宝塚で、まもなく「ベルサイユのばら」〜フェルゼン編〜が始まります。
フェルゼンが、マリー・アントワネットをどれだけ想っていたのでしょうか?
その事実を、残された手紙などから想像してみましょう。
ものすごいイケメンぶりが伝えられていますが、どれほどいい男だったか、想像の手がかりが見つかりそうです。
最期は聞いているだけで痛々しいものでした。
フェルゼンの生涯を、調べてみました。
フェルゼン、アントワネットの恋人だった?!
フェルゼンは、アントワネット、つまフランス王妃マリー・アントワネットの恋人だった、ということが言われています。
ではこれは本当でしょうか?
フェルゼンとアントワネットは親密な仲
当時から残されている、女官や侍従の日記などかから、フェルゼンとアントワネットは親密な仲だった、ということが書かれています。
ですが、恋人としての男女の仲についてですが、
そうした時間があった、とはどこにも描かれていません。
女官や侍従たちでも、さすがに、そこまでは踏み入って書いていません。
これも忖度というものでしょうか?
状況から想像するだけしかないようです。
18世紀という、時代は、国王も貴族たちも普通に愛人をいうものを持っていました。
歴代のフランス国王は、正式に愛妾と呼ばれる恋人を、一人持ってもよいと、法律で認められていました。
王妃の場合は、子供ができる可能性もあるから、愛人を持つことはできませんでした。
しかし建前と本音は違っていました。
お気に入りの男性側近を置いている貴婦人は当時たくさんいました。
アントワネットには、フェルゼンが恋人として、もうすでに当時では、知れ渡っています。
自然の流れで考えると、フェルゼンはアントワネットと男女の関係があった、と見えます。
フェルゼンとアントワネットの間が燃え上がったわけ
マリー・アントワネットは道徳観念が強い人です。
国のお金をじゃんじゃん使うマリー・アントワネットが?と意外ですが、
母親 オーストリア女帝のマリア・テレジアの教えが身に染み付いていたのでしょうか?
恋愛関係においては特にそうでした、愛妾などという制度も快く思っていません。
それに、王妃という地位を、大事に思っています。
その割には、王妃という身分を忘れたい、とは言って、楽しみを追いかけていましたが。
王妃という意識は、きちんと守っていました。
だから、マリー・アントワネットとフェルゼンはプラトニックな関係で終わったのではないかと、私は推測しています。
最初からプラトニックだったからこそ、フェルゼンの恋はより燃え上がったのか?と自分は考えています。
フェルゼン・アントワネットの関係を、ツヴァイクの伝記から見ると
マリーアントワネットを伝記として書いたのが、ポーランドの作家シュテファン・ツヴァイクです。
「ベルサイユのばら」の作者、池田理代子さんも、ツヴァイクの小説を参考にしたところがある、とインタビュー記事などでいっておられました。
ツヴァイクは、伝記といっても小説風に書いていたから、フェルゼンとアントワネットの恋愛を、もっと詳しく書くこともできたのですが、それをやっていません。
フランス革命が起こる少し前には、アントワネットに関するスキャンダル本がたくさんかかれ、その中では、フェルゼンと、しっかり関係があることを書かれています。
それでも、現代では、そのあたりの関係をはっきりと示したものがないので、プラトニック説が有力なのでしょう。
池田理代子さんは、実際に肉体関係は持たなかったのでは?と推測しておられました。
漫画「ベルばら」の中にフェルゼンとアントワネットが結ばれたシーンを描いたのは、ファンのためだった、とか。
フェルゼンは実在!
「ベルサイユのばら」で、フランス王妃マリー・アントワネットの秘密の恋人、フェルゼンは、実在の人物です。
スウェーデンの貴族 ハンス・アクセル・フォン・フェルゼン、位は伯爵。
1755〜1810。55歳の人生でした。
フェルゼンはスウェーデン貴族
フェルゼンは、生まれた国、スウェーデンで国王グスタフ3世の家臣で、国王から大事にされていました。
フェルゼンの父親は、フランスが大好きな貴族で、フェルゼン家の公用語(?)はフランス語であるほどでした。
生まれながら美形で、背が高く物腰も洗練されていたフェルゼンは、ヨーロッパ中を3年かけて周り勉強し、ついに1773年、パリで社交界に登場します。
デビューというのでしょうか。男性にもデビューという言葉が当てはまるのなら、ですが。
そこで、美形なフェルゼンはたちまちのうちに、女性たちに大人気となりました。
フランスの仮面舞踏会で、フランス王妃(この時はまだ王太子妃)、マリー・アントワネットに出会い、そこからロマンスの始まりです。
フェルゼンは密命を受けたスパイだった?
もっとも、マリー・アントワネットと親しくなったのは、グスタフ3世からの命令もあったということです。
つまり、スェーデンはフランスの動向を知りたかった。
これはスェーデンに限ったことではありません。
そもそもマリー・アントワネットがフランスに嫁にやってきたのも、二つの国の友好のためと、そして、お互いの国の内情を探るためでもあったからです。
ところが、フェルゼンは、スパイ行為に励むより、マリー・アントワネットに夢中になってしまいました。
マリー・アントワネットにスキャンダル事件が起こる前に、スウェーデンに帰国しました。
その後はアメリカの独立戦争参加となるのですが、戦争終了後、フランスに戻っったところあたりから、フェルゼンはマリー・アントワネットの恋人として知られてくるようになります。
フェルゼンはイケメン
マリー・アントワネットがずっと惚れ込んでいた相手で、当時、貴婦人たちに人気があったから、イケメンだと、思うのですが。
残されている肖像画からみると、あんまりイケメンには見えないのです。
私の感覚がおかしいのか、それとも18世紀(マリー・アントワネット時代)の美的感覚と現代の感覚が違っていたのか、なのでしょうが。
マリー・アントワネット関連の伝記を読むと、「当時女性たちを虜にした…」ということが書かれているでの、それならイケメンだったということです。
当時のフェルゼンの容姿を描いたものによると、背は高く、体格もがっしりとしていました、
何よりも人々を惹きつけたのは、その身のこなしの優雅さです。
これはまさにロココ時代の理想の美だったのです。
フェルゼンの、イケメンぶりは年とともに衰えてきました。
それは単に加齢のせいだけではなく、最愛の女性、マリー・アントワネットがいなくなったことへの怒りと憎しみだったようです。
その憎しみは民衆に向けられていました。
さらに歳とともに気難しさも顔に表れてきました。
しかし、その優美な身のこなし、だけは残っていた、当時のフェルゼン家を書いた、記録書などにあります。
フェルゼンはプレイボーイだった?
フェルゼンの相手は、マリー・アントワネットだけではない、ということでした。
マリー・アントワネットと公認の仲になるわけにいかないから、身代わりの女性ではありませんが、カムフラージュだったかもしれません。
あくまでも貴族として恋人を持っていました。
しかし、複数の愛人がいた、という話も反フェルゼン派の人たちが、フェルゼンを貶めるためにでっちあげた話、という説もあります。
国王一家の亡命事件、ヴェレンヌ逃走にはフェルゼンの愛人が、こっそり手助けをした、という話もあります。
その時、フェルゼンはフランス王家一家が乗る馬車を特注しました。
フェルゼンが手配したのですが、実際に注文したのが、フェルゼンの恋人だった、というのです。
馬車の注文には多額の費用がかかったのですが、その費用もその女性に借りたということです。
自分の、愛する人を乗せるのに、他の恋人に作らせる、という神経が、私にはわかりません。
だからこそ、その女性は本当は恋人ではなかったのでは?と私は考えています。
プチトリアノンのフェルゼン
プチトリアノンは、マリー・アントワネットが、窮屈な宮廷から離れて自由に過ごせる空間として、整えて、過ごした宮殿です。
プリトリアノンには、マリー・アントワネットのお気に入りしか呼ばれませんでした。
その一人がフェルゼンです。
というより、フェルゼンと、プチトリアノンで、一緒の時を過ごしました。
プチトリアノンには、いかにも、恋人たちの過ごす場所、という名前のところがあります。
それが「愛の神殿」と呼ばれるあずまやです。
あずまやにはキューピッドの像が置かれています。
キューピッド像は、ブーシャルドンがマリー・アントワネットからの注文を受け、1778年に完成しました。
本物は、ルーブル美術館にあり、プリトリアノンにあるのはレプリカです。
しかし、ルーブルにあるものと、プチトリアノンのレプリカでは、キューピッドの顔が違うのです。
レプリカを作らせたのが、マリー・アントワネット本人というのです。
プチトリアノンのキューピッドは、フェルゼンの顔を写したかもしれない、という言い伝えがあります。
これは、中野京子さんが著書「美術品でたどる マリー・アントワネットの生涯」のなかで書いています。
(中野京子さんは作家で、ドイツ文学者でもあり、「怖い絵」の著者で知られています)
もし、この言い伝えが本当なら、フェルゼンは非常に美形、ということになります。
これまでに存在するフェルゼンの肖像画が、残念ものばかりなので、キューピッドがフェルゼンを写したものであったら、うれしいな、と私は思っています。
フェルゼンの最期
フェルゼンの最期は非常に衝撃的です。なにしろ、撲殺(殴り殺される)されたのです。
時のスウェーデン王は、グスタフ3世。
フェルゼンへの暴行、死にいたる
1810年6月20日、グスタフ3世の皇太子の葬儀が行われ、葬儀の責任者が、フェルゼン伯爵でした。
フェルゼンはその時、脅迫状を受け取っており、親しい人たちはフェルゼンが行くのを止めましたが、フェルゼンは、聞き入れませんでした。
6頭引きの馬車に乗って、進むフェルゼンの乗る馬車に、突如石が投げられました。
それが、攻撃の合図となり、石が次々投げられ、フェルゼンは、場所からひきずり出されました。
逃げ回るフェルゼンに、殴る蹴るの暴行が加えれます。
衣装は破り取られ、裸体とされたフェルゼンにさらに攻撃が加えられ、肋骨をおられ、頭蓋骨は潰され、フェルゼンが死ぬまで殴られ続けられました。
そのボロボロになった死骸は、道脇の側溝に捨てられました。
フェルゼン、殺害の始末
いくら民衆がフェルゼンを嫌い、だといっても、フェルゼンを私刑にして良いわけがありません。
なにしろ、裁判もしないで、勝手に殺してしまったことになります。
要するに殺人ですね。
スウェーデン当局は、フェルゼンの殺害に加わった人たちを、罰しなければなりません。
逮捕された人々は、約700人。ものすごい人数がフェルゼン殺害に参加したものです。
700人もいたのに、実際に有罪になったのはたったの二人!無期懲役の判決を受けました。
フェルゼンに実際に殺したのは、オットー・ヨハンという人物しか名前が上がっていません。
こうまで有罪判決を受けた人の数が少ない、ということは、司法までフェルゼンを嫌っていたのか?
それとも、群集心理を裁く手段がなかったのかどちらかでしょうか?
私としてはもう少し、多くの人が暴行罪とされてもいいと思います
マリー・アントワネットとフェルゼンの手紙
1791年から1792年まで、フェルゼンとマリー・アントワネットとの間には手紙がやりとりがされました。
マリー・はアントワネット、この頃、逃亡(ヴァレンヌ逃亡事件)に失敗して、逮捕され、厳しい監視下に置かれていました。
しかし、その監視の目を逃れて、マリー・アントワネットはフェルゼンに15通の手紙を送りました。
フェルゼンはその手紙を書き写しました。
18世紀頃は、記録として自分に届いた手紙を書き写すことはよくあったことなのです。
フェルゼンが書き写した手紙は、1877年に発見されて、今では現在ではフランス公文書館に保存されています。
フェルゼンの書き写し、しか残されている記録は付けられていないので、マリー・アントワネットの書いた実物は、おそらく残っていないのでしょう。
ところがその手紙を見ると、複数の部分が黒く塗りつぶされているのです。
さて、これは一体誰が何のために行ったのでしょう?
手紙の塗りつぶされた部分は、長年の謎でしたが、最近黒塗り部分が明かされる日が来たのです。
さすがは現代科学。その手法はX線蛍光分光法、というものでした。
つまりは、X線で読み取ったということです。
解読は困難でした。
黒塗りの部分と、文字の部分のインクの成分の違いを見つけ、文字と塗りの部分を分けて読むのですがいくつかの部分では、文字と塗りの成分がとても似ているところがありました。
そこから出た、一つの結論は、文字を書き写した人物と、黒塗りにした人物が同一人物だった可能性がある、ということです。
手紙を書き写した人物はフェルゼン、黒塗りをした人物もフェルゼン、そうなります。
文字判別の中から見つかった、言葉の中に「いとしい」、「やさしい友」、「熱愛する」などの表現が見つかっています。
しかしこれだけでは、フェルゼンとマリー・アントワネットとの愛情の証明になるには弱すぎます。
マリー・アントワネットとフェルゼンの指輪
ツヴァイクの伝記物語によると、マリー・アントワネットはフェルゼンに指輪を送ったことが書かれています。
どんな指輪かというと、フランス王家の百合の紋章のついた金の指輪で、言葉が彫られていました。
「臆病者よ、彼女を見捨てる者は」という言葉でした。
もう一つ指輪があり、これには「全てが自分をあなたの元に導く」と刻印が押されていました。
これは、フェルゼン家の紋章がついた指輪でした。
こちらの指輪は、マリー・アントワネットが自分で持ち続けて、刻印の文字だけを熱いロウに写しとったものをフェルゼンに、送ったということでした。
この二つの指輪は、見つかっていないのが残念ですが、ツヴァイクの伝記には書かれています。
フェルゼン、ルイ16世との関係は?
フェルゼンとマリー・アントワネットが恋人関係にあった、としたら、ルイ16世は下世話な言い方をすると「サレ夫」となるのですが。
ルイ16世は、マリー・アントンワネットとフェルゼンとの恋を知ていたか?
宮廷で、貴族たちの間での話が流れていましたし、宮廷はゴシップ付きでもありましたから、ルイ16世も、噂は知っていました。
フェルゼンとマリー・アントワネットの仲を信じたかどうか、ということは、日記にも書いていませんし、侍従の記録などにも残されていません。
しかし、のちに、息子のルイ17世(子供の頃はルイ・シャルル)について、「自分の子供達と同じ扱いにする」という、文を自分の日記に書いていました。
そこからすると、フェルゼン、と マリー・アントワネットの間柄を、どことなく押さえていた、という感じです。
では、フェルゼンに対して、ルイ16世はどう思っていたのでしょう?
ツヴァイクの伝記によると、フェルゼンは、ルイ16世に対し、ご機嫌取りなどせずにはっきりと意見をすることで、ルイ16世はフェルゼンを気に入っていた、とのことです。
フェルゼンも、ルイ16世に友情を感じていた、とあります。
ツヴァイクがこう書いたのは、当時の会議の記録、日記などを調べ「互いに尊敬を持ちあう仲」という結論を出しています。
ルイ16世は、身かけはカッコ良いと言えませんし、気の利いている人、というわけでもありません。
実際は、頭脳はかなり明晰で、国を治める政治力はなかなかなものだった、ということが現代では研究でわかってきています。
フェルゼンに別れを告げるルイ16世
しかし大切な局面では、フェルゼンを遠ざけます。
それが現れているのが、革命後に起きた、国王一家の亡命事件、「ヴァレンヌ逃亡事件」の時です。
御者をつとめてくれたフェルゼンに、また逃亡の途中なのに、フェルゼンを帰らせます。
これ以上ついてきてくれるな、と。
フェルゼンは、逆らうつもりでしたが、ルイ16世は、拒みました。
そこでフェルゼンは、泣く泣く逃亡の一行から離れました。
フェルゼンも、パリには戻らずに他のところに出国しようとしていました。
ルイ16世のこの時の思いは知ることはできませんが、妻の恋人からの情けは受けたくない、という心境だったのでしょうか?
あるいは、もっと純粋に、友人であるフェルゼンを革命に巻き込みたくない、という気持ちだったのでしょうか?
フェルゼンとしては、いたたまれない気持ちだった、という想像ができます。
ルイ17世はフェルゼンの子供、とのうわさ
ルイ17世は、ルイ16世とマリー・アントワネットとの間の子供です。
ルイ17世は、マリー・アントワネットちフェルゼンとの間の子供だと、いう噂があります。
それは、革命軍だけでなく、まだ革命前のフランス王宮の貴族たちも噂していました。
この事実は謎のままです。
フェルゼンの息子説が出たのは、ルイ16世の日記からです。
ルイ17世(呼び名はシャルル)が生まれた時、ルイ16世は
「王妃(マリー・アントワネット)ノルマンディ公(シャルルのこと)を出産、
全て我が王子と同様に取り扱う」と書いているのです。
これから見ると、ルイ17世が、ルイ16世の子供ではない、といっているみたいです。
フェルゼンは、アメリカ独立戦争に参加しており、1784年6月にフランスに帰国し、久しぶりにマリー・アントワネットと再開しました。
その9ヶ月後に、ルイ17世を出産しています。
それだと、ちょっと計算が合わない、という感じはします。
ルイ17世が、早産で生まれた、という記録はありません、といっても早産でなかったという証言もありません。
次に、ルイ16世が、ルイ・シャルル(ルイ17世)を『我が子』と呼んだのは、16世がギロチンで処刑される直前の時だけしか言っていません。
この事実だって、自分の子のことをいつも「我が子」と呼ばなくてもそれほど、不思議とは思えませんので、これだけではわかりません。
フェルゼンの方は、ルイ17世が10歳で牢獄で死んだ、という知らせを受けた時に、
「あの子(ルイ17世)はフランスに残してきた最後の、たった一つの心配事だった」と日記に書いていました。
この証言でも、またルイ17世がフェルゼンの息子という証明にはなりません。
単に、愛する女性の子供を案じていた、という様子にもとれます。
ついにはDNA鑑定も出てきます。
ルイ17世の心臓と思われているものがあり、それと、マリー・アントワネットの遺髪をDNA鑑定します。
マリー・アントワネットの遺髪は色々なところに残っています。
遺髪も、心臓も劣化が進んではいましたが、時間をかけて調べたところ、血縁関係が確認されました。
しかも遺髪の方は、ハプスブルグ家の血統を引くものとわかったので、髪はマリー・アントワネットで間違いないでしょう。
ハプスブルク家は今でも子孫が残っていますから。
問題は、ルイ17世とルイ16世のDNA判定ができていないことです。
ルイ16世の遺体は、サン・ドニ大聖堂に現在は埋葬されているのですが、そちらの鑑定は行われていません。
その理由は、どこにも言われていませんが、実際に鑑定していないので、何か理由でもあるのだろうか?
それとも遺体そのものが、マドレーヌ墓地からの改葬のため、はっきりしたサンプルが取れないから、なのでしょうか?
ルイ16世がギロチンで処刑された後には、フランス王家の人たちは、その息子をルイ17世としました。
といっても、革命側はそんなことを認めていませんが。
フェルゼン、ヴァレンヌ逃走事件を手助けする
フランス革命が起こると、フェルゼンは、マリー・アントワネットを支えようと決意します。
スウェーデンのグスタフ3世もフランス革命を止めたいと思い、フェルゼンに力を貸します。
フランス革命が起きると、ヨーロッパの王室は、自分の国にも革命が起こらないようにするために必死でした。
フランスの国王一家をフランスから亡命させようとした「ヴァレンヌ逃走事件」で、フェルゼンは、懸命に逃亡に向けて働きました。
その裏には、スウェーデン国王がいた、と見られています。
というのも、亡命の準備には、ものすごくお金がかかっており、フェルゼンの財力だけではとても足りなかったからです。
フェルゼンは、逃亡用の馬車に御者として乗り込み道案内をしていたのですが、途中でルイ16世がフェルゼンの同行を断り、フェルゼンを返すこととしました。
このフランス国王の亡命は失敗に終わりました。
国王一家が当時幽閉されていた、テュイルリー宮殿を出て、その日のうちにヴァレンヌで国王一家は発見され、パリに連れ戻されました。
その日が 1791年6月20日。
フェルゼンにとっては6月20日は忌まわしい日、となったのでした。
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