ポリニャック夫人、覚えていますか?
漫画「ベルサイユのばら」お馴染みの登場人物です。マリー・アントワネットの親友の実在の人物です。
映画「マリー・アントワネットに別れを告げて」でもマリー・アントワネットが非常に心をかける女性として描かれています。
東京そして大阪で、50周年記念「ベルサイユのばら展」が開かれています。50年も経つのですね。(2023年4月)
過酷なフランス革命の人物です。どのような生涯を送ったのか、どのくらいの年齢まで生きたのか興味を惹かれます。
そしてどんな最後を迎えたのでしょうか?
娘がいたようなのですが、「ベルサイユのばら」のようにシャルロットやロザリーだったのでしょうか?
子孫が現存しています
ここではポリニャック夫人の生涯をご紹介、そして娘の存在についても調べていました。
ポリニャック夫人、美人肖像画、実際は?
ポリニャック夫人の肖像画で多分一番有名だと思えるのは、エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブランが描いた作品でしょう。ベルサイユ宮殿美術館の所蔵品です。
豪華な正装ではなく、プライベートドレスというか当時はシュミーズドレスと言われていた、くつろいだドレス姿の絵です。
同じくヴィジェ=ルブランが描いた「ゴール服のマリー・アントワネット」の絵と同じような服装です。
もしかしたら対になっているのかな?と思うほどよく似た雰囲気の絵です。ここにも仲良しさんらしさが表れているのかも。
ポリニャック夫人は絵の通りの美人で、同時代の人の書いた記述には「豊かな黒髪」、「大きな目」、「すみれ色の瞳」、「通った鼻筋」、「ラファエロの描くマドンナのよう」などどあります。
絵を見ると、ちょっと少女っぽい美人、に見えます。
マリー・アントワネットはベルサイユ宮殿の行事に出席したポリニャック夫人の美人ぶりに魅了された、とあります。
そこで直ちにポリニャック夫人を自分の女官にとりたてる、ベルサイユ宮殿ないに部屋を与える、多額の給与も与える、と非常に優遇しました。
当然ながら、古参の大貴族からは不満が起こりました。
ポリニャック夫人は当時から「顔は美人で天使のよう、でも心は悪魔」という人物でした。
美人は得?のいい例かもしれません。美人度で男性をたぶらかすという話は多いですが、女性も「美人」には弱いのでしょうか?
世界の悪女、について書かれた本にはマリー・アントワネットが載っていますが、思うにマリー・アントワネットよりポリニャック夫人の方がよっぽど「悪女」と呼ぶに相応しいのですが・・・
これから悪女についての本を書く人がいたら、ぜひポリニャック夫人を加えてもらいたいと思う次第です。
ポリニャック夫人の娘、シャルロットは実在?
ポリニャック家は4人の子供が生まれました。男子3人と女子一人。
残念ながら、シャルロットという名前の娘は実際にはいません。
シャルロットのモデルになった人らしい、娘がいました。
一番上の女子でアグラエという娘です。アグラエは母親似の美人で、彼女もまたマリー・アントワネットに可愛がられました。
アグラエはギーシェ公爵と結婚し、ギシェットという愛称で呼ばれました。夫のギーシェにちなんだそうです。
アグラエは結婚する際の国王からのお祝い金を普通の貴族の子弟以上の金額をもらっています。
やはりマリー・アントワネットの、お気に入りのお友達の娘だからでしょうね。
結婚した時、アグラエは12歳、ギーシェ公爵はアグラエの13歳上。この設定で、あっ、シャルロットと同じ・・・と思われるでしょう。
それなら公爵は25歳、ですので、年の差というより、むしろ、壮年に達した夫ということで、そんなに嫌な気分にはならないような気がしますが。
それに「ギシェット」と呼ばれているからには、夫とは良い関係が持てていたのでは?
残されて肖像画では、アグラエは、母親譲りの美貌の持ち主で、可愛らしい感じです。
アグラエはモデルとはいえシャルロットのように自殺しません。フランス革命を生き延びます。
ポリニャック夫人の肖像画を書いた、ルブラン夫人は、革命後に、アグラエに再開したとき「アグラエの愛くるしい顔立ちは、以前と少しも変わっていない」と回想録に書いています。
一族揃って亡命できたのは運が良かったですね。
ですがせっかく運の良さも、最後はイギリスで火事に遭い死亡しました。
生き延びていれば、どんな子孫が存在していたか・・・
ポリニャック夫人にロザリーという娘は存在した?
「ベルサイユのばら」で出てきたロザリーはポリニャック夫人の娘ではありません。作者さんの創作でした。
ロザリー・ラ・モリエールという人物は実際にいました。
実在のロザリーは、牢獄(コンシェルジェリ)に入った、マリー・アントワネットの世話をした人です。
ロザリー・ラ・モリエールは、王妃の世話をした日々を手記に残していますが、記述には、時系列が正確でないものがあったり、文字の間違いがあるようです。
もしかしたらロザリーは文字の読み書きができなかったのかも知れません。
知られているのは名前だけです。それをロザリー、養母のモリエール、ポリニャック夫人、ヴァロア家と繋げ、実際に存在したかのように感じさせる、作者さんの創作力は見事なものです。
ポリニャック夫人、マリー・アントワネットにとってどんな存在
マリー・アントワネットの親友として知られているポリニャック夫人、本名はヨランド・マルティーヌ・ガブリエル・ド・ポラストロン。
ポリニャックは結婚してからの苗字です。ポリニャック伯夫人として知られていますが、のちに夫は公爵となり公爵夫人になりました。
当時のフランス宮廷、いえ18世紀という時代は、女性にとっては良い夫や恋人(当時だと愛人、と言った方がいいかも)を見つけるより同性の親友に出会える方が遥かに難しかったようなのです。
王妃という地位にあった、マリー・アントワネットは自分には理解者がいない・・・・と嘆いていたらしいのですが、そんな時に現れたのがポリニャック夫人でした。
ポリニャック夫人の美しさに目を奪われたマリー・アントワネットは是非とも彼女をそばにおきたいと思うようになるのでした。
漫画「ベルサイユのばら」の中にも、マリー・アントワネットとポリニャック夫人の出会いが書かれています。ある行事でポリニャック夫人を見つけたのでしたね。
ただ美しい・・・だけだはなくポリニャック夫人の取り入り方も上手だったのでしょうが、女性の大親友を持つ・・・・これが宮廷内のトレンディになっていたのでしょうか?
「ベルサイユのばら」の中では、ポリニャック夫人がさりげなく自分にお金がない、だから宮廷には頻繁に上がれない・・・などとまことしやかに言っていましたね。
それにマリー・アントワネットは同情する。非常に言葉上手な人物して描かれていました。
二人の出会いのシーンは「ベルサイユのばら」で非常によく表わされていると思いました。
そして徐々に権力を握っていくポリニャック夫人も「ベルサイユのばら」では漫画であるが故の感情の動きが的確に描かれていました。
同性の親友を持って、心の中を打ち明ける・・その見返りに親友にお礼をする。そのシチュエーションにマリー・アントワネットは酔っていたのですね
それでもポリニャック夫人は、アリー・アントワネットにとってかけがえのない友人の存在であるのです。
ポリニャック夫人の子孫はモナコに
では息子たちはどうなったでしょう?
ポリニャック家は国際的な婚姻をしながらポリニャック夫人の血筋はモナコ公国に流れていきます。
子孫は今でも続いています。
ポリニャック家の息子、カミーユ・アンリ・メルシオール・ド・ポリニャック(メルシオールの名前で通っている)の息子マクサンヌはメキシコ人女性と結婚しました。
そのメキシコ人妻の叔父はメキシコ大統領の娘婿という上流階級にありました。
二人の間の息子四男、ピエール・マリー・グザヴィエ・ラファエル・アントワーヌ・メルシオール・ド・ポリニャック(長い名前!)は、モナコ大公の娘シャルロットと結婚しました。そしてピエール・ド・モナコ ヴァランティノワ公と名を変えました。
つまりピエールはポリニャック夫人の孫、となります。
ピエールの子供が大公レーニエ3世であり、彼こそがアメリカ女優グレース・ケリーと結婚した人物なのです。
フランス王家に仕えていた時も、したたかで要領が良かったのですが、その才能は子孫にまで伝わったようですね。歴史が長く続くためにも、したたかさは必要なことかもしれません。
そのしたたかさのおかげで、ポリニャック伯爵の子孫はこうしてずっと引き継がれていきます。
フランス革命で亡命して、生き残ってこそのポリニャック一族です。
ポリニャック夫人の最期
王妃マリー・アントワネットに取り入って贅沢の限りを尽くしたポリニャック夫人。
一体どんな、最期を迎えたのでしょう?
ポリニャック夫人に貢がれた費用は、かつてルイ15世がポンパドール夫人に注ぎ込んだ費用の約14倍にも当たります。
ポリニャック夫人、亡命の真相
フランス革命の先ぶれとしてバスティーユ襲撃が起こると、民衆の声は当然、打倒ポリニャック夫人一族と声高に叫びますから、命の危険を感じて逃げ出したくなるのも当然でしょう。
フランス革命が起こると、ポリニャック夫人その一族は王妃を見捨てて、さっさとベルサイユから逃げ出してしまった、が通説です。
私たち現代人はこれを読み、あんなに寵愛を受けながらなんて薄情な人たちだ・・・と。
ですが、必ずしもこれだけが真実ではありません。
ポリニャック夫人の亡命は、国王夫妻が命じたものだった、ということです。命令をポリニャック夫人が受け入れて亡命に応じたのでした。
自分たちが見捨てた、なんて噂も流されるままにしておきました。
ポリニャック夫人本人は、王妃マリー・アントワネットの元に残りたい、という申し出たのですが、王妃に説得されて去ったということです。
さて、見捨てて逃げ出した説、残りたかったのに説得されて離れた説、どちらが真実でしょう?私は残りたかった説に軍配をあげたいです。
マリー・アントワネットの自分の感情に正直すぎる性格。大切な人には精一杯尽くす性質。こうした王妃の性格をポリニャック夫人も、バカ正直な王妃様、と思ったこともありました。
しかしやはり王妃に友情を感じていたのだと思います。長年王妃のそばにいることで王妃を大事に思う心が育っていっていたのでしょう。
ポリニャック夫人、その最後は?
この後ポリニャック夫人はスイスに逃げますが、そこからまた放浪生活を送りながらウィーンに落ち着きます。
フランス国王一家のヴァレンヌ逃走事件の際は、国境地帯で国王一家を出迎えようと計画していたらしいですが、国王一家が捕まってしまったので、ポリニャック夫人たちもそこから逃げました。
ポリニャック夫人の生涯も、マリー・アントワネットや他の貴族たちと共にフランス革命の中を逃げる人生を送ります。スイスにいるあたりから体調を崩すようになり、1793年12月、この世を去りました。
マリー・アントワネットは同年10月に処刑で命を落としました。その知られをポリニャック夫人も耳にしました。
日本人的な考え方をすると、親友の最後の旅の道連れに自分も共に・・・情緒的すぎるでしょうか?
親族は心臓発作と言いましたが、どうも癌に侵されていたようです。結核と言う歴史家もいます。
いずれにせよ、44歳ほどで亡くなったのですから、病死と見て間違いはないと思います。
いくら、人の寿命が短い18世紀でも、44歳は、まだ
ポリニャック夫人登場の映画
ポリニャック夫人がフランスを脱出するシーンが、一番最近の解釈に近いと思われる映画が「マリー・アントワネットに別れを告げて」です。
これまでのポリニャック夫人像は、勝手に逃げていった、というイメージでしたが、この映画では、ポリニャック夫人は王妃と離れがたいシーンが描けれています。
映画では、王妃の読書係となった少女の話です。
少女はマリー・アントワネットに憧れるのですが、それを知ってか知らずか、少女をポリニャック夫人の身代わりとして、逃亡させるのです。つまい囮です。その間に本物のポリニャック夫人を逃がそうとする計画です。
かなりひどい話ですが、少女は引き受けます。
その時のポリニャック夫人は、マリー・アントワネットのそばにずっといたい・・・そう言っていました。
これが新しい解釈です。ポリニャック夫人にはこのような忠節の気持ちがあったとは・・・・
それでも王と王妃に何度も説得されて、結局は逃げます。
身代わりとされた少女のこれからを思うととても可哀想な話なのですが、ポリニャック夫人の新しい面が出てきたこの映画は、見どころの多い映画でした。
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