松井優征先生の現在進行中の漫画「、逃げ上手の若君」がアニメになりました。
若君とは、北条家の生き残り、まだ幼い北条時行。さて、何をしたのでしょう、
北条家を滅ぼした、足利尊氏(あしかがたかうじ)を 宿敵として、幼少の時から20年もの間、逃げ続けて、鎌倉幕府の再興を夢見ます。
何度か、鎌倉を自分の手に取り戻すことはできましたが、夢はかなわず、処刑される運命でした。
ここでは、北条時行の、逃げる様子を追いながら、その史実を調べてみました。
北条時行、復讐の人生
北条時行は、まだ10歳になるかならにうちに、鎌倉幕府の執権である、北条高時を殺されました。
そして自分も追われる身になり、北条時行の逃亡生活が始まります。
逃げながら、復讐する、と言うのが、アニメ「逃げ若」のストーリーでもあります。
では、北条時行は、鎌倉幕府を滅ぼした、足利尊氏への復讐を考えていたのでしょうか?
当時のことを書いた戦記もの「太平記」には
『父、北条高時の幕府でのやり方が、よくなかったから、滅ぼされてしまったのは仕方がないこと。しかし、足利氏は北条家と血縁関係を結ぶ、北条家からの報奨金などで、幕府で勢力を伸ばしてきたのに、その恩を忘れるかのように、北条家を攻撃してきたのが許せない』
と言う記述があります。
この、北条時行の考えた述べられている箇所は、北条時行が、後醍醐天皇の南朝に味方しようとした時のものです。
1336年ごろのことで、足利尊氏は南朝を名乗った後醍醐天皇を見限って、北朝側についていました。
北条時行は、何としても、足利尊氏を討ち取りたかったと言う気持ちが表れている、と思われます。
以上の「太平記」の記述が真実かは現在、研究者のうちでも調査中ですが、研究者たちは、現在は復讐のために、後醍醐天皇側についた、とみています。
北条時行について、そんなに復讐だけを考える人生、と言うのはつらくなかっただろうか?と考えるのが現代に生きる私たちです。
しかし、平安時代末期に武士が歴史の表舞台に登場するようになってから、武士の義務の一つが「仇討ち」が加わるようになってきました。
それなら、北条時行も幼い頃から、武家の心得、として、自分のみに染み付いていたのでしょうか?
北条時行は実在!
「逃げ上手の若君」北条時行は実在の人物です。
北条家最後の執権 北条高時の生き残りの息子が「時行」です。
時代は、鎌倉時代末期から南北朝にかけてでした。
北条時行の生年、不明
北条時行は、実在していた、ということが知られているだけで、そのほかに関しては、資料は軍記もの「太平記」にみられるのみで、それ以外は、ほとんどありません。
死亡年が1353年6月21日、が処刑されたことで、記録がありますが、生まれた年は、1325年12月27日以降ということがわかっています。
1329年頃と書かれている文献もあります。それが「金沢貞顕書状」。
父は、北条高時、最後の北条家の執権で、時行は次男です。
母は。高時の側室で、二位殿(にいどの)、新殿(しんどの)の2種類の名前が出てきます。
これは「太平記」の古い写本にあります。写本には流布本という、書き写した本があり、そのため2種類の、母親の名前があるわけです。
北条時行、鎌倉滅亡での年齢は?
北条時行は、1333年の鎌倉幕府滅亡の時、まだほんの少年でした。
ですかrあ、北条時行の生年を1329年だと、するとまだ4歳になりますので、それなら「逃げる若君」の設定では幼すぎ、スルスルと逃げるよりもさっさと殺されてしまいそうです。
4歳だと、まだ幼名で呼ばれているはずですが、漫画やアニメでは「時行様」と、家臣たちが呼んでいました。
当時の鎌倉では、ほとんどの武家が7歳で元服する、という習慣でしたので、漫画の作者は7歳あたりを考えていてのかも知れません。
北条時行は、実在はわかっているのですが、その行動が知られていないので、「逃げる若君」の漫画、アニメのストーリーは作者の創作の面が多くなります。
しかし、より一層、作者にとっては制作意欲がわく、作品になりそうでうす。
北条時行は逃げ上手?
「逃げ上手の若君」も主人公なのだから、逃げることが得意だった、と言うことなのですが本当でしょうか?
ストーリーの中では、まず、鎌倉幕府が急に襲われて一族全て皆殺しにされそうになった時、無事に逃げることができました。
それには、叔父(父の弟)が逃がしてくれたからです。
一方、時行の兄はその母の兄弟と共に逃げたのですが、こちらはその叔父の手によって、殺されてしまいます。
時行は最初から運が良かった、運の良い星の下に生まれた、としか言えません。
その後は、家臣の、諏訪頼重にずっと守られて、成長しますが、この若様、武芸はさっぱり上達しません。
得意だったのが、逃げる技術。防衛力が半端なく身についてしまいました。
これ以降も、敵に合うたびに、上手に身をかわして逃げるところから「逃げ上手」となったのです。
実際の、北条時行は武芸に強かった、という記録は残っていません。
ただ、わかっていることは、戦の時、負けてしまった時、敵に追い詰められた時、
とピンチにあっても、逃げることに成功している、のです。
それに目をつけた、作者 松井優征さんが、「逃げ上手〜」として、漫画にしたとのです。
諏訪頼重が味方についたのも強かった、のでしょう。
諏訪氏イコール諏訪の神様ですから、神の力がまだまだ信じられていた、14世紀では、諏訪氏のバックアップで、北条時行まで神に愛された子のような見方ができますから。
北条時行の家系図をわかりやすく
北条時行は、義時の子孫
「北条」というと、「鎌倉殿の13人」に関係ありそうですね。
「鎌倉殿の13人」というと、北条時政(ほうじょうときまさ)や義時(よしとき)ですが、北条時行はその子孫です。
15代 得宗(とくそう、とくしゅう) 北条高時(たかとき)の息子です。
得宗とは、北条家の総領、つまり当主のこと、初めて得宗を名乗ったのは、2代目義時でした。
北条家は、鎌倉幕府で北条時政が執権(しっけん)になってから、代々、鎌倉幕府の執権を務めています。
鎌倉幕府は源頼朝(みなもとのよりとも)が開き、将軍の地位は3代目 実朝(さねとも)で直系の血筋が絶えました。
その後は、京都より将軍を迎え、政務を支えたのが執権です。
将軍はお飾りで、実際に権力を持っていたのが北条家でした。
鎌倉幕府が開かれたのは1185年です。(1192年は源頼朝が征夷大将軍になった年)
高時の時に、攻めいられ、鎌倉幕府が滅びたのが1333年、200年も続いていないです。
北条時行、大河ドラマ登場は?
北条時行は残念ながら、大河ドラマに登場しません。
「北条氏」のことは、NHKの大河ドラマに何回か出てきています。
まずは、一番近いところは、2022年「鎌倉殿の13人」です。
その時の主役は、北条義時。小栗旬さんが、キャスティングされていました。
次には、もう少し前になりますが、2001年「北条時宗」。狂言師の和泉元彌さんが、時宗役でした。
時宗の父、時頼は渡辺謙さんでして、この時代は元寇(げんこう、中国の海賊)の襲来があるなど、動乱の時代でした。
北条時行は、時宗のひ孫にあたります。
1991年「太平記」には北条家の最後が描かれます。
「太平記」の主役は、足利尊氏で、真田広之さんがキャスティングされていました。
この時代こそ、まさに「逃げ上手の若君」の時代です。
北条高時は、片岡鶴太郎でした。北条時行の父上ですね。
それなら、息子の北条時行も、登場してくれてもいいと思うのだけれど、ナレーションでの「北条の残党」の一括りにされていました。
北条時行と巫女との間に生まれた子孫!?
北条時行は10歳にも満たない時から、逃亡生活を送っていました。
そんな人が、結婚して家族を持つことができるのだろうか?と思ったのですが、どうやら子供がいたらしいのです。
20代半ばに亡くなったのですが、その間にも正式な結婚ではなくても、子供を作ったようです。
日本では第2次世界大戦以前は、結婚が早く、それより昔の時代、それも鎌倉時代となると武士、貴族の指定は10代も早いうちに、結婚することが普通でした。
戦記物の「豆相記」(1600年代に書かれて小田原北条家5代について書かれている)、
「佐野本系図」(平安時代から江戸時代初期にかけて栃木県あたりで栄えた一族の記録)に、子孫の伝承があります。
こちらの説によると、北条時行は伊勢に逃げた時に生まれた子供が行氏(いくうじ)。その子孫がのちの伊勢氏なのです。
その伊勢氏がの子孫が北条早雲(ほうじょうそううん)だというのですが、こちらの説は証明されていません。
愛知県には「尾陽雑記」という資料がありますが、これは愛知県郷土資料館が、残されている資料から編纂した本です。
それによると、北条時行は熱田神宮(あつたじんぐう)の大宮司の娘との間に子供を作ったと言います。
その息子が、時満(ときみつ)あるいは 行氏という名前だったと書かれています。
これは、伊勢での息子の名前と一致します。ということは 行氏 という息子はいたのでしょう。
大宮司の娘の子孫は、愛知県の赤目城(あかめじょう)の城主となっています。
北条時行には、他にも信濃(長野県)で巫女との間に子供を持っている、ようです。
というのも、北条時行と、巫女の子孫を名乗る家が信濃に数軒ありました。
北条時行の最後
北条時行 処刑される
北条時行は、鎌倉幕府奪還を目指しますが、所詮は時代の流れに勝つことはできませんでした。
それでも北条時行は、三回、鎌倉を取り戻すことに成功しました。
それには、後醍醐天皇を天皇とする、南朝に北条時行が属していたためです。
やはり、大きな軍隊組織でないと、宿敵 足利尊氏は倒せない、ということがわかったからでした。
1352年、3度目の鎌倉を奪還するものの、足利側にすぐに取り返されます。
そこで、またお得意の逃げとなるのですが、1353年、ついに足利軍に見つかりとらえられ、
6月21日、鎌倉の龍ノ口(現代では神奈川県藤沢市)で処刑されたことが、のちの研究でわかっています。
処刑の場面は、記述が見つかりませんが、龍ノ口というからには、首を切られた、ということだと私は思います。
というのも「龍ノ口」は鎌倉時代は処刑場で、源頼朝の味方だった大庭景親(おおばかげちか)は処刑されています。
北条時行、また逃げた?
ところが、ここでまた、別の説が流れており、北条時行は、処刑場からまた逃げた、というのです。
さすが「逃げ上手の若君」。
北条時行は伊勢まで、逃げ延び、伊勢氏と名前を変えます。
そして、その4代下が、伊勢氏盛。その人は名を「北条早雲」と名乗ります。
早雲の息子、氏綱の代で、北条家と名乗りました。そして、自分の持ち物や着物につける紋も、北条時行の家と同じ、「三つ鱗」の紋を使いました。
それは、ルーツが北条氏だから、ということなのですが、伝説にすぎません。
可能性は、ゼロではありませんが、伊勢氏と北条氏を結ぶ手がかりが何も見つかっていません。
確かに「逃げの若君」なら、そういうこともあるかもしれない、と思わせる説です。
その後は室町幕府(足利家)で仕えていたので、北条家(北条時家)の子孫と考えるには、無理がある、と私は考えているのですが。
北条時行にとって足利尊氏は宿敵
足利尊氏は、北条時行にとって、親の仇、幕府を一族を滅ぼした仇です。
足利氏は、源頼朝時代から、鎌倉幕府の御家人の家柄です。
足利尊氏(あしかがたかうじ)北条時行の、父 高時の家臣っ、つまり主従関係、ということです。
絶対に、鎌倉幕府と北条に忠実だと、思われていた人物が、鎌倉幕府を攻撃し、滅ぼしてしまいました。
実際に、鎌倉幕府に直接、攻撃をかけたのは、足利氏と同族に新田義貞(にったよしさだ)だったのですが。
戦火の中で、北条時行の父 高時は反幕府軍に立ち向かうも、追い込まれついには自害しました。
当時のことた書かれた書物「太平記」には、北条高時の弟 泰家(やすいえ)が家臣の 諏訪盛高(諏訪頼重と同一人物、諏訪市の資料に書かれている)に命じて、時行を脱出させた、とあります。
ここでは、まだ人の手で連れ出されないと、逃げられなかったみたいです。
足利尊氏も、北条時行をどこまでも追っていきました。
つまり、両者の関係は、主従関係から、宿命のライバル、となったのですね。
北条時行、何をした人?
北条時行は、漫画・アニメ「逃げ上手の若君」となるようにひたすら逃げている北条家の生き残り、です。
歴史的にも大切な意味合いを持つ人物でもあります。
というのも、北条時行が、鎌倉幕府再興を目指していたことが原因だからです。
北条氏の幕府再興を防ぐため、足利尊氏は、後醍醐天皇から離れ、自分に都合の良い、別な天皇を立ててしまったことで、天皇家が二つに分かれる南北朝時代をまねきました。
鎌倉幕府は結局、北条家には戻らず、足利尊氏が京都に、室町幕府を開くことになりました。
北条時行に与えれた『逃げ上手』なんて表現は、歴史書には出てきませんが、何回も足利に戦いを挑んでは消えるところは、まさに『逃げ上手』ですね。
鎌倉幕府が滅びた時(1333年)、北条時行は、ほんのまだ子供でした。
記録が諸説ありますが、早いものでは、まだほんの3、4歳〜6、7歳。
北条時行は、叔父から諏訪頼重に託され、鎌倉から逃れます。
時代は、ちょうど、後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒そうとしていた頃です。
北条家の独裁性が強くなってきましたが、そのために北条家に対する不満が出てきます。
後醍醐天皇は、そこにつけこんで、北条家の家臣 足利尊氏とその一族、新田義貞を味方に引き入れ、鎌倉幕府を攻撃させた、というのが北条時行の物語の始まりです。
北条時行、鎌倉奪還の軌跡
北条時行、鎌倉奪還計画のトップになる
北条時行は、1335年、鎌倉幕府を取り戻すことに成功します。
鎌倉幕府が落ちて2年ということは、まだまだ、鎌倉幕府の残党たちが残っていて、鎌倉幕府の再興を望む人が、まだ多かったからということが想像できます。
北条の残党を集められたのは、北条時行の叔父、泰家(やすとき)が、後醍醐天皇の暗殺を計って、失敗したためです。
泰家は、ここで逃げて、全国に散らばった、北条の残党に、挙兵することを訴えました。
そこに応じたのが、北条時行。諏訪頼重を中心とする残党たちに支持され、立ち上がります。
その頃の北条時行は、10歳になるかならないはずなのですが、兵士たちをまとめるまでに成長していた、のでしょうね。
北条のトップとして、惹きつけられる魅力があった、と私はみています。
漫画やアニメを見ると、北条時行は、幼少の頃から、勉学が嫌だ、武芸の稽古が嫌だ、と逃げ回っていました。
しかし、軍の先頭に立ってくれ、という人々の願いは逃げないで、きちんと受けたのでしょうか。
ここに至るまでの、時行と周囲の人との絡みが、どのように見られるのかが楽しみです。
北条時行、第一回目の鎌倉奪還成功!
この時、鎌倉幕府を守っていたのは、将軍は、後醍醐天皇の皇子 成良親王(なりながしんのう)、執権は、足利直義(あしかがただよし、尊氏の弟)でした。
足利直義は、将軍の成良親王と、足利義詮(よしあきら、尊氏の息子)をつれて鎌倉を脱出します。
これで、北条時行は鎌倉を取り戻し、短期間だけですが、鎌倉の支配に成功します。
足利直義たちの敗因は、情報不足にありました。
足利側では、北条時行が挙兵したことは知っていましたが、京都に攻め込むものとばかり思っていて、鎌倉では準備しておらず、不意をつかれたことになります。
その時の、中央は、後醍醐天皇を中心とする建武の新政と呼ばれる政治が行われていました。
天皇が全てを管轄する、という方針でしたので、情報の伝達が非常に遅くなっていました。
末端の、鎌倉では、情報が届くのが遅いですよね。
北条時行、足利尊氏と対決!そして敗北、また逃走
弟 足利直義の有り様の報告を受けて、足利尊氏はすぐに援軍を出したいところでした。
しかし後醍醐天皇からの許可はおりません。
足利尊氏の反撃
足利尊氏は、ここで官軍として戦いたいのに、戦うための称号「総追補使」または「征夷大将軍」の位を申請しても後醍醐天皇はないが首をたてにふりませんでした。
そこで許可がないまま、足利尊氏は出陣します。
北条時行と足利尊氏は、現在の神奈川県 箱根、相模川で戦いを繰り広げ、ここでは、北条時行は破れます。
北条時行の鎌倉奪還から、約20日。20日の天下、でした。
北条がわは、鎌倉まで後退させられることとなり、諏訪頼重が自害し、主人の北条時行を逃します。
諏訪頼重の偽装工作「顔の皮」
諏訪頼重は自害するにあたって、若君 北条時行をなんとか逃がそうと策を立てます。
それが、諏訪頼重の「顔の皮」事件です。
追ってくる足利の目を誤魔化すために、ここにある死体が誰のものかわからないようにしました。
そのため、そこに43体の死体を用意して、死体の顔の皮を剥いで、誰の死体かわからないようにするのです。
北条時行の死亡を偽装するためでした。
死体の背格好は、北条時行に似た者を探し出してきました。
諏訪家は、諏訪大社を守る一族で、祭礼に使う動物の皮を剥ぐこともあったので、皮剥ぎには慣れていました。
もちろん諏訪頼重、自らも顔の皮を剥ぎました。
結果、追手の足利勢は見事に騙されました。
手がかりとして、身体の傷もしらべ、諏訪頼重、北条時行を確認しました。
それにしても、考えるだけでも痛々しく思える、話です。
この場面は、かなり恐ろしく、漫画では倒れた人物を顔まで描いてはいません。
多分アニメでも、描かれないでしょう。
「太平記」に出てくるエピソードですが、歴史書としては、根拠が少ない書物ではあります。
北条時行、南北朝の戦いにも加わる
次に北条時行が向かった先は、後醍醐天皇の元でした。
鎌倉を取り戻した、足利尊氏は、後醍醐天皇の京都に戻るように、という指示を無視し、鎌倉で、勝手に戦いで功労をあげた人に、恩賞をあげるなど、勝手にふるまい始めたのです。
ここに後醍醐天皇と、足利尊氏との間に亀裂が入り、尊氏は天皇の敵となります。
後醍醐天皇 vs 足利尊氏の戦いは、足利尊氏が勝ち、後醍醐天皇は奈良県吉野に逃れ、そこで開いた王朝が、南朝です。
足利尊氏たちは、京都に新たな天皇を立て、が北朝としました。南北朝時代の始まりです。
足利尊氏を敵とするから、北条時行は、南朝に従います。
こういった、話は、軍記物「太平記」に書かれています。
北条時行、鎌倉再び
北条時行が、南朝に加入したのは、「太平記」に見ると、1337年くらいであるようです。
同年12月、北条時行は、新たに加わった、北畠顕家、新田義興(にったよしおき)の連合軍で、鎌倉を攻撃し、奪還に成功しました。
北条時行、2度目の鎌倉制圧です。
今度は、北条時行は、鎌倉にとどまらないで、京都の奪還に向かいます。
しかし、鎌倉戦と、京に向かうまでに足利軍との度重なる衝突し、兵が疲れていたのでしょうか、石津の戦いで(現在の大阪府堺市)、破れます。
大将 北畠顕家の戦死で、軍は崩壊してしまいました。
北畠顕家のについては、こちらの記事をお読みください。
北条時行は、またここで逃げます。
北条高時、3度目の進撃!
北条高時は、どこに逃げたのだろうか?
伊勢国(三重県)から逃れ、井伊城(いい、戦国時代の井伊直虎の居城となるところ)に潜伏していた、という話もあります。
出現したのは、1340年。諏訪頼継(よりつぐ、頼重の息子)とともに大徳王城で兵をあげ、北軍の武将 小笠原貞宗と戦闘状態になりました。
小笠原貞宗の子孫は、お作法の名家で知られる、小笠原流の家元です。
この戦争は互角でしたが、北条時行の兵はだんだんと数が減っていってしまったため、これ以上は続けられなくなり、また脱出です。
今度は12年ほど、北条時行の動きは、どの資料を見ても見られず、全くの行方不明。
北条時行、12年後のそれから
再び北条時行の名前が出てきたのは、1352年です。
上野国(こうずけのくに、現在の群馬県)の新田義興兄弟(難聴の味方)が兵をあげると、北条時行新田軍に加わり、鎌倉を目指します。
足利基氏に打ち勝って、鎌倉を奪い返しに成功しました。
しかし、北条時行の活躍はここまでが限度だったようです。
北条時行が鎌倉を取り戻して、二週間後にはもう奪い返されてしまい、時行はお得意の『逃げ』となるのですが。
ついには、捕まり、龍ノ口で処刑されて、果てるのでした。この時北条時行は20歳中頃となります。
北条時行は、宿敵 足利尊氏を打ち取ることができなかったのです。
復讐は失敗の結末となりました。
一つ不思議なことは、北条時行は、新田義興と同盟を結んで一緒に兵を上げています。
新田義興の父、新田義貞は、北条高時の鎌倉幕府に直接手を下した人物です。
敵の息子を許せたのでしょうか?
北条時行の戦いが「中先代の乱」と呼ばれる理由
北条時行の一連の戦いを、「中先代の乱」と歴史上では呼んでいます。
なぜかというと、それは北条時行きが「中先代」と呼ばれていたからです。
この呼び方は、室町幕府になってから付けられた名称です。
室町幕府の、将軍を、室町時代は「当代」と呼び、その前の北条けの執権のことを「先代」という名称を与えていました。
北条時行は、そのちょうど真ん中に位置する存在として、「中先代」と呼ばれたのでした。
その北条時行きが、北条家に鎌倉幕府を取り戻そうとして戦った、戦争なので「中先代の乱」とされているのです。
「中先代」という名称は、室町幕府の時代にできた言葉なので、足利のものたちは、北条時行をただの反乱者とは考えていなかった、と思われます。
足利家が新たに、幕府を建てるためにつけたけじめの戦い、と北条時行とその一連の戦いを見ていた、私にはそんな気がします。
彼らは、北条時行を尊重していた、そんな感じがします。
まとめ
漫画、アニメ「逃げ上手の若君」は、全体を見るとなんとも悲しい話です。
武家の棟梁の息子であった境遇から、幼くして、親を殺され、故郷を追われ、命を狙われる立場に一気に落ちてしまいました。
その中から、北条時行は一つの家の当主として、武士のトップとしての自覚が徐々に芽生えてくる成長物語でもあります。
北条時行に関しては資料が乏しく、正確なことが伝わっていません。
ですから、ここに新しい解釈を期待することができます。
漫画の連載はまだ終わっていません。
どのような展開になるか、期待するところです。
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