北畠顕家(きたばたけあきいえ)という南北朝の人物が最近人気です。
後醍醐天皇にひたすら支えました。
だたへつらうだけでなく、天皇の直すべきこともきちんと主張したあっぱれな人物です。
若くてイケメンの噂です。
文武両道の日の打ちどころのない、貴族そして武将でした。
漫画「逃げる若君」でよく知られるようになりました。アニメ化の話もあります。
どんなところがスゴイ人物だったか、見ていきましょう。
北畠顕家って誰?
鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した、公家に生まれながら優秀な武将だった人物です。
1318年〜1338年。若干20年余りの生涯でした。
鎌倉時代末期、北条氏が滅んだ後での活躍です。
時代は後醍醐天皇の頃。
北畠顕家、後醍醐天皇のために働く
北畠顕家は後醍醐天皇に仕えていました。父親の北畠親房が後醍醐天皇の側近だったからです。
14歳で(数え年だと12歳)公卿の位を与えられます。
公卿とは単に貴族階級を現す公家とは違い、政治に関わる役職に付いている階級です。
鎮守府将軍 北畠顕家
陸奥国(むつのくに、現在の東北地方)に派遣されました。
遠い北国の地に飛ばされたのではなく、後醍醐天皇の息子、義良親王(のりよししんのう)に従って、ついていきました。
ちょうどこの時期は1333年、鎌倉幕府が、武家同士の戦いで滅ぼされた年でした。
北畠顕家は鎮守府(ちんじゅふ)将軍に任ぜられます。
つまり東北の守備隊長です。
東北での北畠顕家の仕事は、北条の残党をとらえることでした。
北畠顕家と後醍醐天皇の仲
北畠顕家は、後醍醐天皇を尊敬していました。
自分を取り立ててくれた人だから、恩義も感じていました。
北畠顕家も公卿ですから武士が政権を取る世より、天皇中心の政治の方に賛同していました。
鎌倉幕府も滅んだのち、後醍醐天皇は、新しい制度を打ち出しました。
天皇と公家が政治の中心にいる制度「建武の新政」です。
今度は後醍醐天皇は、新しい幕府、征夷大将軍を認めませんでした。
しかし、鎌倉幕府が出来上がってから政権から長いこと離れていた朝廷・・・国の統治の業務をうまく行うことができませんでした。
鎌倉幕府よりの武士たちからは不満が上がり、飢饉も重なります。
しかも、天皇側は土地所有者たちから税金を集めることを決めます。
この案に対し反発は起こり、「建武の新政」は早くも行き詰まりとなりました。
北畠顕家の上奏文
行き詰まりと見た、北畠顕家は後醍醐天皇に、新しい国づくりを是非とも成功してもらいたかったので、「上奏文」という天皇の政策の問題点を述べた、天皇に戒めてもらいたい、手紙を書きました。
「上奏文」が書かれたのは、1338年、北畠顕家が戦死する約1週間前のことです。
内容は「建武の新政」の失敗の原因を分析するところから始めています。
続いて、これから世の中を、沈めて治めていくための、方法が書かれています。
そこには、中央集権制をやめて地方ごとに権威を任せて収めさせること
- 税を軽くすること
- 贅沢をできる限り抑えること
- 恩賞をむやみに当ててはならないこと
などが中心に書かれていました。
さらに、もし、この申し上げる内容を聞き入れていただけないときには、自分は天皇の元から去る、決意を書き添えていました。
一人の臣下が書いたとすれば、相当の覚悟が必要だったでしょう。
天皇に対して不敬である、と罰せられる可能性もあるからです。
この時の北畠顕家は、まだ20歳になったばかりでしたが、非常にキッパリとした文書でした。
いや、20歳の若さだからこそ、潔癖でストレートな意見を持つことができたのでしょう。
なお、この上奏文は実物は残っておらず、京都の醍醐寺に写本が残されているのみです。その写本を「醍醐寺文書」と言っています。
「建武の新政」の失敗から南北朝に
「建武の新政」が失敗すると、後醍醐天皇の反対勢力が天皇を別に立てました。
新しい天皇の派閥、これが北朝です。
しかし後醍醐天皇は、天皇の位への執着が強く、吉野地方に逃れて、ずっと天皇のまま居続けました。これが南朝です。
南朝に味方した主な武将は、北畠親房・顕家親子、楠木正成(くすのきまさしげ)、新田義貞(にったよしさだ)。
北畠顕家は、後醍醐天皇を見捨てず、ついて行ったのですね。
北朝に味方したのは、足利尊氏とその兄弟、家臣一党です。
日本の国が大きく揺れる時代です。
北畠顕家の父
それは北畠親房(きたばたけちかふさ)といい、歴史書「神皇正統記」(じんのうしょうとうき)の作者です。
「神皇正統記」は日本の天皇は神が起源であるとはっきりと書き出した、日本の歴史書です。
この書物は江戸時代末期、尊皇攘夷に大きく影響を与えました。
北畠親房は、後醍醐天皇から信頼を寄せられた側近です。
そこで、後醍醐天皇の息子、つまり親王たちの教育を任されました。
息子 北畠顕家が東北の長官になるとき、父親 親房も同行するよう後醍醐天皇から命を受けました。
そして息子と共に刀を振るって戦いに参加します。
このお父さん、文人だけではないのですね。
しかし、息子 顕家は足利尊氏との戦いで、その家臣高師直の手により戦死させられました。
父の嘆きは激しいものでした。
死の悲しみを「神皇正統記」に書き加えました。
北畠顕家、最強の人
南北朝には、多くの武人が活躍します。
その中でも、武人でありその行動ぶりが、注目の的であった、その人物こそが北畠顕家です。
進軍速度
北畠顕家の戦いぶりを、伝説にした・・・それが進軍速度です。
1335年冬、朝廷の許可を得ないで、鎌倉に北条の残党を討ち取りに行った・・・・
その命令に逆らったことに後醍醐天皇は怒り、新田義貞(にったよしさだ)に尊氏を討つように命令しました。
しかし新田義貞は劣勢・・・それどころか反対に、足利尊氏に追われ、京に迫る勢い・・・
そこに奥州(東北地方)より、欧州の長官の地位にある義良親王を大将として、北畠顕家が攻撃に出てきます。
1335年12月22日に奥州を出発し、鎌倉に翌年、1月2日に到着、鎌倉を平定して、即出発します。
1月6日に遠江、そして12日には近江に到着しました。
琵琶湖を1日で渡り13日に、天皇に味方していた武将新田義貞に合流できました。
その行程、600キロ。
これは鎌倉→京都間です。現代の東名高速だと500キロ余りですが、当時なら600キロあったのでしょう。
約半月で到着。1日の平均速度、40キロ。半月の間毎日フルマラソンしていたようなものです。
この記録は、16世紀、豊臣秀吉が、本能寺の変を聞きつけて中国地方から慌てて帰ってきたエピソードよりも早いです。
ちなみに秀吉は200キロをほぼ10日。北畠顕家はその倍の速度ですね。
これだけ早い理由は、馬にありました。
北畠親房は東北に赴任しており、東北地方、特に陸奥は馬の産地でした。
現代のサラブレッドとは全く違いますが、軍馬に使える良い、大型の馬がいました。
馬の大きさが速度を左右しました。
弓の名手
北畠顕家は弓の名手ということが伝えられています。
「弓の名手」という言い伝えはあるのですが、どの程度のものかを証明するエピソードが残されていません。
言い伝えでは、平家物語の、那須与一か北畠顕家かと言われるほどの名手、です。
那須与一は源氏側の武人で、屋島の戦いで、舟に乗っている平家の女性が掲げた扇を弓で射落とした、というのです。
ドラマや、漫画で京都の三十三間堂で弓を打つ、北畠顕家のシーンが出てきます。
しかし、三十三間堂の話は、創作です。
確かに三十三間堂では、毎年新春に全国規模の弓道大会が行われ、成人式には振袖姿の新成人の女性が弓を射ますから、弓にぴったりなシチュエーションとして三十三間堂、と設定付けたのでしょう。
この弓射ちは江戸時代からの行事です。
北畠顕家、イケメン!
北畠顕家は歴史的にもイケメン、美少年と言われています。
若くしてイケメン、しかも戦略的に優れた才能がある・・・いうことないですね。
書物に現れるほどのイケメン!
北畠顕家の容姿を、書いている書物は、南北朝に書かれた「舞御覧記」。
この文章は、後醍醐天皇が京都の北山に行幸(天皇陛下が、おでかけになること)の記録文書です。
それによると。
この比世におしみきてえ給ふ入道大納言の御子ぞかし。形もいたいけしてけなりげに見え給に。此道にさへ達し給へる。
(北畠親房公のご子息であり、姿は幼くてかわいいながらも、態度がしっかりしているように見受けらる。舞の腕前も高い域に達している。)
とあります。
そして、見た目も落ち着きがあり、品がある美少年であったのです。
この時の北畠顕家はまだ15歳でしたが、勇気があり、そして戦略にも優れていました。
この書物は、のちに歴史書「増鏡」が書かれる時の参考となりました。
陵王(りょうおう)を舞う北畠顕家
陵王とは雅楽舞曲です。
中国の話を踊りの演目に作り上げました。
中国、500年代後半の、蘭陵王という人物は武勇に優れ、しかも驚くほどの美男子。
ただ顔の美しさが、勇猛さを欠くとと思い、陵王は怖い顔の面をつけて軍の指揮を行ったところ、兵士たちは勇気が湧いて、敵に勝利することができた、というのが踊りの内容の筋書きです。
踊りも、恐ろしい顔の面をつけ、真言密教で使うような剣を持って舞います。
かなり動きの激しい舞です。
北畠顕家にうってつけの舞です。
「陵王」は踊り手が少年だった場合は、面をつけずとも良い、と言われています。
果たして、北畠顕家は面をつけたか・・・あるいは・・・?
後醍醐天皇が笛のパートを受け持ったようなことも言われています。
後醍醐天皇のお気に入りぶりが感じられます。
後藤久美子
1991年、NHK大河ドラマ「太平記」は足利尊氏を描いたドラマでした。
当然、北畠顕家も登場し、後藤久美子が演じていました。
当時の後藤久美子は、国民的美少女と言われ、「太平記」の時は17歳でした。
北畠顕家は男性ながらも、超美男、と言われるのだから、なかなか役にある俳優さんは見つかりません。
そこで、美形!を強調することで、美少女を使ったのはなかなか面白いですね。
「陵王」のも舞のシーンもあります。
しかしここでは面をつけずに素顔(?)で舞っていました。
せっかく後藤久美子が出るのだから、素顔で見てもらいたい、という制作者側の考えもあったかもしれませんね。
北畠顕家に妻がいた!
イケメンなら独身・・・というのが女性たちの望み(?)かもしれませんが、北畠顕家には妻がいました。
日野資朝(ひのすけとも)の娘です。
日野資朝の父は後醍醐天皇の側近の一人でした。
平安時代の大貴族、藤原家の一族でした。
日野資朝は、鎌倉は幕府を倒すことを目標としていました。
ですから、娘と北畠顕家との縁談は、まあ当然と言えます。
しかし北畠顕家は、ほとんど東北地方出張だったので、なかなか二人の夫婦としての生活は持てなかったのでは?
妻の父、日野資朝も、朝廷からの命令で全国各地を回って情報種集をしていたと言いますから、一家の大黒柱が家にいないのは普通のことと、思っていたのかもしれません。
それでも、顕成(あきなり)という息子が生まれました。
ですが、顕成は、はっきりと正室の子供であるとはわかっていません。
のちに、第8代将軍、足利義政の正室となった日野富子とは、同じ一族ではありますが、直接の関係はありません。
しかし同族とはいえ、末裔が足利の嫁になる・・・・なんて皮肉な話ですね。
北畠顕家、東北の支配者
北畠顕家は、天皇によって東北地方に派遣されました。
北畠顕家、東北で人気を集める
北畠顕家は、16歳で、東北地方の長官に任命されて赴任します。
東北地方の、朝廷に対する反乱分子を討伐するためでした。
北畠顕家の仕事はうまく運び、さらに、反乱を起こしていた武士たちは味方になっていきます。
16歳といえば、武将としては若造にすぎません。
それでも東北の人々を味方につけることができたのですから、その魅力にびっくりです。
それもわずかか1年の間にです。
やはり美形というのも理由になるのでしょうか?
多賀城
北畠顕家が、東北について本拠地にしたのは多賀城です。仙台の北に隣接する場所です。
多賀城は元々、朝廷からの名を受けて、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が、724年に建てた城です。
坂上田村麻呂は、蝦夷討伐のために作った城なので、元々攻撃用の城として作られたものでした。
その後も度々、内乱を治めるために使われた城です。
何度も使われた多賀城ですが、今では城はなく、跡地だけが残っています・
北畠顕家、足利尊氏が恐れた男
北畠顕家は、公卿の身分のくせに武芸に優れ、戦略家でもありました。
若さと武力があったからでしょう。そして公卿という地位も持ち合わせています。
サラブレッドのプリンスといったところでしょうか。
一方の、足利尊氏は、鎌倉幕府の御家人。
後醍醐天皇の寵愛を受けて、しかも自分が望んでいた東北討伐の地位を手にした北畠顕家に、叶わぬ嫉妬心を抱いたのかもしれません。
北畠顕家が若さゆえに持つ、大胆さを恐れていたのです。
また、北畠顕家が短期の間に、東北の人々の心を掴んだ、そのカリスマ性をまた恐れていたのです。
後醍醐天皇が、政権を朝廷に取り戻そうとした時、足利尊氏は幕府にいました。
しかし、その時の活躍ほどには認められなかったとなると、鎌倉を見限って、力をつけてきた後醍醐天皇に味方して戦いました。
そして鎌倉幕府を倒す側となり、ついに鎌倉幕府は滅亡します。
鎌倉幕府滅亡後、足利尊氏は望む地位が与えらないこともに不満を感じるようになっていました。
元鎌倉武士たちが起こした反乱を鎮圧したいと申し出ましたが、朝廷の許可は降りませんでした。
腹を立てた足利尊氏は平定に向かったのです。
足利尊氏は命令に従わなかったとして、後醍醐天皇から謹慎を命じられました。
しかし、謹慎を破って飛び出し、後醍醐天皇の対抗勢力につきやがてそこでできる、北朝に味方します。
こうして、後醍醐天皇を立てる南朝、その南朝に見方する北畠顕家とは敵同士になりました。
北畠顕家、漫画「逃げ上手の若君」のもう一人の若君
松井優征 作の漫画「逃げ上手の若君」が少年ジャンプで連載され、人気が出ています。
主人公は北条氏直系、最後の生き残り、北条時行です。
2021年8月に連載が始まり、続いています。
北条家の最後の後継者、ということで最初は、北畠顕家たちから、追討される側にいました。
敵だった間柄です。
しかし、足利尊氏への復讐心に燃える、北条時行は後醍醐天皇に味方します。
そこで、北畠顕家は、北条時行と同盟を組みました。
こちらも10代前半の年齢、若者の闘志が一気に炸裂を感じる作品です。
高畠顕家の最期
北畠顕家の亡くなった日は1338年6月、最期の地は石津。今の大阪堺市です。
「石津の戦い」と呼ばれています。
石津の戦いで落馬
高畠顕家は、後醍醐天皇の命令により、足利尊氏を追って、ついに堺の浜までやってきます。
北朝軍を蹴散らし、勝利しながらやってきたのですが、堺では北朝の、瀬戸内海の水軍(日本の私設海軍。海賊行為も行っている)が北朝に味方していました。
北畠顕家の20の騎馬兵、一方、高師直は18000人。
高畠顕家は奮闘しましたが、周囲を北朝軍に囲まれてしまい、どうすることもできなくなりました。
ついに落馬したところを討ち取られ命を落としました。この時北畠顕家の年齢21歳。
一緒に同行していた有力な部下も戦死しました。東北の南部氏も含まれています。
北畠顕家、最期の様子は「神皇正統記」に記述があります。
石津の戦いでの敗北で、南朝は形成不利となり、勢いに載った北朝軍に一気に奥州に攻め入られ、欧州はどんどん北朝に占領されていきました。
高師直
北畠顕家を討ち取ったのは、高師直(こうのもろなお)でした。
高師直は、足利尊氏の右腕ともいうべき人物。
石津の戦いでは、足利尊氏より、指揮官を任されていました。
足利幕府になってからは、足利尊氏の執事的な役割をします。
と同時に悪い噂の多い人で、そのため、足利尊氏に一族を滅ぼされてしまいます。
後世の話では、高師直は悪人のように書かれています。
後の世に出る、有名な芝居、「忠臣蔵」では、「高師直」が悪人です。
吉良上野介がのなが、幕府への忖度なのでしょうか、「高師直」になりました。
首を討ち取ったのは?
高畠顕家が流れ矢に当たって落馬したところ、越生四郎左衛門尉(こしおしろうざえもん)、が討ち取りました。
討ち取ったところを素早く、武藤右京進政清が首を取って、甲冑一式を添えて、大将 高師直に献上しました。
武藤右京進政清は丹後国の出身ですが、若狭国の国史に、「若狭国の武藤右京進政清、高畠顕家の首を討ち取ったり」と記述があります。
丹後国は京都で丹後半島にある一方、若狭国は福井県です。両国は近いから書かれているようです。
北畠顕家の墓
大阪市阿倍野区の北畠公園内にあります。
北畠公園名前ががありいかにも・・と思わせるところです。
「太平記」には北畠顕家は阿倍野で討ち取られた、とあるところから、江戸時代、国学者 並河誠所(なみかわせいしょ)思うのですか?が、公園内にある一つの塚を、北畠顕家の墓と定めました。
実際、阿倍野も堺も近く、古戦場であれば、大きな一帯の場所です。
江戸時代にはこんな公園があったとは思えませんが、整備されてきたのでしょうか。誰かなのある人の墓がある、と知れ渡っていたのでしょうね。
とにかく墳墓が多くあるところでした。
今でも、「松虫塚」、「播磨塚」、「経塚」など塚がいくつもあります。
近くには、北畠親房と顕家親子を祀った「阿倍野神社」があります。
しかし歴史的に見て、本当だろうか?と・・・
特に調査が行われた話もないので、このままなのでしょうね。
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