石田三成いい人?友達と部下に慕われ。子孫は?家紋、旗印の意味?三献の茶とは。関ヶ原の戦い敗北!

石田三成、関ヶ原の戦いで負けた戦国武将です。

果たしてどんな人だったのでしょう。

嫌われ者と言われてますが、そうでない場面を探したくなりました。

親友と言うべき人もいますし、慕ってくれる部下もいました。

家康とは本当は、憎み合うほどではなかったのに、なぜ戦いになったのしょう?

石田三成の、旗印はとても面白い図柄です。

漢字を組み合わせた、図柄ですが、人々の幸せを祈る意味があります。

三献の茶が有能さを示す話ですが、どんな話でしょうか?

ここでは、石田三成の、決して悪人ではなかった面を見ていきましょう。

石田三成、どんな人

生まれは滋賀県長浜市。

豊臣秀吉に気に入られて、小姓勤めからその経歴は始まりました。

秀吉が長浜城主の時代に家臣によく気が利く人物として、抜擢されました。

生涯、ブレずに豊臣家に忠誠を尽くした武将です。

頭がいい人でした。経理や管理が得意な人だったのでしょう。

事務仕事に優れていて、どんどん出世しました。

理数系の頭脳の持ち主と言っていいでしょう。

太閤検地は、石田三成が率先して行った事業でした。

秀吉の朝鮮出兵の(1592年 文禄の役)では総奉行になり、明との対外活動に力を尽くしました。

1598年、秀吉死去の時には、朝鮮へ向けた兵の撤退に向けて働きました。

ですが、戦争は下手でした。

秀吉の北条攻めに、関東まで従いましたが、そこでは負け戦を味わっています。

そのために頭でっかちの、戦下手とでも思われたのでしょう。

他の武将たちからは嫌われていました。

秀吉亡き後、秀頼を守り立てようとしたのですが、有力な武将が豊臣を離れ徳川についたのは石田三成の人気がなかったからです。

石田三成の人気のなさが、関ヶ原の戦いの敗北に繋がってしまいました。

しかし、事務処理に実力を発揮する有能の人物だったので、戦国時代に生まれなければもっと自分の才能を発揮し活躍できた人物だったかもしれない、という気がします。

石田三成、いい人だったかも?

石田三成は実はいい人だった!という話もあります。

関ヶ原の戦いで、徳川家康の敵だったために、徳川家は石田三成を「悪いやつ」と位置付けたかったのです。

石田三成がいい人と思われる理由

石田三成は、私利私欲がありませんでした。

自分を引き立ててくれた、豊臣秀吉を非常に尊敬し、恩義を感じています。

ですから、秀吉の跡を継ぐのは、秀頼ただ1人、と決めていました。

自分が天下を取ることは、微塵も考えていませんでした。

これまで、秀吉からもらった、地位や石高(お給料みたいなもの)だって、くれる以上におことは望んでいません。

三献の茶の例などで、見る通り、他人への気配りが優れた人でした。

またその性質は、石田三成の旗印にもよく現れています(旗印の項を参考)。

万民の幸せのためにある、という意味です。

いい人なのに嫌われた?

そんな私利私欲のない人がなぜ嫌われ者と言われてしまったのでしょうか?

まず、頭が良い人すぎた。

そして周りが見えなかった。

以上の2点が合わさったのが大きな要因です。

こんな例があります。

大きな台風が過ぎ去ったあと、石田三成は城に修理箇所が必要な箇所を細かく調べました。

そして、修理の手配をしたのですが、修理係の奉行は、すぐにやってこなかったために秀吉に怒られてしまった、ということなのです。

これで石田三成は修理係から恨まれるのですが、なぜかというと、そもそも最初の調査から、修理係がやらなければいけないことだったのです。

つまり石田三成が行ったのは、余計なこと・・・何ですが・・そもそも、修理係が、調査段階からに仕事にすぐ取り掛からなかったのが悪い、のですけれどね。

他にも、石田三成は自分がわかっていることを、他人もわかっていると思い、そこから話を始めていってしまうのですが、初めて聞いた人にとってはチンプンカンプンという次第でした。

ですから、「あいつは頭がいいのを鼻にかけている」

とか、ちょっとでも不備を見つけると、太閤殿下に報告をする」と煙たがられる人物になっていました。

ちょっと、秀才な学級員みたいなみられ方です。

こまかいから、性格がガサツな人からは嫌われる、でしょうね。

石田三成が千利休を切腹させた?

千利休は茶道を確立させた人物ですが、。1591年、豊臣秀吉から切腹を命じられました。

利休が切腹となるよう秀吉に働きかけたのが、石田三成、といわれてきました。

しかし、どの記録を見ても、石田三成の動きがあったことは書かれていないのです。

千利休事件に関しては、石田三成が、張本人だった、とは言えません。

秀吉は金ピカの茶室を作るなど、千利休の詫び・さびを基調とするお茶の精神とは相容れないものがあったので、お互い意見が対立していました。

また利休は、石田三成を「秀吉のイエスマン」のように考えていました。

確かに石田三成は、千利休を邪魔者と思っていました。

秀吉は、まず、千利休を謹慎させただけでしたが、千利休は秀吉に謝る様子を見せなかったので、切腹を命じました。

さらに石田三成は、千利休の妻を、ヘビ責めの拷問に欠けて、死なせた、と当時の公家 吉田兼見(よしだかなみ)が日記に書いています。

こちらこそとんだデマで、千利休の妻は利休切腹から9年後に亡くなっています。

「ヘビ責め」の拷問は厳しいのでまず生き延びることはないですので、拷問にかけてもいません。

参考までに、どんな拷問かといいますと、拷問にかけるものを樽いっぱいの蛇と共に閉じ込めて封をする。

閉じ込められた蛇はなんとかして逃れようと、猛烈に暴れ回って中の人間を食い殺してしまう、というものです。

石田三成、豊臣秀次の部下にやさしく?

豊臣秀次は、秀吉の甥で養子になり、のちの秀吉の後継者となることが決まっていました。

しかし、秀吉に子供が生まれたばかりに(淀殿の子、秀頼)謀反ありと見られて、切腹させられてしまいます。

罪は、謀反あり、でした。

豊臣秀次の謀反を問いただすのに4人の尋問官がいましたが、その1人が石田三成でした。

そこまでは記録にあるのですが、本当に尋問官のうちの1人に過ぎなかっただけです。

後の世に残る物語では、石田三成が、豊臣秀次の悪事を取り上げて罪人とした、とあるのですが、その事実は何一つ認められていません。

石田三成は、その後、秀次の家臣たちの多くを自分のところに、引き取っっています。

その家臣たちは、石田三成に仕え、「ご主人様の仇ー!」と襲いかかってきてはいません。

ここから、石田三成、実は「いい人」だった?と考えられるのです。

石田三成、蒲生氏郷を毒殺?

蒲生氏郷(がもううじさと)は、織田信長の娘婿で、有力大名でしたが、1595年、40歳で急死しました。

蒲生家は「蒲生盛衰記」「氏郷記」などの軍記物がたくさんあります。

その書物によると、蒲生氏郷は、石田三成に毒殺された、というのです。

その理由はというと、92万石も与えられていた蒲生家が豊臣家にとって脅威になるかも知れない、と石田三成が考えたからです。

しかし、蒲生氏郷が死亡した時期、石田三成は朝鮮出兵で遠征中で、日本を離れていました。

また、1500年後半に、名医と言われていた 曲直瀬道三(まなせどうさん)が残した記録には、はっきりと「病死」とあります。

石田三成の暗殺説は、全くのデマでした。

3つの陰謀説は、どれも勝者、徳川が自分ためにでっち上げた、と考えられますね。

石田三成が「いい人」だったら、徳川には都合が悪いですね。

石田三成の友達

石田三成の友達、となると、真っ先に名前が挙げられるのが、大谷吉継(おおたによしつぐ)です。

石田三成は、嫌われ者でしたので、唯一の友というと大谷吉継しかいなかった、というわけです。

石田三成と大谷吉継は年も近く、出身地も近江(滋賀県)と近く、共に秀吉の家臣でした。

大谷吉継

大谷吉継が、石田三成を信頼するようになったきっかけ

それは秀吉主催の茶会からでした。

茶会というのは、いっぱいの茶を、客が回し飲みするもの。

常にそうするとは限りませんが、濃茶の時は回し飲みのことが普通です。

大谷吉継は、その時、ハンセン病。かつては癩病(らいびょう)と言われていました。

顔や、身体に斑紋が出て、肉体が崩れていく病気で、見た目から、人から敬遠される病気です。

大谷吉継も、石田三成もその茶会に出席していました。

出席者たちは皆、引いてお茶を飲んだふりをしました。

その中で、石田三成だけが、お茶を実際に飲み、しかも飲み干してしまったのです。

石田三成の行動に、非常に感動したのが大谷吉継でした。

ここから二人の友情の絆が出来上がりました。

石田三成にはっきりものを言える

石田三成が、家康を討つ決心を大谷吉継に告げた時、反対されました。

「あなたは人望がない!だから総大将(関ヶ原の戦いの)になってはならない!」と大谷吉継は石田三成に、面と向かって言い放ちました。

人望がない、これは石田三成がめちゃくちゃな人間だ、と言っているのではありません。

むしろ石田三成の潔癖すぎる人柄をこう分析していたのです。

家康に比べて味方に人望がない・・・この戦勝ち目はない、ということを意味したのでした。

ですが、ここで見捨てなかったのが大谷吉継なのです。

もし負ければ、大谷家も潰れてしまいます。

それでも石田三成に加勢する、と決意したのですから、大谷吉継は非常に恩義を、友情を信頼を持っていた人物です。

嫌われ者、と言われて石田三成ですが、損得抜きの真の友を持っていたのです。

嫌われ者、であっても信念のある武将、それが石田三成でした。

石田三成、本当は徳川家康と仲は良かった?

仲が悪いから、関ヶ原の戦いに至ったのだろう、と思えますが、最初から犬猿の仲というわけではありませんでした。

最初はリスペクトし合う仲

石田三成も徳川家康も、共に豊臣秀吉に従っていた武将です。

秀吉亡き後は、共に、豊臣秀頼(とよとみひでより)を支える力になっていました。

秀吉が生きていた時には、お互いをリスペクトする間柄でした。

どちらも、他の武将たちからも、リーダーシップのある人物と見られていました。

三成と家康、その方向はいつから違った?

しかしやがて、石田三成と徳川家康が政治的に対立します。

それが豊臣秀吉の死後の、政治的対立から分かれていったのです。

石田三成の方は徹底して、豊臣派だったのです。

秀吉亡き後は、豊臣家の血筋の者、つまり秀吉の息子、秀頼が後継者になるべきである、と。

石田三成には私欲というものがなく、ひたすら、豊臣家に尽くすつもりでした。

一方家康は、すでに関東を支配しており、従う大名も多く、豊臣家から独立した政権ができても良い頃だ、と思っていました。

そして豊臣の元から去っていきました。

この思惑の違いが関ヶ原の戦いにつながるのです。

しかし、徳川家康は、石田三成の子供達を、殺すことはしませんでした。

ここに徳川家康の石田三成に対する、尊敬の思いが感じられます。

好敵手と言っていいかもしれません。

石田三成の部下

石田三成には忠実な部下がいました。

島左近(しま さこん)と言います。

後世に「三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近と佐和山の城」と言われるほど、優秀な部下でした。

筒井順慶(つついじゅんけい)という戦国武将に仕え、強さでその名が知られていました。

やがて筒井家を出た、島左近は石田三成に仕えました。

石田三成は高待遇で島左近をスカウトした、ということです。

石田三成の石高が増えたときに、島左近にも給与を増やそうとしたのですが、増額を望まず、断りました。

石田三成も欲のある方ではなかったので、主人、臣下共に高潔の人物だったのですね。

石田三成は、その心根が理解できると、いい人なのかもしれません。

石田三成の子孫

石田三成・・・・徳川軍(東軍)から見ると、反逆者です。

ですから本人は処刑されました。

しかし、子供たちは皆、生き延びたのです。

これは珍しいことです。

大抵、戦国時代では敗戦者の家族は殺されるか、とらえられるかです。

特に男子も残ったのが珍しいです。

石田三成には三男三女の子供がいました。

子孫が残っているということは、石田三成が悪人ではない証拠とも言えます。

津軽藩に助けられた子供達

次男 重成

それでも、長男と、三男は出家しました。

やはり、石田の直系の長男が、徳川に牙を剥いて歯向かってくる危険性はありますからね。

次男 重成(しげなり)は関ヶ原の合戦で、津軽為信(つがるためのぶ)の息子たちに助けられ、津軽藩(青森県)に逃げます。

石田三成の子供たちが、津軽半からこんなに良くしてもらえたのは、津軽藩は石田三成に恩義を感じていたからです。

南部藩から独立するとき、石田三成の力添えがあったからなのです。

その後は名前を、姓を杉山と変え、弘前藩の家老職を務め、その子供たちも弘前で要職を得ました。

重成の息子は、1669年、北海道国縫(くんぬい、八雲と長万部の間)で起こった、シャクシャインの乱(アイヌの反乱)の平定に向かった、討伐隊を指揮して戦果をあげました。

長女と三女

長女は名前はわかっていませんが、石田三成の家臣 山田勝重(やまだかつしげ)と結婚します。

山田勝重は、家康の側室と縁続きだったので、家康の六男 松平忠輝に仕えました。

が松平忠輝は、家康に叛逆したとして、お家取り武士となり、またもや放浪の身になりそうです。

ですが、三女 辰姫(たつひめ)に救われ、津軽藩に勤めます。

その後は弘前藩士になりました。

三女 辰姫は、秀吉亡き後まず、北政所(ねね)の養女になりました。

関ヶ原後は、兄、重成と共に、津軽に助けられて、ついには津軽半2代目藩主信枚(のぶひら)の妻となります。

6人の兄妹のうち2人までもが、津軽藩によって救われています。

津軽藩から見れば、救いたい人物だったのでしょう。

これは、石田三成に義理があってのことなのですが、義理だけで、家康の目を掠めて、家康の敵の子供達を保護したりしないはずです。

石田三成に対し、恩義を感じていたからこその行動でした。

となると、石田三成という人物は完全な嫌われ者、ではなかったはずです。

石田三成の血は天皇まで

石田三成の次女の血の流れが天皇家に続いていきます。

次女は、小石殿(こいしどの)と呼ばれていました。

次女は蒲生(がもう)家の家臣の元に嫁に行きます。

二人の間の孫娘は、家康の孫 3代将軍家光の側室になり、お振りの方(おふりのかた)と呼ばれました。

そこで生まれた姫は、尾張徳川家の2代目藩主 光友(みつとも)の正室となります。

千代姫の孫娘(尾張徳川家4代目 吉通、よしみちの娘)三千君が、公家の九条家に嫁に行きます。

そこから、公家にも石田の血が入っていきました。

やがてその血は幕末の、九条道孝まで続きます。

その娘が、大正天皇の皇后、貞明皇后だったのです。

貞明皇后から昭和天皇に昭和天皇から、上皇様、そして今上陛下にまでその血は流れ続けているのです。

なんという悠久の流れを感じさせる事実なのでしょうか?びっくりですね。

石田三成の家紋

石田三成の家紋というと、「大一大万大吉」の言葉を一つの漢字のようにまとめた図柄を頭に浮かべると思いますが、あれは旗印であって、家紋ではありません。

では家紋はなにかというと、「九曜紋」と「下り藤」です。

九曜紋

石田三成の石田家が使っていた紋は。九曜紋です。

九曜とはもともと、インドからきた占星術でつかわれていました。

日本に伝わり、九曜曼荼羅信仰になりました。

月、火、水、木、金、土、日、計都、羅睺という九つの星を表しています。

紋の形状は9つの丸から構成されており、真ん中におおきな丸があり、そのまわりを8つの丸が取り囲んでいます。

曜というのは、易学で星のことを「曜」というからです。

真ん中が土です。

武士は戦いにむかいますが、その時だれもが勝利と幸運を願います。

ですからどうしても、易学や占星術をたよりに運を求めたから、戦国武将はこうした占星術、疫学に由来する紋を用いるのでした。

九曜紋を使用した他にも、伊達政宗、細川忠興などがいました。

下がり藤

石田三成はもう一つ、「下がり藤」も家紋としてつけました。

「下がり藤」の形は、藤の房状の花が下向きに下がり丸い形を作り出しています。

江戸時代に描かれた「関ヶ原の戦い」を屏風絵にしたのもに、石田の所在を表す印として、下がり藤が描き込まれていました。

しかし、これ以外で、石田三成が下がり藤を身につけている絵や、資料がないので、実際につけていたかは不明です。

「下がり藤」の意味は、藤原家にゆかりのある者を指しています。

つまり藤原家の子孫、ということですが、それを示す家系図はありませんので、おそらく石田三成本人、あるいは先祖の誰かが、藤原家の出身とか、名乗ったのかもしれません。

これを利用して、石田三成本人も「藤原三成」と名乗ったことがあります。

藤原を印象付けるため、「下がり藤」を利用したのかもしれません。

石田三成の旗印

旗印(はたじるし)には二つの意味があります。

一つは、大将がどこにいるかを示す馬印。そしてもう一つは陣の所在地を表すのぼり旗です。

旗印の意味

石田三成が使っている旗印は、なんだか複雑な文字に見えます。

これは1文字の漢字ではなく、「大一大万大吉」(だいいちだいまんだいきち)の言葉を、一つに固めたデザインです。

意味は「万人は一人のために、一人は万人のために尽くせば、天下の人は皆大きな吉(幸せ)を得る」です。

「万人は一人のために、一人は万人のために・・・」なんだか、現代のラグビー日本代表、または三銃士のスローガンみたいですね。

石田三成は、世の中の安泰を願っていたのでしょうね。

旗印の由来

世の中の安泰を願う言葉であるため、この旗印を使ったのは石田三成だけではありません。

この言葉の旗印は、平安時代末期〜鎌倉時代初期にまでたどれます。

平安時代末期、源頼朝従った武人で石田次郎為久という者がいました。

この人物は、三浦氏の一族で石田郷(現在の神奈川県伊勢原市)の小豪族でした。

石田三成は、この石田次郎為久の末裔にあたるとされています。

この旗印、「大一大万大吉」を使ったのが石田二郎為久だと最初だと言われています。

この旗印を掲げて、義経と一緒に木曾義仲討伐に向かいました。

石田三成は、先祖ににあやかり「大一大万大吉」を使ったのではないでしょうか。

他にも鎌倉時代の武将「大一大万大吉」を使った、という話がありますので、鎌倉時代には縁起が良さそうで流行った、旗印デザインだったのかもしれません。

石田三成 三献の茶で知られる

三献の茶・・・これは石田三成が気配りの人であることを表したエピソードです。

石田三成がまだ豊臣秀吉に仕える前、のことです。

そして秀吉は、長浜城主で時代です。

三献茶の話とは

鷹狩りの途中で喉がかわき、そこにあった寺によって、休憩をすることにしました。

そこでお茶の給仕をしたのが、まだ15歳で見習いの石田三成でした。

石田三成は、まず大きめの茶碗に八分ほど入れた、ぬるめのお茶を、入れてもってきました。

秀吉は、ごくごくと飲み干し、おかわりを頼みます。

今度は、もう少し熱くしたお茶を、茶碗半分くらいにまで入れて持ってきました。

秀吉はまた、即座に飲み、再びおかわりを所望しました。

3杯目は、茶碗を小さくして、熱いお茶を量を少なくして入れてもってきました。

3杯目を秀吉は美味しくいただくことができたのでした。

秀吉は、お茶を出してくれた人の心遣いに気がつきました。

こんな心遣いのできる人物なら、ぜひ自分のもとに欲しいと思い、スカウトして自分の小姓にしました。

これが、石田三成の出世の第一歩です。

石田三成、なぜ三献の茶を出した?

三献の茶は石田三成が機転が効くことを示しています。

まず、1杯目のお茶は、分量も多く、秀吉が喉が渇いているだろうから、たくさん飲みたい、と思っているのではないか、と考えてのことです。

2杯目のお茶は、まだ渇きの残る喉を潤すと同時に、お茶の味も楽しんでもらいたい、という配慮からでした。

3杯目は、今度は純粋にお茶の味を楽しんでもらいたい、という思いから少ない、味の濃いお茶を出したわけです。

石田三成の思いは、ひたすらお茶を楽しんでいただきたい、だったのです。

その相手が、長浜城主という高い地位にある人であろうとも、おもてなし、の心で接しました。

以上の話は、江戸時代に作られた歴史書「武将感状記」に書かれています。

「三献」の茶となぜ呼ぶの?

「三献」とはもともとお酒の席で使われていた言葉です。

戦国時代以前からあったお酒の席のしきたりでした。

お酒の席では、酒と肴のお膳を3回出すのですが、一つのお膳につけるお酒を、大中小の盃で3回進めます。

お酒を合計9杯飲むことになります。

石田三成のやり方は、お酒のやり方をお茶に変えました。

石田三成が、お酒の作法を知っていたかどうかはわかりません。

ただ、人を喜ばせようという心から出たのもだと思います。

「三献の茶」は「さんこんのちゃ」と普通読みますが、滋賀県では「さんけんのちゃ」と読まれているようです。

また「さんげんのちゃ」と読むところもあります。

石田三成は関ヶ原の戦いで

石田三成は、関ヶ原の戦いの敗者です。

関ヶ原の合戦 1960年 9月15日。

戦争の大義名分は、どちらも、豊臣秀吉の残した世を、牛耳ろうとしている悪い奴がいる、そいつを排除しない限り平和な世はやってこない・・・・と簡単にいうとこうでした。

石田三成、「勝てる」と考えていた?

石田三成は、理詰めで動くタイプ。官僚的な人物です。

ですから、感情が先立つタイプの武将達とは反りが合わない。

加藤清正や福島正則は、情が厚い武闘派。

当然、水と油のように合いません。

この二人は関ヶ原の戦いより前に、家康につきました。

しかし、石田三成にとって、これは想定済み、だったのでは?

スタンドプレイしそうな二人は、いなくても大丈夫、と考えていたかもしれません。

計算高い石田三成・・・作戦は立てていたに違いありません。

軍勢は、石田三成の方が家康の東軍を上回る兵を集めることができていまいした。

石田三成は勝つ気、満々です。

裏切り者続出!

小早川秀秋

石田軍につきながらも、どうもしっくりこない、と思っている武将はいました。

まずは小早川秀秋。

不満がありそうな、小早川秀秋に、家康は勧誘を繰り返します。

ギリギリの9月14日、家康の味方になるという契約の手紙を出しました。

いよいよ、関ヶ原の合戦当日、9月15日。

小早川秀秋は、早朝の合戦の合図と共に、西軍(石田三成)方面に攻撃をかけました。

これでは、石田三成もどうしようもありません。

敗北の大きな原因です。

言い伝えでは、小早川秀秋は、なかなか動かず、家康が小早川の陣営に、砲弾を脅しとして打ち込んだところ、びっくりして攻撃を開始した、とありますが、これは後世の創作です。

小早川の裏切りが、関ヶ原合戦の大きな敗因、ということで、戦死した、大谷吉継が恨んで、夜な夜な小早川秀秋の夢に現れ、本人の精神を狂わせた、という伝説もあります。

総大将 毛利輝元

毛利輝元は総大将ながら、自分の判断に揺れる人物でした。

最後の最後まで、西軍のままでいるか、東軍につくかで・・・

家臣の中には、東軍のに心を惹かれる人もいました。

そして東軍側から、情報を知らせる手紙をもらっていました。

手紙から判断し、考慮した結果、家臣は東軍入りを勧めたのです。

毛利輝元は、そこで心を決め、9月14日に東軍に味方する、と決定しました。

結果、関ヶ原の戦い当日、毛利軍は、自分の陣営から一歩も出なかったのです。

総大将が、何もしなければ、その軍は全く統制が取れません。

西軍の敗北となって戦争は終わったのでした。

島津軍と宇喜田軍の場合

この二つの軍も、強力な味方になるはずでした。

ところが、島津家も宇喜田家も、関ヶ原の戦いの前年1599年に、内乱が起きていました。

その結果、内乱に兵が割かれ、関ヶ原には十分な兵力で向かうことができなくなっていたのです。

ですから頭数だけでも合わせようと、浪人を多く使い、統制が取れない軍隊になっていました。

石田三成は、島津家、宇喜多家に非常に期待していたので、裏切られたのです。

これまったく、想定外の出来事でした。

実は島津の内乱を収めるために、家康が登場していました。

もしかしたらその時に、何か工作したのかもしれません。

東軍への勧誘かもしれないし、今後内乱が起きないように、軍を弱体化させたのかもしれません。

それがわざとかはわかりませんが・・・・

どの場合を見ても、家康がうまく立ち回り、老獪ぶりを発揮した、そんな感じですね。

石田三成の最期

最後は10月1日です。

京都の六条河原で斬首となりました。

41歳でした。

首は、三条河原にさらされました。

逃亡から確保

石田三成は西軍の敗北を思い知ると、戦線を離れ逃亡しました。

これは再起をかけるためでした。

そして、長浜市まで逃げてきたところを捕まりました。

どうも逃げる途中で、飲んだ水が汚染されていて、お腹が痛くなった、ところを捕まったという逸話があります。

もともと石田三成は神経が細やかな性格のところから「過敏性腸症候群」でなかったか、という後世の医師達からの見たてがあります。

ですから、悪い水を飲んだから、ではなく、逃亡の緊張感からお腹が痛かったのかもしれませんね。

市中引き回しでのエピソード

捕まり、家康の前に引き出され、処分が決まります。

大坂に入り、市中引き回しのうえ斬首という判決です。

処刑に至るまでのエピソード、少しご紹介しますね。

  • 黒田長政が、三成のボロになった姿を見て、忍びないと思い、自分の陣羽織を脱いで渡した。

 

  • 家康は、処刑の前に、石田三成とそして一緒に処刑される小西行長、安国寺恵瓊に小袖を、役人を通じてわて与えました。三成は「どなたからですか?」と聞いたところ、「上様(家康様)です」と答えが返ってきました。すると「上様とは、秀頼様だけです」と言い、受け取らなかった、ということでした。

 

  • 処刑に向かう前に、石田三成は喉が渇いた、と言って飲み物を頼んだのですが、ちょうど水もお湯も用意できなかったので、役人は、渋柿を出しました。すると、三成は「柿はやめておこう。渋柿には毒があるかもしれない」と断りました。すると役人は「死んでいくのに、毒が怖いのか?」と尋ねます。すると三成は「私のように志を持っているものは、いついかなる時もそれが最後の瞬間であっても命を大切にするものだ。なんとかして願いを叶えたい、と思っていうから」と答えました。

 

  • しかし、柿を拒否した理由には別の話があって「柿はお腹が冷える。武将たるもの、死に向かうときでも決して、恥ずかしい姿を見せてはいけない」というエピソードもあります。

石田三成のお墓は

六条河原で処刑され、三条河原で首をさらされた後は、京都大徳寺三玄院に葬られました、

三玄院と石田三成のお墓は一般公開されていません。

石田三成が処刑された後は、三玄院を開いた、春屋宗園が遺体を引き取りました。

生前より、石田三成と親交があったためです。

三玄院建立には、石田三成も関わっていましたので、そこに葬られたのでしょう。

明治に入り、三玄院は移転、他の寺と合併し、石田三成の墓は、よくわからなくなりました。

しかし、三玄院の墓地に石田三成の墓らしきものが見つかり、発掘したところ、人骨が出ました。

1976年に、頭蓋骨を復元した見たところ、石田三成について書かれたような特徴の、顔が出来上がりました。

腺病質で、顔は細面、優男風だった。ということです。

今では、石田三成のお墓は、整えられているようですが、なにしろ非公開ですので、お墓の様子はわかりません。

三玄院は、特別公開の時期に合わせて公開されることもありますが、お墓の方は常に非公開です。

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