、ぜひ政治を取らせたい、と思うようになったのでした。

藤原詮子の息子、一条天皇に、弟 道長の出世を願い出ます。

なんと、一条天皇の寝室にまで押しかけて泣き落として、弟に地位を授けるよう説得したほどです。

もちろん、当時のご意見番(?)藤原実資の「小右記」にその様子は好ましくない、と書かれてしまいます。

藤原詮子の性格

藤原詮子の性格として、知られているのは、強い意志と決断力持っていた、ということです。

その性格は、詮子のしてきたことから、知られてます。

ただし、これまで「光る君へ」を見たところでは、自分の本意ではないが、父 の言いつけに従った・・・という従順な面を見せています。

多分、これですまないな・・・と思われてきます。

これからの、藤原詮子の活躍を調べると、戦略的な思考の持ち主、しかも戦略を行動に移す決断力を持ち合わせた人物、と言われています。

つまり、かなり気が強い、と言っていいでしょう。

気の強い、嫌味なことを言う性格を表しているエピソードを紹介しましょう。

藤原詮子の従兄弟の娘、「遵子」が982年、中宮の位に上がったとき、遵子の弟藤原公任(きんとう)が「こちらの姫君はいつ、皇后におなりになるのでしょうか?」と言いました。

詮子もその父 兼通もそれを聞いてとても悔しがりました。

のちに 986年 藤原詮子が皇太后になったときに、公任が詮子のもとに挨拶に行った時に「妊娠できない、姉君はどちらにいらっしゃるのですか?」と当てこすりを言いました。

4年越しの報復ですね。

執念深さも持っていたようです。

藤原詮子の活躍は「小右記」に描かれています。

「小右記」には特に、皇太后となってからの、権力を振るう様子を「国母専朝事」と記され、よくない、と書かれています。

平安時代は、皇室に嫁に行った(上級貴族の)女性は、男子を産みその子を天皇をすることで、実家へ権力をもたらす、という役割がありました。

藤原詮子の場合は、その上をいく働きぶりでした。

藤原道長が、この時代政治家として大成功したのも、姉の藤原詮子がいたからこそなのです。

紫式部を、宮中入った道長の娘、彰子(しょうし)の女官にしたのも、実は藤原詮子の目利きがあったからなのでした。

紫式部を、 中宮 彰子(しょうし)の侍女(女房という)に抜擢したのも、藤原詮子の力による物でした。

藤原詮子の息子とは

藤原詮子の息子は、懐仁親王といい、後に 一条天皇となります。

藤原詮子は、懐仁親王を溺愛します。

なんといっても、懐仁親王が天皇になるかどうかによって、藤原家、特に兼家の家柄が政治上で頂点に立てるかの命運が決まるので、詮子は実家を立てるためにも大切にします。

成人してからも何かと世話を焼きまくり、過保護なお母さん?

と言うよりも、弟の道長可愛さに、道長を関白の地位につけてやりたくて、四六時中、一条天皇に懇願していた、と言う感じです。

一条天皇も、母親の襲撃にちょっとうんざりしていたようです。

マザコンの息子にはならないように思えます。

藤原詮子、東三条院に

藤原詮子は、夫であった天皇 円融天皇が引退して上皇になると、皇太后(こうたいごう)となりました。

円融天皇が 991年に亡くなると、妻は出家することとなります。

藤原詮子も出家し、呼び名は「東三条院」となります。

東三条院という名前は、父 藤原兼家の家が、平安京左京3条にあり、その邸宅は 東三条 と呼ばれていたところから来ました。

現代の京都の住所で言うと、中京区押小路通釜座西北角あたりで、内裏(皇居)近くです。

兼家の家、ということは、藤原詮子の実家であるということです。

忠、藤原詮子が、東三条院になってからは、その実家には住んでいないません。

東三条院の称号は、女院(にょいん)です。

女院の地位は非常に高いです。

平安時代では、天皇を引退した上皇の方が地位が上で、上皇が出家したら、法王と言う地位になり。上皇よりも高い地位になります。

女性の場合は、上皇と皇太后がおなじくらいの地位で、皇太后が出家したら女院になるので、法王との位に相当します。

同時に法王がいなかったら、というか死んでいたら、女院は日本で最高の地位に当たる、と言うわけです。

貴族とはいえ、皇族出身でない人物が、日本の頂点に立つのですから、藤原家の勢力はいかに大きいか、と言うことになります。

藤原詮子役 吉田羊

2024年NHK大河ドラマ「光る君へ」では、藤原詮子役に吉田羊さんがチャスティングされてます。

2024年1月現在では、藤原詮子は、父 兼通に押され気味です。

藤原兼通の一族が、円融天皇にないがしろにされていると感じて、娘の詮子を子供ともども宿さがりさせようとする、父 兼通に逆らえない雰囲気です。

ここを見ると、藤原詮子さんは、気弱な方だったのかしら・・・と思われるのですが、どうも吉田羊さんの雰囲気に似合っていない。

絶対、後になって何かある、そう思わせるキャスティングです。

吉田羊さんから見た、藤原詮子の像は次のようです。

「弟想いで情が深く、相手の長所や能力を見抜き、伸ばせる人。情勢を読む力にも優れ、さしずめ、平安時代の『出来る女』という印象です」

「彼女がいたって普通の感覚を持った女性だったのかもと想像が膨らみました。同時に視聴者の皆様には、遠い平安時代ながら、現代を生きる私たちと何ら変わりない人々の物語として、身近に感じてもいただけるのではないでしょうか」

まさに吉田羊さんのイメージにピッタリあった役柄だと思います。

これには視聴者の皆さんも意義を唱えることはないでしょう。

藤原詮子の最期

藤原詮子は、1001年10月、40歳で亡くなります。

女院として権力がある偉い人物だったので、そういう人の死は「崩御」(ほうぎょ)と言います。

10月に40歳のお祝いが行われ、その年の12月のことでした。

政府の高官であった 藤原行成の邸宅で、崩御となりました。

なぜ藤原行成の屋敷かというと、自分の土地に世尊寺という寺院を創設して、藤原行成が寺院の責任者を務めていたからです。

女院は一応、出家した身ですから寺にいることは特に珍しいことではありません。

藤原詮子の葬儀には、道長が姉の遺骨を捧げ持った、と「大鏡」と「栄花物語」にはありますが、それは創作で、実際に遺骨をもったのは、弟 道兼の子 兼隆(かねたか)でした。

葬儀以外では、法要は全て道長が行った、ということが道長の日記「御堂関白日記」(みどうかんぱくにっき)に記されています。

父母たちと同じように、藤原家の大切な法要として姉の法要も行っていました。

道長は、姉に感謝し、深い愛情を抱いていたということが表れています。

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