於大の方、というと徳川家康の母ですがその後再婚しています。そこにじゃ戦国ならではの事情があります。一体いどんな事情だったのでしょう。
於大の方出身の家、水野家にもその一因がありそうです。
その後家康に嫁が来ました。築山殿と言いますが、嫁との関係って気になりますね。よくいう嫁姑の複雑な関係があったのでしょうか?
戦国で波乱の人生を送った於大の方、最期はどのようなもの立っだでしょうか?
於大の方は美人の血筋?最初の夫は松平氏
於大の方は徳川家康の生母です。於大の方は1528年の生まれです。家康が1543年の生まれですので、お代の方15歳の時に産んだ子供です。嫁入りが14歳でした。早い!とびっくりしますが、昔では10代のうちの出産はそれほど珍しくありませんでした。
でも亡くなった年が1602年でしたから、実に75歳の生涯を生きました。当時としては長生きたっだのですね。
この時代、今川氏、斯波氏、織田氏とそれぞれの氏族がそれぞれ勢力を伸ばしていました。
桃山時代、戦国と動乱の時代を駆け抜けた女性です。
於大の方の父親は、水野忠政、母親は於富。於富はどこの出身かはわかっていませんが、とても美しい人だったそうです。
その美しさに目が眩んだ松平清康が、於富をなんとかして自分の側室にしたいと思い水野家に側室要請をします。惚れ込んでの要請と聞けばなんとなく聞こえはいいのですが、わかりやすくいうと、「君の奥方は大層美しい、だから側室にしたい!」と無理難題。これは横恋慕ですね。
なんと言ってもその頃の松平清康はまだ10代、対する於富が40歳近い頃でした。当時の美魔女だったのですね?於富さんは・・・・この時代の美魔女ってなかなかいないと思いますよ。稀有な存在ですね。
大体は、そんな無理無体断ると思うのですが、そうではなかったのですね。
ということは松平家と水野家・・・非常に友好関係であったかというと、それほどでもなかったのかもしれません。どちらも三河の国、今でいう愛知県なのですが、どちらも今川家に味方していました。
しかし同じ県内というのは勢力争いの匂いがします。
水野家は、於富を離縁しそして清康に側室に差し出してというわけです。身の保身を計ったか?水野家は松平家より弱い立場だったのが伺われます。
その後、娘の於大の方が息子広忠の嫁となり松平家に入りました。母娘2代、同じ家に嫁に入るって何か不思議な感じです。実の親子であり、嫁姑の間柄になるのですから。でもこの場合だと嫁いびりはなさそうですが。これなら14歳で嫁に行っても安心、というところでしょうか?
於大の方の美貌は母ゆずりだったのでしょうか?まだ14歳となるとよくわかりませんが、美人の期待高まりますね。
そして生まれたのが家康でした。
ですが、於大の方も祖母と同じような運命を辿ります。
実家水野家の父が亡くなったことで、時期当主の意向で、今川家より織田家に着くのをよし、としたのでした。
そのために於大の方、松平家より離縁の憂き目を見るのです。祖母と孫、これほど似たような仕打ちを受けるとは皮肉としか言えません。
於大の方が祖母から受け継いだのは美貌だけでななかったのですね。
於大の方と松平広忠の仲は?その後の於大
松平広忠と於大の方は特に記述はありませんが、そこそこに仲は良かったようです。後継ぎも生まれ、これからは・・・と希望があった時期でしょう。
竹千代(のちの家康)が松平家で誕生した頃に、於大の方の父水野忠政が亡くなりました。水野家の家督は於大の方の兄の水野信元に引き継がれました。
兄信元は今川寄りを織田氏寄りへと路線変更してしまったのです。
新しい水野家当主と松平家との間に不穏な空気が流れます。水野家、松平家、それぞれ頼りとする相手が違ってくるようになりましたから、両家の関係は下手すれば一触即発!
敵方の人物を家に入れておくわけにいかない、これが戦国時代のやり方。嫁を追い出さない限り今川家に味方である、との理解をしてもらえない。
そこで於大の方を離縁するなりました。於大の方は幼い竹千代とも別れて実家水野家に戻ります。
だからと言って松平家安泰とは言い難いものでした。今川氏の味方になっているため織田勢に攻められることもしばしばでした。この時代の織田は信長ではなく、その父信秀です。
今川氏に助けを求めるため、子息の竹千代を今川氏に人質として差し出しました。
ところがついている事に、今川家に於富(家康の祖母)が身を寄せていました。実はこの祖母、松平清康(家康の祖父)が、惨殺されるという事件があり、松平家を出る羽目になりました。なにしろ側室だから正妻のように止めおく必要なない、という扱いだったのでしょう。
その後は別の家に嫁ぐ事になり、その先からまた別の家に嫁に行くは羽目になり、ついには身寄りをなくし今川氏を頼っていました。戦国時代にはよくあること・・・とはいえ・・・於富は人生で5回の結婚を経験しました。いくら戦国時代と言ってもちょっと多すぎるかも。
今川家で人質として来た孫の竹千代に再会でき、再び養育に携わりました。
於大の方は、実家に戻ったあと水野家のためと言われて、尾張国阿古居城主久松俊勝のもとに嫁ぎます。於大の方はまだ19歳・・・水野家に通ってはまだまだ使い道あり、と思われていたのですね。
久松家は織田方の家とされていて、だからこそ水野家は於大の方を久松俊勝に嫁にやったのですが、実は、松平家とも関わり合っていました。松平広忠とは気が合うもの同士と思っていたようです。
心中的には織田家と松平家の中庸にあたるところに位置していました。つまり何かあった時の仲立ち的役割があったようです。
久松俊勝との間に、於大の方は三男四女を儲けます。久松俊勝とは夫婦仲はかなり良かったと言います。
於大の方は、再婚しても最初の子、竹千代のことを気にかけ季節の着物、菓子類を贈ることもありました。これが水野・織田にばれると、同盟していると疑われる可能性がありましたが、久松俊勝は黙認していました。
これは久松俊勝と於大の方の中が睦まじかった、という証拠でもあるのですが、もう一つ久松家の中間的な立ち位置が影響していたのかもしれません。於大の方の気持ちを思いやれる優しい人だったのでしょうね。
於大の方の性格、そして築山殿との関係
於大の方は、いえ戦国時代の女性の記述はそれほど伝えられていません。ですのでその生涯から読み取っていくしかないのですが。
イメージとして強いのは、山岡荘八の小説「徳川家康」でしょうか?
小説を見ると、夫松平広忠は怒りっぽく癇癪持ちの人物に描かれています。それに比べて於大の方は優しく心のひろい人物となっています。
於大の方の生涯を見ると、我慢強い、愛情深い、と健気な面が見えてきます。幼い竹千代と別れても忘れず絶えず心にかけていたこと。桶狭間の戦いで家康の身を常に案じていたこと。この辺りが愛情深い証拠でしょう。
いつか別れた息子に会える日がくる、と信じていたところに我慢強さと芯の強さが感じられるところです。
しかし、美化しすぎ?と少し感じます。
ただし・・・一点あるとすれば。今川家を恨んでいたことです。
まず、今川家があったおかげで、最初の夫松平広忠と離縁しなければならなかったこと、さらに松平家の忠心を試されるために息子竹千代を人質に出さななければならなかったこと、があったからです。
我慢強い性質は、時を超えて恨む性質にも繋がってきます。
於大の方、「どうする家康」内では
家康が、今川家の姪、瀬名姫(築山殿)と結婚したのですが、瀬名姫(築山殿)に対し愛情を持って接することができませんでした。我慢強い性格が負の感情となって現れた結果のような気がします。
「どうする家康」の中では、これまで見ることのなかった激しい一面が描かれています。松嶋菜々子が演じています。
そこではまず、今川氏を見限って織田信長側につくように、勧める。それもかなり強い口調です。
妻子を今川方に残してきてしまった後でも、「妻子など、どうでも良い」、「あなたの(家康の)父もあなたを人質に出した」「主君は、国と家臣のためなら妻子など捨てるが良い」と・・・
従来の慈愛に満ちた母親像とはかなり違う描かれ方になっています。まさに戦国の烈女。戦時下において、戦う側の都合であちこち翻弄され人物の重みがある存在です。
確かに歴史で聞く於大の方は、戦をできるだけ避けるためその対策のために使者として向かうこともあったと言われています。
こうしてみると単に今川嫌いだけではなかったところが伺えるのですが、当事者となってしまった瀬名姫にとっては辛い話になります。
ですが元々、今川との縁組は於大の方はあまり歓迎していなかったので、このようなセリフが出ると、瀬名姫は最悪心でも良かったのかも、と於大の方が思っていたのかも・・・と勘ぐりたくなります。
瀬名姫が築山殿と呼ばれたのは、当時家康の住まいだった岡崎城のうちではなく、城外の敷地に御殿を作ったのでその場所から「築山殿」と呼ばれました。
どうも於大の方が、今川家出身の瀬名姫を認めないあまり、岡崎城内に瀬名姫を住まわせるのに反対したから、という説もあります。
ここから見ると、於大の方はただ優しい、芯が強いだけの人ではなかったようです。心の中にわずかに闇の部分が見受けられるところで、聖母だけの人ではない人間味が感じられます。
と同時にどんな手段を用いても戦国の時代を終わらせてやる、という決意を持っていた人ということがわかります。
於大の方の晩年と最後は?その葬儀と墓は?
於大の方は2番目の夫久松俊勝の死後、剃髪して出家して伝通院という法名を授かりました。
家康は征夷大将軍となった時に、母於大の方を伏見城に呼び寄せました。
そして幕府を開く一年前1602年に、京都の伏見城で生涯を閉じました。享年75歳。当時この年齢まで生きたといえば大往生と言っていいでしょう。息子家康に看取られながらの平安な死でした。
葬儀は京都の知恩院にて行われました。遺骸は江戸まで運ばれて、大塚の知光寺で荼毘に付されました。つまり火葬ですね。そして遺骨は伝通院に埋葬されました。
伝通院は家康がお墓を建立するところからできたお寺です。於大の方の法名にちなんで作られたお寺です。
一方位牌の方は、2番目の夫久松俊勝の菩提寺の安楽寺に安置しました。
家康は親孝行をしたわけですね。
しかし松平広忠と一緒にしてあげよう、とか家康はあまり思わなかったのでしょうか?広忠は、あまり優れた人物ではないような話に書かれていることが多いので、於大の方ほど尊敬を集めていなかったのかもしれません。
於大の方、ゆかりの地
於大の方にゆかりの地のほとんどは愛知県に集結しています。
愛知県知多郡東浦町が於大の方の出身地です。東浦町の緒川城にて於大の方は生まれました。
緒川城は14中頃に築城された水野家の居城です。この城は今に残る城の見取り図を見ると平山城だったようです。平山城は小高い丘、または低い山に造られた城で戦国時代あたりから作られ始めた城の形式です。
ですが今では城はなく、土塁の一部のみが残り、城址になっています。
東浦町には於大の方出身地、水野家本拠地だけあって、水野家に関わる寺院が連なっています。
宇宙山乾坤院(けんこんいん)は水野家一族の菩提寺です。一族のお墓があり位牌が祀られております。
しかし、平成28年に火災に遭い、かなりの面積が焼かれました。墓地は無事だったようおです。現在は債権に向けて活動中です。寄進を受け付けているようですよ。
善道寺は、於大の方がまず自分の菩提寺にしたい、と思っていたお寺です。ですから自分の所持品を納めていました。
明徳寺川に沿った約2キロメートルの道は「於大の道」と呼ばれる歴史散策路です。国道から乾坤院までの道に後世に命名されました。
沿道には600本以上ある、八重桜が植えられています。また観光地によくあるゆるキャラ(?)として「おだいちゃん」という於大の方をモデルにした、可愛いマスコットがあります。
於大の方、東浦町の人気者なのですね。のちに将軍となった家康より人気です。
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