マリールイーズ、ナポレオン再婚はハプスブルク家皇女!子孫は?その後の配偶者は?

ナポレオンの2番目の皇后となった女性、マリー・テレーズ。オーストリア皇女という高い身分なのに、知名度はイマイチです。

ではマリー・ルイーズ、どんな女性だったのでしょうか?ナポレオンとの仲は一体よかったのでしょうか?ナポレオンに対しどのような感情を抱いていたのでしょうか?

マリー・ルイーズは結婚後、そんなに長くナポレオンと過ごしていません。ナポレオン没後、マリー・ルイーズはどのような生活を送ったのでしょう?

マリー・ルイーズ、ナポレオンの再婚相手

ナポレオンの皇后と言えばジョセフィーヌが有名ですが、ジョセフィーヌはナポレオンから離婚さを言い渡されました。

その理由は、皇帝となったナポレオンは自分の後継ぎが欲しかったからなのです。

ジョセフィーヌは何しろナポレオンより6歳年上。皇帝になって、ふと気がつくとジョセフィーヌは45歳・・・これから子供を望むのは難しいです。

一方ナポレオンの方は、英雄色を好む、というか妻以外女性も愛し始めました。

ポーランドを分割し支配していたオーストリア、プロイセン、ロシアの国々対して戦争を始めようとするナポレオンを、ポーランドの人々はナポレオンを解放者と呼び歓迎しました。

その時出会ったポーランド貴族の娘、マリア・ヴァレフスカとナポレオンはたちまちのうちに彼女と恋に落ちました。

そして男子を授かったのですが、ナポレオンはすっかり気をよくして、自分はまだ希望すれば子供をができるんだ、と思い早速ジョセフィーヌと離婚して新しい妻を探すこととしたのでした。

マリア・ヴァレフスカは生まれた子供を、ナポレオンが後継にしてくれるかも・・・と希望を抱いたのですが、ナポレオンはそうするつもりはさらさらありませんでした。

皇帝になったナポレオンは、皇帝に相応しい家柄を求めます。皇帝の子供は皇帝を世襲するから、それ相当の名家の血筋が欲しくなるものなのですね。

ナポレオン・・・せっかく子供を産んでくれた女性なのに随分と軽い、ひどい扱いですね。現代世界でしたら週刊誌スキャンダルものです。バッシング間違いなしの事件です。まあ昔の男性中心に回っていた世界はこんなものでしょう。

そこで再婚相手探し。名のある家の適齢期のお姫様は・・と探すとロシアロマノフ朝の皇帝アレクサンドル1世の妹と、オーストリアハプスブルク家の姫マリー・ルイーズの二人が候補に上がりました。

アレクサンドル1世は自分の身内を、ナポレオンに嫁にやりたいとは思っていませんでした。そこで返事を先延ばしにしていたところ、白羽の矢がついにオーストリアのマリー・ルイーズに立ちました。

しかし再婚話、マリー・ルイーズ側が喜びませんでした。

特にマリー・ルイーズが嫌がりました。なにしろ、ナポレオン自分の国にとっては敵であったからです。ナポレオンの侵略戦争のおかげて住居としていたシェーンブルン宮殿を2度も追い出される羽目になったのですから、鬼と呼んで忌み嫌っていました。

ナパオレオんはフランスの覇権をヨーロッパ中に広げようと、オーストリアに攻撃を仕掛けていました。その結果マリー・ルイーズ達王族も何度か逃げるような生活を送ったこともあるからです。

ですから結婚の話が来たときな、マリー・ルイーズは泣き崩れました。相手が憎らしいナポレオン。しかも相手の歳は41歳、マリー・ルイーズは19歳でしたから。

王家の姫というものは年の差婚も珍しくありませんでしたが、それにしてもマリー・ルイーズにとっては苦難の結婚でした。

ですが、考えてみれば王家の結婚というのは、好き嫌いと言ってられず、国のため、条約締結のため、というのが定番だったと記憶しています。

しかしいつの間にか、傾向が少しずつ変わりつつあったんですね。それともナポレオンを貴族の血が流れない成り上がりもの、と見た上の皇女であるマリー・ルイーズ、そしてオーストリア皇帝の反抗だったのかもしれません。

ナポレオンの方は、まだ若いマリー・ルイーズにすっかりと夢中になってしまいました。自分の部下達にも、「若い嫁というものは大変良い。薔薇の蕾のように瑞々しい」などど自慢していました。

マリー・ルイーズは最初の頃は、頼まれて嫁に来てやったんだから・・・的な態度でわがままな言っていました。

ですが、ナポレオンと過ごすうちに徐々に夫を愛する様になりました。

すぐに妊娠したのですが、ナポレオンが以前の妻、ジョセフィーヌの元を訪ねたり、マリー・ヴァレフスカに会うことをやめさせました。この状況は不愉快で、妊娠している身にはとてもきつい、と。下手したら流産するかも・・・なんて脅しました。

身分が高いって強いですね。ちょっと高飛車な態度でも許されてしまうのですから。他の女性達に比べて極めて身分が高いと、自信があったのかもしれません。

マリー・ルイーズはハプスブルク家の姫であっても、戦争が続いているご時世厳しく躾けられたせいで質素倹約が身についていました。

そのため、身の回りの装飾品や新しいドレスをそんなに欲しがりませんでした。ご先祖のマリー・アントワネットとはえらく違いますね。

そのため皇妃御用達を扱う業者からは人気がありませんでした。

前妃、ジョセフィーヌは物欲が強い人だったので、なおさら商人にとっては商売上がったりです。服飾文化は王族、貴族達がいるから成り立つものですから。

他にナポレオンの家族など達からは、付き合いにくいということであまり人気がありませんでした。ナポレオンは平民出身でしたから、やはり正真正銘の王族とはウマが合わなかった、というのはあり得ますね。

マリー・ルイーズとナポレオンの子孫

マリー・ルイーズとナポレオンの間には、1811年男子が一人生まれました。その名はナポレオン・フランツ・カール・ヨーゼフ(フランス読み;ナポレオン・フランソワ・シャルル・ジョセフ)です。

ナポレオンにとっては待ちに待った嫡子。そして生まれた子供にローマ王の称号を与えました。

しかしナポレオンの体勢が悪くなったところで、マリー・ルイーズがオーストリアに連れ戻される時、一緒に連れていかれました。

ウィーンの宮廷では、ナポレオン・フランツ・カールはフランス人の養育係から離され、オーストリア、ドイツ人の教育を受けることとなりました。なかなかに反抗的な気性の息子で、父親譲りの性格だったそうです。

母親、マリー・ルイーズからも離されて養育されていました。マリー・ルイーズが息子を気にかけて、父親ナポレオンに会いたいと言い出すのを防ぐためでした。それにマリー・ルイーズもパルマ女公となり、オーストリアを離れたので、母子で会う機会は少なくなりました。

フランツ・カールはウィーン宮廷ではライヒシュタット公爵の称号を与えられました。やがてナポレオンがセント・ヘレナ島で死亡しました。ウィーン宮廷ではナポレオンの支持者がフランツ・カールをフランス皇帝として祭り上げるのを恐れていました。

ナポレオン1世が亡くなって、少しだけの間、フランス人民の皇帝ナポレオン2世として名称は一応与えられました。

ですからウィーン宮廷内でのライヒシュタット公の扱いは腫れ物に触るようでした。皇帝の後継者では困る、さりとてハプスブルク家の血を引く人物だから罪人のようには扱えないのです。

成長すると、身長が190cmに及ぶ美形な青年となりました。ですが結核を患ってしまいます。

ところが・・・・病にかかるよう仕向けたのは他ならぬハプスブルク家・・・そんな噂も後世ではありますが、本当のところは分かりません。

その若いナポレオン、フランツ・カールに心を寄せ、気を遣ってくれた女性が、ゾフィー大公妃、そうのちのエリザベートの姑となるその人でした。

ゾフィーは、フランツ・カールの母マリ・ルイーズの弟オーストリア大公(皇帝ではありません)の妃でした。

フランツ・カールは自分によそよそしく当たっていた、ハプスブルク宮廷で馴染めて見出した心を許せる相手がゾフィーだったのです。

ゾフィーの方も、出身のバイエルン公国の田舎娘・・・と下に見られていな中での、ほっと息のつける相手がナポレオン2世フランツ・カールだったのです。

この二人に恋愛感情があったか・・・・それは謎ですが。この二人が心を通わせていたのは事実でそのため、二人の関係が口さがない噂に上がったこともありました。おかげでゾフィーの産んだ子供がフランツ・カールの子供ではないか?と言われたことすらありました。

ついには結核で1832年、わずか21歳でその生涯を閉じました。ウィーンのシェーンブルン宮殿にはライヒシュタット公のデスマスクが展示されています。確かに美男で、結核で亡くなったせいもありますが、細めの顔が印象的です。そしてライヒシュタット公の最後が偲ばれて、ちょっと哀しい気持ちになります。

ライヒシュタット公の死により、マリー・ルイーズとナポレオンには直系の子孫は残されていません。

マリー・ルイーズ、その家系図

マリー・ルイーズはハプスブルク家出身です。マリー・アントワネットの血縁者です。

ではどういう家系図になっているかというと、マリー・アントワネットの兄二人がオーストリア皇帝になりました。

その下の兄の方の皇帝、レオポルド2世は在位わずか2年で亡くなり、その後ははレオポルド2世の長男フランツ2世が王位継承しました。

フランツ2世の長女がマリー・ルイーズでした。つまりマリー・アントワネットはマリールイーズにとって大叔母に当たります。

マリー・ルイーズの輿入れはマリー・アントワネットのフランスへの嫁入りからわずか40年しか経っていません。時代の変化は大きいですが。

マリー・ルイーズの父レオポルド2世は、娘の嫁入り風景を過去のマリー・アントワネットとほぼ同様に設えました。ただし衣服の流行やしきたりは変わってきているので、馬車などの装備で揃えました。ハプスブルク家の権威を示したかったのでしょう。

マリー・ルイーズも呼ばれ方が国によって違います。マリー・ルイーズの呼び名はフランス読みです。故国オーストリアでは、マリア・ルドヴィカと言いました。マリア・ルイーザと呼ばれることもあります。

マリー・ルイーズ以降の家系図を見ていきますと、マリー・ルイーズの弟がフェルディナンド1世。フェルディナンド1世は身体が丈夫でなく、子供が残りませんでした。

フェルディナンド1世の次は、その弟フランツ・カールの息子フランツ・ヨーゼフ1世が帝位を継ぎました。

フランツ・ヨーゼフ1世の皇后がエリザベートなのですね。

この後のハプスブルク家は、皇太子の死亡、サラエボ事件などが続き衰退していくことなります。

しかし2019年・・・なんとハプスブルク家の最後の皇帝カール1世のひ孫の女性と、ナポレオン・ボナパルトから数えて6世の甥となる男性が結婚しました。こちらは純粋な恋愛結婚・・・とても喜ばしいニュースでした。まさに美男美女のセレブ婚。

マリー・ルイズとハプスブルク家

マリー・ルイーズとナポレオンの結婚はフランスとの関係改善のための結婚でした。言ってみれば人身御供的な結婚。

友好の結婚といえば、同じハプスブルク家のマリー・アントワネットも同じ状況です。マリー・テレーズの大叔母さんですね。

ところが後世になりハプスブルク家の女性達に関して、一番人気はエリザベート皇后。そして次は悲劇の主人公となったマリー・アントワネットと続きますが、このマリー・テレーズ人気はさほどありません。

美人じゃなかった・・・とか言われていますが、肖像画を見るとそうでもないと思うのですが。

王族出身ということで、感情の起伏に乏しかったというので「鈍い人」と思われていたようでもあります。

ですが、マリー・ルイーズにとって、敵国に嫁いできて、居心地が良いわけありません。疎外感を味わっていたのかもしれません。

マリー・ルイーズはナポレオンとの間に生まれた子供を自分の手では養育せずに女官任せにしていました。

子供の養育を放棄していた、などど言われていますが元々王族出身のマリー・ルイーズは自分で子供を育てる、ということは頭になく専門の養育係が育てることとなっていました。

元々はフランス王室も子供達は直接自分の手で育てていませんが、フランス革命によりこうした王家、貴族特有の風習が、フランスからは消えていた時代でした。ですからマリー・ルイーズの貴族的子育ては育児放棄に見えたのでしょうね。

ナポレオンがロシア遠征に失敗して敗北のためフランスを追われると、マリー・ルイーズは故国オーストリアに返されることとなりました。下世話な表現では出戻り、ですか。

この頃にはナポレオンに情が湧いてきていたマリー・ルイーズですが、やはり故国に帰るというのは嬉しいことでした。

しかも親のレオポルド2世は、娘を人身御供にして可哀想なことをしてしまった・・・という自責の念があるため、娘を甘やかしました。

そんな父親や側近達の努力(?)でマリー・テレーズはハプスブルク宮廷でのびのびと生活をするようになりました。

そしてパルマの女公爵となることもできて、マリーテレーズにとってはハプスブルクはまさに自分の生きるべく場所、と残りの人生を楽しんだようです。

マリー・ルイーズと配偶者

オーストリアに出戻り(?)となったマリー・ルイーズ。オーストリア皇帝や首相達はマリー・ルイーズに一刻も早くナポレオンを忘れてもらいたい、そしてその息子のことに心を砕いて下手にフランス皇帝になど推してもらいてくない・・・そんな思いから、マリー・ルイーズが男性に近づくのをわざと黙認していました。

マリー・ルイーズは護衛の1人ナイペルク伯爵に魅了されてしまいました。ナイペルク伯はナポレオン軍との戦争で右目を失明していた。肖像画を見ると隻眼の勇姿という風情です。

権力狙いの中年男・・・と思いきや、軍事面以外でも文化、教養に秀でた人物でした。ですから、マリー・ルイーズとも節度をおいた関係を保っていました。

ナイペルク伯は、マリー・ルイーズの相談にも乗っていました。

ナポレオンがエルバ島から脱出した時、マリー・ルイーズに手紙を送り、早く自分のもとに戻るよう催促してきました。

マリー・ルイーズは自分の生活に平安を見出していた頃なので、ナイペルク伯に相談に乗ってもらってアドバイスも得ていたようです。そしてナイペルク伯と時間を過ごすことで安心感を感じていました。

ナイペルク伯は妻子がいました。ですが妻が病死したことで、マリー・ルイーズとの仲に障害のある事項はなくなりました。

ナイペルク伯は節度を守った人なので、この時代にしては珍しく信頼のおける人物だったと思えます。

ウィーン会議で、マリー・ルイーズはパルマ女公として認められ、ナイペルクもパルマの首相となりました。パルマはイタリア語圏の地方なので、ここでの呼び名はマリア・ルイーザとなります。

ナポレオンが死亡後、マリー・ルイーズとナイペルク首相は結婚しました。ナイペルク伯爵いや、首相はこうしてマリー・ルイーズの2番目の配偶者となりました。

この二人からは4人の子供が生まれました。ですが結婚する前に、子供がいたと言いますから、すでに事実婚の間柄だったのですね。

ナイペルクの死後はマリー・ルイーズのナポリでの補佐役としてフランスより来た、シャルル・ルネ・ド・ボンベルと再婚しました。やはり一人でいる生活は楽しくなかったのでしょうか?

ボンベルはかつてフランスでマリー・ルイーズの侍従を務めたこともある人物でした。雇い主と雇われ人物との結婚を、貴賤結婚と言います。貴賤結婚は本人達の絆は強くても、周囲からの理解が得られず、不幸な結果になることが多いのですが、マリー・ルイーズの場合はもう、最初の配偶者、ナポレオンとの結婚が強いられたものだったために、後半生は本人が幸せだったら・・・ということで誰も何も言わなかったと思われます。

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