諏訪頼継(すわよりつぐ)について、「逃げ若」での年齢、その行動ぶりに目をつけてみました。
また、史実での人物像、時行との関係、死因と最期、そして足利尊氏・高師冬・直義とのつながり
をまとめました。
また、名前が変わりすぎな理由まで、気になるポイントを徹底的に調べました。
ぜひお読みください。
逃げ若に登場、諏訪頼継!何歳?
「逃げ若」に登場してきた、諏訪頼継は諏訪頼重(すわよりしげ)の孫です。
諏訪頼継が初めて、「逃げ若」の主人公・北条時行(ほうじょうときゆき)に出会った時は、頼継はまだ6歳(数え年だと7歳)という幼さでした。
一方の北条時行の方は、頼継より3〜4歳上です。
「逃げ若」の中では、祖父・頼重の愛情をめぐって、北条時行とライバル争いをします。
この、諏訪頼継は諏訪家にとっては大切な跡取りなのです。
諏訪家は神官の家系。当主は諏訪地方では「神」とあがめられる人物なのです。
「逃げ若」の中では、現当主の諏訪頼重は神通力を持つ、という設定で時折、予知をします。
物語で、諏訪頼継の父・時継は、次のように時行に語っていました。
「万が一、現人神が死ねば、諏訪知者全体が途絶えてしまう。私と父が大戦に参加する以上、戦さと無関係な頼継に神を譲っておかねばならないのです」
ということは、頼継は「神」という自覚を持つように育てられていたはずです。
それなら、頼継のプライドは、非常に高いものだった、と想像が私はできます。
自分をないがしろにする人間がいてはならない、という間違ったプライドを持ってしまいました。
裏返すと、自分だけを大事にしてくれない、お祖父様・諏訪頼重に対する愛情を素直に表せない、という裏に気持ちに同情を覚えます。
なんといってもまだ子供なのですから。
諏訪頼継の史実は?
諏訪頼継が、諏訪の「神」としての立ち位置にあったのは、本当です。
諏訪頼継は神だった?
頼継の「神」としての業績は『諏訪大明神絵詞』に書かれています。
『諏訪大明神絵詞』とは、1356年に諏訪円忠(すわえんちゅう)という、諏訪の一族の1人が描いた縁起物絵巻です。
諏訪円忠は南北朝に足利に使え、京都諏訪氏となります。
この絵巻物には、諏訪大社の由来、諏訪の先祖が軍神であった伝承が書かれています。
これによると、かつての征夷大将軍・坂上田村麻呂は諏訪氏が加勢し、諏訪の神のご加護があったから、蝦夷に勝利した、ということです。(事実とは少し離れていますが)
諏訪頼継、南北朝時代を生き抜く
歴史的に見る諏訪頼重は、要領よく立ち回った人物に見えます。
というのも、祖父・諏訪頼重、父・諏訪時継が、中先代の乱で命を落としたのに、敵の足利尊氏(あしかがたかうじ)が諏訪頼継を認める行為をしているからです。
足利尊氏の手で、諏訪頼継は大祝(おおほうり)になると、『諏訪大明神絵詞』に書かれています。
大祝というのは、諏訪大社の最高位の新職のことで、世襲制です。
世襲制というと、諏訪頼継が大祝に着くのは当然ですが、諏訪は北条時行に味方して、天皇をそれを守る足利尊氏に敵対しているので、ここではどうして?という疑問が湧き上がります。
さらに、諏訪頼継は、足利尊氏のいる北朝の武将になりますが、北条時行が再び兵を起こすと、時行に加勢します。
しかし、この戦いに敗れると今度は足利尊氏の弟・足利直義の部下になる始末。
ついには室町幕府の武将となり、南北朝を難なくやり過ごします。
実に世渡り上手、に見えますが、一族を存続・繁栄させる義務を負った、諏訪頼重はこれしか取る道がなかったのではないか、という想像はできます。
諏訪頼継については、「世渡り上手の若君」と名付けてもいいかもしれませんね。
諏訪頼継は、時行が嫌い?
「逃げ若」では、諏訪頼継と北条時行の出会いは最悪でした。
諏訪頼継の不満は、祖父・諏訪頼重からのほおずりが、時行に対する方が、自分(頼継)より多い、ということでした。
つまり、頼継はお祖父様を北条時行に取られてしまって、悲しい、寂しい、悔しい、という気持ちの表れだなのです。
「逃げ若」に見る、諏訪頼継の次の言葉が、頼継の本心を物語っています。
ほんとは神とかどうでもよくて、誰かに御祖父上(おじじうえ)盗られたく無かったです
幼い時期の、諏訪頼継の時行に対する態度は、祖父・頼重の愛情をめぐってのライバルという感じです。
いくら、神にされて崇められても、本当はまだ10歳に満たない少年。
いくら武家社会の子供の精神的成長が早い、といっても身内を慕う気持ちは、まだまだ残っている頃です。
北条時行と年が近いことで、頼継は、武力についても時行にライバル心をに燃やしていたと同時に、幼いのに一族を背負わなければならい同じ運命を感じていたのでしょう。
本心をお互いにぶつけていた、と私は思います。
やがて、1335年、中先代の乱で完全に鎌倉幕府の滅亡してしまった時は、諏訪頼継は、足利尊氏と徹底抗戦することを選び取りました。
諏訪頼重と北条時行は、どちらも足利尊氏憎しという、同じ目的を持つ同志として、信頼関係を救っていくものと、私は推測しています。
「逃げ若」の主旨としては、お互いをライバル視 → お互いの実力を認め合う → かたい友情で結ばれるバディ、となることが、物語のクライマックスの一つになること、と思います。
諏訪頼継の最後、死は?
諏訪頼継の最後、そしてその死は、ドラマチックなものではなかった、と推測されます。
諏訪頼継の活躍が、知られているのは、1359年1月22日(旧暦・12月22日)まで。
その時の、室町幕府は、足利義詮(あしかがよしあきら・足利尊氏の息子)が2代目の将軍に就任します。
諏訪頼継は、室町幕府に従う、と宣誓し、諏訪家が信濃の所領が約束された、という文書が室町幕府から出されました。
ここに落ち着くまでに、諏訪頼継は、南朝に味方していました。
室町幕府の足利尊氏は北朝をたてていたので、諏訪と足利尊氏は敵対していたことになります。
室町幕府に臣従することで、諏訪頼継は足利につくことで、諏訪一族の存続が保障され、頼継が、京都から諏訪の国へも無事帰還できました。
諏訪頼継がどのような「死」を迎えたか、についての史料はありませんが、何も記述が残っていないということは、普通の穏やかな死を迎えた、と私は想像しています。
諏訪頼継は、単なる世渡り上手というのでなく、諏訪一門の将来をかけて行動した、ある意味勇気ある人物だと私は見ています。
諏訪頼継と足利尊氏、和解?
諏訪頼継は、親の仇として足利尊氏を討つために、南朝立場に味方していたのですが、最終的には室町幕府の元に下ることになりました。
じゃあ、諏訪頼継は、足利尊氏と和解したのか?というと違います。
以下の三点から、諏訪頼継と、足利の関係が変わっってきました。
- 南朝の敗退と、北条時行の死
- 足利氏についていた、諏訪氏の一族からのとりなし
- 足利尊氏の死去
以下を読んでいただくとわかると思いますが、諏訪頼継は決して足利尊氏本人と和解したわけではありません。
南朝の敗退および、北条時行の死がきっかけ
一つ目は、頼継が、室町幕府の臣下になったのは、北朝(足利尊氏がわ)の勢力が伸び、南朝の敗退が続いたからです。
南朝の衰退は、盟友・北条時行、味方となった、足利直義(あしかがただよし・尊氏の弟)、2人の戦死により一層進みました。
北条時行が死んだために、自分の後ろ盾となってくれる人物あるいは組織を探そうとしていたのではないかと思います。
諏訪円忠からのとりなし
二つ目は、戦に負けていた、諏訪氏を取りなす、諏訪の一族がいたからです。
諏訪では、早い時期に足利に降伏していた一族がいました。
それが諏訪円忠(または小坂円忠)がいて、彼は京都諏訪氏という一族になっていました。
諏訪円忠は、諏訪頼継に、戦を続けるのは諏訪一門にとって良いことではない、と足利尊氏がわ北朝への降伏を勧めてきました。
そして、幕府に、諏訪頼継の助命と諏訪一族の存続を嘆願し、足利幕府もそれを認めました。
足利尊氏の死去がきっかけ
これが何よりも大きな転機です。
諏訪頼継にとって、足利尊氏は、祖父と父の仇でしたが、1358年に足利尊氏は、あっさりと病死してしまいました。
そして、尊氏の息子・足利義詮が2代目将軍になるのですが、諏訪頼継は恨みの感情を乗り越えて、足利家に従おう、という気になったのです。
仕える相手が変わると、今度は、南朝に味方していた態度を一気に変えて、南朝討伐の軍に加わります。
諏訪頼継はなかなかの勇猛な武将ぶりを発揮し、諏訪家の存続、地位の持続という一門にとって重要な役割を果たします。
一見、諏訪頼継は変わり身の早い、油断ならない武将に見えますが、諏訪一族の長として、一番やらなければはならない役割を果たした、そういうことだと私は思います。
諏訪頼継、高師冬との対決
史実では、諏訪頼継は、足利の武将・高師冬(こうのもろふゆ、高師直の息子)と対決し、甲斐国まで追い詰め、自害させました。
しかし、「逃げ若」の話から見ると、これは、諏訪頼継や、時行の逃若党(ちょうじゃとう)にとって、非常に大きな意味を持ちます。
「逃げ若」の中では、違う展開になります。
というのも、「逃げ若」の高師冬は、逃若党の重要人物・吹雪(ふぶき)のことだからです。
諏訪頼継は、北条時行や足利直義たちと、高師冬を追い、死闘を繰り広げた結果、高師冬(吹雪)は、戦いに敗れ命を終えるのです。
「逃げ若」では屈指のクライマックスの一つで、吹雪は本来の自分を取り戻す重要な場面になのです。
ここでの諏訪頼継の戦いぶりは目を見張るほどで、あの悪ガキが心身ともにここまで成長した、と視聴者や、コミックの読者は、感動する場面になると思います。
しかし、史実と変えてるのは、高師冬が吹雪である、というフィクションのため、そして主人公・北条時行と吹雪の直接対決を描くのが目的だったから、だと私は思います。
なお、「吹雪」に関しては、こちらをお読みください。
諏訪頼継、足利直義と同盟?
足利直義(あしかがただよし)は足利尊氏の実の弟です。
敵方であるはずの人物と同盟を結んだということは、足利家の内紛を、諏訪頼継が利用しました。
諏訪頼継は、諏訪家の当主として、自分の一族の存続と繁栄を実現する義務が運命付けられています。
そのためには、足利尊氏に勝たねばならない、と頼継は心に決めていました。
決意の結果が、足利直義との絵王お名です。
諏訪頼継が足利直義と同盟を結んだわけ?
足利家は、1352年、足利尊氏と弟・足利直義が政治的意見が合わず対立する事件が起きました。それを観応の擾乱(かんのうのじょうらん)といいます。
足利兄弟の対立から、弟・直義が二つに割れた天皇家の片方、南朝について兄に対抗しました。
足利直義は、政治的手腕を持った人物。
諏訪頼継、北条時行は、これ幸にと足利直義と手を組むことに決めました。
諏訪頼継も、北条時行も打倒・足利尊氏に燃えていたからです。
「逃げ若」の足利直義は、史実と同じように、「実務家で常識をわきまえた人物」である。
と同時に、足利家唯一のまともな人物で、兄・尊氏の暴走を止めることができる、設定になっています。
ただ、「観応の擾乱」の結果は、足利直義は倒れ、北条時行も敗北し、尊氏側に囚われて、刑死を迎えることになります。
諏訪頼継、足利直義が気に入った?
諏訪頼重が足利直義を尊敬していた、とか好きだったとかという史実はありませんが、「逃げ若」の中では頼重は、直義を武将として高く評価し尊敬していました。
このエピソードが「逃げ若」に入れられたのは、諏訪頼継は、足利直義から、「直頼」(ただよし)という名前をもらったことに発想を得たのでは、と私は想像してます。
諏訪頼継が足利直義を気に入った理由を「逃げ若」的に探ってみると、以下の三点
が考えられます。
諏訪頼継のプライドを足利直義は認めてくれた
諏訪頼継は、諏訪頼重の孫である、という誇りが幼い時から芽生えていて、北条時行には負けない!という心意気が感じられます。
生意気そうな、頼継少年の気持ちを読んで、その人柄を認めてくれたのが、足利直義だったのです。
足利直義は、諏訪頼継のことを「信濃を治めるのに相応しく、優秀な人物」とみてくれていたため、頼継は、直義を尊敬することになったのでした。
諏訪頼継、おだてに弱い?
足利直義の「直」の字を、諏訪頼継にくれたこと
諏訪頼継という人物は、「逃げ若」から判断したところ、承認欲求が強い人物に、私には見えます。
もちろん、偉大な祖父(諏訪頼重)を持った、ことから、祖父は追いつけ、追い越せの気持ちを持っていたでしょう。
名前をもらう、ということが諏訪頼継の名誉心をくすぐった、と私には感じられました。
諏訪頼継の足利直義観、かっこいい!
足利直義は、諏訪頼継だけでなく、北条時行たち「逃若党」のメンバーたちからもも、
「足利のくせにかっこいいことするなよ」という見方をされています。
これは、足利一門は憎くかっこいいことをするとは思えないが、直義だけはかっこいいよ、という意味合いです。
化け物ふうな性格を持つ足利尊氏、型破りな行動をする高師直(こうのもろなお)たちとは明らかに違い、足利直義には理知的なものが見える、と諏訪頼重たちはみていました。
そこが、諏訪頼重、逃若党の人たちにとっては、カッコよく映り、信頼できる人物と見て、同盟を結んだのでした。
「逃げ若」の足利尊氏は、あまりにもサイコすぎて、それから比べれば、どんな人物も善人に見えてしまうほど、と私は感じますが。
諏訪頼継の名前たち
諏訪頼継は、名前をいくつも持っています。
「逃げ若」のファンたちからは、「頼継、名前変えすぎ!」という声が聞かれますが、日本史の武士たちと比べてみれば、特別多いとは言えません。
しかし、名前を見れば、そしてその名付け親がわかると、諏訪頼重のその時の立場というものがわかってきます。
まず幼名は小太郎です。幼名は、名のある家の子息(公家、武家ともに)なら誰にでもつけられる名前で、それが通称となります。
小太郎という名前と一緒につけられた名前が、頼継です。
まず、最初の改名が「頼嗣」でした。読み方は「頼継」と同じ「よりつぐ」。
「継」も「嗣」もどちらも、「受け継ぐ」という意味です。これは神としての役割を諏訪一門の後継者である、と明らかにした、という意味です。
継も嗣も、ここでは大きな差はないと、私は見ています。
次が「直頼」(ただより)、これは、「直」の字を、足利直義からもらった名前でここで、諏訪頼継は、足利直義と同盟を結びます。
これは、自分のバックには、足利がついているぞ、と世間に知らせるものでした。
つまり、諏訪に手をだすものは、足利に逆らうことになる、と宣言している名前です。
その後は「普寛」(ふかん)、「頼寛」(らいかん)などと名乗ります。
これは、人生の晩年に差し掛かった時の名前で、僧名です。
名だたる武将たちは、歳を重ねると引退し、仏門に入るのが慣わしです。
その時は、本来の名前を捨てて、出家して法名を名乗るのです。その法名は死んでのち、戒名となります。
まとめ
諏訪頼継は諏訪頼重の孫で、「逃げ若」ではわずか6歳で時行と出会い、祖父の愛情を巡ってライバル心を燃やします。
史実でも神の立場にあり、足利尊氏に祖父と父を殺されながらも、最終的には尊氏の死後に室町幕府へ従い、諏訪家を守り抜きました。
「逃げ若」では時行と固い絆で結ばれ、高師冬(吹雪)との死闘を経て成長する姿が描かれます。
足利直義とも同盟を結び、名前を何度も変えながら一族のために生き抜いた人物です。

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