マリー・アントワネットは王妃となります。
当時のフランスでは、「王妃」に求められるものは何だったのでしょう?
しかし、革命前の王妃から見えてくることは、王妃としての立場より、ドレス好き、賭博好きなど快楽的なことばかり見えてきます。
マリー・アントワネットの好みをここでは調べてみました。
マリー・アントワネットはいつ王妃になったの?
1774年5月10日、この日が新しいフランス国王と王妃の戴冠式でした。
マリー・アントワネットは、国王 ルイ15世の逝去(せいきょ、身分の高い人の死去のこと)で、孫のルイ王太子が16世としての即位です。
マリー・アントワネットは19歳、新国王となった夫の ルイ16世は20歳。
戴冠式は、シャンパーニュ地方にある ランス・ノートルダム大聖堂で行われました。
ランス・ノートルダム大聖堂は、パリより東北130キロ離れた、ランスの街にあります。
ランス・ノートルダム大聖堂は歴代のフランス王が戴冠式を行う聖堂です。
ヴェルサイユからだとさらに遠く、140キロを越す距離です。
国王や王妃、その他出席する貴族たちのランスまでの旅は、当時大変だったと思います。
なにしろ、馬車に揺られてですから、
馬車は時速 10キロ〜15キロですから、10日から14日ほどかかった計算になるでしょうか?
昔の人は我慢強かった?それとも我慢するのが王侯貴族のマナーの一つだったのかも?
この戴冠式で、マリー・アントワネットは、ルイ16世の姿を見て、歴史絵画で見るフランス国王と同じ、と言って感激したことが、ツヴァイクの伝記物語に書かれています。
戴冠式の様子は、また、ジャン=ミシェル=モローという版画家の手による描写があります。
マリー・アントワネットとルイ16世は仲がよかったの?
結婚当初は、取り立てて仲が良い、とか悪い、とかはありませんでした。
それは王妃になってからも同じで、どちらも結婚の時から、妃として王にどう接するか、と教えられてきたことを守ろうとしていました。
それはつまり、後継の王子誕生でした。
結婚当初から、マリー・アントワネットは夫にときめく、とかそういう感情は持っていませんでした。
でも後継者を産むことは、妃の務めと言うことで、割り切っていた、と言うのがちょうど良い表現だと思います。
一方の、ルイ16世の方は、包茎という障害があり、そのために子供ができないでいました。
簡単な手術で治る、と言うことでしたが、ルイ16世はいつまでも受けないでいました。
その分、どうしてもマリー・アントワネットと夫婦生活がうまく送れず、王も王妃もギクシャクした関係になっていました。
のちに、マリー・アントワネットには、フェルゼンと言う恋人ができますが、だからと言って、ルイ16世のことが嫌い、と言うわけではありませんでした。
非常に仲がよい夫婦とはいえない、と言うことは、当時の国王夫妻にとって普通のことでした。
何しろ、どこも恋愛結婚で結ばれた夫婦ではないからです。
ちょっと気の毒に思える、当時の国王の結婚事情ですね。
マリー・アントワネットはどんな人?
マリー・アントワネットは、ルイ王太子の即位とともに王妃になったのです。
ここでは、まずどんな王妃だったのか、を調べてみました。
将来はギロチンにより処刑、という恐ろしい処罰が待っている、とみると、犯罪を犯した大悪人、というイメージが湧いてきます。
では実在の、マリー・アントワネットの行動を見ると、そんな極悪人でないことが読み取れます。
贅沢好き、というのが何より目につきます。
それはドレス作りに山のようにお金を使ったこと。
ですが、個人の性格を見ていくと、社交的であり、誰にもにこやかに接し、華やかな振る舞いが美しい人でした。
マリー・アントワネットに王妃になる覚悟はあった?
マリー・アントワネットは、王妃になった時には希望に燃えていました。
その様子が、マリー・アントワネットが母 マリア・テレジアに宛てた手紙から伺えます。
その手紙には、アントワネット本人を、フランス王妃に選んでくれた母に、感謝の手紙を書いてます。
夫 ルイ16世の戴冠式の姿を見て、歴代のフランス国王の姿と同じ…と、感激して涙を流した、と伝記作家 ツヴァイクは書いています。
同じシーンは、池田理代子さんの漫画「ベルばら」にも描かれています。
そこから見ると、マリー・アントワネットの心意気は、立派な王妃になろうとするものだったのでしょう。
マリー・アントワネットは心意気を守れた?
その心意気が続けば、どのような状況になっていたか?それは誰にもわかりません。
ヨーロッパでは、フランス革命以前まで、「国王」という地位は、神より与えられた神聖なもの、つまり「王権神授説」が信じられていました。
「国王」は絶対的存在、誰も逆らってはいけない地位、という意識が国王、貴族たちにあったため、市民の生活の苦しみに、どう対処するか、なんてことは頭になかったでしょう。
マリー・アントワネットが、戴冠式で持った感激を忘れていなくても、民衆のことを思いやる、という王妃にはなれなかったと思います。
貧しい民衆に慈善をする王族、というシーンはどの国にもありますが、それは民衆のことを考えて、というより、自分のポーズのために行っていました。
本当に、貧困を救おうと思ったら、小手先だけの慈善は全く役に立たないことと思います。
絶対王政というものがある以上、身分というものができるので、どうしても貧富の差ができてしまうのは当然だったからです。
マリー・アントワネットは賭博が好きだった?
マリー・アントワネットの悪名を高めたものは、もう一つありました。
マリー・アントワネットの賭博好きです。
ただ、賭博をすることは、当時のヨーロッパ中の貴族の遊びであり、参加する人たちはそれが悪いこととは思っていませんでした。
主に行われていたのがトランプ賭博です。
マリー・アントワネット、いつも負ける!
男子はもちろん強制的に参加ですが、女性も賭博で遊ぶのが貴族のたしなみ、と見られていました。
賭博だから当然賭けますね。
当時の貴族たちの娯楽の一つとして、国王 ルイ16世はある程度大目に見ていました。
マリー・アントワネットに賭博を教えたのは、その母 マリア・テレジアでした。
貴族のたしなみとしてだけでなく、政治は博打と同じ、マリア・テレジアは考えていました。
確かに、政治には一か八かにかけることがあり、賭博と似ています。
マリー・アントワネットは、自分の日記に「ベルサイユでの(賭博の)賭け金は、オーストリアより低い」が今でも残っていますから、
マリー・アントワネットが、子供時代から博打を知っていたことは事実でしょう。
それにしても、子供といえども博打を覚え、政治に利用するなんて考えがあるのだから王族というものは恐ろしいものですね。
ところが、賭博で負けるのはマリー・アントワネットでした。
なぜ?イカサマでもやって、みんなで初心な王妃からお金を巻き上げようと、考えていたに違いありません。
実際、賭け金は結構な額に膨れ上がり、王妃様用のお金が不足するほどまでになりました。
よくいう、ばくち中毒みたい。
マリー・アントワネット、母となり賭博をやめる
実際には、マリー・アントワネットの賭博は、17歳から21歳の時まで4年間で、ピタリとやめています。
21歳の時、何が起きたかというと、マリー・アントワネットが母親になった時です。
ルイ16世が、賭博をすることは母親としてふさわしくない、と言ったことが、アリー・アントワネットの賭博をやめさせることのきっかけとなりました。
マリー・アントワネットが賭博をしなくなった理由について貴族たちが話をしていた、という記録が何人かの貴族の日記などで見られています。
ただし、マリー・アントワネットは、やめるとは約束したものの、最後に一回をお願いし、3日間「完徹」で賭博をしました。
それ以降は2度と、賭け事はしませんでした。
現代にみる、中毒にはなっていませんね。
マリー・アントワネットは賭博でどのくらいお金を使った?
でも後の評判では、マリー・アントワネットは「博打狂い」なんて見られています。
その理由は、賭けたお金の額の多さから、それも負けてばっかりだから、その金額にばかり目が入ってしまうからです。
例えば、マリー・アントワネットは、3日ほど負け続けた結果、70,000リーブル負けた、と言う記録がありますが、
それは、小作農家233人分の、年間収入に相当します。
比較的、給与が良いと言われる町医者なら、年収 1,500リーブル。46年分の金額に相当します。
当時の一般人が家を買うのには、4,000リーブル、とすると70,000リーブルあると、小さな家が17〜18軒帰るほどです。
とすると、マリー・アントワネットの賭け金が、いかにすごいものであったか、想像がつくと言うものです。
マリー・アントワネットがすっぱり賭博をやめられたのは、金銭的な執着がなかったから、とも思われます。
賭博にハマる人は、賭博で一攫千金を夢見ています、しかし、マリー・アントワネットたち王侯貴族は、賭け事で、お金を稼ごうとは全く考えていないからです。
マリー・アントワネットのファッションは?
マリー・アントワネットといえば、ファッション、衣装です。
その数々のドレスは流行を産み出しましたが、民衆からの批判の的になりました。
ですが、フランスの、ひいてはヨーロッパ中のファッションリーダーとなり、アントワネットと同じデザインのドレスが人気になったのですから、フランスの産業に一役買った、のですよね。
マリー・アントワネットのドレスの数は?
フランス王妃には、ドレス購入の予算が決まっていました。だから、作れる枚数も決まって来ます。
そこから計算すると、正装用と礼装用のドレスをシーズンごとに各3枚、となっていましたので、ここで、36枚を新調できる、と言うことになります。
そのほかにお手元金があり、もう少し私的なドレスも作れる、と言うわけです。
ところがマリー・アントワネットは、年間170着ほどのドレスを作りました。
過去に作ったドレスは多少なりとも、人にあげたりして減らすことはしていますが、全部を処分するわけではないので、その数は増えてきます。
王妃や貴婦人たちは、1日のうち、朝の礼拝、昼用、午餐用と数回着替えるので、一日1着では足りない、
というものの、何百着になると、毎日来ても着られないほどの衣装があったのではないか、と推測されます。
マリー・アントワネットのドレスの値段は?
フランス王妃のドレス購入予算は、年間12万リーブルと決められていました。
これは、1725年に決められていた金額で、マリー・アントワネットの時代もそれが適用されていました。
そのほかにも、王妃様にはお手元金 300〜400リーブルが与えられます。
お手元金と言うのは、王妃に与えられたお小遣いみたいなものです。
12万リーブルから逆算すると、ドレス1着の値段が 約3000〜4000リーブル。
それだと、お手元金では全く足りませんね。
必然的に、国庫からの臨時予算、ということになります。
その金額は、確かに財政に負担をかけます。
が、服飾品購入ぐらいで傾く国庫、と言うのは当たっていない、と言うことを後にご説明いたします。
マリー・アントワネットのファッションスタイル?
豪華な刺繍が施されたり、リボンがたくさんついたり、と装飾がたくさんあるドレスが好みでした。
それにコルセットをきつくしめ、ウエストを非常に細くしていました。
スカートを大きく膨らませたので、細い腰がより一層目立つデザインでいた。
胸元は大きく開け、その周りをレース、造花で飾っていました。
ウエストを締め付けていたから、胸もより豊かに見えるのでした。
王妃、マリー・アントワネットは、若く美しいために、その宮廷中の貴婦人たちはマリー・アントワネットの真似をしました。
締め付けがあまりにも強いと、貴婦人たちの中には、呼吸困難で気絶する人さえ出たほどです。
ドレス生地も贅沢な絹織物が使われていました。
マリー・アントワネットはなぜドレスをたくさん作ったの?
それはマリー・アントワネットが、大のドレス好きだったから、と思えるのですが、どうもそればかりではないようです。
それは、母 マリア・テレジアからの手紙からその理由がうかがえます。
マリア・テレジアはマリー・アントワネットの着道楽をやめるように、アドバイスします。
そこには「衣装時への逃避をやめるように」と言う内容が書かれていました。
マリー・アントワネットは、逃げたいことがあって、その気持ちを紛らわすために、衣装に走った、と言うことになります。
では何から逃げたかったのか?
愛のない結婚が挙げられますが、王族の姫として愛がある結婚はない、と言う覚悟はすでにできていると思います。
それよりも、夫婦関係が成立していなかったことに、マリー・アントワネットは何よりも焦りを感じていました。
いずれの時代でもいずれの国でも、妃が後継者となるべき男子を産むのが第一の使命でした。
マリー・アントワネットにしてみれば夫婦関係がない、と言うのはいくら政略結婚でも、自分の人格が否定されたような気がするのではないでしょうか。
子供については、周囲からのプレーシャーに押しつぶされそうな気分になるのは当然だと思います。
そのストレス発散が、ドレス、ファッションだったのです。
マリー・アントワネットお気に入りのドレスは?
マリー・アントワネットは素晴らしいドレスをたくさん作りました。
ですが、特にお気に入りと見られるのは、木綿やモスリンで作られた、軽やかな素材のドレスや、可愛らしいデザインのもの、のようです。
と言うのもこうしたシンプルなドレスを身につけたマリー・アントワネットの肖像画が結構残っているからです。
こうしたドレスは、田舎娘風のドレスと言われています。
別のところでも書きますが、マリ・アントワネットは、儀式が多く窮屈なヴェルサイユ宮殿から、気楽にくつろげる、プチトリアノン宮殿のような、田舎生活もできるような住居を好みました。
この「くつろぎ感」への憧れは、宮殿だけではありませんでした。
ゆったりした空間を過ごすために、衣服も、窮屈でないものをTPOに合わせて、楽ちんな服装になったのでしょうか?
田舎に合うよう、豪華な装飾を取り外し、スカートを膨らますパニエをやめる。
プライベート限定ではありましたが、一つの時代の流れを感じます。
衣装のシンプル化がこの頃から始まり出したのでしょうか?
次の時代への予感がします。
マリー・アントワネットのデザイナーは?
マリー・アントワネットお抱えの服飾デザイナーはローズ・ベルタンです。
マリー・アントワネットの衣装がフランス中で人気になったのは、マリー・アントワネット本人の魅力だけではありませんでした。
ローズ・ベルタンと言うファッション仕掛け屋がいたからです。
王太子時代のマリー・アントワネットは、ひたすら可愛いばかりで、ファッションセンスはどちらかというと野暮ったい印象でした。
それを、一新したのが、ローズ・ベルタンと言う仕立て屋です。
ローズ・ベルタンはマリー・アントワネットの、スタイルの良さ、美貌に目をつけ、本人によく似合うファッションを提案したのでした。
マリー・アントワネットもローズ・ベルタンが提案する衣装が気に入り、自分のお抱えデザイナーとして採用します。
ローズ・ベルタンが作り、マリー・アントワネットが身につけた衣装は、たちまち貴婦人たちの間で大流行となりました。
その一つが「ノミ色のドレス」です。
フランス革命が起こった時には、マリー・アントワネットに贅沢な衣装を提供した人物として、フランス国内から敵視されましたが、捕まることもなく、ひっそりと人生を終えました。
ローズ・ベルタンと「ノミ色のドレス」については、こちらの記事をお読みください。
マリー・アントワネットの肖像画
マリー・アントワネットにはお気に入りの肖像画絵描きがいました。
それはル・ブラン夫人(エリザベート=ルイーズ=ヴィジェ=ルブラン)という、女流画家です。
マリー・アントワネットと同じ年、というので二人は仲の良い友人同士になりました。
ル・ブラン夫人に、軽装のマリー・アントワネット像を描かせています。
フランス国内では、それがはしたない、と噂されていたようと、美術展では絵の横の解説に書いてありました。
どうも、マリー・アントワネットは、「どう?私は、宝石、正装でなくたって美しいでしょ?」と見せつけているようだ、と批判されていました。
マリー・アントワネットが、即位して自分の肖像画を母 マリア・テレジアに送った肖像画を描いた画家も ル・ブラン夫人でした。
色々な画家に、マリー・アントワネットは肖像画を描かせてのですが、なかなか気に入らず、気に入ったものが、ル・ブラン夫人の描いたものでした。
それはマリー・アントワネットが結婚して8年も経っていました。
肖像画は、縦2メートル73センチ、横1メートル93.5センチ、オーストリアには、宅急便はない時代のこと、場所で運ばれました。
多分、額には入れずに、巻いた形で輸送したのでしょう。
確かにマリー・アントワネットは美しく描かれているのですが、マリア・テレジアは気に入りませんでした。
自分が望んでマリー・アントワネットに送ってもらったものなのに、
「これはフランス王妃の肖像画でなく、派手に着飾った女優の絵です!」とひどく怒った話が、ツヴァイクの伝記物語に載っています。
この肖像画、今ではオーストリアのウィーン、美術史美術館の所蔵品です。
マリー・アントワネットは宝石好き?
マリー・アントワネットは、「ダイヤの首飾り事件」の渦中の人、ということで、異様に宝石が好きな人、というイメージがあります。
宝石が大好きだからこそ、起きた事件だったのです。
確かに、宝石が好き、ダイヤモンドが好き、という王妃でしたが、「王妃」という職業(?)を考えてみれば、美く着飾って人前に立っているのが仕事ですので、
多少の、宝石好き、衣装好き、というのは仕方ないことだと思います。
むしろ、自分に似合う衣装、宝石を選べることが大切で、そのために王妃や王女たちは、コーディネイトの上手な、侍女を抱えていました。
美しい宝石を持つのが、王妃の務めとはいえ、マリー・アントワネットの宝石好きは有名でした。
現代でも、マリー・アントワネット所有だったと伝えられる宝飾品が、オークションにかけられています。
今では、そのデザインがしか残存していない、「首飾り事件」の本物が残っていないのは残念です。
マリー・アントワネットの宝石、と「首飾り事件」についてはこちらの記事を、どうぞ!
マリー・アントワネットといえばロココ?
マリー・アントワネットはロココの女王、などと言われます。
確かに、ロココの時代を生きた女性ですが、厳密にいうと、ロココ後期に当たり、その次の時代に足を踏み入れた、人でもあります。
マリー・アントワネットロココにひかれる
その前にまずロココとは何か、からお話ししましょう。
18世紀のヨーロヨーロッパで大流行した、装飾様式です。
その様式は、ファッションだけでなく、建築、美術に見られます。
特徴は、貝殻の曲線を思わせる優美な形状、つまり曲線のモチーフを見せる形です。
色彩は明るく、自然な発色のするこので、室内装飾に使われ豪華な装飾を作り上げます。
「ロココ」が一番「ロココ」らしく輝いたのは、マリー・アントワネットより一世代前の、ルイ15世時代でした。
その代表的な女性が、ルイ15世の愛人だった、ポンパドゥール夫人(1721〜1764)でした。
マリー・アントワネット、ロココからネオクラシックへ
マリー・アントワネットが王妃となり、自分の好みを確立させて行ったのが、ーーー年なので、マリー・アントワネットの個性が入り、従来のロココから、少し形を変えていきます。
例えば、マリー・アントワネットが愛した、プリトリアノンの宮殿の、インテリアは、ロココのような、豪華さは見られません。
壁は、スモーキーグリーンに白い縁取り、薔薇や矢車草の小花柄のカーテンがかけられ、可愛らしさの中にも、すっきり感が見えます。
家具も、貝殻形の装飾は見られません。
マリー・アントワネットの部屋は、建築史上、ネオクラシック様式(ルイ16世様式)と呼ばれています。
マリー・アントワネットは、「これぞロココ!」というところから、好みが離れた、と言っていいでしょう。
例えば、ダイヤモンドの首飾り事件ですが、宝石商がマリー・アントワネットのところに売り込みに来た時、宝石商に、「それほど好みでない」ようなことを言っていました。
マリー・アントワネットの残されている愛用品を見ると、どれもそんなにゴテゴテしていなく、むしろ、すっきりした美しさのものが多いのです。
マリー・アントワネットがドレス作りに夢中になり始めた時は、ロココスタイルで始めたかもしれませんが、だんだんとそうでないものに、好みが移ってきたのでしょうね。
そんな意味で、マリー・アントワネットは、単に美しい物好き、というのではなく、確かな審美眼を持ち、新しい流行に目を向け始めた、美の先駆者、と私は思います。
マリー・アントワネットのハンカチとは?
マリー・アントワネットがファッションに与えた影響の一つに、ハンカチがあります。
マリー・アントワネットからの勧めで、ルイ16世が「ハンカチは四角くなければならない」という令を出して以来、ハンカチは四角形となりました。
マリー・アントワネット時代のハンカチの形とは?
今私たちが使っているハンカチは四角形ですが、18世紀のハンカチは、今のように誰でも手にして手を拭いたり、汗を拭ったりするものではありませんでいた。
素材も絹のような高級素材で、縁には豪華なレースがついており、形も、丸型、三角などでした。
それなのに、とつぜん1785年、ルイ16世が、ハンカチは四角、なんて法律を出すものでしたから、誰もがびっくりしました。
マリー・アントワネットはなぜ、ハンカチを四角にした?
その理由は、はっきりとは知られておらず、いくつかの説があるだけです。それを挙げてみましょう。
マリー・アントワネットのハンカチが四角い理由 その1
豪華なハンカチを持っている人物は自分だけでいい、という説です。
18世紀のハンカチは、貴族のステイタスシンボルです。
一人だけ美しいハンカチを持っていれば、それだけ目立つ、という意識があったから、ということです。
傲慢な貴族的発想ですね。
私は、マリー・アントワネットはそれほど傲慢な人物ではない、と思えるのでこの説をあんまり推しません。
確かにマリー・アントワネットは自分勝手なところがありますが、その性格はお嬢様育ちのおっとりしたところが目につきますから、あまり自分だけが、と思うところがないような気がします。
マリー・アントワネットのハンカチが四角い理由 その2
マリー・アントワネットが、たくさんの形のハンカチを見るのにうんざりしたから。
世の中に、色々な形状があるハンカチ、装飾もだんだん華美になるハンカチを見ていると、その派手さに飽きた、ようです。
確かにマリー・アントワネットは飽きやすい性格でした。
それと同時に、マリー・アントワネットは割とシンプルなものが好きです。
派手ずき、と言われている、マリー・アントワネットは上記の衣装のところでも描いたように、装飾を取り払ったような衣装を好んで着ることがあります。
また、ロココの女王と言われますが、実はロココの次の時代の先駆者と言われています。
ですから、ハンカチの形が煩わしい、と思ったのも私には、うなずける説です。
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