リチャード1世、虐殺?やばい人?サラディンとの戦い。エクスカリバーを持つ?作曲家?捕虜に?ライオンハートという人気者。死因?ロビンフッドにて。

イギリス史

リチャード1世は、ライオンハートという呼び名を持つ、中世のイングランド王で、英国歴史上人気の王様です。

リチャード1世はエクスカリバーという名前の剣を所有していたそうです。この剣は由緒あるものという理由も、王の人気を高めています。

12世紀、第3回十字軍に参加して、イスラムの王・サラディンと死闘を繰り広げましたが、この時、敵捕虜を虐殺したことで、悪名も高く、ダークサイドな面も見られます。

ここでは、ダークな面、人気の面、両方を持ち合わす王、リチャード1世を解説します。。

リチャード1世は、虐殺に手を染めた王?!

1191年8月20日、第3回十字軍の戦い(キリスト教国とイスラムの戦い)の時のことです。

この戦争で、リチャード1世側も、イスラム側も、それぞれ敵を捕虜とし大量殺害をしました。

捕虜の数は、2700〜3000人ほどでした。

十字軍では、捕虜は、身代金と引き換えに敵方(イスラム)に返す、あるいは奴隷にする、というのが普通のやり方でした。

ところが、リチャード1世は、それら捕虜を殺害してしまったのです。

殺害方法は、キリスト教徒の兵たちが、捕虜たちを手足を縛ったままアッコン郊外に連れ出して、一斉に首斬る、でした。

中には、兵士だけでなく、イスラムの一般民もいました。だから虐殺、と言われるのですね。

現代の、イギリス王家の歴史家、ジョン・ギリンガムは、リチャード1世の虐殺行為に対し、「当時の人は、キリスト教ではないイスラム教徒を殺すのは残酷と考えていなかった」のでした。

というのも、この行為は、戦時中では「よくあること」だった、

イスラム教徒もキリスト教徒の捕虜を殺害していたから、おあいこだ、という見方が当時はされていました。

イスラム側の目撃者(バハ・アッド・ディン)は、ヨーロッパ人の行為を非常に残酷、と言っていました。

ジョン・ギリンガムは、自分の本に

「リチャードのすべての行為の中で、これは現代の歴史家によって最も激しく非難されているものです。」

と、書いています。

中世という時代の戦争は、確かに捕虜に対する扱いは、人道的とは言えないものでしたが、それでも、リチャード1世の残酷さは、一際目立つものではないかと、私は思います。

リチャード1世、やばい人?

リチャード1世が、イスラム教徒を大量に虐殺したことは、単に中世の決まりごと、というより、リチャード1世本人が性格に残虐性を持っていたのでは?

つまりやばい人、と私は考えています。

そのことについて、現代の歴史家、ジョン・ギリンガムは次のように書いています。

「カンタベリーのジェルヴァースは、『アキテーヌの偉大な貴族たちは、彼のひどい残虐さのために彼を憎んでいた』と報告しています」

ロジャー・オブ・ハウデンによると、「彼は臣下の妻、娘、親族を力ずくで連れ去り、彼女らを自分の愛人にしました。彼は彼女らに自分の欲望を満たした後、兵士たちが楽しむために彼女らを渡しました。彼はこれらのことや他の多くの不正行為で人々を苦しめました」

※ロジャー・オブ・ハウデンとは、12世紀後半のイギリスの歴史家。

また、近代のフランスの歴史学者ジャン・フロリは、次のように書いています。

リチャード1世のアキテーヌでの統治は「かなり独裁的で、残忍で、冷酷ですらあった」

アキテーヌは、フランス南部にあるリチャード1世の母の生まれ故郷で、母からリチャードが受け継いで、支配していました。

フランス国内に、イギリス領土があるものですから、周囲のフランスの領主たちからは敵視されていました。

この時代、誰もが少しでも自分の領土を増やそうと躍起になっていましたから。

特にリチャード1世は、自己主張の強い王でしたから、周辺の領主(アングレームなど)とは、反乱、戦闘が絶えず起こりました。

その時、リチャード1世は、問答無用で、敵国の城を打ち壊していました。

イギリスでは、自分の国の力が見せつけられて、喜びますが、フランス側の評価は、最悪でしたね、やっぱりやばい人です。

リチャード1世第3回十字軍に参加、サラディンとの死闘!

リチャード1世が参加した、第3回は長い十字軍遠征の中では、一応の成果を挙げた戦いと言われています。

第3回十字軍の目的は、イスラムのサラディンに占領された聖地イスラエルを奪還すること。時のイスラムの国はアイユーブ朝でした。

そしてこの戦いにはイングランド、フランス、神聖ローマ帝国の3国の王が参加しました。

リチャード1世、1人でサラディンに立ち向かう!

1191年にはイスラエル北部の地アッコンを陥落させ、リチャード1世はイスラム教徒を大量に虐殺しました。

フランスなどの国王は、アッコン陥落の後、帰国してしまいました。

実はリチャード1世、他の王様たちと仲違いを起こしてしまうのです。二人の王はここで怒って帰国してしまいます。

これも、上記の項で見るように、リチャード1世の性格が悪すぎて、フランスの王たちから嫌われていたから、と私は見ています。

それと、同時に、リチャード1世の大量虐殺に他の国王たちは、嫌悪感を持ったのかも、とも思います。

リチャード1世の、自業自得?

リチャード1世の戦いぶりは?

リチャード1世のイングランド軍は孤軍奮闘で、敵のサラディンと対決し、それは「アルスフの戦い」と呼ばれています。

サラディンはリチャード1世軍の横を襲い、向こうが反撃に出ると走って逃げることで相手の疲労を誘います。

リチャード1世軍は、横からの攻撃を避け、本軍を一挙にサラディンに一斉攻撃をかけます。

サラディン側が逃げる時、サラディン本陣が潜む地域までは入り込まず、本陣周りの兵士を一人づつ狙い撃ちします。

サラディンはこのままではリチャード1世に敵わないと見て、引き上げるのです。

この後、リチャード1世は南部のアスカロンを攻めサラディン側の補給を断ちます。そうしてリチャード1世は聖地イスラエルを目指すのですが、戦況はお互い一進一退。

アウエイの戦いでは、不利な立場か、と私は思いました。それは今も昔と同じですね。

しかし、サラディンの方が、リチャード1世の心意気に感じ入ったのでしょうか?戦を長引かせてもよくないと思ったのでしょうか?サラディンはリチャード1世に休戦を申し出ます。

以前リチャード1世が約3000人ものムソリムを虐殺した事件にはじいることは考えたのでしょうか、それが私の頭に浮かびました。

少なくとも、サラディンの懐の深さには感銘を覚えて欲しいと思っている次第なのですが。

休戦協定では海岸地帯はキリスト教国側の治安のもとに置かれますが、エルサレムの治権はイスラム側になりました。

しかし、エルサレムへ巡礼するキリスト教徒の安全は保障されることとなりました。

第3回十字軍は、エルサレムをキリスト教側に奪還できなかったことで完全なる成功とはいえませんが、ある程度の成果だけは得られました。

リチャード1世、剣エクスカリバーを愛用?

リチャード1世の剣は伝説の名剣「エクスカリバー」という伝説がありますが、可能性は少ないでしょう。

1192年アーサー王の墓が発見された、そしてそこにはアーサー王の剣エクスカリバーも発見されました。

リチャード1世の愛剣はエクスカリバー?

イングランド南西部サマーセット州グランストンベリーの修道院跡が墓地と言われています。現在では観光地となり、やはりアーサー王の墓跡が綺麗に整備されています。

アーサー王はイングランドの守護神的存在であり、リチャード1世もまたその父親のヘンリー2世もアーサー王を自分たちの王位の権威づけとして利用していました。

原作はもとより、その墓の存在もエクスカリバーが実際に出土したか、これらも事実かどうかもわかりません。自分で作らせて名前を付けただけかもしれません。

とにかくリチャード1世はエクスカリバーと呼ばれる剣を携えていました。エクスカリバーを所持することに意義があったのです。

父親ヘンリー2世と共に王者である、という権威づけが必要でした。

十字軍にも持参しますが、途中シチリア島で、シチリア王と友好の印に贈ったそうです。従って、今ではその存在は明らかではありません。

エクスカリバーという剣、伝説のアーサー王が所持していた剣なのです。アーサー王というと、歴史上では3、4世紀頃にそのモデルと言われる人物はい他のですが、伝説のような話とはちょっと違います。

でも、この時代、アーサー王物語はヨーロッパで盛んに語られていました。英雄物語として吟遊詩人に語り継がれていたのです。

アーサー王物語は英雄物語の根源で、現代にも生きています。例えば「ロードオブザリング」はその代表格です。日本で言えば「ドラゴンクエスト」だって、アーサー王の流れをひく物語です。

リチャード1世のエクスカリバー好きは、母の影響?

物語の普及に非常に貢献した人が、リチャード1世の母親、アリエノール・ダキテーヌでした。

母アリエノールに愛されて成長したリチャード1世。母が好んでいたアーサー王と騎士の物語の影響を息子が受けていてもおかしくありません。

リチャード1世は高潔の騎士になることに憧れを持っているところがありました。

騎士道の一つに女性、貴婦人を大切にする掟がありますが、リチャード1世の場合、尊敬する貴婦人を母エレオノールにしていたところがあります。多少共マザコン?

騎士の掟に従った・・・とは言いいますが、

女性を大切に、勇猛果敢に戦う、と騎士として振る舞いましたが、どうも物語的な人生に憧れて、かっこいい騎士であろうと人生を送った人なのですね。

リチャード1世は、作曲家?

騎士とカッコつけて、作曲しています。

吟遊詩人が流行しており、ヨーロッパ各地を回っていました。吟遊詩人たちは英雄物語を歌い継いでいく旅の音楽士たちのことですが、リチャード1世も彼らに歌い継がれる人生を送りたいと思っていたようです。

同時人気の音楽家たちとの交流もあり、死後リチャード1世の功績は吟遊詩人たちに歌われ英雄視されました。

一介の騎士として物語的には面白いかもしれませんが、王としては統治期間が短く人気の割に王の資質が感じられない人物だったような気がします。

リチャード1世、捕虜となる?

十字軍である程度の成果を収めたリチャード1世御一行はイングランドに帰国をします。

しかし陸路で帰路のリチャード1世は、オーストリアで捕まり、神聖ローマ帝国の捕虜となります。

リチャード1世、なぜ捕虜になった?

捕えたのは、リチャード1世に恨みがあるオーストリア公レオポルド5世。

十字軍でアッコン陥落に際、最初に手柄を挙げたのがレオポルド5世で、それを示すために旗を掲げたのですが、

リチャード側の人物が旗を叩き落としました。

旗が落とされたのを見た。レオポルド5世は怒って、アッコンを引き上げて帰国したのです。

旗の事件をレオポルド5世が根に持って、帰国するリチャード1世を捕え、イギリスに身代金を要求しました。

恨んで捕獲して幽閉?

ちょっとセコイと思いませんか?それに身代金も要求するのだから、セコイ通り越してガメツイと、私には見えるのですが・・・

捕えられたリチャード1世の身柄は神聖ローマ帝国ハインリヒ6世に引き渡されます。

リチャード1世の身代金は、ダイヤモンドで支払われました。「ブレリオットオブインディア」という名前のダイヤモンドです。

金額にして10万ポンドと言われていますが、どのようなダイヤモンドだったのでしょう。身代金でイングランドの国庫が厳しくなった、と言われているから相当な金額だったかと思われます。

リチャード1世、ライオンハートの名を持つ王

リチャード1世にはライオンハート、日本語で獅子心王という呼び名がありました。

英語で言うと、Richard the Lionheart. フランス語だとクールドリオン(Coeur de Lion)となります。

意味は「勇敢で決断力がある。強くかつ気高い心を持つ者」です。武勇に優れ行動も人の規範となる騎士道の手本となる人物である、ことを指します。

ライオンハートは元はと言えば旧約聖書に由来しています。旧約聖書では、イスラエルの王たちは、「獅子」と呼ばれてメシアの象徴、キリストを示していました。

ライオンは相当格の高い動物、それを自分になぞらえる、リチャード1世…なかなかの自信家だったに違いないと、私は思います。

リチャード1世の人気はどこから?

リチャード1世は、物語の主人公的な意味では、冒険心に溢れる英雄です。

そんな意味で人気の王様でした。ライオンハート…獅子心王なんて名乗ってもう一端の英雄です。

リチャード1世人気の秘密?

果敢だったこと、最後のサラディンとの協定は潔かったので、終わり良ければすべて良し、とリチャード1世の性質も少し美化されてしまったのかもしれません。

だからこそ代々のイギリス王としては、今でも人気の上位を占めます。

生まれはイングランドであっても、子供時代はフランスで過ごし、英語はあまり上手くありませんでした。

当時のイギリスはフランス語主流でイングランド王宮でも公用語がフランス語だったので、その点は仕方ないですね。

イングランドにいた時期は生涯を通じて約5ヶ月。それでも英雄的な意味で国民からは人気がありました。

リチャード1世は王の器か?

では、5ヶ月で、果たして王としてはどんなことができたのでしょう?国内のことに目をあんまり向けられなかったと私は考えるのですが。

あまり王としては、優秀とは言えない、と私は思うのです。

リチャード1世は、外国遠征を繰り返すため、金銭が必要となり、増税を何度も行いました。

また、人質になる、など失態してその身代金にまたお金がかかると…厄介な王様です。

短気な面も見せています。

アッコン陥落させた時には、数多くのムソリムを捕虜にし身代金を稼ごうとしました。

しかしサラディン側がなかなか身代金を持ってこなかったので、激怒したリチャード1世は約3000人に上る人質を虐殺した、ということです。

イスラム側は「改宗か、身代金か、死か?」の選択肢だったのですが、短気さからくる横暴さを感じさせます。

この事件以来、アラブでは子供が親の言うことを聞かないと「リチャードが来るぞ!」と言って黙らせたそうです。

リチャード1世の死因

リチャード1世の死は、死因は一言で言うと壊疽でした。41歳。当時の王様としての寿命ならまずまずの年齢ではなかったでしょうか。

十字軍遠征でサラディンと死闘、そして帰国途中捕虜の身の上となり、帰国しましたがそれだけでは収まらず再び戦場に赴きました。

今度はフランスとの戦争。フランスの土地は母から譲り受けたものでしたが、フランス国内の土地であるためフランス王がその権利を主張していたための戦争です。

アキテーヌ領にあるシャリュ城での戦いの合間、鎧を脱いでいた時に、おそらく休憩中?肩に矢が当たり、傷から壊疽を起こしたのでしょう。10日間苦しんだ挙句に亡くなりました。

戦最中の死ということで、戦国時代の王としての死と考えると名誉ある死でした。

騎士という自覚を持っての生涯、後世の私たちから見ると、自分の騎士道精神に酔った王様に見えるのですが。思う通りに生きられた本人は満足のいった一生だったのですね。

リチャード1世、「ロビンフッド」状況今昔!

リチャード1世が登場する映画は「ロビンフッド」が代表的な作品ですが、作られた時代により、リチャード1世の取り上げられ方が違ってきています。

1991年、ケビン・コスナー主演の「ロビンフッド」の場合だと、映画の最後に現れて主人公の結婚を祝福し、悪の勢力を蹴散らす崇高な人物のような描かれ方をしていました。

2010年、ラッセル・クロウ主演の「ロビンフッド」だと、比較的現在知られているようなリチャード1世像に仕上がっていました。

こちらのリチャード1世は、高潔な騎士道の持ち主ではありません。

ロビンフッドたちがリチャードに対し、「この戦いは意味がない」などの言い方をすると気に入らないと言われ、言った者たちを拘禁したりする、暴君ぶりを発揮していました。

その最後も、敵城を攻め入る際、矢で射られて命を落とすこととなってしまいました。

昔の映画の方が、ロビンフッドもリチャード1世も、正義感が強い人物に描かれていました。

現代になるにつれかなりリアリズム的になってきている、世の中の変化が面白いと私は思います。

まとめ

リチャード1世は、以前では、騎士道物語を地でいくような王、と言われロマンス面でもてはやされていましたが、

王の実態は、イスラム教徒を虐殺する、自分の領土では、本能のままに振る舞う、などかなりやばい人です。

しかし、イギリス国民にとっては、一般人がイスラエルへの巡礼安全な旅を取り付けた、人物。

となると、英雄として見られています。

同じリチャードがつく、イギリス王にリチャード3世という王がいます。

この王はシェイクスピアの戯曲で人気のある王ですが、この王様も残虐で有名です。

リチャードという王がたくさんいて紛らわしいですね。

そんなリチャード3世についての記事もありますので、お読みください。

この王も、残虐と言われていますが、遺体を調べたところ、なかなかのイケメン、ということがわかっています。

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