十返舎一九、名前の由来?性格は?どんな人?蔦重との関わり?酒好き?辞世の句。死因?井上芳雄に配役!東海道中膝栗毛の作者。

べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺

東海道中膝栗毛で有名な作者、十返舎一九は名前は本名ではありません。

元々 浮世絵師でしたが、「東海道中膝栗毛」、「手造手法」、など読み物の作者で、蔦重と何かからみが感じられます。

作品は非常に滑稽みが溢れていると同時に、辞世の句も面白さがあふれています。

「べらぼう」では、井上芳雄がキャスティングされています。

ここでは、十返舎一九のキャラクターを、その性質、クセを見ながら解き明かしていきます。

十返舎一九の名前の由来は?

十返舎一九は、じっぺんしゃいっく と読みます。

が、この名前はペンネームで、本名は重田貞一(しげたてさだかつ)と言い、幾五郎という名を通称として使っていました。

「べらぼう」の中では、最初は 重田貞一、という名前で登場しています。

ペンネームとしての十返舎は、奈良の正倉院に納められている、蘭奢待(らんじゃたい)という香木から取りました。

蘭奢待は、10回たいても香りが消えない、と言われる香料で、その香料を手にしたものは、天下人になれる、という言い伝えがあるのです。

その言い伝えは、戦国武将の織田信長(おだのぶなが)が、使い、天下人になった、という伝説から来ています。

なぜ十返舎かというと、自分の作品が何回読まれたも、その面白さが消えない、という意味を込めたのだと思います。

ここから見ると、十返舎一九は教養が高い人なのだな、というとこが読み取れます。

一九、というのは、自分の幼名 市九(いちく)の市の文字を一に変えたものです。

十返舎一九の性格は?

きむずかしく、変わり者、というのが通説とされています。

どんなエピソードから、気難しい、変わり者と言うのでしょうか。

十返舎一九は、きむずかしい?

十返舎一九の作品は、どれもユーモアにあふれ、楽しいものですが、作者本人の性格は、それとはほど遠いものでした。

それをし見えすエピソードは、十返舎一九のファンの話です。

ファンは、「東海道中膝栗毛」を読んで、十返舎一九と一緒に旅をしたらさぞかし楽しいと思い、旅行費用を持つから、と言って、十返舎一九を旅の道連れに誘いましtあ。

しかし、2人で旅をする間、十返舎一九は黙ったままで、むっつりとして口を聞いてくれないので、同行人であるファンは、すっかり退屈して途中で、1人で帰ってきてしまいました。

十返舎一九は旅の間何をしていたかというと、宿に着くと、1人で、机に向かって日誌を書いていた、のです。

きむずかしい と同時に、生真面目だった、とも言えますね。

これはファンの方が、十返舎一九を楽しい人、として見すぎてしまったのでしょう。

弥次喜多の物語のような、展開を予想していたのでは無いでしょうか。

十返舎一九は変わり者?

変わり者、というより、晩年は酒好きから、その行動が酒のせいなのか?と思われる行動が多くなりました。

新年に挨拶に来た客を無理やり入浴させて、その間に、客人の着物から刀まで全て借りて、着込んで、近所に新年の挨拶回りに行った、というのですから、度を越したふざけぶりですね。

酒代がなくなったために、家財道具を売り払ってまで、お酒を買うほどでした。

家財道具がなくなった、がらんとした家に住んでいても平気だったようです。

物事にあんまり執着しない人物だったのでしょうか?

でもその空間を、自分で描いた家財道具の絵を貼っていたというのだから、人目を気にする人とも考えられます。

十返舎一九、どんな人?

日本初の、職業作家といわれた人物です。原稿料だけで生活をした人、ということです。

(1765年〜1831年)あたりの人生を送った、とされていますが、史料に示されてはおらず、作品の出版年代から推測されたものです。

十返舎一九、オールマイティ作家

戯作者、浄瑠璃作者でにあり、浮世絵師でもあり、本の挿絵も自分で描くことができました。

作家デビュー当時は、年に10作も新作を書き、江戸で人気を集めました。

ジャンルも幅広く、恋愛小説から、通俗小説、怪談話に及ぶ、オールマイティな作家です。

なぜ、ここまで多種類の本を書くことができたかというと、江戸に来るまでに、狂言、謡曲、浄瑠璃、歌舞伎、落語、など、あらゆる芸能ごとを学んできていたからです。

十返舎一九、人気作家への道は?

十返舎一九は、駿河(現在の 静岡県)で下級武士の家に生まれ、江戸の武家の家で勤めた後、大阪で、勉強をした、ということが伝えられています。

大阪で修行中、浄瑠璃の脚本を書いたことがわかっていますが、それ以外の活躍はあまり見られていません。

若い時期は、修行に励んでいたのでしょうね。だからこそ、どんなことも、物語に書いて人々を楽しませることができる作家になったのです。

現代の私たちが見ると、十返舎一九は、人を笑わせることに生涯を捧げた、ようです。

本人が意識していたかどうかは、ですが。

十返舎一九と蔦屋重三郎と、どう関わる?

十返舎一九は、蔦屋重三郎こと蔦重にその才能を見出された1人です。

蔦重は十返舎一九をデビューさせ、作品も多く売り出しました。

十返舎一九、蔦重のもとを尋ねるきっかけは?

十返舎一九は大阪で、修行しその後江戸に出て、1794年頃から蔦重の元で働き始めます。

蔦重のところに、十返舎一九が同様なきっかけで、入るようになったかは、実際では不明ですが。

「べらぼう」では、蔦重のところで出されている黄表紙本が好きで、十返舎一九を蔦重の耕書堂から、出版させてもらいたい、と思い、耕書堂の門をくぐるの、という設定です。

最初は、下働きだったのですが、十返舎一九は文章力があり、絵も上手い、ということに気がついた蔦重は、十返舎一九を自分の家に住まわせて、自分の仕事を手伝わせます。

ちょうど、かつての喜多川歌麿のように。

そんな、十返舎一九は、30歳になろうとしていました。歌麿などに比べると、年齢的に遅いような気がしますが、大器晩成型なのでしょう。

十返舎一九、蔦重のもとで、才能を発揮!

蔦重は、人を見抜くのが得意らしく、人気が出そう、と思った作家には、一生懸命売り出しをかけます。

蔦重は十返舎一九を「心学時計草」(しんがくとけいぐさ)という、遊郭の物語で、デビューさせました。

内容は、遊女がお客を自分に惚れさせようとあらゆる手段を使うと反面、金をあまり持っていないお客に対しては、冷たくあしらう、という物語です。

そんな遊郭の一場面の物語ですが、そこを十返舎一九の手法で、面白おかしく仕上げています。

十返舎一九、酒好きから「手造酒法」を書いた?

十返舎一九は、お酒大好き。晩年もお酒に影響されていたようです。

十返舎一九の酒好きのエピソード

書いた作品がヒットとなる前は、物語、絵が売れなくて貧乏生活。生活に手一杯で、酒代までにはお金が回りません。

仕方がなく、と思った、十返舎一九は家財道具を売り払って、酒代に充てていました。

当然、家の中は殺風景。

仕方がないから、家財道具の絵を描いて家の床や壁に貼っていました。

家財道具を売り払う、というのだから、モノに執着しない人なのかな?と思ったら、絵を貼ってごまかすとは、十返舎一九もやはり、人の目を気にする人?

「東海道中膝栗毛」には、登場人物たちが、宿屋でお酒を楽しむシーンが出てきますが、これはお酒の楽しみを知っている、十返舎一九ならでは、といえます。

十返舎一九の「手造酒法」とは?

そんな十返舎一九は、1810年、お酒についての本を書きました。それが「手造酒法」。

これは、お酒の作り方 というべき本です。

様々な材料で作るお酒のレシピ、という本ですね。

芋酒、甘酒、豆腐酒からぶどう酒の作り方なんていうのもあります。

梅酒の作り方も詳しく説明されていて、現代私たちが作る梅酒とは、少し違うところもあります。

紹介しますと、

  • 豊後青梅の大きめを使い、まず梅をよく洗って灰をまぶし、一晩おき、翌日には灰を洗い流し、その後、水気を完全に切る。
  • 次に、古酒(三年ものが良いらしい)を砂糖を入れ20日ほどつけ込み、その後は、乾燥させた桃の種の細かく刻んだものを入れ一晩置く。
  • 翌日は濾してまたツボに入れ、口をしっかりして置いておく。

「灰を使う」というのは、理由は書かれていませんが、灰の性質を考えると、アクやエグ味を撮るためかと思われます。

「手造酒法」には、お酒の作り方だけではなく、薬草を用いた滋養強壮の飲み物、味噌や麺類に関する記述もあります。

現代でいえば、ワインとワインにピッタリの食べ物を紹介する本といえましょう。

酒好き、と言っても、意外と、お酒と向き合っており、娯楽の本というより、酒についての真剣な本、なのですね。

十返舎一九の辞世の句とは?

辞世の句 とは、自分が死んでいくときに残す和歌、俳句のことです。

十返舎一九の辞世の句は

「此世をば どりゃ おいとまにせん 香の煙とともに 灰左様(はいさよう)なら」

意味は

「そろそろ、この世から、おいとましようと思います。お線香の煙とともに、はい さようなら」

「はい」を「灰」という漢字で表し線香の煙とかけているところが、この句のミソですね。

特に「灰」は線香の灰 と自分の遺灰の両方を意味しています。

武士、作家と身分ある人、有名人が残していますが、大体は死の直前に書くのではなく、元気なうちに作ってあることが普通でした。

だから十返舎一九も、人生のまだ早いうちに、ユーモアを練り込んだ辞世の句を書くことにしたのです。

ここに人を喜ばせることが好きな、十返舎一九の面が現れています。なかなか、かっこいい生き方ですね。

十返舎一九の死因

十返舎一九は、1831年8月6日 67歳で亡くなりました。

十返舎一九の死因は、やはり酒に?

病死、とは言われていますが、原因は酒にあったように思えます。

というのも、晩年は酒におぼれていた、というから酒乱に近いものだったのではないでしょうか。

十返舎一九は、人気作家として名前も売れていましたが、それでも酒代に使ってしまうのでしょうか、貧乏暮らしでした。

妻がいたか?についても、全く記録にないため、いなかった方が正しいと思います。

というより、酒好きで、いつも酒を飲み貧乏暮らしとなると、妻になる女性はいたとしても、皆、逃げ出してしますでしょう。

十返舎一九、線香で驚かす?

十返舎一九は、最後の最後まで、ユーモアを追求した作家でした。

自分に死期が近いと予測していたのでしょうか、自分の死後に包んでもらうよう、大きな袋を用意して、中に線香花火を仕込んでおきました。

十返舎一九は火葬になることになっていましたから、その袋ごと、本人の遺体を火葬するとき、線香花火が一気に爆発して、参列者を驚かせました。

辞世の句の「この世をば どりゃおいとまに 線香の 煙とともに 灰左様なら」

の線香は、墓に炊く線香だけではなく、線香花火のことも指していたのだな、とここで気づくのです。

大きな打ち上げ花火ではないから、大きな事故にはならなかったと思いますが、それにしてもびっくりしたことでしょう。

十返舎一九、「べらぼう」では井上芳雄さんに!

「べらぼう」での十返舎一九 役が井上芳雄さんにキャスにングされ、登場する回が楽しみです。

井上芳雄さんは、「エリザベート」のルドルフやトート役で、とても人気があり、ミュージカルだけあって、声色も大変素晴らしく、どのような、十返舎一九となるか、楽しみです。

天才肌である面、気難しい性格の持ち主、大変なお酒好き、と多様性のある役です。

酔いどれた、十返舎一九役の 井上芳雄さんも見られるかもしれません。

井上さん、ご本人もとても楽しみにしておられます。

「べらぼう」では、すでに山東京伝 役で、同じくミュージカルスターの古川雄大さんが出演しており、視聴者の目を大いに楽しませています。

十返舎一九、「東海道中膝栗毛」の作者

「東海道中膝栗毛」はまさに、江戸の滑稽本の売れ行きナンバーワンと言って間違いありません。

1802年〜1809年にかけて全部で8編出版されていました。

「東海道中膝栗毛」はどうしてあんなに大人気になったのでしょう?

本の中には、何よりも大衆性が感じられるところがいちばんの人気の秘訣です。

特に、武士や身分のかる階級に対する、庶民の疑問や不満を、「弥次さん」・「喜多さん」という2人の町人に語らせたことが、面白さを作り出しました。

「東海道中〜」は、これまでのストーリーを語る物語とは違い、登場人物たちの会話を中心に物語が進められていく構成でした。

そのため、最初の頃は、どの出版元からも、「売れないだろう」と見られていたのです。

実際、出版されてみれば、主人公の会話のテンポの良さと、江戸庶民に慣れた言葉遣いで書かれていたことが、特に人気を得た理由でした。

しかし東海道中膝栗毛を出版したのは、残念ながら蔦重の耕書堂ではなく、村田屋治郎米衛(むらたやじろべえ)という出版元でした。

そう、蔦重は1797年に死んでしまっているので、「東海道中〜」の頃にはすでにいなかったのです。

本の人気は現代まで続き、子供むきに書かれた本も多数出版されています。

まとめ

十返舎一九は、江戸時代 中〜後期の人気作家でした。

その名は本名ではなく、10回読んでもまだ楽しめる作家、という意味でした。

しかし、性格はなかなか複雑なようで、面白い人であるようで、意外と気難しい感じです。

その才能を花開かせたのが蔦重でした。

非常にお酒ずきだったのですが、その酒好きも、十返舎一九の芸術性に一役買ったようです。

最後は、酒が元で死んだようですが、その辞世の句、そして、葬式でさえも人々をあっと言わせるという非常に面白い人物でした。

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