TVで映画「ロビンフッド」を観ていました。
ロビンフッドの映画にはリチャード1世が付き物です。これまでみた「ロビンフッド」でのリチャード1世は名君として登場するのですが、今回のラッセル・クロウ主演「ロビンフッド」のリチャード1世はあまり良い王ではなさそうです。
ライオンハートという二つ名を持った王イングランド王。今でもイギリスで人気のある歴代の王の一人としてみられています。
12世紀の王で第3回十字軍に参加していました。サラディンと死闘を繰り広げました。
その帰りも戦争をしながら帰るのですが、途中捕虜になり身代金を要求される身の上となりました。その時代王様でもそんな目に遭うことがあるのですね。
リチャード1世はエクスカリバーという名前の剣を所有していたそうです。この剣は由緒あるものとか。
最後の死は、王として相応しいものであったと言いますが。
リチャード1世と剣エクスカリバー。母の影響か?作曲も手がける
リチャード1世の剣は「エクスカリバー」でした。とは言いますが、はっきりした証拠はありません。
エクスカリバーという剣、伝説のアーサー王が所持していた剣なのです。アーサー王というと、歴史上では3、4世紀頃にそのモデルと言われる人物はい他のですが、伝説のような話とはちょっと違います。
でも、この時代、アーサー王物語はヨーロッパで盛んに語られていました。英雄物語として吟遊詩人に語り継がれていたのです。
1192年アーサー王の墓が発見された、とのニュースがありました。そしてそこにはアーサー王の剣エクスカリバーも発見されたと。イングランド南西部サマーセット州グランストンベリーの修道院跡が墓地と言われています。現在では観光地となり、やはりアーサー王の墓跡が綺麗に整備されています。
アーサー王はイングランドの守護神的存在であり、リチャード1世もまたその父親のヘンリー2世もアーサー王を自分たちの王位の権威づけとして利用していました。
原作はもとより、その墓の存在もエクスカリバーが実際に出土したか、これらも事実かどうかもわかりません。自分で作らせて名前を付けただけかもしれません。
とにかくリチャード1世はエクスカリバーと呼ばれる剣を携えていました。エクスカリバーを所持することに意義があったのです。
父親ヘンリー2世と共に王者である、という権威づけが必要でした。
十字軍にも持参しますが、途中シチリア島で、シチリア王と友好の印に贈ったそうです。従って、今ではその存在は明らかではありません。
アーサー王物語は探究する英雄の物語全ての根源となって、現代にも生きています。例えば「ロードオブザリング」はその代表格です。日本で言えば「ドラゴンクエスト」だって、アーサー王の流れをひく物語です。
物語の普及に非常に貢献した人が、リチャード1世の母親、アリエノール・ダキテーヌでした。
母アリエノールに愛されて成長したリチャード1世。母が好んでいたアーサー王と騎士の物語の影響を息子が受けていてもおかしくありません。
リチャード1世は高潔の騎士になることに憧れを持っているところがありました。騎士道の一つに女性、貴婦人を大切にする掟がありますが、リチャード1世の場合、尊敬する貴婦人を母エレオノールにしていたところがあります。多少共マザコン?
騎士の掟に従った・・・とは言いいますが、女性を大切に、勇猛果敢に戦う、と騎士として振る舞いましたが、どうも物語的な人生に憧れて、かっこいい騎士であろうと人生を送った人なのですね。
騎士とカッコつけて、作曲しています。
吟遊詩人が流行しており、ヨーロッパ各地を回っていました。吟遊詩人たちは英雄物語を歌い継いでいく旅の音楽士たちのことですが、リチャード1世も彼らに歌い継がれる人生を送りたいと思っていたようです。
同時人気の音楽家たちとの交流もあり、死後リチャード1世の功績は吟遊詩人たちに歌われ英雄視されました。
一介の騎士として物語的には面白いかもしれませんが、王としては統治期間が短く人気の割に王の資質が感じられない人物だったような気がします。
リチャード1世第3回十字軍に参加、サラディンとの死闘!
リチャード1世は第3回十字軍遠征に参加します。
第3回は長い十字軍遠征の中では華のある遠征だったといえます。でも戦争だから、華があると言ったって・・・・
第3回十字軍の目的は、イスラムのサラディンに占領された聖地イスラエルを奪還すること。時のイスラムの国はアイユーブ朝でした。
そしてこの戦いにはイングランド、フランス、神聖ローマ帝国の3国の王の揃い踏み出陣でした。
1191年にはイスラエル北部の地アッコンを陥落させました。しかしアッコンを陥落の時点でフランスなど他の軍は帰国してました
実はリチャード1世、他の王様たちと仲違いをここで起こしてしまうのです。二人の王はここで怒って帰国してしまいます。
そこでリチャード1世のイングランド軍は孤軍奮闘で、敵将サラディンと対決しました。二人の戦いは「アルスフの戦い」と呼ばれ、リチャード1世、サラディンの両雄は死闘を繰り広げます。
サラディンはリチャード1世軍の横を襲い、向こうが反撃に出ると走って逃げることで相手の疲労を誘います。
リチャード1世軍は、横からの囮攻撃を避け、本軍を一挙にサラディンに一斉牙攻撃をかけます。サラディン側が逃げる時、サラディン本陣が潜む地域までは入り込まず、本陣周りの兵士を一人づつ狙い撃ちします。
サラディンはこのままではリチャード1世に敵わないと見て、引き上げるのです。
この後、リチャード1世は南部のアスカロンを攻めサラディン側の補給を断ちます。そうしてリチャード1世は聖地イスラエルを目指すのですが、戦況はお互い一進一退となり、アウエイの戦いでは、不利な立場です。
しかし、サラディンの方が、リチャード1世の心意気に感じ入ったのでしょうか?戦を長引かせてもよくないと思ったのでしょうか?サラディンはリチャード1世に休戦を申し出ます。
リチャード1世の方はサラディンに対してこの時どう思ったのでしょうか?以前リチャード1世が約3000人ものムソリムを虐殺した事件にはじいることは考えたのでしょうか?
少なくとも、サラディンの懐の深さには感銘を覚えて欲しいと思っている次第なのですが。
休戦協定では海岸地帯はキリスト教国側の治安のもとに置かれますが、エルサレムの治権はイスラム側になりました。
しかし、エルサレムへ巡礼するキリスト教徒の安全は保障されることとなりました。
第3回十字軍は、エルサレムをキリスト教側に奪還できなかったことで完全なる成功とはいえませんが、ある程度の成果だけは得られました。
リチャード1世、捕虜となり身代金を取られたことも
十字軍である程度の成果を収めたリチャード1世御一行はイングランドに帰国をします。
しかし陸路で帰路のリチャード1世は、オーストリアで捕まり、神聖ローマ帝国の捕虜となります。
捕えたのはオーストリア公レオポルド5世だったのですが、レオポルド5世はリチャード1世に恨みがありました。
十字軍でアッコン陥落に際、最初に手柄を挙げたのがレオポルド5世。それを示すために旗を掲げたのですが、多分城壁の上目立つところだろうと思うのですが、リチャード側の人物が旗を叩き落としたのでした。これが伏線にありました。
旗がなくなる光景を見たレオポルド5世は怒って、アッコンを引き上げて帰国した、と言うエピソードがあります。
旗の事件をレオポルド5世が根に持って、帰国するリチャード1世を捕えたのでした。捕えた代償は身代金です。これぞまさしく「キングの身代金」!
恨んだがてめの捕獲と幽閉?ってちょっとセコイと思いませんか?それに身代金も要求するのだから、セコイ通り越してガメツイと見えるのですが・・・捕えられたリチャード1世の身柄は神聖ローマ帝国ハインリヒ6世に引き渡されます。
リチャード1世の身代金は、ダイヤモンドで支払われました。「ブレリオットオブインディア」という名前のダイヤモンドです。
金額にして10万ポンドと言われていますが、どのようなダイヤモンドだったのでしょう。身代金でイングランドの国庫が厳しくなった、と言われているから相当な金額だったかと思われます。
リチャード1世、ライオンハートの異名を持つ王
リチャード1世は12世紀にイングランド王であると言っても、生涯においてイングランドで過ごした日々はわずか5ヶ月ほどでした。ほとんど戦争で出歩いていた、というわけです。
リチャード1世にはライオンハート、日本語で獅子心王という呼び名がありました。英語で言うと、Richard the Lionheart. フランス語だとクールドリオン(Coeur de Lion)となります。
意味は「勇敢で決断力がある。強くかつ気高い心を持つ者」です。武勇に優れ行動も人の規範となる騎士道の手本となる人物である、ことを指します。
ライオンハートは元はと言えば旧約聖書に由来しています。旧約聖書では、イスラエルの王たちは、「獅子」と呼ばれてメシアの象徴、キリストを示していました。獅子、つまりライオンは相当格の高い動物だったわけです。
自分を高潔の動物になぞらえる、リチャード1世・・・・なかなかの自信家だったに違いありません。
自身だけではなく、実際に武勇も優れていました。十字軍はじめとして戦争では各地で活躍が見られました。
余談ですが、SMAPの「らいおんハート」もやはり強い心と優しい心を持ち合わせた人のことを歌っていますね。騎士道をベースにしているのかな?
リチャード1世の人気は?
リチャード1世は、物語の主人公的な意味では、英雄色たっぷりで冒険心に溢れて・・・そんな意味では人気の王様だったのかもしれません。ライオンハート・・・獅子心王なんて名乗ってもう一端の英雄です。
しかし実際の王としてはどうだったのでしょう?
生まれはイングランドであっても、子供時代はフランスで過ごし、英語もあまりよく話せませんでした。最も当時はフランス語主流でイングランド王宮でも公用語がフランス語だったので、その点は仕方ないですね。
イングランドにいた時期は生涯を通じて約5ヶ月。それでも英雄的な意味で国民からは人気がありました。
5ヶ月で、果たして王としてはどんなことができたのでしょう?国内のことに目をあんまり向けられなかったのではないでしょうか。
ついには外国遠征を繰り返すため、金銭が必要となり、増税も繰り返したと言います。そのほかも人質になる、など失態してその身代金にまたお金がかかると・・ちょっと破茶滅茶と言っていい王様でしたね。
短気な面も見せています。
アッコン陥落させた時には、数多くのムソリムを捕虜にし身代金を稼ごうとしました。しかしサラディン側がなかなか身代金を持ってこなかったので、激怒したリチャード1世は約3000人に上る人質を虐殺した、ということです。
サラディン側は「改宗か、身代金か、死か?」の選択肢だったのですが、短気さからくる横暴さ。3000人の虐殺は聞くだけでゾッとします
あまり名君の器とは言えないですね。
この事件以来、アラブでは子供が親の言うことを聞かないと「リチャードが来るぞ!」と言って黙らせたそうです。
日本の「もっこさくる」(そんなに言うことを聞かないと、蒙古がきて攫っていくよ、と言う意味。鎌倉時代の蒙古襲来からきた言葉ですね)との言い聞かせとよく似ているのが面白いです。
あまり名君の器とは言えないですね。
でも勇猛果敢だったこと、最後のサラディンとの協定。その場面は潔かったので、終わり良ければすべて良し、とリチャード1世の性質も少し美化されてしまったのかもしれません。ですから代々のイギリス王としては、今でも人気の上位を占めます。
リチャード1世の死
リチャード1世の死は、死因は一言で言うと壊疽でした。41歳。当時の王様としての寿命ならまずまずの年齢ではなかったでしょうか。
十字軍遠征でサラディンと死闘、そして帰国途中捕虜の身の上となり、帰国しましたがそれだけでは収まらず再び戦場に赴きました。
今度はフランスとの戦争。フランスの土地は母から譲り受けたものでしたが、フランス国内の土地であるためフランス王がその権利を主張していたための戦争です。
アキテーヌ領にあるシャリュ城での戦いの合間、鎧を脱いでいた時に、おそらく休憩中?肩に矢が当たり、傷から壊疽を起こしたのでしょう。10日間苦しんだ挙句に亡くなりました。
戦最中の死ということで、戦国時代の王としての死と考えると栄誉ある死でした。
騎士という自覚を持っての生涯、後世の私たちから見ると、自分の騎士道精神に酔った王様に見えるのですが。思う通りに生きられた本人は満足のいった一生だったのですね。
リチャード1世が登場する映画は「ロビンフッド」が代表的な作品ですが、「ロビンフッド」が作られた時代により、随分取り上げられ方が違っています。
1991年、ケビン・コスナー主演の「ロビンフッド」の場合だと、映画の最後に現れて主人公の結婚を祝福し、悪の勢力を蹴散らす崇高な人物のような描かれ方をしていました。
2010年、ラッセル・クロウ主演の「ロビンフッド」だと、比較的現在知られているようなリチャード1世像に仕上がっていました。
こちらのリチャード1世は高潔な騎士道の持ち主ではなく、「部下に本当のことを言え」、と促しつつも、ロビンフッドたちが「この戦いは意味がない」などの言い方をすると気に入らず、言った者たちを拘禁したりする、気まぐれな王を描いていました。
その最後も、敵城を攻め入る際、矢で射られて命を落とすこととなってしまいました。
昔の映画の方が、ロビンフッドもリチャード1世も、志高い者とした勧善懲悪ムービーのような感じでした。
現代になるにつれかなりリアリズム的になってきている、世の中の変化が面白いです。
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