豊臣秀吉の軍師と呼ばれた、人物に竹中半兵衛がいます。
非常に頭の良い人間で、しかもイケメンとくれば、これからの「豊臣兄弟」の流れが楽しみになってくるでしょう。
こののち、「稲葉山城襲撃事件」を起こして、それをきっかけに、織田信長、豊臣秀吉に貢献する人物となります。
ここでは、竹中半兵衛のがどのように出世して、秀吉の軍師になったかを、解き明かしてみました。
竹中半兵衛、頭いい人!
三人の武将に関わり、軍師となったのだから、「頭いい人」と見ることができます。
三人の武将とは、斎藤龍興、織田信長、豊臣秀吉ですが、よく知られているのは、豊臣秀吉の軍師としてです。(織田信長については、はっきりしていない)
軍師というのは、軍の大将について、戦争での戦況を見て分析し、味方を勝利させる作戦を立てる人のことです。
軍師といえば、中国の「三国志」に出てくる話ですが、竹中半兵衛も、中国由来の兵法(ひょうほう)の書物を読んで勉強しました。
その中国の書物を読み(もちろん日本語に翻訳されたものですが)、頭に叩き込んで、作戦を立てるのですから、頭がいいのはもちろんのことです。
竹中半兵衛はイケメン?
イケメンだったのは、本当と思われます。
「その容貌、婦人の如し」ということが、
『常山紀談』(じょうざんきだん)、『太閤記』にのっています。
つまり「色が白く、線が細く、女性のよう」と、書かれています。
これはイケメンというより、美男子ですね。
しかし、美男子・イケメンとはっきり言い切れないのは、上記の資料が江戸時代に書かれたものなので、美化されていることも考えられます。
それでも「豊臣兄弟」の竹中半兵衛役・菅田将暉を見ると、イケメンなのは本当!と信じたいです。
なにしろ、あの前髪の垂らしが印象的です。前髪パラリは、いい男の象徴なのでしょうか?
竹中半兵衛の死因?
死因は肺結核と言われています。まだ36歳で、秀吉が天下人になるのを見ずして死にました。
竹中半兵衛の死に関しては「黒田家譜」、「武功夜話」、「日本史」(ルイス・フロイス著)に出ています。
「武功夜話』(別名「前野家文書」)には、三木城(兵庫県三木市)を包囲・攻撃の最中に死んだ、と書かれています。
この頃、竹中半兵衛の病状は相当悪くなっていたのみ関わらず、静養先の京都から駆けつけてきた、とあります。
「太閤記」に書かれているエピソードでは、竹中半兵衛は、最後に豊臣秀吉(この頃は羽柴秀吉)は天下を取る、と予言して亡くなります。
死の時そばにいた、豊臣秀吉は、竹中半兵衛の遺骸に泣いて取りすがった、という伝説ですが、この話はちょっと、創作の匂いを私は感じます。
出来過ぎではないでしょうか?後世には秀吉の偉業を取り上げる話がたくさんあり、それらには信用のある史料が、ありませんから。
竹中半兵衛の墓は(たくさんあり、そのうちの一つ)、兵庫県三木市・平山観光ぶどう園のなかにあります。
「観光ぶどう園」というから、観光客も訪れることができそうです。
竹中半兵衛、稲葉山城乗っ取り事件とは?
1564年、竹中半兵衛が、岐阜の稲葉山城を乗っ取ったのは、裏切りでは?
というのも、稲葉山城は、斉藤龍興の居城であり、竹中半兵衛は、その時期は斎藤龍興に支えていたからです。
稲葉山城は、攻めるのが難しいと言われている城で、織田信長は稲葉山城を落とすのに苦労していました。
竹中半兵衛、怒る?
竹中半兵衛の最初の雇主は、稲葉山城の城主・斉藤龍興でしたが、そこで、半兵衛はイジメにあっていました。
それは、竹中半兵衛の容姿が原因でからかわれていました。
戦国武将たちといえば、筋骨たくましく、性格も荒っぽいので、竹中半兵衛のように美男は、異質に写っていたようで、厳しい戦の間の、気晴らしがイジメになっていたようです。
ひどい時は、登城の時、櫓の上から、小便をかけられて、さすがの竹中半兵衛も堪忍袋の尾が切れた、という話が「武功夜話」にあります。
バカにした人たちは、主君・斉藤龍興の主要な部下だから、竹中半兵衛が訴えたところで、まず取り上げてもらえない。
「小便をかけられた」というのも、江戸時代以降の書物に出てくる話なので、事実性は薄いです。
竹中半兵衛の、反乱のきっかけを物語として面白くしようとして加えたエピソード、という考え方も最近では出てきています。
竹中半兵衛、稲葉山城を乗っ取る?
1564年2月(1562年3月、という説もある)の夜に実行されました。
竹中半兵衛は、病気の弟を見舞う口実で、十数名の部下を連れ、稲葉山城を訪れます。
弟は、人質として、殿のもとに差し出していました。それは家臣としての当時の義務でした。
弟の病気はもちろん仮病で、これは作戦です。
竹中半兵衛は、見舞いの品と言って、長持ち(横に大きな箱)を持って入りますが、これをもってすんなりと城内に入れてしまうのが、「ゆるい」稲葉山城です。
門番はチェックし、「面倒を見てくれた人たちへの振る舞いの酒・食事だ」と竹中半兵衛がいうのを、そのまま信じていました。ゆるいですね。
城内に入り、人目を避けると、持参してきた武器を手にして、乗っ取り活動の開始です。
城で夜勤中の、斎藤川の大将を斬ると、城側は突然の襲撃にどうすることもできず、竹中半兵衛に乗っ取られるにまかせることになっていまいました。
肝心のお殿様、斉藤龍興は城内から寝巻きのままこっそりと城から逃げ出していた、と「武功夜話」にはありました。
竹中半兵衛たちは乗っ取り成功を、わずか数時間でやってのけました。
不意打ちとはいえ、これは夜襲です。城の守りがあまりにも無防備すぎる、と思います。
稲葉山城は、織田信長も「攻撃が難しい」と言っていたから、城の防御力を過信しすぎていた、と私は思います。
それにしても、全く無用心で、情けない城主ですね。
竹中半兵衛、稲葉山城のっとり計画の結果は?
竹中半兵衛の、稲葉山城反乱の結果は、成功に見えます。
しかし、この反乱の様子を甲斐国恵林寺の、僧侶・快川はこの様子を書簡(手紙)に、「この反乱は不快だ」と書いています。
僧侶は、斉藤龍興の脱出を喜んでおり、一臣下が、殿様を城から追放した、というのは、よくないこと、という見方をしていました。
それに、稲葉城山の反乱についても、いくら殿様・斉藤龍興が城主として不適格に見えても、他の戦国武将が、竹中半兵衛に従ってきません。
そこから見ると、竹中半兵衛の反乱が、他の人から認められるような行動、とは思われていなかった、ということになります。
つまり、稲葉山城襲撃は失敗だった、と言えます。
徳川家が政権をとる徳川時代でも、太閤秀吉の物語は、非常に人気のある物語でいた。
だから秀吉とそれに味方する人物は、美化して描かれる系花王があった、と私は思っています。
竹中半兵衛、墨俣城一夜城に関わった?
大河ドラマ「豊臣兄弟」では、竹中半兵衛が終わるごろ出ていました。
墨俣城のエピソードは1566年とされているので、竹中半兵衛が、織田・豊臣のもとにはまだいません。
ではいったい何をしていたのか?
後に竹中半兵衛は、秀吉の臣下となることを匂わせるための演出だったのではないかと、私は思っています。
実際、竹中半兵衛が、遠くから様子見をしていた、などと書いてあるものはありません。
おそらく、豊臣秀吉と蜂須賀小六が建てた作戦をみた竹中半兵衛が、秀吉に興味を持ち始めることの伏線として描かれた、と思います。
竹中半兵衛と、秀吉の関係は?
竹中半兵衛は、豊臣秀吉と生涯にわたって、主従関係が続きます。
豊臣秀吉は、織田信長の命令で、竹中半兵衛を迎えに行きます。
竹中半兵衛を秀吉が「三顧の礼」で訪れた話は史実?
迎えに行った時の話が、「秀吉は三顧の礼で、半兵衛を軍師に迎え入れた」と言われるエピソードです。
「三顧の礼」を尽くしたという話は、江戸時代以降の「太閤記」物語から芝居や講談になって有名になったので、史実かどうかは疑わしいです。
後々、「三顧の礼」と話題が出てきていることを考えると、「三顧の礼」を尽くしたというより、何度も通った頼み込んだ、という事実はあったのではないか、と私は想像しています。
| 三顧の礼とは
中国の物語「三国志」に出てくる話で、三国志の主要人物、劉備玄徳(りゅうびげんとく)が自分の軍師に、秀才として有名な、諸葛孔明(しょかつこうめい)を迎えようとした話。 劉備玄徳は、諸葛孔明を軍師に迎えようとしたが、断られ、3回も礼を尽くして会いに行って、やっと自分のもとに軍師としてきてくれるようになった という話で、礼節を重んじる、古代中国の美談として、伝えられています。 日本でも、昔から人気のある話でした。 |
竹中半兵衛、秀吉に仕える!
竹中半兵衛は、豊臣秀吉に仕えることになりました。
上の章にあるような「三顧の礼」で、決意した、というのは脚色しすぎですが、竹中半兵衛が秀吉に仕え始めたのは、1567年頃あるいは、1570年という説もあります。
1568年に、織田信長と六角氏(ろっかくし)との争い「観音寺城の戦い」、「箕作城攻め」に参加し、秀吉の手柄に大いに貢献したことから、名を上げ始めました。
それからの竹中半兵衛の軍師としての活躍は
- 1570年 姉川の戦い
- 1573年 小谷城の戦い。浅井長政が敗れ、その妻・お市の方を救出します。
- 1575年 長篠の戦い(ながしののたたかい) 武田勝頼の軍を織田の鉄砲隊が打ち破りました。
- 1577年 中国攻め。織田信長が豊臣秀吉に軍を任せた戦い。
主に、この4つの戦いが挙げられますが、1570年の「姉川の戦い」から、竹中半兵衛が正式に豊臣秀吉に、仕えるようになったのではないか、と言われています。
というと、1568年の六角氏との戦いの時は、「お試し採用期間」だったのでは?と私は考えていますが。
竹中半兵衛、織田信長から引き抜かれる?
稲葉山城乗っ取りの話を聞いて、織田信長は、城を乗っ取った竹中半兵衛に使者を送ります。
「稲葉山城を(信長に)くれれば、(竹中半兵衛に)美濃国の半分をやろう」と。
なにしろ、織田信長は、美濃の平定を望んでいたのだから、その領内にある稲葉山城は、なんとしても欲しかったのですから、竹中半兵衛の行動は、信長に希望を持たせました。
しかし、竹中半兵衛は次のように言って拒否します。
我が国の城であるから他国の人にああえて所領を賜るのは本意ではない
(左文字右京著『日本の大名・旗本のしびれる逸話』から
竹中半兵衛の、稲葉山城乗っ取りは、城を自分のものにするのではなく、斉藤龍興の城主としての自覚を呼び覚ますためだった、という解釈がこれまで有力です。
しかし、最近では、竹中半兵衛は城を狙っていた、という説も出てきているのですが、実際には、半兵衛は、城を自分のものにしていないので、こちらの説も裏付けがありません。
竹中半兵衛に豊臣秀吉を使者に送り、秀吉は、半兵衛に礼を尽くして誘うのですが、竹中半兵衛は、信長の家臣にはなりませんでした。
しかし、一説では、竹中半兵衛は、信長のもとに入った、ともあります。
竹中半兵衛は、豊臣秀吉の軍師として、現代でも知られていますので、もし信長に仕えることがあったとしても、ほんの一時期だけだったのでは?と私胃は推測します。
竹中半兵衛の戦法とは?
竹中半兵衛は、古代中国の「孫子」(そんし)の兵法をよく使っています。
勉強家だったことの表れでにあります。
孫子には「戦わずして勝つ」ということが説かれており、竹中半兵衛もその思想に共感していました。
例を挙げてみましょう。
- 三木合戦では相手を飢えさせて命を断つ。
- 敵の中の一派を寝返らせて、自分の味方につける。
- 敵を二つに分けて相手の戦力を小さくして、敵を叩く
- 稲葉山城の反乱で見せたような、素早い動き・奇襲で相手を驚かせてその隙に倒す、
できるだけ味方の犠牲を少なくして、敵を倒す作戦を取りました。
「犠牲を少なくして」というのは、味方にとってという意味であって、中には相手を餓死に陥れるという、悲惨に見える戦法を考えつく人、と私は感想を持ちました。
まとめ
竹中半兵衛を軍師としての活躍から見ていきました。
戦争にかける労力をできるだけ少なくして、大きな成果をあげる。
そう試みた竹中半兵衛ですが、後世の私たちから見ると、決して潔い手段とは見えません。
竹中半兵衛田、稲葉山城襲撃を行い、城主追放作戦を決行しても、ついてきてキレる武将はいませんでした。
しかし、代わりに織田信長、豊臣秀吉に、見出されて、現代に至るまで、腕の良い軍師として尊敬を集めているのですから、大した人物だったのだ、ということが見えてきます。
早死にしてしまう、竹中半兵衛ですが、「豊臣兄弟」の中で、イケメンぶりを発揮して人気を集めるのではないでしょうか?

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