長谷川平蔵、というと、池波正太郎の小説および、小説のドラマ化「鬼平犯科帳」で有名ですが、
実在の人物です。
「べらぼう」では、若い頃についての活躍ぶりが描かれています。
活躍と言っても、遊び人という感じですが、これまで抱いてきたイメージとちょっと違います。
「べらぼう」を通しての長谷川平蔵という人物、どういう人なのか、調べてみました。
長谷川平蔵、実在した?
実在の人物です。
1745年〜1795年の50歳の生涯を生きた人です。
長谷川平蔵というと、小説、ドラマのイメージが強すぎて、多くの密偵と腕自慢の部下を抱え、悪を取り締まる、人物としか思い描けません。
そこで、ついフィクションの人物と思いがちですが、長谷川平蔵は、実在しました。
火付盗賊改方(ひつけとうぞくあらためかた)という役職に、1788年につきました。
しかし「鬼平犯科帳」は、見せ場を作るための演出ですので、あんなに華々しい活躍そのものは、実際にはなかったと思われます。
また、若い時、遊び歩いていた、という話も事実です。
長谷川平蔵の本名は?
長谷川宣以(はせがわのぶため)。
「平蔵」と言うのは通称として使われていました。
宣以、と言うのが 諱(いみな)と言うもので、平安時代から使われていた、武士や貴族たちにつけられた正式な名前ですが、上級の身分の人たち、死んだ時などにしか呼ばれない名前です。
諱が 忌み名に 通じる、と言うことで、使われることはほとんどありません。
また、幼名は 銕三郎(てつさぶろう)といいました。
記録によると、銕次郎(てつじろう)、と書いてるものもあります。
三郎と言っても、次郎と言っても、長谷川家の長男だったのですけれどね。
放蕩息子で遊び回っていたときには、「本所の銕」(ほんじょのてつ)と呼ばれていたことが、「鬼平犯科帳」の中に出ていましたね。
「本所の銕」というのは、創作ではなく、「京兆府尹記事」(けいちょうふいんきじ)という史料の中に出てきていました。
本所、と言うのは、その時の長谷川家の屋敷があった場所にちなんで呼ばれていました。
長谷川平蔵の若い頃は?
登場した NHK大河ドラマ(2025年)「べらぼう」では、素行が悪そうです。
その時の、長谷川平蔵は、20代前半と推測されます。
というのも、「べらぼう」初回で起きた火事が、1722年。
主人公、蔦重(つたじゅう)が吉原に、客足を呼び戻そうと思案していた頃ですので、長谷川平蔵の生まれた年から換算すると、20代前半になります。
素行が悪い、というより、遊び慣れていない?感じですね。
「京兆府尹記事」(けいちょうふいんきじ)という史料には、
『父が倹約して貯めた金を使って、遊女屋へ通った』ということが書かれています。
こうしが行動をする若者を「グレる」と言いますが、最初の時点ではグレる、というより、いきがっている?
これで終わらなかったからこそ、のちの「鬼平」ができた次第ですが。
長谷川平蔵は、遊び人!
やがて遊郭での遊びを覚えます。
長谷川平蔵が、遊び人だった、ということを書いていある記録があります。
現代描かれたものですが、古文書をまとめた、出版物で
「長谷川平蔵ーその生涯と人足寄場」
「鬼平・長谷川平蔵の生涯」
「鬼平がよみがえるー時代の魁・長谷川平蔵」
などに書かれています。
長谷川平蔵は、かなりの遊び人でした。今の言葉で言うと「やんちゃしている」ですね。
長谷川平蔵、「やんちゃ」の理由は?
「やんちゃ」だったのか、その理由はどこにも明かされていません。
が、父親への反抗心が、古今東西で親子の対立原因となっっており、長谷川家も例外ではなかったと思われます。
長谷川平蔵の家庭事情が原因?
長谷川平蔵は、若い頃 父の正妻から冷たくされていたところから、放蕩に走るようになった、と言うのが通説です。
というのも、平蔵は父の正室の子供ではありませんでした。
父の名は長谷川平蔵宣雄(はせがわへいぞうのぶお)といいます。
長谷川家の菩提寺の過去帳にある長谷川宣雄の正妻の名前は、寛政重修諸家譜にある長谷川平蔵の生母の記述と違います。
実母をなくし、父の家に引き取られたようです。
父は、従兄弟の家の養子となり、やがてその家を継ぎます。
父の正妻は、従兄弟の家の娘で、おそらく、父は養父一家に頭が上がらなかったのではないか、と想像ができます。
そんな、冷たい環境で育った、息子 (後の)長谷川平蔵は逃げ出したい気持ちになるのも、仕方がない、と思えます。
長谷川平蔵、父への反抗心
長谷川平蔵の父もまた、火付盗賊改方に任ぜられており、のちに「京都西町奉行」になっていた、バリバリの役人。
父と同じ職業に就けるかどうかは分かりませんが、とにかく、これから長谷川家の当主として、武士として生きることが運命づけられていました。
行ってみれば、長谷川平蔵は、将来への人生のレールが引かれていたようなもの。
家庭内の様子は、義理の母(父の正妻)が冷たい。
非行(?)に走ってしまった、長谷川平蔵を考えると、父はあんまり家庭を顧みない人だったのでは、と言うことが想像されます。
長谷川平蔵、どれだけ不良だった?
犯罪まではやらなかったようです。
と言うのも、もし犯罪(盗みなど)を犯せば、父親が責任を取らされるからです。
父親は役人でしたし、家族の不祥事なら、切腹にまで命じられることもあります、が父親は、そのような罰を受けた記録がありません。
では、どんなワルぶりだったかというと、大酒飲み、喧嘩、遊女あそびではないでしょうか。
たまには、大喧嘩して叔母れて、一晩くらい牢屋で過ごす、なんてこともあったかもしれませんね。
長谷川平蔵の不良時代の終わり
ワルになった、と見られている長谷川平蔵ですが、
父が亡くなると、その素行の悪さはおさまるようになります。(ピタリ、とではありませんが)
父が、京都西町奉行になったときには、長谷川平蔵はも、京都に行き、妻子を持っていましたが、それにもかかわらず、京都でも、遊び歩いていました。
父は京都赴任中に亡くなったのですが、父の死により、長谷川平蔵は長谷川家当主となります。
その時から、長谷川平蔵は徐々に変わったのでした。
と言うことは、長谷川平蔵は、ワルになってやろうと思ってはいなかったのではないでしょうか?
ワルになっている、と言う経験を楽しんでいたのかもしれません。
長谷川平蔵と蔦重、出会いはあった?
長谷川平蔵は、NHK大河ドラマ「べらぼう」でまさに、不良真っ最中で、蔦重(蔦屋重三郎)と出会っています。
が、実際には、こんな出会いはなかったと、番組の時代考証者は言っていました。
長谷川平蔵がちょうど、長谷川家を継いだばかりの頃、という場面が番組の背景です。
長谷川平蔵と蔦重は、番組の最初の頃から、関わりが間接的にですが、ありました。
1772年、吉原が炎上する「明和の大火」が起き、その犯人を捕らえたのが、長谷川平蔵の父 長谷川宣雄だったのです。
長谷川宣雄は、犯人逮捕で出世し、「京都西町奉行」となるのですが、1773年に亡くなります。
家を継いだ長谷川平蔵は、父の死後熱心な役人ぶりを見えるようになった、と伝えられているのですが、「べらぼう」ではまだまだ、遊び人風が見られます。
人間、そんなに簡単に素行が変わるものではない、と示しているのですね。
この後にも蔦重、と出会い、影響を受けることがあったという可能性で、ドラマは進められていくでしょう。
長谷川平蔵には密偵がいたのは本当?
小説、およびドラマの「鬼平犯科帳」には密偵が出てきますが、実際に密偵はいました。
これは、長谷川平蔵のライバルだった 森山源五郎孝盛(もりやまげんごろうたかもり)が長谷川平蔵の批判として書き残し非難しています。
『長谷川平蔵は泥棒を捕まえるのは得意だが、
それは公儀が禁止している、密偵を使っているからだ』
とあることから、密偵を持っていたのは事実のことです。
が「鬼平犯科帳」の年上の密偵、彦十 のように、長谷川平蔵の昔の、ワルの遊び仲間(遊びの師匠?)のような存在は、フィクションです。
長谷川平蔵がどのように密偵を集めたかは、記述がありませんが、犯罪に関わった人たちの中から、動いてくれそうな人を探したのでしょう。
現代の刑事が、タレコミやというのを使うのと似ていますね。
そこには、長谷川平蔵が若い頃の不良時代で、人を見る目が養われてきていたのかもしれません。
長谷川平蔵、松平定信に認められて
長谷川平蔵が、火付盗賊改方として活躍するようになったのは、松平定信が老中になってからです。
松平定信から、火付盗賊改方として抜擢されました。
火付盗賊改方は親子二代で勤めることは極めて珍しいことでした。
老中 松平元信から能力が評価されての抜擢です。
実際、長谷川平蔵の働きぶりも見事なもので、長谷川平蔵が扱った事件は76件にも及んだ、と「御仕置例類集」(おしおきれいるいしゅう)という裁判記録に残されています。
有名な事件としては「神道徳次郎」(しんとうとくじろう)、「葵小僧」といった盗賊の逮捕でした。
しかし、のちに自分を盛り立ててくれた松平定信とは不仲になりました。
長谷川平蔵は、町奉行になりたかったのですが、その望みを松平定信は受けてくれなかったからです。
長谷川平蔵の刀とは?
刀には「井上真改」(いのうえしんかい)と言う名前が付いています。
大阪の名工 「真改国貞」(しんかいくにさだ)と言う関西地方の、名工の手による刀です。
大阪には「大坂神刀」と呼ばれている名刀の一つで「大坂政宗」と呼ばれています。
特徴としては、美しい地金と刃文が大きく浅く入って、非常に美しく華やかに見える刀です。
長谷川平蔵はこの刀を愛用していました。
小説の「鬼平犯科帳」にも、この刀がよく出てきます。
まさに刀は、武士の魂、と感じさせるような刀の扱いです。
長谷川平蔵、何をした人?
「火付盗賊改」という仕事についた人でした。
その名前の通り、放火犯を捉える他に盗賊の逮捕が、おもな役割でした。
江戸の治安を維持するために、世の中を騒がす犯罪に対しては、非常に厳しく取り締まりが行われました。
治安を守るために、火付盗賊改には、捜査、逮捕に関して大きな権限が与えられました。
かなり強引な操作も許されました。
強引な捜査のために、人から恨みを買うこともありました。
こうして、恐れられる存在になりましたが、人々から感謝される業績も残しています。
長谷川平蔵は、石川島に人足寄場を設置しました。
にほうのの時代、飢饉などから貧困に苦しむ人が江戸に流れてきたものの、仕事がなく犯罪に手を染めてしまう人が多かったのです。
その人たちの更生施設として作り、労働への賃金を払うだけでなく、道徳などの教育を施して、犯罪の再犯を防ごうとしました。
盗賊「葵小僧」では、襲われた被害女性の名前が世間に知られないようにして、犯人 蒼小僧を処刑した、という配慮でした。
今では、被害に遭った女性に関して、被害者保護、個人情報は必須ですが、江戸時代にこんな配慮する人がいることに、驚きました。
長谷川平蔵の先祖は?
長谷川平蔵は、旗本なのですが、その先祖は、藤原秀郷(885年〜947年)に、さかのぼることができます。
藤原秀郷は、平安時代、平将門(たいらのまさかど)を討伐した人でも有名です。
その子孫は、多くの士族を生み出しており、その一つが長谷川氏なのだ、と言うことが「寛政重修諸家譜」(かんせいちょうしゅうしょかふ)に書かれています。
藤原秀郷の末裔が、下野国(栃木県)小山に移住し、小山氏(おやまし)を名乗ったのが始めで、その子孫が、大和国長谷川(やまとのくにはせがわ、現在では京都府)に移り住み
長谷川という姓になったのが始まりです。
この時、長谷川氏は京都に移ったので、それが、長谷川平蔵の父 長谷川宣雄が「京都西町奉行」になったのは、偶然ではなかったと思います。
まとめ
小説、ドラマで有名な長谷川平蔵は、不良することで人間性を深めた人物なのですね。
若い頃の素行が将来には良い方向に向かった、というところが面白いところです。
「べらぼう」の長谷川平蔵も、「鬼平犯科帳」の長谷川平蔵もどちらも歌舞伎役者がキャスティングされています。
特に「鬼平〜」の方は、役者が、中村吉右衛門から、甥の松本幸四郎に代わりました。
それぞれの活躍がどうなるか、気になってたまりません。
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