藤原彰子、美人で性格は?道長にとって娘は?出産は難産。藤壺の住人!一条天皇との関係、紫式部のいるサロン。何をした人?死因?

いよいよ大物登場・・・藤原道長の娘 藤原彰子様です。

紫式部が仕えた中宮、として有名ですが、他にどのようなところからこの人の名前が後世に残るようになったのでしょう?

ここでは美人と言われた彰子ですが、その性格には凛としたところが感じられます。

藤原彰子の、ことを「紫式部日記」ではかなり、細かく描かれています。

平安時代の出産状況もルポのように伝えられています。

ここでは彰子の生き様を含めた、全てをお伝えしようと思います。

どうぞ、最後までお読みいただければ幸いです。

藤原彰子は美人!

藤原彰子は美人でした。

とはいうものの、顔の作り、目鼻立ちの様子を描いた、肖像画もなく、描写もありません。

藤原彰子の美しさを書いた「栄花物語」

彰子の、容姿は平安時代の歴史物語「栄花物語」に書かれている表現から、美しいということが知れます。

『髪が、身長(彰子の)より17センチばかり長い。顔貌は大変美しい。年齢は12歳ながらも幼稚には見えず、大人っぽく見え、すばらしい』と。

また、藤原彰子が21歳で懐妊(妊娠)したときの様子を

『髪は、黒く長く、長さは、身長より、60センチほど長い。肌は色白で美しく、頬はほおずきのように紅い。小柄なため、大変若々しく見えた』

という描写でした。長く豊かな黒髪の持ち主、というのが平安時時代の美人の条件の一つでした。

髪の長さは、12歳の時より明らかに伸びていますね。自分の身長より長い髪は、お手入れも、また歩く時にも大変だったに違いありません。

身分の高い姫君は、侍女たちの手で、髪の手入れをしてもらうのですから、本人はそんなん大変ではなかったかも。

髪が豊富なことに加え、色白、赤い頬、小柄で若く見える、それらも美女の条件に入っていたようですよ。

しかし、ほおずきのように赤い頬、というのは赤すぎると思うのですが。おてもやんみたい?

藤原彰子、「紫式部日記」の中には?

紫式部日記には、藤原彰子の出産の頃について書かれていました。

『少し苦しそうで、顔が痩せてしまっていますが、お休みになっている姿は普段より弱々しいながらも、若く可愛らしい様子です。髪量はたっぷりと多く、結い上げるとさらに素晴らしいのではないかと思われます』

と、「栄花物語」と同じように、藤原彰子の髪の見事さを書いています。

「髪を結い上げる」とありますが、平安時代の絵巻物語を見るところ、いつも長く垂らしているのですが、一体、いつ結い上げるのでしょうか?

寝ている時など、髪が邪魔にならないように、まとめておくことを指しているのでしょうか?

平安時代の女性は、10代初めの、裳着の儀式を行うときに、髪の左右を分けた振り分け髪を結い上げましたし、女性の正装でもそのように髪を結うことがありました。

そのことを指しているのでしょうか?

ここの描写は、髪のことを言っているのと同時に、お産を済ませた、藤原彰子は、さらに美しさを増した、と言っています。

紫式部は、藤原彰子に『清らなる』という形容詞をつけていました。

『清ら』とは「品があって、とても美しい」という意味です。

現代語の「清ら」とはちょっと意味が違います。

藤原彰子には、気品もあったのですね。

これは、彰子の父、藤原道長からの英才教育の結果なのでしょう。

「栄花物語」、「紫式部日記」から見ると、私は、藤原彰子は、美貌、品位を備えた、まさにお姫様中のお姫様だった、と思います。

藤原彰子の性格は?

藤原彰子、内気な少女時代

藤原彰子の性格は、子供時代は内気だった、と言うことです。

一条天皇のもとに嫁いできたときは、12歳ほど、と言われていますが、日本では歳の数を、数え年で数えることが多く、それは0歳を1歳とするので、嫁に来た年は実際には10歳ほどだったでしょう。

幼い頃はまだ夫婦という仲にはなれません。

その時代の藤原彰子は、「雛遊びの后」なんて呼ばれるほどでした。「雛遊び」人形遊びのことです。

ちょっと、馬鹿にされているような言い方ですね。

父親は娘の成長を願って、紫式部を、娘の侍女につけたのでした。

「紫式部日記」には、

『(藤原)彰子様は、恋愛ごとがお嫌いで、軽薄なことと考えておられるようです。彰子様に少しでも可愛がってもらいたい女官(侍女)は、あんまり男性の前に出ようとはなさいません』

と書いてあります。

また、性格については、

『宮様(中宮 彰子様 のこと)の性格には欠点がありません。ご様子は、上品で奥ゆかしい。ですが、着替えめな性格でいらっしゃいます』

と同じく紫式部日記にあります。

この状況は、同じ藤原氏出身の中宮 定子(さだこ または ていし)のシチュエーションとは違っていました。

定子のところは、清少納言のような才能ある侍女を抱えて、殿方たちとの知的な会話を楽しみ、時にはロマンスも生まれる、サロンでした。

ところが、藤原彰子のところは、公達(貴族のこと)との交流を推進していないようなので、公達が寄りつかない・・・

藤原彰子は、公達があまり頻繁にやってくると、部屋内の風紀が乱れる・・・と思ったのでしょう。

公達たちからも、藤原彰子の女房(侍女)たちのことを、「引きこもりがちで、気配りのなさそうな人たちだ」と、言われる始末です。

藤原彰子・・・真面目・・・その実は公明正大!

藤原彰子のサロンは、真面目であるだけでなく、「お堅い」ばかりか「つまらない」印象ですね。

性格というものは、自分で、欠点と長所に気がついていかない限り、なかなか治るものではないようですが、藤原彰子は成長するにつれ、直そうとしていったのでしょう。

真面目さは、また誠実、思いやりにも通じます。

自分の父、道長が政治的に力持ち繁栄を続けていくのと反対に、伯父 道隆の家(定子の実家)はだんだんと没落してきました。

そこを援助を陰ながら行い、また、定子の遺児も代わりに育て、そして、一条天皇の後継と、主張していました。

そんな優しさの面があり、正義と公平を重んじた人物でもありました。

藤原彰子は父 道長にとって希望の星?

藤原彰子の入内は、父 道長が期待した?

藤原彰子、が入内し親王を産めば、藤原道長の朝廷での地位は、しっかりしたものになるはずです。

平安時代の大貴族の望みは、天皇の外戚になること、ということが、高校時代、日本史や古典の授業からそんなイメージを持ち続けていました。

ですから、藤原道長も当然、期待していたのではと、私たちは思ってしまうのですが。

大河ドラマ「光る君へ」では娘 彰子を入内させるのに、そんなに喜んでいる様子ではありませんでしたね。

実際、道長の方から望んだ入内ではない、という推測ができます。

その理由の一つが天変地異です。

彰子は999年に、入内しますが、その前年998年に、日食や月食が、また、地震が続きました。

奈良時代から平安時代では、世の中に悪いことが続くと、それは天皇や、元号(昭和とか、令和とか、時代の名前)が悪いから、と言われていました。

その厄災から逃れるために、元号を変えたり、新たなおめでたいことを宮中に入れて、気を変える、ということをしていました。

ここで、天皇が新たに若い姫を妃として、迎え入れることは大切な儀式と捉えられていたのではないでしょうか?

つまり天皇が、藤原彰子を必要としていたのです。

しかし、これらはすべて状況証拠としてしか言えません。

12歳(数え年なので実際は11歳)で、裳着の式、を迎えました。裳着の式とは平安時代の女性の成人式にあたります。

平安時時代は、女子の結婚は早く、13歳〜10代前半の上いに結婚します。

裳着の式は、結婚前に行われます。大人になって結婚というわけですね。

裳着の式では、一条天皇、中宮定子からもお祝いをいただきました。

天皇は、藤原彰子にその時、従三位(じゅさんみ)の位を与えました。

これは12歳の娘に対しては、破格に高い位です。中宮定子でさえも従四位でした。

一条天皇が、藤原彰子を結構特別扱いをしているように見えます。

ということは、一条天皇も、皇居に新たな風が吹くように、新しい、若い妃を入れようと思っていたのでしょうか?

藤原彰子の出産後の道長

藤原彰子と一条天皇の間に男子(皇子)が生まれた時、父 藤原道長は大変喜びました。

すごい浮かれ具合で、赤ちゃんにおしっこをかけられても喜ぶほどでした。

将来の天皇になる、と思われる人物なので、その嬉しさは格別ですね。

こうしてみると、藤原彰子と父親の仲は良好に思えますが、そうでもない、どころか恨んだ時代もありました。

それは、一条天皇の次の天皇の皇太子を選ぶときのことです。

道長は当然 自分の孫 敦成親王(あつなりしんのう)と考えていました。

ところが、娘 藤原彰子は、従姉妹 定子が産んだ 敦康親王を後継者に推しました。

一条天皇は、それを望んでおり、藤原彰子をもその意見に賛成してました。

次の東宮(皇太子)を、敦康親王にするか、敦成親王にするか、一条天皇と道長、そして家臣たちで議論していました。

その結果、後ろ盾がない敦康親王が政治を行っても、支持を得られない、から、彰子の産んだ敦成親王、が東宮になることが決定しました。

その経過を、藤原彰子が全く教えてもらえなかった、ということで、彰子は父 道長を恨むこととなった、と藤原行成の日記に記してありました。

父親が、藤原道長のような大物だったりする場合、その子供は父親の権威を借りて、思うままに振る舞うタイプではありません。

藤原彰子は、父とは少し違い、公正な判断ができる女性だと見えます。

それでも判断能力が優れているところは、父、藤原道長の若い時の性格に似ている、と思えます。

藤原彰子の出産の過程

藤原彰子、お産の辛さも気配りで我慢!

藤原彰子が、初めて懐妊したのは、21歳の時でした。

実に結婚してから、9年後の1008年です。

藤原彰子の結婚が早かった割には、出産までが長かったようですが、21歳の出産といえば、そんなに遅いほうではありません。

しかし藤原彰子の出産は、非常に難産で、お産に時間がかかった、ということが「紫式部日記」に描かれています。

1008年暮〜1009年初めにかけて、解任がわかり、7月にはお腹が大きくなってきました。

そうなると、藤原彰子は夏であることもあり、身体が大変辛かったのですが、我慢していました。

真面目な性格の藤原彰子は、周りが気を遣ってくれるのを心苦しく思い、できるだけ普通を装っていました。

実家でお産をすることになっていましたので、父 道長の家 土御門邸に宿下りしていました。

この時代、お妃様は、実家でお産をすることが普通でした。

藤原彰子のお産は加持祈祷頼み?

ついに、9月10日に産気づくのですが、そこからが長かった!

お産を頑張っている、彰子の横では、加持祈祷の僧侶が祈っています。

お産の無事を祈るためです。

平安時代は、お産の対策には加持祈祷しかなかったようです。

平安時代では、出産で苦しみ、心身ともに弱っていると、物怪(もののけ、死霊や生き霊)が妊婦に取り憑き、母体を危険な目に合わせる、時には命を奪う、と信じられていました。

母体を守るため、僧侶は加持祈祷をし、妊婦に取り憑く物怪を、憑座(よりまし)に写し、憑座に話をさせて、悪霊退散させるのです。

憑座とは、青森のイタコみたいなものです。

子供には、物怪がとりつきやすいことから、悪霊退散のために移すのは子供が良い、と思われていたからです。

加持祈祷に集まった、僧侶たちは一人や二人ではありませんでした。

娘のお産を心配した、道長が、京都中の僧侶、とまでは言いませんがかなりの数の僧侶を集めました。

藤原道長の力というか財力の凄さを感じさせます。

藤原彰子は物怪に、祟られた?

物怪(もののけ)、というと、人の恨みを買うから…と思うのですが、藤原彰子という、性格が良さそうな人でも恨みを買うのでしょうか?

いえ、どんな人でも少なくともなんらかの形で恨みを買うものです。

藤原彰子も例外ではないでしょう。

藤原道長という大物の娘となり、天皇の妃となり、子供が生まれる…

それだけで、妬みの対象に思われるものです。

憑座に取り憑いた悪霊や物怪は、「紫式部日記」の中によると、狐などの動物から、藤原彰子の出産を妬むものたちだった、ということです。

憑座たちは、一晩中声をあげ、身体を揺らしたり、走り回ったり、とかなりの騒々しい音を立てていました。

紫式部自身、物怪は本当にいるかどか疑わしい、と日記に書いています。

人は誰もが、自分に大なり小なり、恨みを抱いている人がいるものです。

誰もがそれを知っています。

ですから、身体が弱っている時には、自分の奥底にある罪悪感が出てきてしまうことが多いいのです。

心の憶測にある負の感情、これが意識がない時に、口から出てきてしまうこと、それが悪霊、物怪である、と恐れられているに過ぎないのかもしれません。

藤原彰子、後一条天皇となる赤子を出産

9月11日正午頃、藤原彰子は男子を出産しました。この子が敦成親王(あつなりしんのう)です。

産気づいてから、出産まで約30時間かかった、というからも非常な苦しさだった、と想像されます。

しかも、藤原彰子の出産を待って、お世話しようと約40名もの女房が、控えていました。

いくら道長邸が広い、と言っても、彰子の近くに40名もいたら、たまりませんね。

女房たちは密な状態で、酸欠起こすかもしれません。

それに彰子だって、大勢の人間がいたら、出産の時、帰って気分が悪くなるかもしれないですよね。

平安時代の人々って、人口密集で具合が悪くなる、なんて考えなかったのかしら?

難産、そして、多すぎる人のためでしょうか?

藤原彰子の産後の回復には時間がかかりました。

10月の半ばくらいまで寝込むほどでした。お産から、1ヶ月以上ですね。

21歳という若さでも、これだけ回復に時間を要したのだから、かなりの難産だったのだな、ということが窺われます。

藤原彰子は、藤壺の住人?

藤原彰子の、宮中での部屋は、藤壺、と言うところでした。

藤壺とは、内裏(だいり 皇居のこと)にある、妃たちが住まう後宮の一室のことです。

その部屋、一つ一つに妃が住んでしました。

藤原彰子の部屋は、飛香舎(ひぎょうしゃ)と言う名前で、別名が藤壺。

部屋、といっても作られた館がそれぞれ渡り廊下でつながっており、館には前庭があり、そこに藤が植えられたことで、別名 藤壺と呼ばれていました。

藤壺は、帝が日常を過ごす、清涼殿(せいりょうでん)に近いことからも、位の高い妃の部屋ということがわかります。

他の館も、植えられた木で名前がそれぞれ、梅壺とか梨壺とか呼ばれていました。

「藤壺」と言うと、源氏物語の「藤壺の方」が思い出されますね。

源氏物語の藤壺の方は、藤壺に住んでいたことから、藤壺の方を呼ばれていたのです。

藤原彰子が住んでいたことで、紫式部は一番高貴な方の、名前を自分の小説の、重要な登場人物の住まいと設定しました。

でも、藤原彰子は源氏物語の藤壺とは、運命も性格はまったく違っており、藤壺のモデルではありません。

藤原彰子と一条天皇の関係は?

藤原彰子が入内(帝の妃として、皇居に入ること、結婚のこと)した時、一条天皇は19〜20歳でした。

年の差があり、彰子の年齢的なこともあり、すぐには夫婦生活を始められません。

それに一条天皇も、新しく入内した、幼い妻より、愛していた定子(さだこ)のほうが魅力的に写ります。

定子の性格の明るさも関係ありました。

藤原彰子の、生真面目な性格は、一条天皇も見ていて、あまり面白くない、と感じたのでしょう。

藤原彰子の元を出て、定子の方に行く理由として、一条天皇は、彰子の嫁入り道具を引き合いに出していました。

藤原道長が、娘のために持たせた、調度品(家具類?)が非常に豪華で、天皇もそれには目を見張るほどでした。

ですが、途中から『こんな目の保養になる美しいものを見たばかりだと、政治のことを忘れてしまいそうになる』と言って藤原彰子の元を退出した、という記録があります。

藤原彰子、紫式部の関係

紫式部は、藤原彰子にとって、侍女として雇われました。

藤原彰子が、宮中に入内する頃、紫式部はすでに、「源氏物語」を執筆中で人気が出ていました。

当時の大物政治家、藤原道長が、自分の娘に学問的素養を身につけさせるため紫式部を雇ったわけです。

お金があればなんでもできてしまう、と藤原道長はきっと思っていたのですね。

紫式部のような有名人が、娘 藤原彰子の部屋で仕えていれば、娘の名前も上がる、というものです。

紫式部は侍女、と言っても、彰子様の衣類を整えたり、お化粧を手伝ったりするのではなく、家庭教師のような立場です。

家庭教師という概念は、紫式部時代にはありませんでしたが、宮中に入内する、わずか10歳そこそこのお姫様、の教育係的な存在として、紫式部が雇われたのでした。

藤原彰子のサロンとは?

藤原彰子の後宮にもサロンを作ろう

藤原彰子の藤壺には、女流文化人が集まり、さながら、文学のサロンと言って良い場所になっていました。

日本語には「サロン」という言葉がありませんが、この状況を表すのにちょうどいい言葉ですので、あえて、「サロン」と使わせていただきます。

最初に、「サロン」を作ったのが、藤原彰子の従姉妹 で中宮(ちゅうぐう)定子の後宮。

そこは、やはり、平安時代を代表する随筆家 清少納言がいることで、一気に華やぎました。

定子のサロンが成功しているのを見て、藤原道長が、自分の娘のところにも有名人を招いてサロンを作りました。

そうすれば、文学好きの一条天皇が、藤原彰子の元に頻繁に訪れる機会が多くなるだろう、と予想してのことです。

藤原彰子の元に呼び集められたのが、紫式部をはじめとした、名だたる文化人の女性たちです。

他には、赤染衛門(あかぞめえもん)、和泉式部(いずみしきぶ)、伊勢大輔(いせのたいふ)、と言った、今日、私たちが古典の教科書で名前を見るひとたちばかり。

大変きらびやかな、サロンに見えます。

藤原彰子のサロン、定子のサロン・・・どちらが人気?

定子のサロンの方が先であったこともあり、若い公達からの人気の例も「枕草子」にかかれているところから、定子の方が人気だったようです。

こういうことは、主人の性格も関係しているので、朗らかな性格の定子、真面目な性格の彰子とでは、サロンの雰囲気も違ってきます。

そうすると、どちらに花を感じるかといえば、定子の方に軍配が上がりそうです。

一方、彰子は真面目だったために、真剣に文学に取り組もうとする人に人気だった、気がします。

彰子のサロンがあったからこそ、現代にまで文芸が伝えられているのではないでしょうか?

藤原彰子、どんな人?

藤原彰子とは、988年〜1074年の人生を生きた人です。

平安時代の中期で、一条天皇の妃で、中宮と言う高いくらいについた女性です。

父親は、藤原道長(ふじわらみちなが)、母は 源倫子(みなもとのともこ、または りんし)。

家柄としては申し分なく、天皇の妃となるにはまさに打ってつけのお姫様です。

父親の藤原道長は娘が生まれた以上は入内させて、皇子を誕生させて、外戚として力を発揮するのが夢でした。

彰子の祖父に当たる 源雅信(みなもとまさのぶ)も、自分の娘 倫子を帝の妃としたい、と思っていましたから、この姫の誕生はまさに望まれて生まれた女子というわけです。

藤原彰子は、藤原道長一家の、希望の星の姫でした。

藤原彰子、何をした人?

藤原彰子、二人の天皇の母となった人

藤原彰子は中宮となり、男子を二人産みました。敦成親王(あつひらしんのう)と敦良親王(あつながしんのう)です。

二人の男子は、成長し、敦成親王は後一条天皇に、敦良親王は後朱雀天皇にと、どちらも天皇になります。

言ってみれば、藤原彰子は非常に効率の良い出産をしたことになります。

藤原彰子の夫 一条天皇の次の天皇は、花山天皇(一条天皇の前の天皇)の甥、居貞親王(おきさだしんのう、または いやさだしんのう ともいう)で、三条天皇と言います。

居貞親王が次の天皇、というのは、一条天皇が即位する時からすでに決まっていました。

今度は一条天皇が退位するにあたって、次の東宮を決めてから、というわけでした。

三条天皇の後は、後一条 → 後朱雀 と兄弟が二人とも天皇になりましたから、祖父の藤原道長は、大得意だったことでしょう。

藤原彰子は、父親の願いを叶えた、孝行娘だったのです。

藤原彰子 政治力発揮?

二人の天皇母である、藤原彰子は、政務や人事の面で補佐しました。

藤原彰子は、幼い頃から、公平な目をもち冷静な判断を持っていました。

だからこそ、年長序列を守って、自分の息子よりも、従姉妹 定子の息子 敦康親王が天皇になるべき、と推していたのです。

天皇の補佐をするようになったのは、人を見る目がしっかりしていたからです。

この人は権力に媚びる人か、この人は信頼できる人か・・・を見極めました。

そんな藤原彰子のことを、彰子の弟で、道長の後をついだ、藤原頼道(よりみち)も、姉の判断を信じていました。

冷静な目を持つ、藤原彰子・・・頼道だけでなく多くの、国の家臣たちからも尊敬を受けたということです。

藤原彰子の、こんな政治的な様子、ちょっと、伯母の藤原詮子にも似ています。

というより、彰子が男子だったら、非常に有能な政治家になれていたでしょう。

となると、道長の家系は強い女性を、生み出す確率が高いのでしょうか?

藤原彰子の子供達

藤原彰子は、夫 一条天皇(いちじょうてんのう)との間に生まれたのは、男子二人のみでした。

上の息子は、後一条天皇。

幼い時に即位した最初の息子 後一条天皇が、一人前になったとき、藤原彰子は一応自分の仕事がすんだとみて出家しました。

出家後の呼び名は 上東門院(じょうとうもんいん)でした。その時は39歳(1026年)。

安心はしたものの、1036年に後一条天皇は28歳で亡くなってしまいます。

後一条天皇の一才違いの弟、敦良親王が、後朱雀天皇として即位します。

藤原彰子(上東門院)は、再び天皇の後見を務めます。

が、残念ながら、後朱雀天皇も1045年に、亡くなります。

50代後半になっていた、藤原彰子・・・平安時代の女性の平均寿命は40代といいます、が・・・も40歳を超えてもなお、息子たちに先立たれた、少子は打ちのめされていたと思います。

それでも、世間は、藤原彰子をこのまま仏道に励ませてはくれませんでした。

今度は孫の後冷泉天皇(後朱雀天皇の子供)の相談役を務めなければなりませんでした。

こうなると、もう老齢の政治家、というイメージですね。

藤原彰子は長生き

藤原彰子は、87歳で亡くなりました。

平安時代の女性の平均寿命40〜50歳と考えられていた頃から、非常な長生きとなります。

ですが、後一条天皇の即位が落ち着いたことから、30代後半で出家したのですから、その後 尼の姿で、50年ほど過ごしたのは、結構辛かったのではないかと思います。

藤原彰子の母 源倫子は90歳、弟(道長の息子)83歳、もう一人の弟 教通(のりみち)は80歳、とみなさん長寿です。

藤原彰子の父、道長は62歳ほどで亡くなっているので、彰子の長寿は、父からの遺伝ではなく、母の遺伝なのでしょう。

忠、平安時代は、運よく長生きをすることは、子供たちに先立たれてしまう不幸も経験しなければなりません。

藤原彰子の死因は?

1074年10月25日 藤原彰子は 87歳で亡くなりました。

死因は病死です。

晩年は病状で苦しむことがあったと、のですがなんの病気だったかは記録にありません。

しかし、亡くなる年より20年ほど前、藤原彰子は、危篤状態に陥ったことがありました。

藤原彰子の名前はよほど広く知られていたのでしょう。

1052年、奥州で前九年の役が起こっていましたが、彰子病に倒れる、の知らせで、戦争が一時停戦になったほどです。

そのときの病が、20年ほど後を引いていたのでしょうか?

最後を悟ったのでしょうか?

藤原彰子は、法成寺の阿弥陀堂に籠り、9体の阿弥陀像に見守られながらこの世を去りました。

その死の様子は、父 道長の場合と似ていました。

やはり親子でしょうか?彰子は父、を尊敬していた証に見えます。

まとめ

藤原彰子がいたために、藤原家は大きく発展することができました。

この栄光を、藤原彰子が自ら望んだかどうかは、わかりません。

もしかしたら、自分をコマのようにしか扱わない父、道長に反発したい時があったかもしれません。

それでも、自分の子供を思う気持ち、母を亡くした、定子の子を愛おしむ気持ちが、人々の心を惹きつけたと思えるのです。

そして、紫式部たち、当時の女流作家を重んじたことなど、後世の私たちに残してくれたことが多いいのも、この中宮の未勅だったと思います。

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