渡辺守綱(わたなべもりつな)は徳川家康(とくがわいえやす)の家臣です。非常に強い武将でした。
強くて、性格も良ければ、文句のつけようもない家臣なのですが、ちょっと問題のある人物だったかみたいです。
家康からはどのように扱われていたのでしょうか?
渡辺守綱の先祖は強さを持って知られた武人でした。何をした人だったのでしょうか?
そしてどんな最後を迎えたのでしょう?
渡辺守綱、槍の使い手。その活躍は!
戦国武将で、強い!腕一本!といえば剣の腕を指しますが、渡辺守綱の場合は、槍でした。長いものを振り回す。豪胆なイメージです。
槍を使っていた、ということは足軽のような低い身分であったことが伺われます。
生まれた年は、徳川家康と同じ、1541年です。
槍で最初に名を挙げたのが、1561年。今川氏真の元にいました(家康の人質時代)。長沢城攻撃で敵方の武将、轟木武兵衛(とどろきぶへい)を倒した時でした。
この戦い以来、常に槍で活躍するようになりました。窮地に陥った徳川軍を槍一本で、敵から逃した戦闘もありました。
徐々に「あいつ(渡辺守綱)の槍はすごい!」と言われ認められてきます。
渡辺守綱は「槍の半蔵」、「槍半蔵」とまで呼ばれました。槍を取らせれば天下一、といった意味合いですね。
「半蔵」とついているのは、渡辺守綱の真ん中の名前が半蔵だったからです。つまり渡辺半蔵守綱、というのが本名です。
徳川家康の部下には、服部半蔵正成(はっとりはんぞうまさなり、まさしげ、とも呼ばれる)がいました。後に忍者衆を指揮することになる人物です。
服部半蔵も武芸に優れて強かったので、こちらは「鬼半蔵」と呼ばれていました。「鬼半蔵」に対抗して守綱自ら「槍半蔵」と呼ばせていたのかもしれません。
「姉川の合戦」、「三方原の合戦」でも槍一本で大活躍をしました。
戦の勘も良かったようです。相手の陽動作戦を見破ります。
活躍の割に、もらった報酬は多くありません。槍一本で大出世とまでは行きませんでした。せいぜい足軽頭、と言った程度です。
「槍半蔵」の命名は家康でした。「槍半蔵」が渡辺守綱のニックネームのようになりましたが、戦国では自分に通称ができて、覚えてもらえれることが名誉でした。
戦場で出会った時、「槍半蔵が来たぞ!」と呼ばれる、これは強い証です。
家康のために働き続けた人物、それが渡辺守綱でした。忠義だけが渡辺守綱の心の支え、だったのでしょうか?
勇敢な武人だったために、徳川16神将の一人に数えられています。これは家康が生きていた時からこう呼ばれていたわけではなく、家康の死後、仏教になぞらえて呼ばれるようになった、徳川の将軍たちの呼び名です。
家康は、江戸時代「神君家康公」と呼ばれ、東照宮にまつられました。
仏教絵画に見られる、仏教の四天王、12神将を真似して、神君、家康に仕える神将ということで、家臣の、武勇に優れるものを、絵画として一緒にまつりました。
渡辺守綱、性格
槍一本で、戦国の世を渡って行った人物ですので、力自慢の人!というイメージがあります。確かに槍を取らせれば天下一、という勇猛果敢な武将です。
一向宗の門徒だったということから一途な面も伺えます。一向宗信徒は一途に信ずるものが多かったのです。渡辺信綱も一向宗を信ずるあまり家康に反逆しました。
洪水に苦しむ農民を見て心を痛め、堤防作りの現場に自ら参加する実行方の人物でもあります。優しい面もあります。
以上のことから見えるのは「気は優しくて力持ち」という人物が見えてきます。そのため、情にもろいところがあるんじゃないでしょうか。そのような性格だからこそ、この後、家康にずっと忠義を尽くしたのだと思います。
大河ドラマ「どうする家康」ではもっと人物に面白味を加えました。「槍の名手、豪快な立ち回り」に加え、その性格は「おおらか、我がみちを行くタイプ。女好きな一面も」という設定です。
「どうする家康」で、渡辺守綱役の木村昴さんの役へ取り組みはユニークです。
木村昴さんは、渡辺守綱の性格をガキ大将みたい、と捉えました。そこで木村さんの頭をよぎったのが、自分が声優を務めるアニメ番組「ドラえもん」のキャラクター「ジャイアン」。木村さんはジャイアンの声をアテています。
そのジャイアンと、渡辺守綱のイメージが重なったと木村昴さんは言ってました。そういえば「どうする家康」の渡辺守綱は、かなりの暴れん坊です。働いている美人の女性にちょっかいを出したり・・・
見ている視聴者からの声も、「ジェイアンのご先祖みたい!」という声が上がっているそうです。
渡辺守綱、先祖は渡辺綱
渡辺守綱が豪胆な武人、ということはその先祖から流れる血のせい、と言えるのかもしれません。
名前が非常によく似ていますが、先祖に「渡辺綱」(わたなべつな)という人物がいます。平安時代中期の武将です。
渡辺綱には鬼退治の伝説で有名です。その話が説話集「御伽草子」に載っています。京都の大江山に棲む、酒呑童子という鬼を倒しました。
また京都の一条戻橋で、茨木童子の腕を切り落とし持ち帰ります。茨城童子は腕を取り返しに渡辺綱を襲います。かなわなかった茨木童子は逃げ去った、という結末でした。
渡辺守綱は、渡辺綱の次男、筒井久の孫、渡辺伝の子孫ということです。家系図にもそのように記されています。
渡辺守綱の家紋は渡辺綱と同じ、盆の上に団子が3個載っている、ような家紋です。
名前が似ていること、武勇に優れていること、家紋が同じこと、家系図が伝わっていることから、渡辺守綱が渡辺綱の子孫である、事実の可能性が高いと思います。
渡辺守綱と一向一揆
渡辺守綱は一向宗の信徒でした。渡辺守綱以外にも、一向宗の信徒が、徳川家康の部下にいます。
ではいったい、一向宗とはどんな宗教だったのでしょう?
一向宗は、親鸞(しんらん)の教えを守る仏教と言われていましたが、実は親鸞の教えを伝える「浄土宗」、「浄土真宗」、また「本願寺派」とは別物です。「浄土真宗」から派生した仏教ではありません。
「浄土宗」から派生したらしいのですが、いろいろな宗派とその他の土着の宗教が一緒になって「一向宗」ができたのです。そして一向宗の教義、信仰の傾向も独自のものでした。
「阿弥陀仏は悪人も救ってくれるので、悪行をしたところで死後に浄土(天国)に行く妨げにならない。だから真の信心を持つ者は悪いことを行うことを恐れてはいけない」というのが「一向宗」の思想でした。天国に行くために積極的に悪いことをせよ・・とは。ちょっと無茶苦茶言ってますね。こちらの方がジャイアン思想に思えますが。
さらに無茶苦茶なことには、一向宗が浄土真宗から生まれたのでなく、一向宗の信徒の方が浄土真宗になった、とそう信じていたところにあります。
一向宗信徒は念仏を唱え、病気が治るように祈願する、と言っています。霊を呼び加持祈祷もします。
戦国時代は、戦争ゆえに庶民が苦しむ時代でした。庶民は、兵士として駆り出され、田畑は戦によって踏み荒らされる。戦で一家の男手が死ねば、たちまち生活に困る始末。そんな苦しい時代だから、庶民は救われる世の中を夢みます。自然と加持祈祷を頼みごとをします。
一向宗が庶民の心の拠り所になっていた、といえましょう。
戦国大名たちは、一向宗信徒が集まることを警戒していました。加持祈祷が怪しげなものに見えました。
加持祈祷以上に一向宗の団結力を恐れていました。生活の苦しさで、庶民が一つになり、やがて支配者層(戦国大名たち)に刃向かうようになるのではないかと。
徳川家康の臣下にも一向宗信徒がたくさんいました。大体は身分が高くない者でした。渡辺守綱もその一人です。
三河一向一揆が起こったのが、1563〜64年頃、渡辺守綱が家康の家臣になったのは1557年。家康の今川の人質であった時代のことなので、渡辺守綱は家康に対し、主君である、という意識がまだ薄かった頃です。そこで、一向信徒側についたのかもしれません。
三河一向一揆の結果は、家康が一向宗に厳しい態度を取り、決着をつけました。改宗を呼びかけ、改宗に応じなかった寺院は焼き払いました。
家康の徹底ぶりに感じ入ったのが、渡辺守綱でした。許された、ということもあり、その後は生涯にわたって徳川家康に仕えることとなりました。
渡辺守綱、最期と墓
渡辺守綱は、1609年、家康の9男、義直(よしなお)が尾張藩主になったのをきっかけに、尾張藩の家老職に任ぜられました。給料としてもらう石高(こくだか)も増えて、一気に出世です。
大坂冬の陣(1614年)、大坂夏の陣(1615)年に参戦して、尾張藩主、義直を支えました。
そのころは70歳を超えていました。その時でさえ、槍を持っていました。「じいさん、がんばれ!」と声をかけたいですね。
「関ヶ原の合戦」「大坂夏の陣」合戦を描いた屏風絵があります。小さすぎてよく見ることができませんが、目を凝らしてみれば、もしかしたら渡辺守綱が見つかるかもしれません。
亡くなった年は1620年。79歳になっていました。死去の地は名古屋です。実に徳川家康が亡くなった4年後でした。その4年間、義直の統治を助けました。
家康を最後までしっかり見届ける、その役割を果たしたかのような最後でした。
79歳、当時としては戦乱の世を経験しました。かなりの長命ですね。特に病気という記録もありません。おそらく老衰による死でしょう。
その墓は愛知県豊田市にあります。寺の名はそのもの、守綱寺、しゅこうじと読みます。真宗大谷派の寺院です。お寺の山門のところには「史跡 守綱寺 渡辺家墓所」と彫られた石碑があります。
渡辺守綱の墓所として、寺を尾張藩から拝領しました、簡単にいうと頂き物です。墓は息子、重綱(しげつな)が建てました。さらに重綱の息子が守綱寺を、渡辺家の菩提寺としました。
ハスが美しく咲くお寺で、地元豊田市では有名です。
法名は「守綱院殿釈道居士」(しゅこういんどのしゃくどうこじ)。院号の下の「殿」と付くのが身分の高さを表しています
子孫は明治維新の頃までは続いていました。尾張藩、紀州藩にその子孫が家老の家柄で残っていました。
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