歴史上に見て王妃様は王様に比べると、地味です。よほど悪いことをした人とか、特別なことがないと人々の記憶に残りません。
例えば、マリー・アントワネットは断頭台にかけられた王妃、またカトリーヌ・ド・メディシスはバーソロミューの虐殺に関与した王妃、とか。
今ご紹介する、アンヌ・ドートリッシュにはこれと言った、有名になる要素はない王妃様なのですが・・・アレキサンダー・デュマの小説、および何度にもわたる映画化でかなり有名になった王妃です。
小説家の手腕はさすがですね。アレクサンダー・デュマ無くしては、アンヌ・ドートリッシュを語れません。
どんな王妃だったのでしょう。「三銃士」に出てくる話は事実だったのでしょうか?
アンヌ・ドートリッシュの名前の由来
アンヌ・ドートリッシュはフランス王ルイ13世の王妃です。1601年〜1666年を生きた女性です。ルイ13世との結婚は1615年、14歳の時です。夫のルイ13世とは同い年同士の結婚でした。
アンヌ・ドートリッシュの出自はスペインハプスブルグ家。父はフェリペ3世、母はマルガレーテ・デ・アウストリア。
ドートリッシュというとオーストリア。スペインの王女様なのになぜオーストリア?と思いますが、これはスペイン王室の故郷がオーストリアという考えから来ています。
16世紀にハプスブルグ家がスペイン王家の王女と結婚して、その王女がスペイン女王となり、その後はこの二人の子供が後を継いだのでスペインはハプスブルグ家となりました。ハプスブルグ家のルーツを表す部分が、オーストリア、つまりドートリッシュなのです。
アンヌ・ドートリッシュ、フランス王妃として
ルイ13世は9歳で王位を継ぎましたので、王になってからの輿入れとなりました。
アンヌ・ドートリッシュの容姿は大変美しかったと言われています。当時欧州一の美貌ともてはやされました。髪は栗色、瞳は青く、そして何よりも手が白く美しかった。その手の白さを保つために常に手袋をはめ、その手袋はまた美しいブレスレットで飾られていました。
アンヌ・ドートリッシュは嫁いできた当初は母后マリー・ド・メディシスからは冷遇されていました。そのころは幼い王に変わり、母后が摂政に当たっていました。アンヌ・ドートリッシュのことをまだ王妃の役はできないと思っていたのでしょうか?ルイ13世とアンヌ・ドートリッシュの間は不仲でした。
ですから、アンヌ・ドートリッシュは宮廷の中で孤独でした。フランスの文化にも慣れなず、フランス語もうまく話せませんでした。側近もスペイン人。これではますますルイ13世との距離は広がる一方です。
ルイ13世は、やがて母后の影響力に反旗を翻し、母后を幽閉し自分が王として目覚めます。そして臣下からの進言でやっと王妃アンヌ・ドートリッシュと仲良くできるようになりました。
しかしアンヌ・ドートリッシュ は3回流産しました。そこでまた王との仲が危機に陥るのですが、結婚後20年過ぎてやっと皇太子に恵まれます。その皇太子が将来太陽王と呼ばれるルイ14世です。
ルイ13世が登用した宰相リシュリュー・・・リシュリューはハプスブルク家を敵対視しており、アンヌ・ドートリッシュとは対立する立場になってしまいました。
1635年に起きた30年戦争でハプスブルク家と戦争状態になります。その時アンヌ・ドートリッシュは弟のスペイン王フェリペ4世と文通するのですが、リシュリューはこれをフランスを危機に陥れる密書と言います。密書によりアンヌ・ドートリッシュは信用失墜させられることになってしまいました。
ルイ13世は1643年崩御、4歳のルイ王子がルイ14世として即位します。アンヌ・ドートリッシュにとって天敵のような人物リシュリューはすでにその半年前にこの世を去っていました。ルイ13世は幼い王の摂政としてアンヌ・ドートリッシュ を指名します。同時に摂政だけが権力を掌握できないよう、摂政の役割に制限を加える遺言をしています。
さて、アンヌ・ドートリッシュの真の活躍はここから始まります。
マザランとの関係
アンヌ・ドートリッシュは夫ルイ13世の死後、戴冠した4歳の息子のルイ14世の摂政を勤め上げます。
ここではマザランを宰相として登用します。マザランは先代の宰相リシュリューの弟子的存在で政策もリシュリューを踏襲しました。しかしアンヌ・ドートリッシュはリシュリューの場合とは全く違い、マザラン支持で動きました。
30年戦争はまだ続いていました。そこで戦争に必要な金策として課税の増加となるのですが、当然貴族そして民衆は大反対し、パリ高等法院もこれを認めませんでした。ついに増税反対派が国王側に対し暴動を起こす事件が起こってしまいます。この暴動がフロンドの乱と呼ばれています。
乱により、ルイ14世とアンヌ・ドートリッシュはパリを脱出してフランス各地に 、マザランは国を脱出する羽目になります。王たちの放浪は2年ほど続きますが、最後は反乱軍たちの足並みが揃わなかったこともあり、反乱は終息し、アンヌ・ドートリッシュとルイ14世はパリに帰城しました。
アンヌ・ドートリッシュとマザランは協調関係が非常に良く取れていたために、マザランとは秘密裏に結婚していたのではないか、という噂まで流れていたほどです。しかしそのような事実は伝えられていません。
マザランの助けがあったとはいえ、このアンヌ・ドートリッシュ という女性、楚々とした見かけによらず、中々やり手の政治家だったのではないでしょうか?アンヌ・ドートリッシュの名前が後世まで知られているのは、こうした功績もまた評価されているからかもしれません。
アンヌ・ドートリッシュの死因
アンヌ・ドートリッシュの摂政生活は1651年に終わりました。その頃はまだフロンドの乱は集結していませんでしたが、ルイ14世が成人になったためでした。
それでも、マザランが亡くなる1661年まで一応政治の表舞台に立っていました。ルイ14世の妃を決めていました。妃は、スペイン王女、アンヌの姪マリー・テレーズ・ドートリッシュです。
マザラン死亡で、ルイ14世はいよいよ親政を始めます。
ここでアンヌ・ドートリッシュは政治より身を引いて引退生活を送ります。最後は自身が建立したヴァル・ド・グラス僧院で修道院生活に明け暮れます。自らの引き際を知っていた人、と言えるでしょうね。
そして1666年1月20日、乳がんで亡くなりました。ヴァル・ド・グラスは今では病院になっています。
アンヌ・ドートリッシュ、「三銃士」の中で
「三銃士」はアンヌ・ドートリッシュ王妃を軸とするお話です。もちろん三銃士たちの活躍が何よりも見ものなのですが、彼らの冒険の根幹にあるのがアンヌ・ドートリッシュの名誉、に関わるものです。
アンヌ・ドートリッシュとリシュリュー枢機卿の敵対からくる事件が軸です。事実と言われる話に基づいて書かれた小説です。映画化も何本かあります。
リシュリューが狙ったのはアンヌ・ドートリッシュの不貞事件。つまりイギリスの貴族バッキンガム公爵との恋愛事件でした。
フランスを訪れたバッキンガム公爵が、バレエ鑑賞でアンヌ・ドートリッシュを見て恋に落ちたというわけです。アンヌ・ドートリッシュの方もバッキンガム公爵に出会い恋愛感情を抱いたようです。
アンヌ・ドートリッシュは愛の印としてダイヤの胸飾り(勲章を下げるようなやつ)を贈ったのです。その話を知ったリシュリューがルイ13世に入れ知恵して、アンヌ・ドートリッシュ にその胸飾りを、あるパーティーでつけてくるようにさせます。
胸飾りをつけるようアンヌ・ドートリッシュはルイ13世から言い渡され、苦境に立たされます。しかし三銃士の活躍で、なんとかその胸飾りは期限までに戻ってきて、事なきを得ました。
しかし、その時バッキンガム公爵がリシュリュー側の刺客により殺されてしますという悲劇も起こります。
残されている話では、王妃がバッキンガム公爵に送った胸飾りをリシュリューが盗んだところ、バッキンガム公爵が追いかけて、その盗品がフランスから出ないように海岸を封鎖した上で、胸飾りのコピーを作り、王妃に返した、とあります。しかしここでもやはりバッキンガム公爵は小競り合いになって命を落としました。
この事件の真相はどうだったのでしょう?アンヌ・ドートリッシュにとってもバッキンガム公爵にとってはどんな恋だったのでしょうか?アンヌ・ドートリッシュは冷たかったフランス宮廷における、思わぬオアシス的な存在がこの恋だったのでしょうか?冷たい人々に囲まれると、ふとした優しさに心が揺らいだことがあるかもしれません。たとえ心だけでも許されない、と知っていても。
アンヌ・ドートリッシュの名前を有名にしたのは、「三銃士」があるからと言えます。
チョコレートの好きなアンヌ・ドートリッシュ
フランスのチョコレートって高級ですよね。えっと、ショコラ・・そう呼ぶのでしたっけ?
フランスとチョコレートが結び付くきっかけになったのが、ほかならぬアンヌ・ドートリッシュだったのです。
16世紀大航海時代、スペインは中米を侵略しました。その時スペインに持ち帰ったのが財宝とカカオでした。中米ではカカオ豆をすりつぶしてスパイスを加え、薬として用いられていました。そこでの呼び名は「ショコラトル」。
スペインではショコラトルに砂糖を加え温めた飲み物にします。
そのカカオ豆の飲み物と飲み物を専門に入れる侍女を携えて、アンヌ・ドートリッシュはフランスに輿入れしました。その飲み物はフランスでたちまち流行したのです。そんな侍女をショコラティエと言っていいのかどうか・・・・
美貌の王妃が優雅に、ご自慢の白い綺麗な手で、ショコラをいただく・・・絵になりますね。
ルイ13世の後を継いだルイ14世の王妃は、アンヌ・ドートリッシュの姪マリー・テレーズ・ドートリッシュですが、こちらの王女様はチョコレート職人を連れてお嫁にやってきました。こちらの方がショコラティエかな?
そしてヨーロッパ全土に次々とチョコレートが広がって行きました。
今では食もお菓子もフランスが一番おしゃれと言われていますが、多くの文化がフランスにやってきて、フランスがそれらを発展させていったのですね。フランスが発祥ではないにしてもフランス抜きでは語れない。フランスには色々なことををおしゃれに発展させるパワーがあるようです。
コメント