足利尊氏、というと日本史の教科書に出てくる有名人で、幕府を開いた人物ではありますが、源頼朝、徳川家康ほどには人気が見られない気がします。
ここでは、足利尊氏とは何をした人か、どんな性格の人だったのでしょう。
なぜ、鎌倉幕府を滅ぼしたのか?その理由を調べてみました。
足利尊氏といえば、後醍醐天皇とは話して考えられないのですが、お互いは利用しあったのか?
足利尊氏を通して、みていきましょう。
足利尊氏、何した人?
足利尊氏は、鎌倉幕府を倒し、室町幕府を開いた人物です。
天皇が二つに分かれた南北朝時代を、利用して自分の地位を作り上げたと言っていいでしょう。
1305年〜1358年の生涯でした。
足利尊氏は、1338年、光明天皇より征夷大将軍に任命され、新たに室町幕府を開きます。
以後、15代にわたり、足利氏が政権の座につきました。
この時代を室町時代と言います。
征夷大将軍になる前、足利尊氏は京都を抑え、そのとき、比叡山に逃げ込んでいた、後醍醐天皇と再合い、天皇の位を、光明天皇に譲ると言うことを条件として和睦します。
足利尊氏、鎌倉幕府を滅ぼした理由
足利尊氏が、北条家の鎌倉幕府を見限った、ということが理由です。
ではなぜ、鎌倉幕府を見限ることになったのか?
足利尊氏、幕府と御家人の関係に不満を持つように
足利尊氏は、鎌倉幕府と御家人との関係に不満を持つようになってきていたところに、まず理由があります。
そんな不満を持ち始めたのは、足利氏だけではありませんでした。
御家人と鎌倉幕府の関係に問題があったからです。
幕府と御家人との間には「ご恩と奉公」という考え方がありました。
御家人は鎌倉幕府のために戦い、幕府の勢力を広げるために協力する。
御家人は、無償で幕府に奉仕します。
結果、幕府が役割を果たしたことで、幕府は御家人たちに、報酬を出したり、土地を与えることで報いていました。
その報奨金は、幕府が新たに得た、土地や財産です。
ところが、足利尊氏のいた頃、またその少し前から、幕府が関わる戦いといえば、元寇などの守りの戦いがほとんどとなっていました。
従って、御家人たちには、無償で戦いはするものの、タダ働きに終わっていました。
一方、権力の中心にいるのは北条家ばかり。
御家人たちには、何の利益も得なかったのですから、嫌になる、と言うものうなずけます。
足利尊氏、源氏の血に目覚めた?
足利氏は、北条氏と縁組を持つことで、北条家と結びついていましたが、実は、源氏の子孫にあたります。
平安時代の前九年の役、後三年の役で戦い活躍した、源義家を先祖とします。
義家の孫、源義康(みなもとのよしやす)が、足利を名乗ったところが始まりです。
源頼朝も、義家の子孫だから、足利尊氏と源頼朝とは、親戚関係にあたりますね。
源頼朝の直系の子孫が皆、死んでいなくなったので、執権だった北条氏が鎌倉幕府の実質上の権力者になっていました。
とは言うのも、200年もの間、北条が幕府で高い位置を占める中、足利はこれといって自分の一族を主張していなかったのですから、それほど興味があった、とは思えません。
ですが、鎌倉の御家人たちの幕府に対する不満を耳にし、足利尊氏自身も、幕府のやり方についていけないように思うとなると…
足利尊氏に、ここで源氏の子孫としての誇りが目覚め始めたのかもしれない、と私には思われてきます。
足利尊氏の性格
足利尊氏は、室町幕府を開く、など、武家の大将となる人物、です。
勇敢で、行動力がある、と見られます。
また、後醍醐天皇に逆らうところもあり、正義を推し進める人間にも見えます。
足利尊氏と同時代に生きた僧侶 夢窓疎石(むそうそせき)が以下のように足利尊氏について述べたことが、「梅松論(ばいしょうろん)と言う歴史書に書いてあります。
それによると
- 心が強い人で、戦で危機にあってもその顔には常に笑みが浮かんでいた。
- 慈悲深い人で、他人を恨まず、多くの仇(かたき)を許す。
- 物惜しみしない人で(ケチではないと言うこと)、金銀や自分の財産を惜しげもなく人に渡す。
また、昔の資料をまとめた、江田郁夫の「コラム 戦場の足利尊氏」によると、戦場でも、気前の良さを発揮し、手柄を与えたものたちに、即座に恩賞を出すための、書状を出していた、とあります。
そのため武将としての才能が認められ、カリスマ性をも集めていました。
人々を惹きつける才能を持っていた、武将でした。
恩賞を与える、と言う点では、その権威を発揮させたい天皇と、ぶつかることは必須だった、と私は思います。
足利高氏から足利尊氏に
足利尊氏は、自分の名前の漢字を変えています。
現代の私たちは、「足利尊氏」として、学生時代に習いました。
ところが、最初の頃は、「足利高氏」と言う、漢字を使っていました。
読み方はどちらも「あしかがたかうじ」です。
足利尊氏 最初は「高氏」
それは、足利高氏が、鎌倉時代の生まれ、であることを示しています。
幼名は「又太郎」(またたろう)と言いました。
1319年、又太郎は15歳で元服し、北条家執権 北条高時から、その字「高」をもらって「高氏」と言う名前となりました。
さらには、北条一族である、赤橋家(あかはしけ)の娘を嫁にもらいました。
以上二つのことから、足利高氏は鎌倉幕府内で、重要な立場にあることが証明されています。
1331年、高氏の父、貞氏(さだうじ)が亡くなると、27歳の高氏が、足利家の当主となりました。
足利高氏には兄 高義(たかよし)がいたのですが、幼少で亡くなっていたため、弟の 尊氏が、家を継ぎました。
そういえば、兄の方にも「高」の字が使われており、これもまた、北条家からの信頼があると、見て取れます。
足利高氏「尊氏」となる
足利高氏は、後醍醐天皇に従い、鎌倉幕府を倒したことで、後醍醐天皇から褒美を受けました。
その褒美の印が、「尊氏」と言う「尊い」と言う意味の入った名前だったのです。
1333年のことです。
「尊」の文字は、後醍醐天皇の諱(いみな、諱とは天皇の本名で、普通にはこの名では呼ばない)、尊治(たかはる)親王と言う名前から、もらった名前です。
1335年、北条の残党が中先代の乱が起こり、乱の平定後、足利尊氏は征夷大将軍の地位を望んだのですが、後醍醐天皇は認なかなか認めませんでした。
そこで足利尊氏は、後醍醐天皇と敵対することになります。
後醍醐天皇から離れても、足利尊氏は、「尊氏」の名前を変えず、生涯、「尊氏」の名前を持ち続けるのでした。
この理由は、権威としての「尊氏」の名前を、足利尊氏が、室町幕府を開くために必要としていた。
「尊氏」と言う名前が錦の御旗のような役割を果たす、と思っていたのでしょうか?
北条家の鎌倉幕府から、すっぱりと分かれてしまいたかった。
と言う二つの理由を私は考えているのですが。
足利尊氏、後醍醐天皇と同盟、そして分かれて
足利尊氏が鎌倉幕府を倒すことができた理由には、後醍醐天皇(ごだいご)と協力したところにありました。
ちょうど、後醍醐天皇もまた、鎌倉幕府に不満を持っていました。
足利尊氏、後醍醐天皇に賛同した理由?
足利尊氏、第一回目の出陣
後醍醐天皇は、鎌倉幕府を、倒したいと思っていました。
その点、足利尊氏と利害が一致したように見えますが、足利尊氏は後醍醐天皇を、特に尊敬する、感激する、などということはありませんでした。
後醍醐天皇がわは、正中の乱、元弘の乱と次々、鎌倉幕府に対し反乱を起こします。
足利尊氏は鎌倉幕府から、後醍醐天皇を討つよう命令されて出陣していました。
ですが、その時 足利尊氏は自分の父が亡くなり、喪に服す期間中に入っていました。(当時は2年でした)
現代で言うと、忌引き(きびき)の期間、といっていいでしょう。
足利尊氏は嫌々ながら出兵した形ですから、戦いに本気が入らず結果もパッとしないものでした。
「太平記」によると、足利尊氏が鎌倉幕府に不満を持つきっかけとなったのが、喪中の間に出兵を命じられたこと、でした。
やはり、この時代の人々にとって、親・先祖を敬い、身を清く保つ、と言うのは大切な行事だったに違いありません。
この戦いでは、後醍醐天皇は捉えられ、天皇の位を取り上げられ、隠岐島に流される刑罰を受けました。
足利尊氏、後醍醐天皇が脱出後に、天下とりを宣言!
後醍醐天皇は、隠岐島に流されて2年後に、脱出しました。
もちろん許されてわけではなく、逃亡です。
そこでまた、後醍醐天皇は、打倒 鎌倉幕府に兵をあげます。
鎌倉幕府は、また足利尊氏を派遣しますが、尊氏はその途中で(愛知県三河あたりと伝わっている)、幕府を倒すと、宣言しました。
宣言には、祖父 足利家時(いえとき)が書いた子孫への遺言を読み上げたのでした。
それは、「『先祖 源義家が生まれ変わって、7代後には天下をとる』といったが、7代目にあたる自分(家時)は取れなかった。だから3代後の子孫が、天下をとる」といった内容でした。
家時から数えて三代下が、足利尊氏、と言うわけです。
この話は、「難太平記』(なんたいへいき)と言う書物に書かれていますが、遺言書が、実際にあったかどうかは実物がないので、なんとも言えません。
幕府を倒す宣言をした、足利尊氏は、まずは京都の六波羅探題(ろくはらたんだい)を攻め落とします。
ここは、西国の武士の動きを見張る、役所といったところです、
ちょうど、同じ時期に、一族の、新田義貞(にったよしさだ)が鎌倉幕府を攻め滅ぼします。
新田義貞の軍に、足利尊氏の、息子 千寿王(せんじゅおう、のちには義詮)が加わっています。
千寿王の参加の事実から、足利尊氏が、鎌倉幕府を攻めるよう命令を出したように思えますが、その事実は見当たりません。
足利尊氏と新田義貞は、のちに対立することとなります。
足利尊氏、朝廷の分裂を利用?
足利尊氏は、が鎌倉幕府を倒したのは、天皇家の争いを利用した、といっていいと思います。
天皇家は、1272年 鎌倉幕府よりだった、後嵯峨上皇(ごさが)が亡くなったことから、騒動が起こり始めました。
後嵯峨の後は、息子の 後深草天皇(ごふかくさ)、その次は 後深草の弟 亀山天皇(かめやま)と続きます。
ところが、後深草天皇にも息子がいて、後深草天皇はその子に天皇位を譲りたいと思っていたところから、お互い不満が生じます。
後深草の血統は 持明院統(じみょういんとう)、亀山天皇は大覚寺統(だいかくじとう)となって、対立が始まりまります。
鎌倉幕府は対立に決着をつけようとして、両派が交互に天皇位につけるよう制度化しました。それも10年ごとの交代と決めました。
しかしそれに、不満を持つようになったのが、大覚寺等の、後醍醐天皇です。
鎌倉幕府の言いなりになるのが嫌だ、これも理由です。
そして、後醍醐天皇は、鎌倉幕府を倒す、決心したのでした。
後醍醐天皇は、鎌倉幕府を倒す確かな武力が欲しかった、足利尊氏は、幕府を倒すための大きな権威が欲しかった、と言う状況だったのだと、私は思います。
足利尊氏が特に、後醍醐天皇の人柄に惚れ込んだ、と言う記述は見られないからです。
その証拠に、足利尊氏が戦で勝利しても、その恩賞を与えるについて、後醍醐天皇の許可を得る、と言うことをしていないし、出陣命令もにも従っていません。
足利尊氏、後醍醐天皇から離れる
足利尊氏と後醍醐天皇、この同盟関係は長くは続きませんでした。
天皇は、これから全て自分が支配する世の中を夢見ていました。
足利尊氏の方は、現場の苦労も知っている、一人の鎌倉武士。
天皇や公家たちからは、田舎武士と呼ばれていたかもしれません。
どう見ても相容れない二人に見えますね。
きっかけは、1335年、北条高時の息子 北条時行(ときゆき)が 諏訪頼重(すわよりしげ)と組んで、鎌倉政権を取り戻そうとする、中先代の乱の時のことです。
一時は、北条側は鎌倉幕府を取りもどしたのですが、足利はすぐに反撃し、北条を鎌倉からの追い出しに成功しました。
この時、足利尊氏は、鎌倉から離れて京都にいました。
京都への出陣を、願い出たのですが、天皇は認めず、足利尊氏は独断で、鎌倉に戻ります。
命令を無視した、と言うことで、後醍醐天皇は当然、怒ります。
足利尊氏は、後醍醐天皇は、現場の苦労を何一つ知らないボンボン育ち、と見たでしょうね。
後醍醐天皇は足利尊氏に、京都に戻るよう命令を出すのですが、聞かなかったため、後醍醐天皇はついに足利尊氏を討つ命令を出します。
足利尊氏、「逃げ若」アニメに登場!
足利尊氏は、鎌倉末期から南北朝時代の実在人物なので、ちょうどマンガ、アニメ「逃げ上手の若君」の時代に登場します。
最初は、最後の鎌倉幕府執権 北条高時の息子、北条時行に優しく、兄のように接する武将で、北条時行は慕っていました。
足利尊氏が、鎌倉幕府を裏切ったことで、北条時行はショックを受けます。
そして、これ以降 足利尊氏を、親の仇 とみなし、今度は攻撃対象となります。
「逃げ若」(逃げ上手の若君を省略した呼び方)で、足利尊氏は、残忍さを持つ悪役です。
そして圧倒的強さを見せつけてくれます。
その徹底した悪役ぶりで、見ている方は帰ってスカッとするような気分で私は見ています。
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